第8話:東都ルーシャン
8:東都ルーシャン
見てきた〝宝物〟の形状や図柄を忘れないうちに絵に描き起こすと、横で見ていたルチアが心底感心した調子の声を上げた。
「絵、上手いのね。 言葉で伝えるよりとても良く解るわ。 全部で八つもあったのね。 よくこんな詳細に覚えて来たわね、たいしたものだわ。 あんたやるじゃないの」
ルチアの称賛に照れ笑いをしているカラの背後で見ていたシアが、描き終わった紙を取り上げてじっくり見た後、同じく背後で見ていたオルテへ滑るように渡した。
「ラクラちゃんは、お嬢様にずいぶんと気に入られたんだな。 こんないくつも大切な宝物を見せてくれるなんて、〝女の子同士〟だと話が盛り上がるもんなんだなあ?」
帰って来て直ぐに描き始めたので、カラはまだ〝ラクラ〟の格好をしたままだった。
「その呼び方やめろよなっ! それでどうなんだよ? その絵がなんかの役に立つの?」
腹立ちを隠すことなく声に織り込みながら、カラはシアの顔を振り返り睨んだ。 シアはオルテへ向けた顔を動かすことはせず、横目だけでちらりとカラを見た。
「明日は早えからメシ食ったら早く寝ろよ、ガキ。 ルチア、あとは頼んだ」
言い置いて、シアはさっさと部屋を出て行った。 質問への回答を得られなかったと感じたカラは、椅子から立ち上がりシアを追いかけようとしたが、オルテとルチアが揃って肩に手を置き再び椅子に座らせた。
「あんた合格したのよ、シアの課題に。 むしろシアが想定していた以上の情報を取って来たから驚いているのね。 シアに労いや褒め言葉を期待しても無駄よ。 捻くれているからそんな言葉、余程の大金でも積まれない限り言わないから」
にっこりと笑いながら言うオルテの言葉に、カラは眼を丸くした。
「あんたがわからないのも仕方ないけど、シア、あれでも褒めてるのよ、あんたのこと少し見直したって」
ルチアも笑いながらカラの肩を労うように軽く叩いた。
「俺の絵、役に立つの? あれがなんかの〝情報〟になるの?」
オルテとルチアは、顔を見合わせてくすくすと笑い合うと、ルチアがペンを取ってカラに質問をしてきた。
「とっても役に立つ情報よ。 あと幾つか質問があるのだけど、この模様のここの色は何色だった?」
ルチアに訊かれたことを、カラは思い出し思い出し答えると、ルチアが聴き取った内容を文字で書き込んでいった。 何度か同じ質問の繰り返しをした後、ルチアは改めてオルテにその紙を渡した。 オルテが確認し、その紙を手に部屋を出て行くと、ルチアがカラに夕飯を運んで来てくれた。
「本当にお疲れさま。 お腹減ったでしょう? まだたくさんあるからたんと食べて」
温かな湯気を上らせるスープを、カラは一気に飲み干した。 鳴り続けていたお腹が、スープの温かさそのままにほんのりと温かくなり、ようやくほっと息を吐けた。 カラの食いっぷりに、ルチアが明るい笑い声を上げる。
「よほどお腹減ってたのね。 お昼、御馳走が出たんじゃないの?」
「う……ん、出たは出たんだけど……」
昼にシルフィの家で食べた食事は味がしなかった。 明らかに良い食材と腕の良い料理人が作った〝美味しいはず〟の、これまで見たこともないような御馳走が食卓に並んだのだが、横でカラの一挙一動に気を配っている侍女の眼が怖ろしくて、小食なふりが自然に出来た。 あまりの小食ぶりに、シルフィはカラが帰るという時まで心配し続けていた。
その話をすると、ルチアは更にくすくすと楽しそうに笑った。
「シアが脅したのね、〝侍女は凄腕の武術の達人〟とか言って」
「うん。 え、ルチアも知ってるの?」
カラが蒸かした芋を頬張りながら訊ねると、ルチアは少し申し訳なさそうな顔をして頬杖をついた。
「知ってるもなにも、その侍女――タナエって言うんだけど、彼女は私達の仲間なの。 シアの口利きであの屋敷に雇われたの。 シアは若いけどシクルではかなり顔の幅が広いのよ。 あの屋敷の御主人にも気に入られているのね、よく色んな頼まれ事をしているわ」
ルチアの思わぬ打ち明けに、カラは食べていた物を喉に詰まらせて大きく咳こんだ。 ルチアが背中を摩ってくれたが、落ち着くには少しの間が必要だった。
「な、なにその話っ! あの侍女がシア達の仲間なら、俺があんな格好して宝物見せて貰う必要なんてなかったんじゃないか! そのタナエって人がシルフィの隙を見て盗み見ればいいだけのことじゃないかっ!」
憤るカラの背中をひとつ叩いて、ルチアは再び頬杖をついた。
「ひとつはあんたを試したかったからよ。 使えない人間を無駄に雇う余裕なんてないのよ、金銭的にも実務面でも。 情報屋って、想像以上に危険も付きまとうのよ。 いざこざに巻き込まれることも少なくないわ。 機転が利いて、いざという時には自分で適切な判断と行動を取れないようじゃ、本人もだけど仲間――シアやオルテ姐さんやあたし達のことね、そういった仲間にも影響や危険が及ぶ可能性も大いにあるかもしれない。 最悪の場合は、仲間を見捨てることもあるのよ。 したくはないことだけどね」
「……ひょっとして、俺がしくじってたら、本当にタナエに酷い目に遭わされて……た?」
「想像に任せるわ」
言いながらにっこりと微笑むルチアに、カラは背筋が寒くなる思いがした。
「確かにあんたが今日のシアの課題をこなせなくても、タナエがいずれは情報を取って来たわ。 でももう少し日数がかかったでしょうね。 それに、そのお嬢様の宝物、結構厳重な管理の下に仕舞われていたらしくて、おいそれとは見られない状態で保管されていたらしいのよ、そのシルフィってお嬢様か旦那様しか開けない仕掛けがされていたって。 だから一番手っ取り早いのはその二人のどちらかに自発的に見せて貰うことだった。 あんたはそれに成功したの。 しかもあたし達が得ていた情報よりも〝宝物〟の数が多かったことが分かったわ。 これはあんたがお嬢様に信用されて見せて貰った成果なのよ」
最後の言葉は嬉しかったが、シルフィを騙した罪悪感が、どうにも気持ちに蓋をしてしまう。
「あの宝物にどういった意味があるの? シルフィ、あれはお母さんの形見だって言ってたよ? 形見の品物がどういう情報になるの?」
浮かない顔で訊ねるカラに、ルチアはネルトという丸い果物を勧めた。 濃い赤紫の皮を剥くと中からつるりとした乳白色の果肉が現れ、口に含むと、これまで食べたこともない爽やかな甘味の果汁が口いっぱいに広がった。 思わず立て続けに五個も食べてしまった。
「情報の詳細は、シアに口止めされているから言わない。 悪いけど、まだあんたを十分に知ったわけじゃないから、なんでもを洗いざらい教えることは出来ない。 それにね、知らない方があんたにとって強みになることもあるのよ。 忘れろとは言わないけど、今日のことを考えるのはこれまでにして、今からは明日からの東都行きの為に、なるだけ体力を温存することを考えるのね。 シアはあんたが不慣れでも容赦はしないわよ。 使えないと思ったら、本当にどうなるか分からないから、しっかりしなさいね」
カラを励ますように笑ったルチアは、カラの使った食器を持って厨房へ消えた。 カラは、ルチアの背中に食事の礼を言うと、昨日来割り当てられている部屋へ戻った。
東都ルーシャンは、旧東都キソスから遷都された、央都の中では沙都ウルストに次いで新しい都であった。 新しいとは言っても、その歴史は千年は超えるというのだから、カラには、レーゲスタの歴史の長久ぶりがまったく見当もつかない。
「でも、なんでその〝せんと〟ってのをすることになったの? 他の央都はどこもそんな引っ越しみたいなことしてないんだよね? なんで東都だけ移ることになったの?」
昼食の為立ち寄った街道の飯屋で、ルーシャンについての前情報をシアから聴いていたカラが、首を捻りながら訊いた。
「さてな。 歴史書でも個人の残した文書でも、確かなことはなにひとつ書かれてないんだよ。 諸説入り乱れ過ぎていて何が本当か分からねえ。 ただま、かなり酷ぇ事件が起こったんだろうってのがだいたいの定説だけどな」
「ひでぇ、って、どんな酷いこと?」
「聴きてえか?」
にやりとシアが笑うと、カラは一瞬考えた末に前のめりで頷いた。
「〝神殺し〟」
「――は?」
「キソスで、神殺しの大罪を犯した人間共がいるんだとよ。 で、神罰怖れた小心者共――主に金持ち連中が、慌ててキソスを逃げ出して、新しい都を作った、それがルーシャンだって話があんだよ。 で、その〝決してあってはならない〟流言を意地でも否定したい大神殿は、ルーシャンに央都機能が移った後もキソスに残ったんだとか、な」
思いもしなかった話に、カラは更に首を捻るしかなかった。
「神様って、エランのことだよね? 神様って殺せるものなの? だって神様って、神様だから死なないんじゃないの?」
シアは頬杖をついたまま、空いた手で頭を面倒くさそうに掻いた。
「神が死ぬか死なねえかなんて俺が知るかよ。 そもそも俺は神なんて存在を信じて無いんだよ。 ――まあ、シリンやカナルみたいなのが実際に存在するのは動かしようのない事実だから、〝精霊〟の存在について否定をしようとは思わねえけど、〝エラン〟はともかくも〝神〟なんて崇めるような対象は必要を感じもしねえよ」
「え? なんで?」
意外なシアの言葉に、カラは目が覚めるような興味を惹かれた。
「俺は沙都出身だ。 ウルストの者が信じるのは己の才覚と真の仲間との団結だ。 神なんて曖昧な存在に救いは求めねえよ。 まあ、じゃんじゃん確実に儲からせてくれるってな商売の神がいるんなら、そいつは都合よく拝むかもしれねえがな」
「へえ、そうなんだ。 でもシクルって、普通にエランを信じてる人達がたくさん住んでるよね? シルフィもエランのこと大切な神様だって言ってたし。 なんでウルストを出て神のことを信じてる人が多そうな土地にわざわざ住んでるの?」
「そんなの商売の為に決まってんだろ。 シクルは地方都市とはいっても人の出入りが多い分情報も金も央都並みに集まるんだ。 でかい街でやるより効率がいい面もあるからな。 周りの人間が何を信じてようが俺の仕事には関係ねえよ。 必要ならいくらだって相手の話に自分を合わせればいいだけだ。 正確な情報と知識さえあればなんとだって出来るし、出来るようにするだけだ。 ――まあ結局は、稼げるんならそこがウルストだろうとキソスだろうと、極端に言えばティルナだってどこだっていいしどこへだって行くけどな」
「ふうん。 じゃあオルテさんやルチアも神様のことを信じてないの?」
「あの二人は信じてるさ。 そもオルテ姐さんは精霊王殿に仕えてた元巫子だからな」
「オルテさん精霊王殿の巫子だったの? ああ、だからユーリとも知り合いなんだ。 ラスターともそこで知り合ったのかな?」
地方の街の一呪術師が、ティルナ王と親しく交流があることに正直カラは不思議を感じていたが、シアの言葉でいくらかの納得を得た。
「そこで傍惚れしたって、前に何故か自慢げに話してたぜ。 どこぞへの遠征から帰って来たラスターとユーリの会見の場に同席した時、初めて見たラスターの天青の瞳にやられたんだとかなんとか言いながら、まるで小娘みたいに頬を染めて恥じらってよ。 いい歳して何言ってんだかよ、まったく」
いつもとは調子が違うシアの口調にカラがきょとんと首を軽く傾げると、シアは少しばつが悪そうに首筋を擦った後、元々の話の続きを続けた。
「そんなだからよ、エランのことを詳しく知りたきゃ姐さんに訊くのが手っ取り早いだろうよ。 ただまあ、神殺し云々については、ユーリやラスター程には情報は持ってないだろうけどな。 そんな物騒なネタ、何かしらの真実ってのを知ってる奴は限られてるだろうよ」
「ラスターは絶対に話してくれなさそうだけど、ユーリは? ユーリなら話してくれないかな?」
カラが思ったままに質問すると、シアは呆れた顔で飲み残していた水を飲み干した。
「お前、ユーリが何者か本当に理解しているか? 砕けた人だけど、あの人はラスターと同じで核心はなにも話さねえよ、そもそう簡単に会えるわけねえだろ、あんなんでも立場が立場だ。 身分に関わらず気安く声をかけてはくれるが、俺やオルテ姐さんは雇われているだけの立場だ、あくまでもな。 俺にとっては単に大口の客なんだよ、あの人は。 まあかなり大切な上客だから、優先度合いは高いけどな、あの人からの依頼は。 なんにせよ、互いに必要な物を提供し合うだけで、それ以上のやり取りはねえし、この先も必要のないやり取りをする気はねえよ。 互いに無用の不信や疑念は抱きたくねえからな」
シアの言葉に、ユーリの身分をあらためて思い出したカラは、思わずまた考え込みかけたが、シアが出発の号令をかけたので、頭をひとつ振って慌ててシアの後を追った。 今は考えても解らないことを考えている暇はない。
食事と夜間の休息時間以外歩き通した二日目の夕刻、カラとシアは東都ルーシャンに入ることが出来た。
東の央都というだけあって、往来は洗練された活気に満ちていた。 通りの舗装も道の両側に建ち並ぶ五、六階建ての建物も、全てが石煉瓦で造られており、等間隔で設置された瓦斯燈の黄白色の力強い灯りが、通りを隅々まで照らし出している。 街の規模の大きさは道幅の広さに現れている。 今歩いているのが中心の大通りである所為もあるだろうが、道幅はキソスの大通りの軽く倍はある。 その広さに比例するように、通行人や馬車、馬で行き来する人物の数もキソスの倍は軽く超えている印象を受ける。 道が広いので、通りすがる人とぶつかる怖れはあまりなかったが、それでもうっかりすると、カラを振り返ることなく先へ進んで行くシアからはぐれる心配があったので、カラは気を張って、シアの背中を追うように、けれど人とはぶつからないよう注意しながら早足で歩いた。 暗闇で光る眼が目立たないように目深にフードを被っているので、いまいち視界が悪く、足の速いシアに遅れずに付いて行くのは結構骨がおれることだった。
シクルの場合だと、シアは人の多い雑踏をしばらく進んだ後に、道を複雑に折れ曲がった末に目的地である場所へ行くことが多かった。 実際、目的とする場所が心寂しい場所にある故に道が複雑化するという面もあったのだろうが、シアが選んでいる道順は通るたびに違うことから、おそらくわざと複雑な道順を選んで進んでいるのだとカラは思った。 ならば東都でも同じような複雑さを選ぶのだろうと覚悟をしていたが、シアはひたすら賑やかな大通りやそれに準じる通りを歩き、大して角を曲がることもせず、迷うことなく一軒の酒場と思われる料理屋へ入った。
店内はやはり、夕食を摂るというより酒を楽しむ為に集まった客の方が多そうだった。 大蒜や香辛料といった、腹の減った鼻には魅惑的な香りと共に、客達が呷る強そうな酒の匂いが店内には満ち満ちている。 客の大半はそれなりに年齢のいった男が多かったが、中にはシア程の年若い青年の集団や女性客もいる。 皆一様に楽しそうに飲み食いをしながら、他の客を気にすることなく大きな声でしゃべり笑い声を上げている。
「おい、ボーっと突っ立ってんじゃねえよ、邪魔になるだろうが」
店内の様子に眼を奪われていたカラの襟首をシアは掴んで、半ば引きずるように歩かせ店内の隅の席に乱暴に座らせた。 席の真上には、それなりの大きさの吊るし灯火が薄黄色の柔らかな光を放っているので、薄暗い店内でもここならばカラの自ら光を放つ眼も目立たない。 カラが安心してフードをおろすと、間もなくして中年の男が注文を取りにやって来た。
「よう、シア久しぶりだな。 なんだい、今日は仕事で来たのかい?」
シアと顔馴染らしい店員は、挨拶かたがた仕事をしに来たといった様子で、世間話をひとしきりした後に、「じゃあ、いつものを二人前でいいよな」と確認の言を口にすると、シアは「こいつには白でいいよ」とカラを指差し言った。 店員は心得たように笑うと、さっさと厨房のあるらしい奥へと引っ込んで行った。
「シア、ルーシャンへはよく来てんだ」
頬杖をついて店内の様子を見ながら、シアは机の上に置かれている飾りの置き物を指で弾いた。
「なんだかんだ言っても、央都は人も情報も抜き出でて溢れかえってるからな。 仕事で必要があれば西都や南都だって行くさ」
シアの言葉が終わるか終らないかの内に、女給が飲み物の入った大振りの杯をふたつ持ってきた。 カラの大杯には白い液体がなみなみと入っていた。 液体の正体は不明だったが喉はからからだったので、カラは大杯に口をつけぐいっと飲んだ。
「な、なにこれっ、牛乳?」
カラが口を拭いながら訴えると、シアは自分は酒と思われる飲み物を喉を鳴らし呷った後に、カラの顔へ視線を向けてにやりと笑った。
「お子様に酒なんか飲ませるわけねえだろ。 お前みたいなガキはいい子にお子様らしい飲み物を飲んでおきゃいいんだよ」
「お子様って、なんだよ、シアだってそんなに言うほど歳変わんないだろっ?」
「俺は仕事をちゃんとして自分で稼いで生活を成り立たせてる。 誰かの世話になりっきりで、意に染まないとぎゃーぎゃー喚いて拗ねるようなガキといっしょにすんな」
言いながら、更に大杯を傾けるシアに、カラは言い返しようがなかった。 事実、自分は全てが誰かの世話になっている、自立をしていない子供なのだ。 かといって、言われっぱなしなのも腹が収まらない。
「誰か言ってたけど、大人ぶりたがる奴ほど中身は子供だって。 〝としそうおう〟のふるまいをするのが一番なんだって」
「よく解ってんじゃねえか。 だからお前はお子様らしく大人しく牛乳でも飲んでおけばいいんだよ。 挑発ってのはな、相手が乗らなきゃ無意味な遠吠えになるってこともついでに覚えときな」
言っている間に、先程の男の店員が大皿の料理を三皿と取り皿を運んで来た。 湯気の上がる見たこともない白いつるんとした半月形をした団子のようなものと、青菜と茸と鶏肉の炒め物に具だくさんのスープだった。 どれも出来たてで熱々の湯気が立ち上っている。 団子のようなものは茹でてあるようで、白い粉を練った少し厚めの皮の中には、野菜を細かく刻んで混ぜ込んだ肉餡がぎっしりと詰まっていた。 一口かじると熱い肉汁が口の中でじゅわりと広がって火傷をしそうだったが、絶妙な調合の香辛料と塩で味付けがされていて、油気はそれなりにあるのにしつこくなく、見た目の愛想の無さに反してとても美味だった。 お腹もぺこぺこだったので、カラはどんどん遠慮なく食べていたが、シアはというと多少はつまんでいるが、食べることに集中はしていない。
「シアどうしたの? 早く食べないとせっかくのが冷めちゃうよ」
口をもぐもぐさせながら訊ねたカラに、シアは生返事をした。 何かを考えているのか、意識は料理にはないようだった。 不思議に思って、シアの顔に視線を向けていると、シアは何処か、を見続けているようだった。 興味を惹かれ、カラもシアの視線の先にあるものを振り返って見ようとすると「見るんじゃねえよ」と短く叱責された。 そう言われたら振り返るわけにはいかないが、シアが何を見ているのかカラは気になってしょうがなかった。
「何があるのさ? 誰か知り合いでもいるとか?」
「ま、似たようなもんだな。 あっちもこちらには気付いているみてぇだが何にも言って来ねえから、今は、お互い素知らぬふりをしようってことなんだろうよ。 だから興味津津の視線を向けられるのは迷惑なんだよ、あっちも。 こっちはこっちで面倒くせえしな」
「そしらぬふりするって、なに、どういった知り合いなの?」
シアは鬱陶しそうに大杯の酒を飲み干すと、女給に酒のお代りを注文した。
「どういったもこういったもお前には関係ねえよ。 そんなに何か見たいんなら、お前の斜め前の男三人を見とけ。 お前、暗い中でも物がよく見えんだろ。 見るって言っても気付かれないように何気なく見ろよ。 男共の特徴と、聞こえんなら話も盗み聴いとけ」
シアに言われ、カラの斜め前のひときわ薄暗い席に視線を向けると、三人の男が額を寄せるようにして座っていることに気が付いた。 確かに、普通の眼の人間なら、薄暗さで細かな顔の造作は分からないだろうが、カラには全く問題が無い。 男達の瞳の色から顔の傷や痣に至るまでよく見える。 しかし流石に距離がある為、会話の内容までは聞こえない。
「顔、覚えたか?」
先程までとは違い、シアももりもりと料理を口に運びはじめていた。 カラも料理を口に運びながら男達の観察を続けると、敢えて言葉には出さず首だけを大きくひとつ縦に振った。 カラの返事に満足したのか、シアはにやりと笑うとお代りの酒を一気に飲み干し、料理の代金を机の上に置いて店を出た。 出際には馴染みの店員の男に心付けなのか幾許かの金を渡していた。
外はすっかり夜の顔になり、通りを歩く男達の中には酔っているのか、大声で歌いながら商売女と思われる女の肩を抱きつつ足取りの覚束ない者もいる。
料理屋を出た後も、シアは特に何も言わず大通りを黙々と歩き続けた。 たらふく食事を腹に詰め込んだカラは、正直もう休みたい気分だったのだが、どうも宿屋へ向かおうとしている様子ではなかった。 料理屋へ行く時とは違い、今度はどんどん人通りの少ない道へと進んで行く。 幾つか角をまがった末に入った通りは、瓦斯燈の数も少なく歩く人は大通りとは違い非常に疎らだった。
「ねえ、いまからまた何処かへ行くの? 仕事?」
シアの背中に、なんとなく小声で質問をぶつけると、シアは振り返ることはせず道を進み続けた。
「お前、喧嘩慣れしてるようにはとても思えねえが、逃げ足くらいには自信あるか?」
突然の質問に、カラはきょとんとしたまま答えの返しようが無かった。 黙ったまま何も答えないカラに軽く舌打ちをすると、シアは肩越しに眼線だけでカラを見た後に、視線だけで方向を示し、口が動いているかどうかも判らない抑えめの声量で、口早に指示を出した。
「あそこにある鐘楼の下に一刻後までに来い。 お前の眼なら街灯の無い暗い道だって行けるだろ。 おまけにチビだ、狭い隙間にだって逃げ込める。 もし一刻後までに来なかったら、見つけ出して半殺しにするから覚悟しとけよ」
言いながら、シアはカラを小さな肩掛け鞄と共に脇の路地に突き飛ばすように押し入れた。 いきなりのことでカラは何が何だか分からず、転びそうになりながら後ろを振り返ると、シアがあっという間に六人の男達に取り囲まれていた。
「よう、シクルの情報屋。 しばらく顔を見ないと思っていたが、まだここへも顔出ししてたのかよ。 なんだ? 今度はどんな取引があるんだ? 俺達のシマで仕事するってなら、筋を通して貰わねえとな」
一番年嵩と思われる男が、シアに詰め寄るような調子で訊いた。 シアは面倒くさそうに頭を掻きながら、わざとらしいくらいの大きなため息を吐いた。
「ここをシマだって言ってるのはお前らだけじゃねえだろ。 てめえらに通す筋なんざ持ち合わせてねえよ。 むしろ大したことも出来ねえ木偶の集団に無駄に時間取られてるこっちが詫びのひとつも貰いてえくらいだ」
男から顔を逸らしたまま、男の質問に取り合おうという気は全く感じられない、愉快なくらい余裕に満ちた対応だった。 シアの横柄な態度に当然のように立腹した、仲間の内でも大柄の男数人が「捕まえて締め上げろ」と言いながら、シアを逃がさないように間合いをじりじりと詰め始めた。 カラはどうしてよいか判らずに暗闇で蹲っていると、シアを囲んでいる男達とは別にいたのか、ひょろりとしたいまいち気弱そうな男が、周囲をきょろきょろと見回しながら何かを探している様子が眼に入った。
「おい、そいつ確かチビの連れがいなかったか?」
「そこの路地に逃げ込んだんじゃないのか? そっちはお前に任せた」
言葉と共に、カラが押し込まれた路地に男が入って来た。 路地は狭く通りの瓦斯燈の灯りも届かないので、男は恐るおそる足元を探るように前進しては来たが、カラの存在には一向に気付かない様子だった。 だが、正体不明の光る眼に気付いた途端、じりと僅かに後ずさるように足を止め、大きく息を呑む。
「なっ、なんだ、猫かよ? えらくデカイ猫だな。 気味の悪い光る眼をしやがって、これだから獣は嫌なんだよ」
男の言葉にカラは腹立ちを覚えたが、相手が猫だと思ったならば幸運な誤解だった。 あらためて、自分の眼が闇中では目立つ事を思い出したカラは、胆が冷えた。 カラはシアから押し付けられた鞄を落とさないように外套の内側で肩掛けにして、更に腰帯でしっかりと固定をした。 男が〝猫〟を追い払おうと落ちていた小石を投げて来たので、カラは腹を立てつつも、猫が鳴くようにギャッと声を上げて、身を屈めたまま、路地の奥へ奥へと進んで行った。 路は奥へ行くと右と左にそれぞれ複雑に折れ曲がっており、灯りのある路無い路と様々だったが、カラは敢えて灯りのひとつもない路を選んで進んで行った。 カラを追う役を担った男は、通りのあまりの暗さに腰が引けているのか、なかなか前進出来ず、棒のようなもので足元を探り確かめるようにしながらゆるると歩を進め、「誰かいるなら出て来いっ」と恫喝に近い声を上げたが、しばらく待っても何の物音も反応も返って来なかったので、何もいないという結論に達したのか、あっさりとカラを追いかけるのを諦めて仲間の所へ戻って行った。 その男の後を、カラは音を立てず慎重に追った。
通りでは、シアを囲んだ男達とシアの六対一の喧嘩が始まっていた。 周囲には野次馬であろう通りすがりの観衆が数人、どちらを応援しているのか、「やれ、やっちまえ!」「そうじゃねえだろ、こうだろ!」といったヤジを飛ばしながら、自分も拳を握って殴る様な動作をしていた。 カラはフードを目深に被ると、その野次馬達の後ろからこっそりとシアの戦いぶりに眼をやった。
シアは男達が殴りかかって来る寸での所で身体を僅かに捻って拳をかわし、手を伸ばし迫って来た相手の腕を掴み、相手の突進してきた勢いをそのまま利用して自分よりも一回りは大きい男を軽々と投げ飛ばしたかと思えば、他の男には肘を顔面に叩き込み脚を払って転ばせた末に腹を蹴り上げ、相手がしばらくは立ち上がれないように念を入れる。 その風に乗るような流れる動きはラスターの動作にとても似ていた。 考えてみれば兄弟弟子なのだから、基礎となる部分が同じであろうから似るのも自然なことなのかもしれないが、その動作のあまりの鮮やかさに思わず見惚れてしまった。 そうこうしている内にシアは五人の男をあっという間に倒し、残るはカラを追って来た、どちらかと言えば腕は立たなそうな生白い男と、最初にシアに喧嘩を売った年嵩の男だけだった。 男はしばらく無言でシアを睨んだ後、腰に帯びていた長剣をすらりと抜いた。
「大人しく謝るんなら今の内だぞ」
男は剣が手の内にある余裕の為か、声には笑いすら混じっている。 対するシアも、相も変わらず不敵な笑みで男の顔を見てくっくと笑った。
「たかが近隣の街の同業者が出没したからって、大の男が揃ってこんな捕り物をやるなんざお笑いだな。 しかも、俺程度の若造に簡単にのされてよ、かっこ悪いったらないよなぁ?」
シアは愉快そうに声を上げて笑うと、周囲で見ていた野次馬も一緒になって笑った。 その笑いに男の堪忍袋は切れたのか、剣を突き出し、シアを一突きにしようと大股で突進した。
「ばーか、遅えよ」
シアは半身を捻って突きをかわすと、膝で剣を握る男の手を蹴り上げ、男が剣を手放した瞬間にその剣を奪い、逆に男の喉元に刃をそわせた。
「あの程度の挑発に簡単に乗ってくれる単純なおつむの奴は扱いやすくてほんと助かるよなぁ。 いいかおっさん、剣ってのはな、こうやって使うんだよ。 お前らみたいに力だけで振りまわすのはただのお遊びなんだよ。 それにしても手入れもなってねえな、この剣。 これで斬られたら、傷口は汚くなるわで、創が治るのに時間がかかるだろうなぁ。 どうだ? いっちょ試してみるか?」
シアが軽く手首を返して男の首に剣を密着させると、男は何とも言い難い奇声を発しながら、転ぶように逃げ去って行った。 カラを追っていた男もその後を追うように駆けて行った。 周囲にいた数人の野次馬は喧嘩が終わったので興味が一斉に失せたのか、それぞれに散って行った。 それでもまだ数人残っていた野次馬の陰にカラは隠れて見ていたのだが、シアは頭を掻いて大きなため息を吐いた。
「俺は一刻後に、あの鐘楼に下に来いって言ったよなぁ? 誰が見物しろって言った?」
顔は他方へ向けたままだが、シアは明らかにカラにずっと気付いていた様子だった。
「ご、ごめん。 だって、俺を追いかけてきた奴あっさりといなくなったし、シア、六人も大きな男達に囲まれていたから、大丈夫なのかなって思ったら、自分だけ逃げ隠れしておくのもなんとなく……」
最後の方はごにょごにょと言い誤魔化して、上目遣いにシアを見上げると、シアは無表情のままカラを見下ろして、ぬっと手を伸ばして来た。 カラは何を求められているか分からずきょとんとすると、シアは少し苛立った様子で言葉を吐き出した。
「預けた荷物を返せ」
ようやく意味が解ったカラは、しっかり留めていた腰帯を解いて鞄を肩から外すとシアへ差し出した。 シアは中身を確認すると、何も言わずすたすたと歩き始めた。 カラも慌ててその後を追った。
「シア、ひょっとして怒ってる? 俺言うこと聞かなくて戻ったこと……」
「まあ、いい気分はしねえが、守るもんはしっかり守ったから無しにしてやるよ。 ただ、この先も言ったことを聞かずに勝手ばかりをするようなら、迷わず見捨てる、いいな」
前を向いたまま、シアは明らかに本心であろう言葉をすぱっと言いきった。 カラは少しだけ後悔はしたが、シアの戦いぶりの見事さを見られたことが嬉しくて、反省より興奮の方が勝っていた。
「ねえシアって、いつから武術の稽古をしてんの? あんなに速く身軽に動けるようになるのにどれくらいかかった? 全部セラムさんから教わったの?」
好奇心を抑えられないといった調子でカラが訊ねて来るのを、シアは鬱陶しさと面倒くささを背中一面で表現しながら無視を続けていたが、それでも諦めずにカラが質問を続けるので、観念したのかぶっきら棒に幾つかの質問に答えた。
「俺がセラムに会ったのはお前よりもっと小せえころだよ。 その時からあの爺ぃに扱かれてるから、十年は超えてるだろうよ。 あれを修行と言うんなら、だけどな」
十年。 やはりあれ程の身のこなしを身に着けるにはそれくらいの時間が必要なのだ、と思うと、カラには果てしなく長い時間のようにも感じられた。
〈闇森の主〉に挑むことを考えた時に、そんな時間を取っている暇はあるのか、甚だ疑問でしかなかった。
薄暗い裏路地を抜けると、二人は再び明るい大通りに出た。 シアは相変わらず何も言わず歩いているが、おそらくカラに再集合の場に指定した鐘楼を目指して歩いている様子だった。
「ねえ、今から何するの? 仕事なら、俺、何すればいいの?」
そわそわと落ち着かない様子で訊いたカラに、シアは視線だけを向け、肩でくっくと笑った。
「今からお前を大人の男にしてやるよ。 シクルでも泊まったろ、睦宿。 今日はそこに客として連れて行ってやるよ」
思いもよらぬシアの言葉に、カラは一瞬意味が解らずきょとんとし、その数拍後に顔を真っ赤にして意味なく両手を前に突き出して左右に大きく振った。
「そ、そんなとこ、俺、いいよっ。 俺何すればいいか分かんないし、シアが行くんなら、俺外で待ってるから、シアだけ行って来てよっ!」
あからさまに狼狽した様子で拒絶するカラに、シアは爆笑で応えた。 よほどおかしかったのか、なかなか笑いが止まらず、通りすがりの人々が怪訝な視線を向けて来るほどだった。
「まったく、お子様は根性ねえな。 ばーか、お前にああいったところの玄人女の相手が出来るなんざ最初っから微塵も考えてねえよ。 マジに受け取るとも思わなかったがな。 お前には小間使い役をさせんだよ。 さっきの酒場で男三人の顔を覚えたろ? そいつらが来てねえか、来ていたらどの部屋で女とやってるか、それを探り出して俺の所に報せに来ればいいんだよ。 店にはお前は俺が雇っている新入りの雑用係ってことで通す。 お前みたいなチビを女どもは相手になんぞしないから安心しな」
シアの説明にホッとした半面、なんとなく腹も立ったカラはむっつりと黙りこんだ。 そんなカラの様子が余計に面白かったのか、シアは相変わらずくっくと笑いながら「ほれ、いくぞ」と黙り込んだまま立ち尽くしたカラの襟を掴み引っぱった。
「未だ幼き子供に、そのような場での労働を強要するは感心致さぬな、リシャール=カールファード」
横の路地から突然かけられた声に、カラは慌てて視線を振り向けた。
そこには、全身を黒衣に包んだ青年が立っていた。