第5話:天湖
5:天湖
昨日は、昼食を平らげると眠気に襲われて、カラは結局翌朝まで寝入ってしまった。 朝のまろやかな陽光が二重窓から射し込んできたのに気付くと同じ頃、シュアがカラの肩に手を置いた。
「おはよう、カラ。 どう、起きられそう?」
シュアの眼差しが、僅かに心配そうな様子であることにカラは首を捻った。 自分が昨日から眠り続けていた事を聞いて、カラは勢いよく寝台から起き出し元気に身体を動かしてみせる。
「何ともないよ、ぜんぜん大丈夫! 昨日は腹一杯になったから眠くなっただけで、別にどこも痛くもかゆくもないよ。 むしろすっごく元気になったくらい。 身体がすごく軽くって笑っちゃいたいくらいだよ。 シュアは? シュアも身体はなんともない?」
元気に動き話すカラを見て安心したのか、シュアも柔らかな笑顔を見せると、カラの寝台に並んで置いてある自分の寝台に腰を下ろした。
「それなら良かった。 僕もね、昨日慣れない山登りをしたから今日は脚や身体が痛くなるのを覚悟していたんだけど、全然そんなことなくて。 ナハさんが言っていたみたいに、ここに居るだけで身体が隅々から元気になっていくみたい。 不思議な所だよね」
カラが置いてあった服に着替え終わると、シュアはカラを朝の散歩に誘った。
厨房では、昨日に続き朝食を作りに来たロキアが鼻歌交じりに料理をしている。 シュアが手伝いを申し出たらしいが、ロキアは狭い厨房に二人も人間は要らないと言って逆にシュアに朝の散策を勧めたらしい。
戸外に出ると、身体が縮むような冷気に包まれた。 二人揃って身体をぶるりと震わせると、上着の襟を詰めるように押さえた。
セラムの家はなだらかな山の斜面に建っており、家を出るとほどなく上り下り両方の坂に行き当たる。 二人は敢えて緩やかな上り坂を話ながら上った。 吐く息は真っ白だったが、少し動いている内に身体はぐんと温まった。 上空には、おそらくは猛禽の一種であろう大型の鳥がゆったりと翼を広げ飛んでいる。
「見てカラ、ほら、あの山の上の白い所。 雪が積もっているんだと思うけれど、そこで何か動いてるよ。 多分動物だと思うけど、なんだと思う?」
シュアに促され視線を右方の山上へ向けると、確かに立派な角の生えた動物が三頭佇んでいた。 まるでこちらを見ているかのように、顔をじっとこちらへ向けている。
「本当だ。 鹿かな? みんなシュアみたいに綺麗な水色の眼だね。 角二本かと思ったら、おでこの真中にもたんこぶみたいな小さな角がもうひとつあるや。 なんていう鹿だろ。 それとも全然別の動物かな? 胸元の毛も、白くてふわふわしてて気持ちよさそうだよね。 すごく綺麗な姿してるし、もしかしてなんかの聖獣とかだったりしないかな?」
カラが少し興奮気味に話していると、シュアが驚いた顔をしてカラの顔を見ていた。
「シュア、どうかしたの?」
思わず首を傾げて訊ねると、シュアは一瞬迷うような様子を見せた後に、少し遠慮がちな声を出した。
「カラの眼、すごく良いんだね。 僕には、あの雪山に動物がいることは見えても、それが具体的にどんな姿のなんの動物かまでは分からなかったんだ。 その動物の眼の色まで分かるなんて、カラの眼は僕の眼とは随分違うんだなって――……」
シュアの遠慮がちの言葉に、カラはさっと血の気が引く思いがした。 最近こそカラの金の瞳をごく普通に受け入れ、稀には褒めてくれる人達に囲まれているが、元来自分の瞳は他人に嫌悪を抱かせる獣のような眼だということを忘れていた。 闇中でも見えることも、自ら光を放つ事も、そしてこのように有り得ない程に遠距離を見ることが出来ることも、普通の眼を持つ人々にとっては〝異常〟なことなのだということを思い出した。 しかも近頃は、以前以上に〝見える〟ようになっている。 カラは思わず自分の眼を両手で覆い、シュアから僅かに離れた。
カラの突然の行動に、シュアは瞬間あっけに取られ、そして慌ててカラの腕を掴んで顔を覗き込んだ。
「ごめん、違うよ、カラの眼が怖いとかおかしいとか思ったんじゃなくて――……驚きはしたけれど、それは単純にびっくりしただけで、悪い意味での驚きじゃないんだよ」
視線を足元に落としたままのカラに、シュアは懸命に誤解を解こうとした。
「でも、気持ち悪くない? そんな、普通見えないものまで見えるって、人間の眼じゃない……とか、思わない?」
先程とは打って変わった沈んだ声で、カラはぼそぼそと喋った。 シュアは自分の迂闊な言葉がカラを傷付けたと知り、自己嫌悪を感じたが、落ち込むのは後だと思った。
「何故、そんなに自分の眼を否定するの?」
シュアは膝を突き、カラの顔を下から覗き込むような態勢を取ると、カラは視線だけを横に逸らして、シュアとは眼が合わないようにする。
「シュアみたいに普通の眼を持ってるやつにはわかんないよ。 俺がこの眼のせいでどれだけ酷い目に遭って来たかなんて。 〝オスティルの瞳〟なんだって、凄い眼なんだってアルやイリスやオルテさんも言ったけど、何が凄いのか俺には全然わかんないし」
「でも、どうして〝人間の眼じゃない〟とまで思うの? 誰かにそう言われたの?」
「トランなんかは、俺の眼を〝獣の眼〟って言って嗤ったし、化物の眼って言われて殴られたことも何度もあるし、四属の精霊の〈王〉達が俺の事――……」
言いかけて、カラはぞくりと背筋に寒気を感じ身体を震わせた。 あの青白い切れ長の瞳の〈北〉の〈火の王〉は、カラを人間とは見做していなかった。 蔑むような、斬り裂くような眼差しで見据えられ言われた一言の意味が分からない。 解りようもない。 ただ恐怖だけがカラの心に刷り込まれた。
「カラ、カラ、考え過ぎないで。 君の瞳について色々言う人がいることは、想像だけど僕にもなんとなくわかるけれど、そうじゃない、イリスさんやアルや僕や、言葉には出していないだろうけれどラスターさんやナハさんみたいな良い印象を受ける人も多いって事も思い出して。 ううん、思い出すならそちらを中心に思い出さなくちゃ。 悪いことばかりに思いを巡らせて自分で自分を否定するなんて、悪く言う人達の言葉の方を重く考えているようなものだよ。 否定的な感情に引きずられないで」
『その小僧の言うとおりだ。 負の感情に引きずられるなと、キソスの地下で教えたろう?』
背後から突然低音の女の声が滑り込んできたので二人は慌てて振り返ると、ぼさぼさの髪を乱雑に括ったナハと、その肩にもたれるようにして笑みを浮かべている、人の姿になったカナルが立っていた。 カナルの事は知っていても、人型の姿を初めて見るシュアはかなり戸惑った様子である。
「朝食の支度が出来たから呼んで来いってロキアに言われてね。 詳細はわからんが、言い争いを中途半端にしておくと消化不良を起こしそうだから、なんなら二人は決着が着くまでここでやりあっていくかい? ロキアには二人は遅れると伝えておくが、どうする?」
いつでも変わらないのんびりしたナハの調子に、カラとシュアは顔を見合わせ、肩に入っていた力を抜いた。
「――お腹すいたから戻る。 ごめん、俺先に戻るね」
カラは少しぎこちなく笑って、シュアと眼を合わせないまま家へ駆け戻っていった。 その後ろ姿をシュアは複雑な顔で見遣った。 動こうとしないシュアの背中に、ナハがぽんと手を当てて動き出すことを促す。
「僕、カラを傷付けたんです。 瞳のこと、つい驚いてしまって。 カラが自分の瞳に劣等感を抱いていることはなんとなくは知っていたのに、何も考えないで、あんなことを言って――……」
沈んだ調子で話すシュアの背を、ナハは再び、先程よりも強い調子で叩いた。
「傷付くことも、時には必要な事だよ。 カラの瞳に纏わる問題はこの先も、カラが生きている限り永久に付きまとう事だ。 仮に誰かの言葉や行為でカラが傷付いたとして、その問題をカラ自身がどう消化しどう解決を見出すかが重要だと私は考える。 それはカラにとっては成長する為のきっかけでもあるだろうからね」
「ですが、本人が気にしていることで傷付けるのは、酷い仕打ちのように思えて……」
「優しい君らしいね。 確かにそうかもしれない。 だが、カラを傷付ける目的で言ったわけでないのなら、シュアがそこまで深く気落ちすることはないと思うがね。 今後気を付ければ良いだけの事だ。 ただ、傷付けないようにすることばかりが優しさとは限らない。 それに傷付けまいと気にし過ぎることは、むしろ却ってカラに失礼だとは思わないかい?」
「そ、れは――……」
「なあに、一時的に気不味さが続いたとしても、すぐに仲直りできるよ、君とカラならね。 喧嘩もする、そして仲直りをする。 その繰り返しを出来るのが友人ってものだと私は思うよ」
いま一度、励ますようにナハはシュアの背中を叩いた。 その軽い痛みで、シュアは少し気持ちが軽くなる気がした。
朝食が終わってしばらくすると、家に帰るロキアと入れ替わるように昨日シクルの街に戻っていたシアが現れ、一人遅れてロキアが作り置いた朝食を流し込むように食べた。
「それじゃあシアはしばらくシクルを離れるのかい? 東都なら、片道二日ってところだな。 ご苦労な事だね」
食後の炒り豆茶を飲みながら、ナハがシアに話しかけると、シアも茶を啜りながら面倒くさそうに食卓に頬杖をついた。
「ルーシャンまでの道程なんざ大したことはねえけど、あっちに行ってからが問題なんだよ。 あそこには商売敵も多くて邪魔がしょっちゅう入るのも面倒だけど、それ以上に面倒なのは、どうも最近性質の悪い集団が居付いてるみたいでよ。 あそこは東都っていっても大神殿が無いだろ。 大神殿に属する騎士団は相変わらず旧東都のキソス中心で動いてやがるから、ルーシャンに駐在する騎士や剣士の数は削りまくってるからな。 そんなだから、仮にも央都だっていうのにしょうもない奴等が入ってきたい放題なんだよな。 東都の執行長官と繋がってるらしい奴等が他所者をとっ捕まえる為にかなりの網を張ってるって噂もあってよ。 一歩間違えば俺の胴と首が離れるかも知れねえってのに、どうしても行けってんだから、優しい師匠だよな、本当に」
言いながら、シアは暖炉の横の揺り椅子で寛いでいるセラムを恨めしげな眼で睨んだ。
「日頃から〝この界隈一の情報屋〟と豪語しているのだ。 そのような腕利きが、届けものひとつ届けるだけにどれ程の労力も必要ではあるまい? よしんば何かしらの問題に巻き込まれた所で、日頃の鍛錬が物を言うはずだ。 怠っていなければ、の話だがな」
穏やかな声でにこやかに弟子に言い返すセラムの横で、シュアがポポをあやしていた。 ポポは機嫌よくきゃっきゃと笑い声を上げている。
「あ、の……」
カラが遠慮気味に声を出すと、皆がカラに注目をした。 その場に居る全員の視線が自分に向けられるとは思っていなかったので、少しどぎまぎしてしまったが、昨日から引っかかっている疑問を放っておくことは出来ない。
「セラムさんはポポを育ててるんだ……です、よね? じゃあ、ポポのことならなんでも知ってる……ですか?」
相変わらず緊張しながら訊くカラに、セラムは穏やかな笑みを向けた。
「カラ、私に話す時にそのように緊張する必要は無い。 友人達と話す時のように、力を抜いて楽に話しなさい。 疲れるであろう? そのように緊張し続けて話すのは」
そうは言われても、セラムはラスターと同じく居住まいを正される雰囲気があるので、ナハやシュアと話す時のような気楽さは持ち難い。 気楽に、と考える方が却って緊張する。
「は……い。 えっと、じゃあ、あの、聴きたいのは――……」
「ポポのことは、そうだな、かなりの時間をポポにかかりっきりなのでな、ほとんどの事は知っていると言えような」
眼を線のように細め笑うセラムに、シアが自分やロキアやフォンも手伝っているだろう、と横やりを入れた。 その言葉にセラムは苦笑しつつ先の言葉を修正した。
「そうそう、周囲の者達の援けもあるお陰で、老いぼれの私でもなんとかなっている。 私一人では、このように小さな赤子の世話など到底できなかったであろうよ」
シュアに抱かれていたポポが、カラに向かって手を伸ばしているので、シュアはカラの所へポポを連れて行った。 明るい緑の瞳を嬉しそうにきらきらと輝かせ手を伸ばしてくるので、カラはおっかなびっくりポポを受け取ると、ぎこちなく抱きながら、嬉しそうに声を上げるポポをじっと見詰めた。
「ポポって、まだ一歳にもならないよね。 セラムさんが育ててるってことは、セラムさんの孫なの? ポポのお父さんとお母さんはセラムさんの子供なの?」
僅かな期待と不安を織り交ぜた調子で、カラはセラムの顔をじっと見詰めた。 ひたと見詰める金の瞳を、セラムも静かに見詰め返した後に、ゆっくりと瞼を閉じて首を横に振った。
「ポポの両親は、私の子供ではない。 私とポポに、血の繋がりは全くないのだよ。 縁があり育ててはいるが、私達は赤の他人だ」
どこかで半ば予測していたセラムの言葉は、思った以上にカラの気持ちを重くさせた。
「じゃあ、じゃあ、ポポは誰の子供なの? ポポの両親は何処に居るの? ポポの――」
言い募る内に、カラは気持ちが高ぶって前のめりになっていったが、そんなカラの言葉をラスターが止めた。
「ポポの両親は既にこの世にはいない」
「――いない……って?」
「君とポポの両親は、既にこの世の者ではない、ということだ」
前置きなく言い放たれた言葉は、音として耳には入るけれど、言葉として頭に入ることなく、ただ耳朶を打つばかりだった。
しばらく呆然とした後、カラは俯いてポポを抱く手にぎゅっと力を込めた。
「昨日言ってたこと。 俺とポポが兄弟って、本当の事なの?」
誰もがしんと静まり返って音ひとつ立てなかった。 流れる時間がとてつもなく長いようにカラには感じられる。
「そうだ。 ポポ――アスティールは、君の双子の兄だ」
ラスターの言葉に、カラは弾かれたように顔を上げた。
「ど……どういう意味? 俺とポポが双子の兄弟って、ポポが兄って、どういう意味? おかしい……お、おかしいよっ! ポポはまだこんなちっちゃな赤ちゃんなのに、なんで俺と双子って事になるんだよ、なんで俺の兄なんてことになるんだよっ! 俺が馬鹿だからって、そんなデタラメ言って」
カラの動揺と張り上げた声にポポは驚き、案の定大きな泣き声を上げた。 だが今のカラにポポをあやすだけの心の余裕はなかった。 見かねたシュアが半ば奪い取るようにカラからポポを受け取った。
「でたらめではない。 私は真実を言ったまでだ」
淡々と語るラスターの顔は、いつも通り無表情で感情が全く読めない。 だが、嘘を言っているとも思えなかった。 そうであるならば、尚更性質が悪い。 伝えられた〝真実〟というものがカラには到底理解が出来ない。 理解のしようがない。 どうして信じられるというのか、いま泣き声を上げている一歳にも満たない赤子が自分の双子の兄だなどと。
「みんな……ひょっとしてここに居るみんな、このことを知っているの? ひょっとして俺だけが知らないことなのか?」
絞り出すようなカラの声に、シュアだけは否定を口にしたが、残りの者達は沈黙で応えた。
「なんで……なんで俺が知らない事を、俺のことを、他の奴等が知ってんだよっ。 おかしいじゃないかっ、なんで俺が知らないんだよ、ラスター、ねえ、教えてよ、俺のことで知ってることがあるなら全部、隠さないで教えてよっ。 俺、俺ってなんなの? わかんない事だらけで、頭がおかしくなりそうだよっ。 〈闇森の主〉に出遭ったのも、俺が〝俺〟だから狙われたのか? 〈北〉の〈火の王〉が俺を始末しなきゃいけないって言ったのは、俺が人じゃないからなのか? ポポとのことも――俺、俺ってなんなの? 教えてよ、俺のこと、知ってること話してよっ。 ラスター、俺に隠してることいっぱいあるだろ? もしかしたらって思ってたけど、ラスターが俺をオ―レンで助けたのも偶然じゃなくて、分かっていたから助けたんじゃないの? だとしたら、なんで俺の事を知ってるの? 話して――話せよっ!」
一度堰を切った感情は止めることが出来なかった。 溜まりに溜まっていた疑問や不安を一気に放出すると、カラは力が抜けて床にへなへなと座り込んだ。 シュアが慌てて駆け寄り、膝を付いてカラの肩を抱くように押さえた。 カラは俯いたまま、鼻の頭を真っ赤にして何かを堪えている様子だった。
「カラ、ねえカラ、落ち着いて――」
「何にも知らないシュアはだまってろよっ」
肩に掛けられたシュアの手を振り払うようにのけると、カラはゆらりと立ち上がって長椅子に腰かけたままのラスターの前へ行った。
無言でラスターの顔を睨むように見たが、ラスターは表情を変えず、一拍を置いて瞼を閉じた。
「いまのように一方的に興奮して、己を案じるイシュアに当たるような不安定な君に話したところで、冷静に聴くことも、理解することも出来ない。 そのような状態で話すつもりは無い」
にべもないラスターの言葉に、カラは抑えていたものが弾けた。
「ラスターなんか大っ嫌いだっ!」
叫ぶように言い捨てると、勢いよく屋外へ飛びだした。 シュアが後を追おうとしたが、セラムがシュアを制し、己が行こうといって出て行った。
「なんなんだあいつ。 癇癪持ちなのか?」
シアが呆れ顔で言うと、シュアが即座に否定した。
「ラスターさん。 あの言い方はあまりにも冷た過ぎると思います。 僕は事情を知らないから何かを言える立場にはないかもしれないですけれど、あんな突き放したような言われ方をしたら、僕でも傷付きます。 カラ、とても不安なんだと思います。 ウルドの件だけでも不安は大きいのに、ここへ来て突然双子の兄弟がいると言われ、しかもその兄弟と言われた赤ちゃんが兄だと言われても、混乱しない方がおかしいです。 どうして、何も説明してあげないんですか?」
ラスターを真っ直ぐ見据え意見するシュアを、ナハとシアは興味深げに見てはいたが、敢えて何かの言葉を挟もうとする様子はなかった。 シュアの真っ直ぐ見詰めて来る淡い水色の瞳をラスターは何も言わず見返していたが、別室に居たガーランがふわりとラスターの横に舞い下り一声鳴いたことで、場に張りつめていた緊張が切れた。
「君には済まないが、これは私とカラの間で解決する問題だ。 気を揉ませるかもしれないが、放念してもらいたい」
ガーランを肩に乗せると、ラスターも戸外へと出て行った。
家を飛び出すと、カラはただ走った。 道を上ったのか下ったのかも分からない。 ただ足の向くままに、道をひたすらに走った。
どれくらい走った頃か、息が上がり膝に力が入らなくなったところで転ぶように地にうつ伏せ、身体を屈めるように蹲った。
何も考えられない。
あまりにも色々な事があり過ぎて、考えなければいけない事が多過ぎて、そして、考えても答えの出せない事だらけで、頭がはち切れてしまいそうだった。 蹲っていると、涙がこみ上げて来て止まらなくなった。 大声で泣くことこそ抑えられたが、唸るような声を絞り出しながら、涙が止まるまで蹲り唸り続けた。
どれくらいそうしていたか、ようやく涙が尽き、気持ちに僅かばかりのゆとりが生まれると、周囲の音が耳に入るようになった。 たぷん、と、水が汀に寄せるような音が間断なく聞こえて来る。 顔を上げると、木々に囲まれた場所であるにもかかわらず確かな水の匂いがする。 頭を巡らすと、少し行った先に木々がぽっかりと途絶え開けた空が見える。 ふらりと立ち上がると、カラはそちらへと歩んで行った。
果たして、木々の開けた先には大きな湖があった。 周囲を冠雪した山に囲まれた水面には、岸辺の木々の深い緑と天空の青が鏡のように映っている。
思わず眼を見開いて見ていると、離れた湖岸に、おそらく朝シュアと共に見た大型の鹿のような獣が三頭、やはりカラを見るように佇んでいた。 その白と言ってもよい薄灰色の毛は、陽光を受けると薄っすらと銀色に輝く。
「……綺麗な鹿。 やっぱり聖獣かな?」
「聖獣ではない。 だが限りなく聖獣に近い古い獣だ」
背後から突然声をかけられ慌てて振り返ると、穏やかな笑みを浮かべたセラムが立っていた。 カラがどういう表情をして良いか分からず戸惑っていると、セラムは素知らぬ風にカラの横に来て、並んで岸辺の獣を見た。
「あれは大角白羚という、北方や高山に生息する稀少な獣でな。 そなたもキソスの地下で、捕らわれていた様々な獣を見たのであろう?」
「見た……ました。 あの白羚も地下にいたの?」
遠慮がちに訊くカラに、セラムは穏やかな視線を向け言葉の続きを口にする。
「ナハとカナルにより救い出されここへ運ばれた獣のひとつだ。 ここは天湖といって、湖の水はあらゆる病も傷も癒す。 あの白羚も、ここへ来た時にはかなり衰弱していたのだが、毎日湖に浸かり身体の内に取り入れている内に、あのように健やかな美しい本来の姿に戻った。 天空を見てご覧。 あそこに大型の鳥が飛んでいるだろう? あれも地下から救い出された聖獣の血を引く猛禽のひとつだ。 ここへ運ばれた鳥獣は、かなり濃く聖獣の血を受け継いでいるのでな、よからぬ輩に再び狙われぬようこの地に棲まわせているのだよ」
セラムの言葉を聞いて、カラはキソスの地下で見た、死魔獣にされた二匹の沙白狼を思い出した。 とても美しい銀の毛並みをしていた。 殺され、〈仮魂〉を入れられた結果、魔物の赤い虚ろな眼になっていたが、生きていたならば、そしてこの湖に連れて来ることが出来たならば、彼等もまた本来の美しくりりしい姿に戻れたのかと思うと切なくなった。 あの二匹も助けられたらどんなに良かったことか。
「……セラムさんは、ラスターから全部聴いているの? 俺のことも、ここまでに起こった出来事も」
セラムの表情の僅かな変化も見逃すまいと、カラは大きな瞳を更に大きく見開いて白鬚の顔を見上げた。 ラスターとは違い、師であるセラムは穏やかな笑みを絶やさないのだが、表情の変化を読み取らせるような隙も全くといってなかった。 僅かたりとも変わらぬ笑顔のまま、セラムは優しい口調で語り始めた。
「何もかもを聴いている、というわけではないが、アラスターはそなたのことをよく書状に書いて寄越したのでな。 そなたも知っておる通り、アラスターはああいった者だ。 必要以上の事は語らぬし、他者への関心も驚くほどに薄い。 そのアラスターが幾度となく記すほど、そなたはあの者にとって関心の深い存在なのだということは、理解してやって欲しい」
最後はやや苦笑気味に語ったセラムは、もう少し湖の周りを歩こうとカラを誘った。
「――似たようなことを、キソスの旅籠でナハにも言われた。 俺はラスターにとって特別な存在っぽいこと。 でも、俺わかんないよ。 字を教えてくれたりとか、俺のこと気にかけてくれてるんだって感じる時もあるけど、いつもは全然話もしてくれないし――ううん、話してくれない、隠してることが一杯ありそうで……俺って、そんなに信頼されてないのかな。 でも、俺のことを俺が知らないでラスターやナハや、セラムさんもだよね、他人ばかりが知ってるのって、やっぱりおかしいと思うんだ。 話して欲しいのに、ラスター、あんなこと言うし。 話せないのは俺が理解できないと思ってるからなのかな? 俺が子供だからって理由だったら、俺は俺のことを知るのにあと何年かかるのかな? 幾つになったら、どうなったら、俺はラスターに大人になったって認められるのかな? でも、それを聴いたってきっとラスターは答えてくれないだろうし……」
周囲の景色を見ることもせず、俯き呟くように語るカラに、セラムは顔を上げて湖面を見るように言った。 眼を向けると水面のすぐ下に、碧色の宝石のような小魚が群れて泳いでいた。 岸辺近くまで魚は泳いできているのに、カラは全く気付かなかった。
「顔を下げることがあってもよい。 だが下げ続けていては、見えるはずのものも見落とし、気付けるはずの事にも気付かぬ。 時には、意に反して上げる気概も必要だ」
「顔をちゃんと上げていたら、もっと色んなことが分かって、ラスターも俺を認めてくれるようになる……かな?」
言われた傍から俯きかけたカラの肩に、セラムは大きく温かい手を添えた。
「カラ。 そなたシアの仕事を手伝ってみるがよい」
唐突なセラムの言葉に、カラはしばらくの間反応を返すことが出来なかった。
「東都への旅に同行して、シアの手助けをしてやっておくれ。 シアも助手を欲しがっていたのだから丁度よい」
一方的に話が決まりそうになり、カラは慌てて声を上げた。
「ま、まって! 俺、ここに来たらセラムさんに武術を教えてもらえるかもしれないってユーリから言われて、それを楽しみに来たんだっ。 それにラスターが大人しく休むのを見張っておくように言われたし。 シアの手伝いよりここで剣を教えて欲し……くださいっ!」
「しかしそなたは今、あまりアラスターと顔を合わせておきたくないのではないか? 少し離れた方が、互いの事を冷静に考えられる。 アラスターの見張りならば私がそなたの代わりにしておく故心配は無用だ」
「でも……」
なおも反論しようとするカラの肩に再び手を置くと、セラムは眼を糸のように細めて笑った。
「武術の修行をしたいのならば、余計にシアに付いてみるのは良いことだ。 ああみえてシアはそれなりの修行を積んでいる。 剣の腕も悪くない。 あの者と共におることで得ることもあるはずだ。 安心おし。 東都での用件が無事に終われば手ほどきをしよう」
にこやかに言い切られ、カラは言葉を差し挟む機会を見つけ出せなかった。