表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

第4話:ファーエン

   4:ファーエン


 足下が不安定な岩場をしばらく登り息が上がり始めた頃、ようやく土の地面の山道に出た。 とは言え、その道も急勾配の上り坂が延々と続いており、一見しただけでうんざりした気持ちになる。 朝からの慣れない山道続きで、脚は熱を持ったように張り、一歩を踏み出すのにも一苦労を感じる状態だった。


「なあ、まだ着かないの? いったいそのファーエンって村、山のどのあたりにあるんだよ? 本当にこんな山奥に村なんてあるの?」


 疲労の上に、目的地までの距離が分からないことへの苛立ちが重なり、声には不機嫌が滲み出ていた。


「お前、チビで貧弱なひょろい見た目通り体力もないのな。 この程度の山道で音を上げるようじゃ、とてもセラムのしごきには耐えられねえよ。 いっそ村の山羊飼いの弟子にでもなったらどうだ? 口利き料出すなら()い山羊飼いの師匠を紹介してやるぞ? けどまあ、あれはあれで観察力と経験が必要になるから、根性ねえお前には無理なのかもな」


 カラ達に同行しているシアが、肩越しに振り返って、如何(いか)にも呆れた調子でカラを(わら)った。 最近は指摘されることのなかった背の低さや体格の貧相さを言い連ねられ、不機嫌が腹立ちに変わる。


「ね、音なんかあげてないだろっ! ただ、あとどれくらいでそのファーエンってとこに着くのか知りたかっただけで――……」


「残りの距離が気になるってのは、疲れて根性が尽きかけてるからって場合が多いんだよ。 体力に余裕があれば先の事なんて大して気にはならねえからな。 残りが〝あと少し〟って言って貰えることを期待してんだよ、腹ん中でな。 いいじゃねえか、お前この山道は初めてなんだから、疲れたなら疲れたって素直に認めりゃよ」


 顎を出し肩で息をしているカラや、やはり疲労が表情に滲んでいるシュアと違い、シアの表情はもちろん足の運びにも微塵も疲れは感じられない。 シクルの宿を出発する時に言っていたが、シアはこれから会うセラムに師事している、いわばラスターの弟弟子のような立場なのだという。 毎日とはいかないまでも、週に最低一度はこの山道を登り、セラムに剣などの武術を教わっているというのだから、この険しい山道も、カラ達とは違い通い慣れた道なのだ。


「二人共もうすぐだよ。 これが最後のきつい坂で、上りきった先がファーエンだから、あともうひと踏ん張りだ」


 カラ達の少し遅れた後ろを歩いていたナハが励ますように声をかけた。 その言葉を聞いて、カラもシュアも気持ちに明るさが戻り、重い脚を動かす苦も幾分か軽くなった。

 ナハの言葉通り、ひと踏ん張りして坂を上りきると、それまで木々に狭められていた視界がさっと開け、眼下に人の気配のするすり鉢状の土地が広がっていた。 四方は頂きを雪に覆われた山に囲まれているが、時刻がまだ昼少し過ぎだからか、低いながらも陽光は惜しみなく窪地を照らしている。

 眼に映る限り、地面は冬だというのに柔らかな緑に覆われている。 渡る風も、高地まで上がって来た割にはさらりと暖かく心地がよい。 緩やかな下り坂の所々に、おそらく牛か山羊かを囲う柵が見える。 所どころに、冬でも葉を落とさない(もみ)が存在感豊かに葉を茂らせている。 梢が風で揺れるたびに、さわさわと葉擦れの音が流れる。 その音の更に先には、囁き程の家畜の鳴き声が混じっている。 それよりも更に微かに、人の笑い声も切れ切れに聴こえる。


「気持ちいいところだね」


 カラの横に並び立ったシュアが、大きく息を吸い込んで、空気の味を確かめるかのようにゆっくりと息を吐き出した。


「とっても美味しい。 まるで生まれたての赤ちゃんみたいな柔らかい空気だ」


 嬉しそうに微笑むシュアの真似をして、カラもゆっくりと深呼吸をした。


「ほんとだ。 うん、すっごく美味しい。 なんだろう、まるくてすべすべ綺麗で透明な石みたいな感じの味。 これ何か混ざってんの? 息するのが気持ちいいって、なんで?」


 眼をきょろきょろさせて周囲を見るカラの頭に、ナハが笑いながら手を置いた。


「ファーエンを初めて訪れた者は皆、カラ達みたいに驚くんだよ。 どうだい、身体の疲れも幾分軽くなってはいないかい?」


 ナハに言われ、カラとシュアは互いを見詰めた後、身体を(ひね)ったり脚を持ち上げたりと動いてみた。


「すごく軽いです。 坂を上っている間は脚が鉛みたいに重くて、一歩を進むのも大変だったのに――……」

「俺も、脚のパンパンなのが感じない。 まだいくらでも歩けそうな気がする」


 二人の驚いた顔を見て、ナハは笑いながら二人の背中を押した。 


「ファーエンは、ティルナに並ぶほどの清浄の地――魔や穢れといったものを寄せ付けない、奇跡のように清い土地なんだよ。 君達が感じた空気の美味しさも、これから口にするだろう水も、全てが純度が高く、何ものにも僅かたりとも穢されていない。 軽い傷や病ならば、この地で数日過ごすだけで治る。 自浄力が高められるんだよ、この地に居るだけで」


 話しながら道を下っていると、ふと誰かに呼ばれたような気がして、カラは顔を右方へ向けた。 すると視線の先の空に、何か小さな物がふわふわと浮いているのを見つけた。 そちらから吹いて来る風に乗って、きゃっきゃと小さな子供の笑い声が聴こえる。


「――え……あ、あれっ、赤ちゃんっ!」


 言葉と共に思わず駆けだした。 近付くと、浮いていたのは間違いなく人間の赤子で、宙でふわふわと、まるで揺り籠で揺られているかのようにご機嫌な様子で声を上げている。 どう見ても周囲に大人の姿は見えない。 赤子はその状況を怖がる様子もなく、揺れるたびに喜びの声を上げるのだが、見ている方がいつ落ちるのではないかと心配でならない。 追いついてきたシュアも驚きの声を上げて、かといって状況が掴めずに戸惑っていると、一匹の大きな白犬が、宙の何処からかふいに駆け下りて来て、赤子とカラ達の間で止まり、鼻に皺をよせ(うな)り声を上げた。 これまで見たこともない、垂れた長い耳をした柔らかそうな長毛の犬は、空のような青色の眼でカラとシュアを見据え、今にも飛びかかりそうに上半身を低くした。


『〈東〉の。 そう威嚇(いかく)するな。 これはお前が被護する者の片割れだ』


 上空から降るように声がしたので振り仰ぐと、カラ達の頭上に〈西〉の〈風の王〉である精霊シリンが現れていた。 その背後に遅れてラスター達も付いて来ている。


『シリン。 それが――……そうですか』


 威嚇の姿勢を解いた白犬の喉から、流れるように男の声が響き出でた。 カラとシュアが驚いて顔を見合わせると、白犬は宙から地に下り、カラの顔をじっと見上げた。 その明るい青の瞳は、全てを見透かすかのように澄んでいる。


『シリン。 そなたこの者に力を貸し与えているのですか?』


 カラから視線を()らさぬまま、白犬はシリンに質問をした。 見詰める青の瞳から、カラは眼が逸らせなくなっていた。


『ああ、この者も〈風〉の性質を有している故、ちょっとした手助けにな。 それよりもう離してやれ。 我等に覗かれるのは、人間には負担だ』


 シリンの言葉を受けると、白犬は視線をカラから外し、再びふわりと宙へ身体を浮かせた。 視線から解放されたカラは、大きく息を吐くと、おそるおそる白犬の姿を横目で盗み見るように見た。 白犬は僅かに左の耳を動かした後、カラへ視線を向けた。


『そう怖れないでください。 失礼をいたしました。 そなたに害を加える気はありません。 そなた達はこれよりセラムを訪ねるのですよね? ならば丁度よいのでこの子をセラムの元まで運んでください。 私は少々行くところが出来ましたので』


 白犬の言葉と共に、宙に浮いていた赤子がカラの上に移動して来、思わず腕を差し出すと、ゆるゆるとその中に下りて来た。 カラがしっかりその身体に触れると、途端に赤子の体重が腕にしっかりとかかった。 あちらこちらにはねる癖のある黒髪に、明るい透明感のある緑の眼をした赤子は、驚いた顔をしてカラの顔をじっと見ている。


「ちゃんと重い。 この赤ちゃん、やっぱりただの人間の赤ちゃんだよね?」


 戸惑いながら不器用に抱いていると、赤子は身体をもぞもぞと動かしてぐずり始めたので、慌てて身体を揺らしたり、シュアと一緒になってあやしたりをしていたら、ぐずるのを止めてきゃっきゃと笑いはじめた。

 嬉しそうに笑う赤子の顔を見ていると、つられてこちらも明るい気持ちになる。 しかしナジャは何かが不満なのか、硬い尾で何度もカラの背中を打った。 その度に伝わる振動が面白いのか、赤子は更に嬉しそうな様子で笑い、手を伸ばしてナジャのごつごつした鼻に触れようとする。 ナジャも赤子相手にはカラに対するように邪険に出来ないのか、不機嫌そうな顔をしつつも火の粉を吐くこともなく為されるがままにしている。 その様子が可笑しくて、カラとシュアも赤子と同じように笑い声を上げた。


「お前らいつまでも来ないと思ってたら、こんなとこで何やってんだよ。 案内役の俺だけ先に村に着いたって仕方な――なんだ、なんでここにポポがいるんだ?」


 不満を言いながらやって来たシアが、カラに抱かれてご機嫌に笑っている赤子を見て驚いた顔をした。


「ポポ? この赤ちゃんポポっていうの? なんか白い大きな人の言葉を喋る犬が〝運んでください〟って置いていったんだけど、あの白い犬もシア知ってるの?」


「そいつはフォンだな。 そっか、昼の散歩の時間だな。 お前らよくフォンに噛まれなかったな。 あいつ、ポポに近付く奴等はけっこう見境なしに襲うのによ――って、なんでシリンがそこにいるんだよ! あんた基本はラスターの中だろ?」


 高い位置に浮かび立っているシリンに気付き、シアはシリンとラスターを交互に見た。


『〈東〉の()べる地に足を入れているのだ、〈西の王〉として形なりと挨拶をせねばなるまい? ――と言いつつ、結局何も言ってはいないがな』


 悪戯気ににやりと笑うシリンの言葉に、シュアが反応した。


「あの、貴方はどなたなのでしょうか? とても高位の――精霊……ですよね?」


 おそるおそるシリンに訊ねるシュアにカラが説明をすると、シュアは驚き、そしてやはり戸惑い気味に再びシリンを見上げ遠慮気味に口を開いた。


「シリンさんが〈西〉の〈風の王〉で、その貴方が〝〈東〉の〟と呼ばれたってことは、フォンさんはひょっとして〈東〉の〈風の王〉なのでしょうか?」


 シュアの言葉にカラは驚き、シリンを見上げた。


『カラ、お前と違いこの少年はなかなかに(さと)いな。 そうだ、フォンは〈東〉の〈風の王〉だ。 やつを怒らせたら怖いぞ。 私と違って生真面目な分、怒ると手が付けられん。 もしその赤子に傷でも作ろうものなら、首と胴体が簡単に離れることになるぞ。 ああ、それとも微塵切りかな? 何にせよ、色々と注意することだな』


 言い終えると、シリンの姿は空に融けるように消えていった。 残されたシリンの言葉に戸惑っている間にも、ポポは腕の中できゃっきゃと笑い、カラの顔を見上げては手を伸ばしてくる。


「へえ、やっぱり兄弟だと懐くの早いのな。 もっともポポは人見知りしないから関係ねえのかな?」


 シアがさらりと口にした言葉に、カラよりも先にラスターが反応した。


「シア、余計なことは口にするな」


 ラスターの表情はいつも通りの淡々とした様子なのだが、言葉の響きがきつい印象を受ける。 だからといって、シアは動じる様子もなかった。


「いいじゃねえか、どうせここにいる間に話す予定なんだろ? なら今バレたって変わんねえだろ、結果は一緒だ」


 シアとラスターのやり取りを聞いている間に、カラもシアの言葉を反芻(はんすう)し、自分が引っかかるべき点を理解した。


「〝兄弟〟って、誰と誰が?」


 シュアも興味を惹かれたのか、カラと一緒になってシアとラスターを見た。 カラの視線を受けて、ラスターはしばらく沈黙した後、小さなため息を吐いてから口を開いた。


「アスティール――その赤子と君は、血を分けた兄弟だ」


 ラスターの言葉が呑み込めず、カラはぽかんと無表情な白い顔を見続けた。 そんなカラの頬に、小さな白い手が触れた。 温かな手の柔らかな感触が、カラの頭の中を更に混乱させていく。


「ポポと俺が兄弟……って、え、え、兄弟って、親が一緒のきょうだいってこと? それ本当なのっ! こんな赤ちゃんの兄弟がいるって――」


 驚きのあまり大声を出すと、ポポも吃驚(びっくり)したのか一瞬動きを止め、次の瞬間、火が付いたような大きな声で泣き始めた。 肩にいるナジャが、早く黙らせろという要求を硬い尾に込めて背中を数回叩いたが、どうやって泣き止ませればいいかが分からない。 シュアもおろおろしながらポポの手をそっと握ってあやそうとしたが上手くはいかず、二人揃ってうろたえていると、横からナハが手を伸ばしてポポを受け取り、ゆっくりと身体を揺らしながらあやしはじめた。 それでもしばらくはぐずり続けていたが、次第に泣き声は小さくなり、少しすると再び明るい笑い声を上げるようになった。


「ナハ、子守りもできるんだ。 すごいや」


 カラとシュアが感心しきった眼差しで見上げると、ナハは苦笑しながらポポをあやし続けた。 ポポは、ナハの肩に座っている白鼠姿のカナルに興味を惹かれたらしく、しきりに手を伸ばしている。


「まあ、年の功ってやつだね。 子守りの一回や二回はする機会があったから、見よう見真似でなんとなく覚えたんだよ。 それより早くセラム殿の家へ向かおう。 ポポは多分もう眠いんだよ。 セラム殿も心配しているだろうし、何より、あまりこの子をぐずらせたらフォン殿が怖い」


 のんびりと笑うナハの後ろで、シアがその通りだと言って、皆に早く来いとせっついた。

 山から村に入る地点に、小川が流れており、そこに架かる橋を渡るといよいよファーエンの村の中心に入る。

 中心の通りを挟んだ道なりに、ほぼ等間隔に人家がずらりと並んでいる。 総じて赤茶の塗料で壁面を塗られた小規模な木造の家が多かったが、中には梁以外を白漆喰で塗った、大家族が暮らしていそうな大きな屋敷もあった。 屋根は魚の鱗のように丸みの強い滴型の板を幾重にも重ねて葺かれており、歳月を経た渋い褐色が、赤い壁面の鮮やかさを穏やかな印象に抑えている。 各戸に必ずひとつは立っている煙突からは、煮炊きをしているのであろう美味しそうな匂いを包んだ湯気が立ち上っている。 牛や鶏といった、様々な家畜の声も方々から聞こえて来る。

 人口はそう多くはなさそうだが、そこここに村人の姿が見え、シアが通ると皆気軽に声をかけて来る。 シアの後ろのラスターに気付き、驚き(うやうや)しい挨拶をする者も少なくなかった。 ナハには酒を飲もうと誘う男達が多かった。 知己の者達の後ろに続く見知らぬ若者二人に、村人達は好奇心と僅かな注意の眼差しを向けているが、総じて皆好意的な挨拶をしてくれる。


「へえ、フォンがポポを誰かに預けるなんて珍しいな。 ボウズ、お前見込まれてるな。 セラム様を訪ねるんなら、なんだ、お前はさしずめ〈風使い〉見習いの候補か?」


 飯屋の主人らしい壮年の男が、シアにパンの入った紙袋を渡しながら、物珍しげな視線をカラへ向けて来た。 じっとカラの顔を見た後に、ナハがよくするようにカラの頭をくしゃりと撫でた。


「良い眼をしてんな、ボウズ。 セラム様の客なら、この村中の奴等の客みたいなもんだ。 食いたいもんがあったらいつでも言いに来な。 これでも村一番の飯屋だ、美味いもん食わせてやるぞ」


「村一番って、この村には飯屋どころか食材扱ってんのがあんたのとこしかないだろ、カーズ。 あと塩と卵も十個ほど頼むよ、どうせセラム、買い物には来てないだろ?」


 カーズと呼ばれた主人は、豪快に笑いながら店の奥に消え、籠にこんもりと入った卵を持って戻って来た。


「いくらセラム様でも、赤子の世話は剣や風を操るように簡単には出来んさ。 そも、弟子のお前が状況は一番知ってるだろう? 昼の家事はたまにロキアが手伝ってるっていっても、日々の事だからな。 しかも一日中だ。 よもやフォンに任せっきりってわけにもいかんだろうからな、なぁ、ポポ、お爺ちゃんの手を煩わせられるのはポポだけなんだぞ、すごいなあ」


 髭面を近付けられても、ポポは明るい声で喜んで、手を伸ばしてはカーズの髭を(むし)るように掴むのだが、カーズはそれがむしろ嬉しいらしい。 そんなカーズの後ろからおかみさんもひょっこり顔を出すと、やはりポポに手を伸ばし、柔らかな頬を突いては愛おしそうに笑いかける。


「ポポって人気者なんだね」


 セラムの家に続く坂を上がりながらカラがぽつんと呟くと、シュアも同意の言葉を口にした。


「赤ちゃんという存在(もの)は、余程の事が無い限り皆――少なくとも親には可愛がられるものだよ。 そしてその余程の事という事態も、それこそ余程の事が無い限り起きないものだよ、普通であればね」


 ナハの言葉に二人が頭を(ひね)っていると、前方からシアの急かす声が飛んで来た。


「お前らさっさと来いよ! 待ちくたびれてんぞ」


 見ると、緩やかな坂の上に比較的大きな平屋が一軒だけ建っていた。 その家の前で、シアとラスターが振り返りカラ達を見下ろしている。 カラとシュアが慌てて坂を上り追い付くと、家の中から肉や野菜を煮込んだり焼いたりする芳しい香りがふんわりと漂って来た。 鼻腔をくすぐられた為か、カラとシュアの腹が同時に空腹を訴える音を上げる。


「これはずいぶん元気の良い腹の虫の音だな。 腹が空くのは健康な証。 良いことだ」


 突然横から声が入り込んで来て、カラとシュアは慌てて声のした左方へ顔を向けた。 そこには、白鬚を蓄えた高齢の男性が薪割りの(なた)を手に立っていた。


「セラム。 此度はお世話になります」


 一歩前へ歩み出たラスターが、普段以上に丁寧で改まった調子で言った。 ラスターの言葉を受けてセラムは鷹揚に頷くと、ラスターの背後でぽかんとしているカラ達に視線を向けた。 細められた深い緑の瞳は、優しそうでいて、全てを逃すことなく見透す鋭利さも同時に感じさせる。


「そなたがカラ、だな。 どうやら、フォンにポポを押し付けられたようだな。 よく寝ているようだから、すまぬがそのまま暖炉傍の揺り籠までポポを運んでくれるかね。 シアと、そなたはイシュア――でよかったか? そなた達二人は薪を運ぶのを手伝っておくれ」


 にこやかな声と表情でセラムはカラ達に依頼した。 ごく短く頼まれた為か、間に言葉を挟む隙がなく、挨拶の言葉をひとつも口にすることが出来なかった。 それぞれセラムに言われた通り動き始めると、家の中から中年の体格の良い女性が顔をのぞかせた。


「話声が聞こえると思ったら、皆揃ったんだね? おやまあ、こりゃまた小さいお客だね? それにまあ、ポポが抱っこされて気持ちよさそうに寝ているよ。 いいかい、そのまま静かに中に入って、ほら、あそこの揺り籠にそっとその子を寝かせてやっておくれ」


 寝ているポポへの配慮か、声を落として話してはいるが、女性の言葉の勢いにカラは()された。 セラムとは違い、(まく)し立てるように話し、あっという間に室内に戻りやりかけの家事の続きを始めた女性に何かしらの言葉を伝える時間的余地は無く、カラはむっつりとして、言われたままに室内に入り、指定された揺り籠へそっとポポを横たえた。 ポポは気持ち良さげにすやすやと寝続けている。


「やあ、ロキア。 相変わらず元気そうだね」


「ナハかい! あんたも変わらずぬぼーっとしているねぇ。 カナルは相変わらずの器量良しだね。 聞いたよ、あんた弟子をとったんだって?」


「いやいや、一時的に預かっているだけで、その内ちゃんとした〈水の守〉の師を紹介するんだよ」


 ロキアとナハに呼ばれた女性は、かなり古くからナハ達を知っているようで、明るい笑い声を交えながら、楽しそうに言葉を交わし続ける。 ラスターが入って来ると、ロキアは視線をそちらへ向けて、少しも迷うことなく近寄り、ふっくらとした両手でラスターの顔を挟んだ。


「おやまあラスター、あんたも相変わらずだね。 今に始まったことじゃないが顔色が悪いよ。 食べるもんはちゃんと食べているのかい? どんな綺麗な顔も、やつれてたんじゃ見場が悪いよ。 いいかい、ここにいる間は出されたもんは皆ちゃんと食べるんだよ。 あんたはそれじゃなくても食が細いのに、見張ってないと食べること自体をしないんだから困ったもんだよ。 ああ、ガーラン安心おし。 あんたの御主人はあたしが元気にしてやるからね」


 これまで会って来た人物で、ラスターに対して一切の遠慮ない態度で接するのはせいぜいがナハとオルテぐらいだったので、ロキアに子供のように扱われているラスターの姿は新鮮だった。 子供扱いされているとはいっても、ラスターはいつも通り無表情にロキアの言葉を聞いているだけなのだが、ガーランは、自分の主人に馴れ馴れしく触れるロキアが気に喰わないのか、首元の毛を僅かに膨らませて、不満そうに尾を左右に振り続けている。 だがロキアはそんな様子は気付いていないのか気にしないのか、自分の調子で一方的に話しを続ける。 ラスターに対する言葉を語り終えると、思い出したようにカラへ視線を向けた。


「おやまあ、そんな隅っこで大人しくして、ずいぶん遠慮深い子だね。 ポポを寝かせてくれたなら、こっちに来て腰かけてよかったんだよ。 小さいのに、麓からファーエンまでの山道はきつかったろう? 偉かったね、頑張って」


「俺、もう……多分十二歳にはなるよ! あれくらいの山道なんかへっちゃらだよ、まだいくらだって登れるよ!」


 再び〝小さい〟という言葉を口にされて、思わず言い返してしまった。 実際のところ、カラは自分の正確な年齢は知らないのだが、アルフィナがもうすぐ十二歳になると言っていたので自分も同じくらいということにした。

 カラの不満そうな言葉を聞いて、ロキアは眼を大きく見開いた後、寝ているポポが起きはしないかと心配になるような豪快な笑い声を上げた。


「すまなかったね、そうだね、元気な男の子なんだから、あれくらいの山道なんかなんてことないだろうさね。 さ、疲れてないかもしれないがそこの長椅子に座って待っていておくれ。 もうじき昼ご飯だよ。 腕によりをかけたからね、頬っぺたが落ちるくらい美味しいよ」


 既に座っているナハが手招きをしたので、カラも外套を脱いで壁際の衣桁に衣架を使って掛けると、長椅子に腰を下ろした。 ラスターはこの家に私室があるらしく、そちらへ荷を置きに部屋を出た。 カラが座ってひと息をついていると、薪を運ぶように言われた若者二人と白鬚の老人が入って来た。 シアとシュアが協力して運んで来た大振りの金籠には、山盛りの薪が入っている。


「ったく、なにが薪を運ぶのを手伝え、だよ。 結局割るところから全部やらせやがって」


 シアが悪態を吐きながらシュアを誘導して暖炉近くの所定の場所に金籠を置くと、如何にも大儀だったように肩を揉み首を大きく回した。 薪割りはシュアもしたのか、袖捲りをして汗もかいている様子だった。


「お前はこの週は一度も鍛錬をしてはおらぬ故、丁度よい運動になっただろう? 薪割りは剣術にも通ずるものがあるから、やって無駄にはならぬ」


 穏やかに微笑みながら諭すセラムに、弟子とは思えぬ態度でシアは反論した。


「〝鍛錬してない〟じゃなくて〝やってる暇がなかった〟んだろうが。 こことシクルを何往復したと思ってんだよ。 それにだいたいその台詞は聴き飽きたよ。 あんた毎回そう言って俺が来た時には薪割りやら水汲みやらをさせるだろうが。 俺の持ってくる情報と引き換えに剣術を教えてやるとか言ったが、(てい)のいい下働き扱いだろ。 ふざけんなってんだよ」


「お前はなかなかに見込みがある故、私なりに順を追って丁寧に教えておるつもりだが。 のう、そなたに対してより、シアには随分優しく教えておるであろう?」


 セラムが部屋の奥へ声をかけると、戻って来ていたラスターが、一瞬考えた後に生真面目に答えた。


「シアに対してと私への導きの比較は、実情をしかとは把握いたしてはおりませぬ故、出来かねます」


 無表情に答える兄弟子の言葉に、シアは深いため息を吐いた。


「この兄弟子に聴いたって無駄に決まってんだろ。 そもこの人は、苦労を苦労と思わないんだからよ。 この人と俺を同列で量るのは止めてくれよな。 話になんねえよ」


 不満気に食卓の椅子の一つを引いたシアは、乱暴に座って、その上で脚を組んだ。

 セラムとシアとラスターのやり取りをぽかんと見ていたカラに、セラムが視線を向け、ゆったりとした足取りで近寄って来た。 カラは思わず長椅子から立ち上がり、緊張した面持ちでラスターの師という老人に向かい合った。

 ゆったりとした丈の長い前合わせの上衣を着ている為、その正確な体型は判らないのだが、年老いた、という言葉からは程遠い引き締まった身体をしている印象を受ける。 ひとつひとつの動作も老いというものを感じさせない。 流れるように動く所作は、ラスターに通じるものを感じる。 細かく見れば、顔の皺や髪、鬚の色といった点に老いは現れているのかもしれないが、それでも、せいぜい七十代序盤といったところだろうか。 イリスミルトと同じで、老いてはいるが年齢が読めない凜とした(たたず)まいをしている。


「キソスからここまでの道中、さぞ疲れたであろう?」


 セラムが穏やかな声で話しかけたことで、頭の中でぐるぐると考えていた様々な事が弾けるように消え、痺れるような緊張が身体を縛った。 胸の前でペンダントを握りしめていた手に更に力が入る。


「は、はい。 あ、あの、お、俺っ、カラって言います。 あの、俺、あの――……」


 自分でも何を言っているのか分からず、耳まで真っ赤になりながら、とにかく何かを言わなければと必死に言葉を探していると、セラムが腰をかがめて、カラの目線に視線を合わせ柔らかに笑った。


「そんなに焦らなくてよいのだよ。 さあ、まずは力を抜いてみなさい」


「そいつ、騎士になりたいんだとよ。 ユーリがあんたの事を〝伝説的な騎士〟なんて持ち上げて教えたから、さしずめ緊張で舞い上がってんだろ。 そんな大したもんじゃないのにな」


 シアが呆れ気味の声で推測を語ると、セラムは得心したのか、カラの肩に両手を置いて軽く肩を揉んだ。


「剣を扱うのに、そんなに力んでいては自在な運剣が出来ぬ。 何事も追々の事だが、まず今は腹を満たす事であろうな。 先程派手に腹の虫を鳴かせていたのを忘れかけておった。 腹を刺激する匂いばかりをかがせて、お預けは酷な事だな。 さあ、まずは食べようではないか」


 セラムに数回肩を揉まれると、かちかちに固まっていた身体全体がふっと軽く柔らかになる感覚を覚えた。 眼をぱちくりさせてセラムの顔をあらためて見ると、セラムは眼を線のように細めてカラの背に手を回し、食卓へと誘った。

 食卓に並べられていた、温かな湯気を上げる御馳走は、席に着いた者達の五感を大いに喜ばせた。 香ばしく艶やかに焼かれた鶏の香草焼きも、根菜たっぷりのシチューもユワという川魚の酒蒸しも、どれもが匂いだけでも胃袋を掴んで心を(はや)らせる。

 ロキアが言っていた「頬っぺたが落ちる」は、少しも大袈裟な表現ではなかった。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ