第6話:見習い志願
6:見習い志願
友人の少年が使っていた部屋を、アルフィナは毎日掃除をしていた。
「――……馬っ鹿みたい。 当分帰って来ることもないのに」
言いながら、それでも卓子の埃を布巾で拭い、寝台の周囲も塵ひとつ残さないよう掃き清めた。
首元で、カチリと澄んだ音が上がる。 首からは、母の形見である映月石の首飾りとは別に、青色の細石の根付けが、新しく長い鎖に付け替えられぶら下がっている。
相思石を持ち合っている人々を、これまではどこか女々しく未練がましい人達だと思っていたが、いざ自分が持つ立場になった時、人々がその石に込める願いが少しだけ解る気がした。
「わかんないものよね、すごく変わるものなんだわ、気持ちなんて」
首からもうひとつ、皮紐に通し下げている木札がある。 《名》を失っている友人の、愛称と外見的特徴を記した覚え書きだ。 その木札を見ながら、アルは友人の少年の顔を思いだそうとした。 少し癖のある黒髪に、月明かりのような金の瞳――そういった部分的な造作は木札にも書いているので容易に思い浮かぶのだが、その全体像を頭の中で形作ろうとしても、霧で霞み滲んだようなぼんやりとした姿しか思い浮かべることが出来ない。 日に何度も木札を見ることで、友人の存在自体はかろうじて忘れずにいるが、日に日にその顔立ちがぼやけていくことを止められないことに当惑していた。 記憶力には自信があるのに、どうしてもその顔だけを覚えておくことが出来ないことが、悔しく許せない。
ウルドの呪いを受け、存在を他者に記憶してもらえない少年。
なんて奇妙な呪いを受けたものだろう。 そして、それはなんて怖ろしい呪いなのだろう。 通りすがりの赤の他人に覚えて貰えないくらいはなんてことは無い。 けれど、友人等の親しい人々にすらその存在を記憶しておいて貰えないなんて、どんなに衝撃的なことだろう。 しかもその呪いをかけた相手に命すら狙われているなど、自分ならおそらく耐えられない。
アルは木札の表面の文字を撫でて、眼を伏せた。
「――カラ、あんた、元気でやってるの?」
背後で扉を軽く叩く音がし、続けて黒衣の女騎士が入って来た。
「アルフィナ。 話があります。 こちらへ来て頂いてよいですか?」
エフィルディードに促され、アルはカラの部屋を出た。
***
「冗談じゃねえ。 そんなめんどくせえガキ連れて仕事なんか出来るかよ。 お断りだ」
セラムの言葉に、シアは呆れと嫌悪を半々にした調子で言い放った。
天湖でセラムに提案された、シアの仕事を手伝うことにカラは同意をした。 セラムが指摘したように、今はラスターの顔を見ていたくなかった。 シュアにも、気まずさがあって顔を合わせ難い。 ならば、数日の間でも二人から離れられるのはむしろ好都合でもあったからだ。
「そなた、よく手が足りぬと愚痴をこぼしていたではないか? 手足として使える仲間が増えるというのに、何が不服だ?」
不満を隠さない弟子の青年を、セラムは怒るでも窘めるでもなく、むしろ微笑ましげに見ている。
「不服なんて生温いもんじゃねえよ、心の底から拒絶してんだよ。 そいつ、ウルドに狙われてるんだろう? そんな物騒な訳ありと一緒にいてこっちまでとばっちりを喰うなんざごめんだ。 しかもめんどくせえ呪いを受けたままなんだろ? いちいち存在を忘れる奴を、単なる手駒といえど使えるかよ。 誰何をしている手間と暇がもったいねえだけだ。 そんな奴を使うくらいなら、自分一人でやってる方がよっぽどマシだ」
シアはきっぱりとカラの同行を拒絶しながら、今度の旅に持っていくという貴石の原石を布に包み、携帯して来ていた雑嚢に押し込んだ。 準備した貴石の原石は、ファーエンの付近でしか採れないという稀少なもの数種で、取引相手次第では公用通貨より余程信用が高い、価値あるものなのだという。
「そいつの望みはあんたに武術を教えて貰って騎士ごっこをすることなんだ。 俺にするみたいにせいぜいしごいてやれよ」
言い捨てるようにシアは室外へ出ようとしたが、服を掴まれ動きを止められた。 首だけで振り返ると、カラが俯き気味にシアの上衣を掴んでいた。
「――なんの真似だ、ガキ。 離せよ」
平坦な言葉でシアが言っても、カラは首を横に振って離さなかった。
「俺、足手まといにならないようにするから」
言いながら、カラは意志を固めた眼差しでシアの顔を見上げた。 思いつめたような真剣な顔に、シアは却って呆れ顔を見せる。
「ついて来ること自体が足手まとい、なんだよ。 ここへ来る山道ですら弱音吐いていた根性体力経験なしのガキが、いきなり情報屋の仕事なんか出来るかっての、なめんなよ。 今回の仕事は実入りが大きいんだ、お遊びで邪魔されて潰されたら迷惑なんだよ」
「遊びじゃないよ! 俺、確かに情報屋の仕事がどんなものか今はわかってないけど、誰だって最初は初めてだろ? 邪魔にならないように俺頑張るし、もし、シアが邪魔だと思ったら、途中で俺を置いて自分だけで動いていいから。 だから俺も連れて行って、お願いだから!」
後半は単なる懇願になっていたが、カラは必死にシアの顔を見ながら頼みこんだ。 シアは、相変わらず視線だけでカラを見ていたが、必死の訴えに僅かに興味を惹かれたようだった。
「へえ? なに、邪魔と思ったら途中で捨てて行ってもいいわけ? 見ず知らずの土地で?」
シアの突っ込みに、カラは瞬間躊躇った後にぎこちなく頷いた。 要は〝邪魔〟にならないようにすればよいだけの事だ。
「――ふうん? いいぜ、そんなに言うなら連れて行ってやるよ。 だが東都へ出発するのは明後日だ。 明日一日でお前が俺に役立つ事を証明したら、今回の仕事に使ってやるよ。 だが明日一日様子を見て、お荷物にしかならないと判ったら、そこでこの話は無かった事にしてもらう。 東都に行ってから置き去りにしたとして、お前と俺は構わなくても、他の奴等に非難されるのは結局は俺だろうからな。 無用な悶着は起こしたくねえんだよ、今後の為にもな。 その条件が呑めるんなら、一緒にシクルまで来いよ。 言っとくがその蜥蜴は置いてけよ。 無駄に目立つだけだからな」
言い終えるか終えないかのうちに、シアは背中のカラの手を払って外へと出た。 カラも慌てて外套を取ると、他の者への挨拶もそこそこにシアの後を追った。
シアに付いてシクルまで下りたカラは、夜の人出で混雑した繁華街の雑踏をはぐれないように必死に付いて歩いた。 シアはカラを一度も振り返ることなく、慣れた様子で人混みを抜けてどんどんと進んで行く。 一昨日と同じく、どこをどう通っているのか分からない、大小の道を幾つも折れ曲がった末に、裏通りと思われる少し寂れた通りのひときわ大きい古びた建物に行き着いた。 仄かな灯りの漏れる屋内からは、若い女の嬌声と酒に酔っていい気分になっているのであろう男の声が混ぜこぜで聞こえて来る。 おそらくここも睦宿なのだろう。 だが先日の宿とは違う。
立ち止まって建物を見上げていたカラを置いて、シアは先日と同じく建物の裏方へさっさと周って行ったので、慌てて後を追いかけ、屋内に入る時はシアの背後に張り付くようにして入った。 先日の宿と同じく、入るとすぐに、薄っすらと甘い香の匂いが鼻に届いたが、入ったのは恐らく厨房に続く食材などの荷の受け渡しをする勝手口のようなところだろう。 隣室からは香の香りを打ち消すかのように、様々な酒の匂いと共に、肉や魚を炙ったり蒸したりする腹の虫を刺激する香りが漂ってくる。
「あらシア、ようやく戻ったのね。 姐さんならいつもの部屋よ」
厨房からそばかす顔のひょろりと細い少女が顔を覗かせた。 栗色の髪は、アルと同じく左右でみつ編みにしたものを更に背でまとめて邪魔にならないようにしている。 手には調理途中なのか、包丁と人参が握られていた。 仕事に戻ろうとした少女は、シアの背後にまだ幼い少年が居ることに気付き、興味を向けて来た。
「シア、その子誰? 見たことない子ね。 旅人? まさか迷子じゃないわよね?」
くりくりした赤茶の瞳でカラの顔を見に来た少女に、シアは面倒そうにため息を吐いた。
「なんで俺が迷子の面倒なんかみるんだよ。 セラムから預かったガキだよ。 明日一日俺の仕事を手伝わせてみる事になったんだ。 ルチア、三階の一番奥はまだ空いてんだろ? こいつに使わせるぞ」
ルチアと呼ばれた少女は、シアの言葉を聞いて更に興味を惹かれたのか、更に眼を大きく開いてカラの顔を右から左からじっくりと見た後、幼馴染の青年のどことない仏頂面を見上げた。
「セラム様から預かったってことは、この子がオルテ姐さんが言っていたアラスター様の連れの子? でも納得だわ、シアが誰かを連れて歩くなんて、そんな理由でもなきゃない事だものね。 セラム様達のお知り合いなら、もっといい部屋を用意するわ。 準備しておくから、先に姐さんの所へ行っておいて。 ところであんた名前はなんていうの? あたしはハ―ルティ=ウェイアンっていうの。 みんなはルチアって呼ぶけどね。 あたしはあんたをなんて呼んだらいいかしら?」
笑顔を絶やすことなく訊ねて来るルチアに、カラはペンダントの側面をなぞりながらぎこちなく名乗った。
ルチアがカラに改めて挨拶をしていると、背後から数人の女が厨房に入って来てルチアを探し、ついでにシアとカラも見つけた。
「あっらあ、シアじゃない。 最近はエキトの宿にばかり行っているって聞いていたから、こっちの事は忘れているかと思ってたわ。 やだなぁに、あたし達に逢いたくなった?」
一番年嵩と思われる黒髪の女が、ほとんどむき出しになった肩にかかる長い黒髪をかき上げながら、悪戯っぽく訊いた。
「おー、そうだよ、あんた達の咽返るような白粉の匂いは、エキトの宿の女達の比じゃねえからな。 忘れようにも忘れらんねえよ」
シアはシアで、悪戯っ子のような笑みを浮かべて女の言葉に応じた。 女は鼻を鳴らして、品を作りながらシアへ近付き頬へ白い手を沿わせた。
「あらまあ、言ってくれるわね。 なんなら今晩あんたの身体にもこの匂いを移してあげるわよ?」
シアの首に両腕を廻し婀娜っぽく笑っている女の腕をやんわりと外し、掬いあげるように取った右手の指に軽く口づけると、シアは女に背を向けて歩き出した。
「あと十年後にあんたがまだこの稼業をしていたら頼むよ」
女達に手を振りながら去っていくシアに、カラは慌てて付いて行った。 見知らぬ少年に女達は眼を丸くしたが、誰ひとり呼びとめる者はいなかった。 遠ざかる女達の声は、明るく楽しそうだった。
「こ、ここって睦宿だよね? シアもしょっちゅう来るの? じょ、じょうれん、ってやつなの? すごく仲良さそうだったよね」
中身は解らないながらも、子供の自分とは縁のない場所だという認識から、シアがそういった場所の常連らしき様子になんとはなく尊敬に近い驚きを感じた。 カラよりは確実に年上ではあっても、シアもまだ大人というには幼さを残している。 けれど、カラの予想以上にシアは大人なのかもしれない。
「ばーか、お前がどんな想像したか知らねえが、俺に常連になれるほどの蓄えはねえよ、こんな場末でも、女一晩買うのにいくらかかると思ってんだよ。 しかもあいつら、男から絞れるものはなんでも絞り取る怖え奴等なんだぞ。 あんなのは天気のあいさつするのと大差ない通り一遍の挨拶のようなもんだよ」
言いながら、シアは迷うことなく薄暗い廊下を進んで行き、建物のおそらく突き当りと思われる部屋の扉を力強く叩いた後に、躊躇することなく入った。
「姐さん、貴石を取って来たぜ」
扉の先にはオルテが、大きな円卓で占い用の絵札を繰りながら座っていた。 シアの後ろのカラを見つけると、柔らかに笑んで絵札を繰る手を止めた。
「あれ? なんでオルテさんがここにいるの? この前の宿とは違うのに?」
「私の〝職場〟はあそこ一ヶ所じゃないのよ。 目的によっても変わるし、気分でも替えているわ。 それより、やっぱりあんたも来たのね、カラ」
再び絵札を繰り始めたオルテの言葉に、カラは僅かに首を捻り、そして警戒をした。
「〝やっぱり〟って、俺が来ることを知ってたの? ――ひょっとして、シアの手伝いの話って前からラスター達が決めてて教えてたのか?」
ファーエンでのラスターのあまりの態度が頭から離れず、思わず誰もの言動に疑いを挟みたくなってしまう。 カラの険しくなった顔と言葉に、今度はオルテが首を捻った。
「あんた、何かあったのね?」
「こいつラスターが自分の事を何にも教えてくれないってむくれてんだよ。 自分の事を自分が知らないのに、他の奴等が知っているのが腹が立つんだとよ。 ま、それもごもっともなんだけどな」
シアの説明に、オルテは納得したのか、にっこりと笑って頬杖をついた。
「複雑なお年頃だしね、あんたが苛立つのも解らないではないわ。 ちなみにあんたがシアとここへ来ることを私が知っていたのは、占いで示されていたからよ。 私が呪術師なのは知っているでしょう?」
にこやかに言われた言葉に嘘があるようには思われなかった。 カラにはオルテがどれ程の呪術師なのかは判らなかったが、先日眼にした術は、街中の占いで日銭を稼ぐようなありふれた呪術師が行う術には思えなかった。 だとしたら、オルテはそれなりに優れた術師で、ならば占いでカラの来訪を知っていたというのも嘘ではなく本当なのだろうという考えに落ち着いた。
様々な考えを巡らせているカラの横で、シアはファーエンから持ってきた貴石の原石をオルテの前に並べた。 オルテはひとつひとつを光に翳し念入りに確認すると、ふたつの原石を再び布に包んでシアに渡した。
「今回はそのふたつで交渉できるでしょう。 特に天玉滴の方は千は下らない値がするはずだから、値段以上の情報を上手く引き出しなさいよ。 足元見られるんじゃないわよ」
「誰に言ってんだよ。 心配しなくとも天玉滴以上のネタを掻っ攫って来るさ。 そも俺を仕込んだのは姐さんだ、不要な心配してると皺が増えるぞ」
「まったく、可愛げのない弟分よね。 ま、確かに無用の心配はしたくはないわ、よろしくね」
オルテとシアのやり取りの意味が分からず、所在なさげに立っていると、オルテがカラに言葉を振った。
「カラ、あんた読み書きはできるの?」
思わぬオルテの言葉に、カラは瞬間うろたえ、そして曖昧に首を縦に振りかけて横に振った。
「ラスターに少しは習ってるけど、まだあんまり読めないし書けない……んだ。 絶対に読める自信があるのは数字くらい……」
シアは「やっぱりな」と言いながらため息を吐いたが、オルテは変わらぬ笑顔のまま、カラに紙と羽根ペンを差し出した。
「これに絵を描いてみなさい。 そうね、今ここにない物であんたが知っているもの――そうだわ、あんたの蜥蜴とガーランを描いてみて」
突然の命令にカラは困惑し、渡された紙とペンを持ったまま立ち尽くしていたが、いま一度オルテが同じ言葉を口にし、カラに椅子を勧めると、戸惑いながらも椅子に座り、言われた通りナジャとガーランを描き始めた。
カラが絵を描く間、室内にはペンを走らせるカリカリという乾いた音だけがした。
カラの描く様子をオルテと共に見ていたシアが、混じり気の無い感嘆の声を上げた。
「こりゃ驚いた。 辻で似顔絵描いて日銭稼いでる三文絵描きよりよっぽど上手いじゃん。 お前絵描きの弟子でもしてたのか?」
シアの率直に感心した言葉に、カラは屈めていた背を伸ばし、恥ずかしさと自慢が相半ばする調子で口を開いた。
「俺、何度か見たものなら大体のものは見ないでも描けるよ。 勉強とか覚えるのは苦手だけどさ、絵だけは前から得意なんだ。 尼僧様も、絵をよく褒めてくれたし」
抑え気味に、けれど頬を染め嬉々として語るカラの頬に、オルテが冷たい手で触れた。
「あんた、ガーランを生き返らせた時もそうやって頭の中で描いたのね?」
「な、なんでそんなこと知ってるの?」
「言っとくけれど、ラスターが教えたんじゃないわよ。 占いの結果でそういった答えが暗示されたの。 半分は私の推測だけれどね。 ――で、どうなの?」
オルテの質問は、ただ確認する為だけのものに感じたが、カラは一瞬固まり、それからぎこちなく頷いた。 カラの答えに、シアは眼を丸くして驚きを隠さなかった。
「〝生き返らせる〟って、なにこいつ、そんな大層なことが出来るのか? それってまるでエランじゃねぇか?」
「さあ、どうかしら? 私も聴いただけで詳細は知らないから何とも言えないけれど、少なくとも、一度は死んだ〈器〉を生き返らせることは出来た――そうよね?」
穏やかな声のまま訊ねて来るオルテに、カラはどう答えていいか分からずしばらく沈黙したが、俯いていた顔を僅かに上げると、独り言でも言うように口を開いた。
「俺、ぜんぜん解んないんだ。 あの時何がどうなったのか。 ガーラン、間違いなく死んでたんだ。 だって、首と胴が離れてて生きてるなんてことないよね。 ……ただ、ガーランの首と胴が離れた死体を眼の前にしてからの記憶がなんとなくぼんやりとしていて、あんまりはっきりと思い出せないんだ。 シリンに言われるままに〝生き返れ〟って願ったら、ガーラン、元の姿に戻って動くようになったんだけど、何がどうなってガーランが元の姿に――生き返ったのか、ぜんぜん解んないんだ」
不安そうに語るカラの金の瞳は、今にも泣き出しそうに揺らいでいた。 その瞳をカラはオルテに向けると、そういった呪術のようなものがありはしないのかと訊ねた。 オルテはしばらくカラの瞳を見詰め返した後、手にしていた絵札の一枚をカラに見せるように手にした。 札には、真中で捩じれた大きな円の前に、苦悩の表情をして立つ男性とも女性ともつかない人物が描かれていた。
「禍術の中で、死体に仮魂を入れて使役する術はあるけれど、あんたがガーランを元の姿に戻したことは、全く異なるものよ。 まあ言うなれば術、では無くて、あんただから出来た特異な技――という方が正しいでしょうね。 この絵札はね〝宿命〟というの。 あんたを占っていると必ず現れる札よ。 この札が出る者はね、禍福を併せ持つ、とても波瀾に満ちた道を歩む運命を負っているのよ」
オルテの言葉の意味を理解しきれず、カラは眉間を曇らせてぽろぽろと涙を零しはじめた。
「……何言ってんのか、ぜんぜん解んないよ。 みんな、皆、色々難しい言葉で俺の解んないこと言って、説明もしてくれなくて、なんで誰も俺が解るように、わかることを言ってくれないんだよ。 〝しゅくめい〟ってなんだよ? 俺の解んないところでわかんないことが起きるってこと? もうこれ以上何があるってんだよ? なんで……なんで俺にばっかり、そんなわけの分かんないことが起きるんだよ」
ほろほろと涙を零しながら、カラは誰に言うでもなく呟いた。 背を丸め、椅子に座ったまま項垂れているカラの、涙で濡れている両頬をオルテは手で優しく包んで上向かせた。
「言っとくけれど、おそらくあんたが思っている程、私もあんたの事を知っている訳ではないのよ。 ただね、あんたにあんたの事を詳しく話せないのは、ラスター達からあんたの話を聴くにあたり〈不語〉の誓いを立てているからなの。 私も、ナハもセラムも。 イリスミルトにエフィルディードもそうね。 シアは私達に比べれば大したことは知っていないけれど、それでも誓いは立てているわ」
カラは鼻を啜りながら首を僅かに傾げた。
「〈不語〉の誓いってなんだよ?」
「秘め事を共有する際に、決して他言はしない――他人にはその秘密を語らないっていう約束をする事よ。 例えその相手が秘め事の当事者であるとしても、〈言主〉――この場合はラスターとユーリのことなんだけれど、秘め事を最初に有した本人が〈解秘〉――秘密を解く判断を下さない限り、共有した者達は詳細を語ることを禁じられるの。 破ったからと言って、何かしらの罰や呪いを受ける、というわけではないけれど、互いの信頼は損なわれて、結果絶縁になるわね。 〝なんだそれだけのこと〟って思うかもしれないけれど、信頼を失った者は己の身の置き所を次第に失っていくわ。 それはとても怖ろしいことよ」
オルテの言ったことの、やはり半分はなんとなくしか解らなかった。 カラは頬に添えられているオルテの手をはずすと、袖で涙を拭った。
「それって、要はラスターかユーリからじゃないと俺についての話は聴けないってこと……だよね? ――もういいよ。 ラスター、きっと俺には話してくれないだろうし。 だいたいなんでユーリが俺のことそんなに知ってて、その〈言主〉なんて立場なのかぜんぜん分かんないし……」
不満を並び立てようとして、カラはふと先日の面会の時の事を思い出した。
「ユーリ言ってたよね、オルテさんに頼めばユーリに逢わせてくれるみたいなこと。 あれ本当?」
僅かに期待を込めた眼でオルテの顔を見ると、オルテはわざとらしいくらいに残念な顔で応じた。
「繋ぐことは出来たとしても、逢わせることは無理ね。 相手はティルナの王よ。 時間の自由は無いに等しい方なのよ。 この間の面会だって、かなり無理矢理に時間を作ったのよ、ラースがね。 ユーリがあんたに逢う気がいくらあっても、周囲がそれを許さないわ」
「――じゃあ、いい」
拗ねたように口をとがらせ横を向いたカラを見て、オルテはくすくす笑いながら背中に手を回した。 頬に触れた時には冷たく感じた手が、何故かとても温かく感じられる。
とろんと瞼が重くなる感覚を覚えていると、ルチアが勢いよく扉を開けて部屋の準備が出来たとシアに言い伝え、せわしく戻っていった。
「カラ、あんた疲れて眠いんじゃないの? 考えることが多過ぎて頭も疲れているでしょう? もう寝なさい。 明日はシアと動くんでしょう? 疲れた身体と頭じゃシアの手伝いなんて出来ないわよ」
目配せでシアを促すと、オルテはカラを椅子から立ち上がらせた。
「ったく、ファーエンから下りて来たくらいで疲れたのかよ? これだから体力の無いガキは使いたくないって言ったんだよ。 おら、付いてきな。 部屋に案内するからよ」
ぶつくさと文句を言いながら、シアはカラの襟首を掴んで、半ば引きずるような調子でオルテの部屋を出た。
まだ夜の闇が多く残る早朝、カラは頭を叩かれ乱暴に起こされた。
「昨日あんだけ早く寝たくせにまだ寝てるのかよ。 さっさと起きて準備をしな。 お前が今日着る服はその足元に置いてるやつだ。 今日は短剣と棍は置いて行け。 護りは首に下げてるペンダントだけで、今日半日くらいは事足りるだろうからな。 靴も下にある。 多少小さくても足を合わせろ。 着替えたらさっさと昨日の厨房まで来な」
シアが言い捨てながら部屋を出て行くと、カラは染み付いた行動でペンダントの側面をなぞって《名》を思い出すと同時に昨日の出来事を思い出し、慌てて準備されていた服に着替えた。
早朝の静けさを破る勢いで、カラはバタバタと足音を響かせて厨房へ駆け込んだ。
「シアっ、な、なんなんだよこれっ、これ、女の服じゃないかっ!」
膝より少し長い程度のスカートをたくし上げるように掴んで、カラは顔を赤くしながら不満をぶつけた。 厨房の隅に置いてある椅子に座って待っていたシアと朝食の準備をしていたと思われるルチアは、カラの姿を見た途端声を揃えて笑った。
「おー、やっぱり素で似合うじゃねーか。 あとは髪だな。 ルチア、なんとかしてやってくれよ」
「うーん、この長さで不揃いだから、大して凝った髪型は出来ないけれど……」
言いながら、ルチアは前もって準備していたとみられる髪を飾る紐と櫛を持ってカラの後ろへ回った。 カラが抵抗しようとすると「今日の仕事の為よ」と言って、あとは有無を言わさない調子で櫛を入れはじめた。
「し、仕事のためって、なんで仕事の為に女の格好する必要があるんだよっ! 嫌だよこんな格好」
「俺の〝邪魔にならないように頑張る〟んだろう? その為の準備だよ。 そんな変装のひとつふたつで文句垂れてやれないって言うんなら、もうこれでこの話は終わりだ。 ファーエンの嫌いなラスターの所へ戻るんだな」
ニヤニヤしながら言うシアの顔をカラは恨めしげに睨むと、黙ってルチアに髪を結われた。
身支度が整うと、ルチアが用意してくれていた朝食を落ち着く間もなくかき込み、何も言わず歩き出したシアに慌てて付いて屋外へ出た。
外へ出ると、肌が切れそうな冷気に包まれぶるりと身体を震わせた。 東の空は、夜の名残の淡紺と乳白、そして朝日の金色が滲むように混ざりながら白みはじめている。 吐き出す息は真っ白で、耳や指先には軽い痛みを感じたが、手で耳を覆い軽く擦ることを幾度か繰り返すと、指も耳もほんのりと温かくなった。 ただし、普段ならズボンで包まれている脚がすーすーして落ち着かないことだけはやはり不満だった。
「シア、今日俺は何をすればいいの? 今どこへ向かってるか……とかも、出来れば教えて……欲しい、な?」
遠慮気味にシアの背中に言葉をかけると、シアは振り返ることもせず面倒くさそうな声を返して来た。
「金蔓の家」
あまりに大雑把な説明だったので、更に質問をしようとすると、シアが急に立ち止まってカラの右手を取って持ち上げた。
「今日のお前の名は〝ラクラ〟だ。 その外套に括りつけてる貴石と同じだから覚えやすくて忘れねぇだろ?」
突然の命名にカラは眼を丸くするしか出来なかった。
「で、ラクラの今日の役目は、金蔓の家の可愛い一人娘の話し相手になることだ」
ますます話が分からなくなって、カラは首を傾げて眉間に皺を寄せた。
「……それが情報屋の仕事になるの?」
「お前がそのお嬢様のお気に入りになって、お嬢様の〝宝物〟を見せて貰うことに成功すればな」
「――話し相手になるのに、なんで女の格好して名前まで変えないといけないわけ?」
少し苛立った調子でカラが訊くと、シアはにっと笑って手に取ったままだったカラの手に口づける真似をした。
「そのお嬢様、大の男嫌いなんだよ。 父親と長年仕えた家令以外の男が近付こうものなら半狂乱になるってほどにな。 だから親も男は屋敷に一歩たりとも入れねえ。 徹底して男を排除している警備の固い屋敷なんだよ」
「え、えっ、でもシアも行くんだろ? なのになんで俺だけ変装するの? シアは特別扱いなの?」
「俺はその父親に〝娘のいい話相手になる少女がいたら紹介して貰いたい〟って依頼を受けてたから、その〝少女〟を送り届けに付き添うだけで、〝少女〟の紹介が終わり次第すぐに屋敷から帰るんだよ」
「なにそれっ、それって情報屋の仕事じゃなくて口入屋の仕事じゃないかっ!」
「情報屋ってのはな、なにも本当に情報だけを売り買いするんじゃねえんだよ。 言えば〝なんでも屋〟みたいなもんだ。 依頼があればそれに合った口利きや斡旋、使いっぱしりみてえな事だってするんだよ。 それが延いては情報の入手にも繋がるんだ。 ――ああ、ひとつ注意してやるが、お嬢様の侍女は並の男用心棒に負けねえくらいに腕の立つ武術の達人だから、男だってばれたらたとえ子供でも半殺しのめに遭うかもしれねえから、せいぜいばれないように気を付けるんだな」
シアの言葉は、寒さに縮んだ心と身体に更なる追い打ちをかけるだけだった。