46:「彼女の想い」
蝋燭の灯りだけが頼りの地下通路を、奥へ奥へと進んで行く。
この間の地下通路とは違い、一本道で構成されており、かなり進んだはずだが、まだ分かれ道には出会っていない。
中は比較的広く、天井は背伸びをしても到底届きそうになく、時折打ちっ放しの足元を鼠がすり抜けるのを流し見ながら、俺は先ほどの推測をもう一度振り返る。
ルーシェ・ディオラシ・ストリリバー。
千里眼の女神。
勿論、例の銀髪がルーシェである確たる証拠はない。
全て俺の深読みである可能性も、十分に考えられる。
しかし、やはりこの状況。敵が奴であると考えた方が、辻褄が合う。
……まぁいい。
どの道今の俺に出来ることは、イリスを探すことだけだ。
敵の背後にルーシェがいようがいまいが、俺の選択は既に決まっている。
待っていろ、イリス。
誰もいない地下の床を俺が踏みしめる音だけが、鼓膜を打つ。
記憶の中、彼女との会話が、昨日のことのように浮かび上がる。
『……ねえ、どうしてさ……どうして私を引き取ったの?』
あれは、イリスが聖女になるほんの少し前。
月の光がやけに眩い真夜中。
偶然深夜に目が覚めた俺が、顔を洗おうとベッドから起き上がった時のことだった……な。
『……ねえ、どうしてさ……どうして私を引き取ったの?』
窓際で黄昏ていたイリスは、俺を振り返り、心の奥底まで見透かしているような瞳で、ぽつりとそう尋ねる。
何故か表情は今にも泣きだしそうで、不意打ちを食らった俺の意識は、少女の複雑な思いに導かれ、覚醒する。
『……まだ起きてたのか』
『ねえ、答えて……どうして、私を引き取ったの?』
『いきなりどうした……?』
『別に、あなたが引き取る必要はなかったはずでしょ? だったら、どうしてあなたが私を育てる決心をしたのか、聞きたいの……』
適当にはぐらかしてしまおうかと思ったが、その時の少女の表情があまりに儚げで。
まるでこのままイリスがどこかに消えてしまいそうな予感がし、俺はバツが悪そうに頬を人差し指で掻きながら、少女の瞳を見つめ返す。
『……俺が言わなくても、お前には全部お見通しなんだろ?』
『……ジークの口から、直接聞きたいの』
瞼の端に、真珠のような涙が浮かぶ。その意味は、よくわからなかった。
けれど、きっと今の問いはイリスにとって大事なことなのだろうと思い、俺はやれやれと苦笑いして、後ろ髪を掻きながら、少女の元へ歩み寄る。
『……昔、本当にずっと昔だ。……俺がまだ、初めて会った時のお前ぐらいの時……そう、俺がまだ奴隷をやっていた頃……とても仲の良い、女の子がいたんだ』
イリスは聞き逃さないようにか、真っ直ぐな瞳で、俺を見つめていた。
一切曇りのない純真無垢な瞳が、俺を捉え続ける。
殊勝な態度に心の底から苦笑いを浮かべ、俺はなおも言葉を紡ぐ。
『毎日毎日罵られて殴られて……そんな生活の中、俺とその子は、互いに慰め合って暮らしていた。……赤い髪のミライって名前の女の子でな。その子は気丈に振舞ってはいたんだが、俺の前だけは、いつもメソメソ泣いていたことを、よく覚えてる』
まだ想い出になりきれていない過去を振り返りながら、俺は窓際を柔らかく照らす月を見上げる。
少しの間そうやって黄昏ていると、イリスは服の袖を引っ張った。
『……続き』
『ん?』
『……続き、早く聞きたい』
『ああ、すまん』
苦笑いして、俺は少女に向き直る。
『俺とその子は本当の兄妹……というわけではなかったんだが、俺はいつからか、その子からお兄様、なんて呼ばれていてな。……笑うだろ?』
妙に照れくさく、冗談めかしてそう言ったが、イリスは真剣な表情のまま、首を左右に振った。
『……笑わない』
『そう、か。……それでな、俺は力もない癖に、その子を絶対に守る……なんて、約束をしたんだ』
――お前は絶対……俺が守る
――約束……ですよ?
『……けど、結局その約束は、果たせなかった。男に首を絞められて、苦しんでいるその子を……俺は、助けてやることが出来なかったんだ』
その時の記憶は、まだ昨日のことのように、俺の脳裏に焼き付いている。
きっと何があっても、決して消えないだろう。
『……絶対に守る……なんて約束をした癖にな。……悔しかった……力のない自分が。何も出来なかった自分が』
強がるような笑みを浮かべる俺とは対照的に、イリスは今にも泣きだしそう表情をしている。
『……お前と初めて会った時……そのどうしようもなく空虚で、世界を恨んでいるような瞳がな……俺が救えなかったその女の子に――』
『……もう、いい』
俺の寝衣をぎゅっと掴みながら、イリスは眦に涙を浮かべる。
『……イリス?』
『辛いことを語らせて……ごめんなさい』
『いや、大丈夫だ……。もう、何も気にしていない』
『……嘘』
銀色の髪をした美しい少女は、強がる俺を責めるような、同情するような、そんな複雑な表情を浮かべていた。
《心眼》
イリスの能力を思い出した俺は、ふっと苦く笑う。
『そういや、お前に嘘は無意味だったな』
そう言いながら前髪をかき上げると、イリスは少しだけ表情を綻ばせた。
それから、何故かイリスは親友にずっと好きだった人を奪われた少女のような面持ちで、深いため息を吐きながら――
『……やっぱり、私じゃその子に、勝てっこないね』
意味深な呟きをする。
『ねえ、ジーク……』
『どうした?』
『昔、さ……よく、添い寝をしてくれたじゃない?』
『ああ。そうしないと、お前はなかなか寝つかなかったからな』
『……今日だけでいいから……さ』
頬を染め、目線を泳がせるイリスは、月明かりに照らされて。
桜色の唇がやけに艶っぽく見えた俺は、一瞬どきりと心臓が脈打つ。
『……今日だけは、私が眠るまで……側にいて欲しいの』
『……イリス?』
『……お願い』
俺に身体を預け、イリスは自分の表情を隠すように、胸に顔を埋める。
イリスが俺の元を去り、聖女になるため教会へ向かったのは、それからちょうど、一週間後のことだった。