25:「ありがとう」
静寂と窓から射し込む仄かな月明かりだけが周囲をぼおっと照らす、真夜中の寝室。
隣のベットでティアが静かに寝息を立てている事を確認し。
俺はそおっとベットから起き上がった。
ティアは柔らかな布団を口元までかぶり、まつげのくるんとした瞼をぴったりと張り付けている。
時折寝返りを打ち。
小さく言葉にならない寝言を呟くティア。
愛らしい少女の安眠を邪魔してしまわないように。
俺は慎重に部屋の扉を引き開け、音を立てないようにそおっと閉めた。
廊下に出ると。
ガラス張りの窓からうすぼんやりとした夜空の光が、足元に小さな影を作る。
昼間は喧騒と活気に満ちていたドネツクの町も。
夜になるとまるで別人のような静けさが、辺りを包み込んでいる。
さわさわと聞こえる虫の音。
控えめな野鳥の鳴き声。
そんな心落ち着く夜の音に耳を澄ませながら、俺は今日の出来事を振り返る。
本当に、今日は色々なことがあった。
ティアに露店でペンダントを買ってやったこと。
町を一望出来る高台で、サクラとティアと三人で美しい夕焼けに包まれる黄昏の町を見たこと。
親父さんにサクラを旅に連れて行ってくれと言われたこと。
町を出ていくなんて、望んでもいない強がりを笑顔で言う少女を見たこと。
そんな少女のささやか願いを、叶えられたこと。
それもこれも全部。
この穏やかな夜の光を浴びていると、遠い昔のことのように感じられる。
コツコツと、石造りの階段を踏みしめる。
小気味の良い音が、誰もいない宿に反響した。
無人の待合室に、天井に備え付けられたプロペラだけがくるくると回っている。
裏側に回り込み、テラスへと繋がる引き開式の窓の鍵を開けた。
すーっと風が吹き込んできて、ティアと同じ色の黒髪がふわりと揺れる。
しっとりとした外気。
誰もいない、木製のテラス。
サクラはまだ、来ていなかった。
俺とティアと、サクラと親父さんと、
四人で夕食を取ったテーブルの椅子に座る。
ここで楽しく、本当に楽しく。
夕食を取ったのがまだ数時間前だなんて、信じられない。
お世辞抜きで、頬が落ちそうになる手料理。
尽きない笑い話。
時折顔を赤らめるサクラ。
大事に取っておいた思い出のアルバムをめくるみたいに。
記憶の引き出しをそっと開ける。
本当に、今日の夕食は楽しかった。
そんな風に俺が感慨に浸っていると。
ガラガラと静かに窓が開いた。
トレードマークのポニーテールを解かして、背中まで真っ直ぐに伸びた薄茶色の髪。
小走りで駈け寄ってくる、落ち着いた雰囲気になった少女。
「ごめんごめん……待った?」
「……いや、今来たところだよ」
申し訳なさそうに髪を揺らす少女に、微笑むを返す。
サクラは、ほっと胸をなで下した。
「よかったー。いやー……お父さんがなかなか寝てくれなくて……」
なかなか寝静まらない父に、やきもきとするサクラ。
そんな可愛らしい乙女の憂鬱が頭によぎる。
サクラはすっと頭をもたげ、星空を見上げた。
「……本当に、星が綺麗だね」
瞳をきらきらさせるサクラ。
俺はこくりと、頷きを返す。
「そうだな」
「……ゼロ君ってさ、ことあるごとに空を見上げているよね」
「そうか?」
「うん、そう。ふっと見るとね、いつも何かを懐かしむような顔で、星空を見上げているの」
「それは、気付かなかったな」
「……ゼロ君が何を見てるのかなーって知りたくて、ゼロ君が星空を見上げている度に、私も真似をして空を見上げていたの。……こんなにこの町の夜空が綺麗だって気付いたのは、ゼロ君のおかげなの」
後ろでを組みながら、空に向かって話かけるサクラ。
俺も椅子に座りながら、一緒に星空を見上げた。
「慈しむようでいて、なんだか悲しそうで……そんな複雑な表情を浮かべるゼロ君が、いったいこの星空に何を見ているのか知りたくて、私も空を見上げたの」
俺は空を見上げながら、そんな顔をしていたのか。
サクラに指摘されて初めて気が付いた自分に、俺は小さく苦笑いをした。
「……あーあ。結局、ゼロ君が何を見ているのか……星空の奥に何を映してるのか……わかんなかったなー」
サクラは不服そうな顔をして、小さく舌を出す。
「大丈夫だよ、サクラ。俺もサクラに指摘されて、初めて気が付いたんだ。俺だって、わかってない」
微笑みを返す、サクラはこちらを振り返りふっと笑った。
「……そっか。じゃあ、まあ、この町の空は綺麗だってことには気付けたし、とりあえず今日はそれでよしとするか!」
小さく握りこぶしを振り上げ、サクラはにひひと笑った。
それから訪れる、静寂。
二人の間に、沈黙が流れる。
少し俯き加減で、唇を噛むサクラ。
月明かりに照らされたサクラの頬は、僅かに上気している。
きっと、何かを言おうとしているのだろう。
言おうとして、でも少し照れくさくて。
少女の胸の内には今、複雑な葛藤が渦巻いているのだろう。
俺は、席を立つ。
サクラの元まで、テラスの板に足音を響かせる。
俯く少女の伸びた髪を優しく解かすと、サクラは目を丸くしてこちらを見上げた。
「どうした、サクラ。何か言いたいことがあるのか?」
「……もう、本当にゼロ君にはかなわないなー……」
降参するように肩を竦めて、サクラは俺の瞳を真っ直ぐに見据えた。
それからすっと目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
じんわりと、顔が赤く染まる。
決心が着いたのか、サクラはぱっと瞼を広く。
薄茶色の瞳は、俺だけを捉え続ける。
「……呪いにかけられた私を助けてくれてありがとう。高台で、頭を撫でてくれてありがとう。諦めかけていた私に、もう一度勇気をくれてありがとう。火の海にされかけた町を、救ってくれてありがとう……本気で怒ってくれて、ありがとう。捕まったお父さんを助けてくれて……ありがとう。七年前……私とお父さんを助けてくれてありがとう。……ゼロ君はいつも、私のピンチを救ってくれるよね。……ずっと、こうやってちゃんとお礼が言いたかったの……最後まで聞いてくれて、ありがとう」
仄かな朱に染まる、少女の頬。
照れくさそうに笑みながら、サクラは前髪を気にした。
健気に礼を述べる少女に、胸の内に暖かいものが広がる。
「……どういたしまして」
俺がそう返すと、サクラは満足気に微笑んだ。
それから、少しだけ俯いて。
瞳をゆらゆらと揺らめかしながら、俺をそおっと覗く。
「ねえ、ゼロ君が……ゼロの大賢者様だっていうのは……本当なの?」
手を伸ばせば届きそうなほど、星が近い夜。
月明かりが美しい、静謐な夜。
濁りのない透き通った瞳は、俺だけを映していた。