第3話:対面
3:対面
褐色の肌に流れる清水のような白銀の髪をした女は、周囲の視線など気にすることなくラスターに長い口づけをすると、あらためて頬をラスターの胸にそわせるようにして抱き付いた。 抱き付かれているラスターはと言えば、表情を変えることなく女の好きなままにさせている。 対照的に、肩に居るガーランが毛を逆立て低い唸り声を上げ続けているが、襲いかかる素振りは見せない。
「ふふ、相変わらず無口ね。 口づけだって受けるだけでやっぱり返してくれないのね。 私そんなに下手かしら? それともそんなに私には魅力が無い?」
女は頬ずりをしながら、うっとりとした様子でひとり言葉を続ける。 腕に幾重にも嵌めている繊細な細工の施された銀の装飾品が、女が動く度にしゃらりと音をたてる。 額には淡い光を帯びた黄金色の、おそらくはオスティルと思われる滴形の貴石が揺れている。 額に貴石を下げるのは、特に女呪術師に多い身の護り方なのだと昔誰からか聞いていたので、この女が呪術師であることはカラにもすぐに判った。 装身具以外、黒一色の衣装も呪術師に多い装いなので、まず間違いはない。
放っておくといつまでも離れないと踏んだのか、ナハが女の肩を掴んでラスターから引き離した。
「オルテは本当に変わらないなあ。 相手にされないことが分かっているのに、まったく懲りない精神にいつもながら感服するよ」
苦笑しながらナハが言うと、オルテと呼ばれた女は、意志の強そうな明緑の瞳でナハを憎らしげに見遣った。
「ナハ、あんた私の邪魔をしに来たんなら出ていってくれるかしら? カナルは好いけど、あんたは嫌いよ、無神経で遠慮がないから。 シア、あんたもなんでこんなのまで連れて来たのよ、私がこいつ嫌いなこと知ってるでしょう?」
「そう言ったって仕方ねえじゃねーか。 そういう命だったんだろ、全員連れて来いって。 姐さんの好みなんか俺の知ったことじゃねえよ」
面白くなさそうに言い返すシアの肩を、ナハが軽く叩いて慰める。
「そうそう、シアを責めるのは八つ当たりだってことくらい、オルテが一番解ってるだろう?」
「あんたには言われたくないって私が思ってることをあんたが理解したら、八つ当たりなんかしなくて済むでしょうね」
顔を横へ向けてオルテは不満を表したが、視線の先に、見覚えの無い若者二人が顔を真っ赤にして棒立ちしている姿を見つけ、ふわりと表情を和らげた。
「ああ、この子――黒髪の方が件の子ね? もう一人が、ナハ、あんたが面倒みることになったっていう〈水の守〉候補の子? シュア――でいいのかしら? とても澄んだ眼をした子ね。 良い眼だわ。 あんたに毒されなきゃいいけど」
ナハに対する表情とは違い、オルテは柔らかで優しい笑顔を浮かべカラ達に近付いて来た。 オルテからは、屋内に入るとすぐに気付いた匂いとは違う、涼やかな青い香りがした。
「私はオルドゥルティーナ=トルトっていうの。 オルテって呼んでちょうだい。 あんたがカラね? 本当に見事なオスティルの瞳。 こんな完全な瞳、ユーリ以外では初めて見たわ。 本当に月のようね、すごく綺麗だわ」
しみじみと感心するように、オルテはカラの瞳を正面から覗き込む。 年の頃は二十代半ばといったところだろうか。 とても若いようにも、もっと落ち着いた年齢のようにも如何様にも見える。 物事を見透かすような澄んだ明るい緑の瞳は、エフィルディードの瞳に似ているが、フィルのさっぱりとした印象とは異なり、甘く愛嬌を含んだ眼差しをしている。
オルテは満面の笑みのまま、カラの頬へ少し冷たい手を伸ばした。
「お、俺のこと知ってるの?」
少し考えれば、ラスター達の知り合いだからカラのことも承知していると察することが出来るのだが、頬を撫でられながら、あまりに至近距離でじっと見詰められて、カラはどういう反応を返してよいか分からず慌ててしまった。 オルテの言動は、ここ最近接していたイリスミルトやエフィルディードといった大人の女達とはまるで違う。 女性独特のなよやかさが感じられる。
「あらまあ、これくらいで真っ赤になって、ずいぶん可愛らしいこと。 そんなことじゃあ、こんなところには泊まれないわよ?」
「? こんなところって?」
カラが真っ赤になりながら問い返すと同時に、奥から数人の女の噴き出すような笑い声が上がった。 驚いてそちらへ視線を向けると、五六人の女がオルテの入って来た戸口から顔を覗かせている。 どの女も長い髪を結うこともなく背中へ流している。 皆、肌着に近い露出の多い服を着、大振りの肩掛けを羽織っている。
「ここは睦宿。 そういった宿屋の話を聞いたことはあるかしら? でもまあ、あんたみたいに初心な子供は知らないわよね? 男と女が、仮初に睦む為にそこで何をするのか」
「……し、知ってるよ、そんなの、そんなの、金払って男が女の人と一緒に寝るところだろ? そ、それくらい知ってるよっ!」
精一杯、自分が知っている知識の範囲で答えたものの、実際の内容まで知らないことはおそらくばれている。 だからと言って、知らないとも言いたくは無かった。
くすくす笑いながら、オルテはいま一度カラの瞳を覗き込んでから解放すると、視線をラスターへ戻し、それまでの女性らしい愛嬌を含んだ表情を改めた。 まるで別人のように凜とした佇まいで、戸口へ誘うように手を上げる。 それを何かの合図のように、集まっていた女達は姿を消した。
「こちらへ。 すぐにおつなぎいたしますわ」
オルテの案内に付いて薄暗い廊下を抜け、長い階段を下りると、古びた大きな金属製の扉が現れた。 左右にはただ薄暗い廊下が伸びているだけで、壁面に他の入り口のようなものは眼に入らない。
シアが円環の引き手に手を掛け、腰を僅かに落として勢いよく引いた。 重い、地鳴りのような音を立てて扉は開き、全員が入室をするとやはりシアが扉を閉め、更に閂をかけてオルテへ視線を送った。 閂には何かしらの呪いのような図柄が彫り込まれている。
室内には燈芯草の黄色い光が四方に二本ずつ配されており、ぼんやりとした明るさを保っている。 香が焚かれているのか、地下とは思えない、ほんのりとした甘味の混じった、青く涼やかな香りが室内を満たしている。 オルテが纏っていた香りは、この部屋の香の移り香なのだろう。 中央には大人の背丈ほどの幅の円陣が白墨で描かれており、その真ん中に、大人の男でもひと抱えはあるだろう大きさの、水を張った銀色の水盤が置かれている。
オルテは手にした白墨で、円陣の内側の描き残していた部分に、おそらくは文字であろう紋様を描き込んでいった。
「あれは何をしてるの? いったい何が始まるの?」
隣に立っていたナハにこそこそと訊ねると、ナハも小声で「面会の準備をしてるんだよ」と答えた。
オルテが面会の相手ではないことは、初見の印象とラスター達の態度から察することはできた。 カラはてっきり、オルテに案内された先――つまりはこの部屋に、面会相手だという人物が待っているものと思い少々緊張していたのだが、些か拍子抜けしていた。 部屋は燭台と円陣と銀の水盤以外、本当に何もない殺風景な空間だった。
それにしても、よもや面会相手が水というわけでもあるまいに、オルテを先頭に、皆が中央の水盤の水を見詰めて一言も発しない。
オルテの腕がゆるりと動き、嵌めている銀の装身具がしゃらりと涼やかな音をたてると、水盤の周囲に描かれている円陣が淡い青銀の光を帯びはじめた。
「みなかみのみなものみちをひらきてかかみとみなかかみをひとみちにむすばん」
オルテが独特の平坦な詞を口にすると、鏡のように静かだった水盤の水面がゆらりと揺れ、オルテが再び同じ詞を、今度は抑揚を付けて口にすると、大きく揺れていた水面が盛り上がるように膨らみ、すうっと水柱が立ち上がった。 水柱が、カラが見上げる高さにまでそそり立つと、その内から人の姿が滲み出るように現れた。 だが、それが人間だとは判るものの、色というものがまったくついて無いので、その容貌も性別も判然としない。
カラとシュアが眼を丸くして驚いていると、ナハが簡潔に、こちらの水鏡と相手方の鏡を繋ぐ呪術が行われているのだと説明した。 いま見えている人物の姿は実像ではなく、先方の鏡を通してこちらの水鏡に投影されている鏡像のようなものだとも教えてくれた。
『参られたか』
低音の、深く響く男の声が先ず耳に入った。 その音の響きと共に、無色透明だった姿に色が差し始め、少しすると、壮年の男の姿がはっきりと視認できるようになった。
「ラース、待たせてすまない」
一歩前へ出たラスターが、カラも前へ出るように視線で促した。 突然のことで躊躇していると、ナハがにこやかに背を押したので、のろのろとラスターの半歩後ろまで歩み出て、眼の前に浮かびあがるように立っている男の、半ば透けた姿や容貌を上目遣いに見た。
ラースと呼ばれた長身の男の歳は、四十半ばといったところだろうか。 夜空のような黒髪に、ラスターよりも深い青の瞳をしている。 黒詰襟の、何らかの制服と思われる服をきっちりと着こなし、髪は一筋たりとも乱れることなく整えられている。
『アラスター=リージェス。 身体の加減はもう良いのか?』
表情を変えず語る硬質な言葉の調子は、どことなくラスターと似ている。 ラスターが短く問題が無いことを伝えると、ラースは視線をカラへと移し束の間沈黙した。
『私はラースと申す。 そなたがカラ、だな?』
ごく淡白に訊ねたラースは、カラの反応を待つかのように再び沈黙した。 カラがおそるおそるといった様子で頷くと、無表情に見えていた男の顔に、薄っすらとした笑みが浮かんだ。
『シクルまで、多少強硬な移動だったと聞いている。 疲れているのではないか?』
取り付き難い外見の印象とは違い、ラースの言葉は思いの外優しかった。 カラは緊張と警戒を僅かに解いて、顔を上げて真っ直ぐにラースの顔を見上げた。
「疲れてない……です……した。 えっと、あん……なたも、ラスターの友達なの……です、か?」
どこまで打ち解けた調子で話して良いのか判らず、言葉はしどろもどろの奇妙な調子になったが、ラースは笑うこともせず最後までカラの言葉を聴いた。
『旧知ではあるが、おそらくそなたの思うところの友人という関係ではない』
『ならばさっさと〝友人〟である私に話しをさせろ』
ラースの言葉の奥から、まだ年若い男の声が割って入るように飛び込んできた。
それまでの穏やかな表情を曇らせ、眉間に皺を刻んだラースが、抗することを最初から諦めているかの如くため息を吐くと、ラスターとカラを一瞥した後に銀の水盤の上から姿を消し、入れ替わりに青年の姿が滑り込むように現れた。
『ようやく逢えた――カラ』
「――だ、れ?」
『ユーリ。 ラスターの古くからの友人だ』
長い黒髪を背で編んでいる姿は少女のようで、声を先に聞いていなければ、その容姿から間違いなく女性と認識しただろう。 だが、そういった外見の印象以上に意識を奪われたのは、その瞳の色だった。
金の、淡い光を帯びた自ら輝く瞳。
「俺と……おんなじ眼……なの?」
戸惑いがちに訊くカラに、ユーリは穏やかな微笑みを返した。
『そうだ。 私もそなたと同じ、オスティルの瞳だ』
「あ――……ユーリさん……が、俺達の〝面会相手〟って人?」
『私のことはただユーリ、と呼んで欲しい。 そうだ、私がそなた達をここへ呼んだ。 私自身の眼で、確認しておきたいことがあったのでな。 私は行動も時間も自由が利かぬ身ゆえ、そなた達に全てを強制することになった。 済まぬ』
カラと同じオスティルの瞳を持つユーリと名乗った青年は、夜香花の白い花がふうわりと開くような笑みを満面に浮かべ、右手をカラへと差し伸べた。 その様はまるで、神殿に在る神の彫像が、眠りから覚めて動き出したかのような優美さを感じさせる。
『こちらへ、来てはくれぬか?』
柔らかな月明かりのような眼差しに、カラは胸が苦しくなるような懐かしさを感じた。 ゆっくりと、伸ばされた手が頬に触れる距離まで近付くと、カラはあらためてユーリの金の瞳を見上げた。
僅かに細められたその瞳に映る自分の姿に、何故だか涙が零れそうになる。
「俺のこと、知ってるの?」
『ああ、知っている。 とは言っても、ラスターを通して知ったことが大半だが、それ以上のことも少なからず知っている。 私はね、そなたに逢いたかったんだよ、ずっと』
「俺がユーリの友達の連れだから?」
『違う。 私が逢いたかったのは〝カラ〟だからだ。 そのような理由ではそなたは理解できぬだろうが、今はそれ以上詳しくは話せぬ。 許せ』
一粒零れた涙の跡を、ユーリの指がそっとなぞるように動いた。 鏡像だという姿は、けれど実体がすぐ傍にあるようで、ささやかな息遣いすら余すことなく感じさせる。 触れられた頬には、間違いないその人の繊細な指の感触が伝わる。 生身の身体はここには無いはずなのに、触れられている確かな感触を得るのは奇妙な感じだったが、触れられた瞬間に感じたふわりと浮遊するような感覚は、夢の中にでもいるようでとても心地がよかった。
ユーリは笑みを絶やさずカラを見ていたが、肩のナジャへ視線を移すと、ほんの一瞬笑顔を消し、一拍を置いて今度は愉快そうにくすくすと笑いを漏らした。
『これが〝ナジャ〟なのか? 噂通り、実によく肥えた蜥蜴だな』
カラの頬に触れていた手をナジャに移そうとすると、ナジャはその手を避けるようにするりとカラの肩から下り、後方の、おそらくはシュアの肩に上った様子だった。 シュアの戸惑った声がぼそぼそとカラの耳にも入る。
『はは、嫌われたかな? まあ、どのみち下りて貰う予定だったから手間が省けた。 カラ、私の眼を見て、私の呼吸にそなたの呼吸を合わせてはくれないか? 難しく考えなくていい。 ただ、私と同じ時に息を吸って、同じ時に吐くことを繰り返すだけのことだ。 さあ、吸って――……』
再びカラの頬を両の手で包み、その瞳の奥深くを視ようとするかのように、ユーリはじっとカラの眼を見詰めた。 ユーリの金の瞳が、更に明るい光を帯びて輝く。
難しく考えるなと言われても、その行動の意味も目的も分からないことにカラは戸惑いを覚えた。 その上、ユーリが纏う煌めくように澄んだ雰囲気に対する緊張もあって、言われたように呼吸の調子を合わせることは容易には出来ない。 それでもしばらくすると、むしろユーリがカラの呼吸に合わせてくれたのか、二人の呼吸速度が合うように成っていき、更に少しの時間が過ぎると、何も考えなくてもユーリと同じ調子で呼吸をするように成っていた。
カラの呼吸が安定したことを確認すると、ユーリはゆっくりと長い睫毛の瞼を閉じて沈黙し、息すらもしていないかのように気配をも消し去った。 ユーリの息遣いが感じられなくなっても、カラは同じ速度で呼吸をし続けた。 その間、カラの身体は水に浮かぶような、ゆらゆらとした感触に包まれ続けた。 怖ろしいとは感じなかったが、その揺らぎの感覚は、精霊の〈王〉達に瞳を覗きこまれた時の、内側を探られる感覚にも似ているように感じる。
不意に、大きく身体が沈むように揺れた。 足下に突然穴が開いて、がくりと崩れ落ちるような錯覚に襲われた。 その瞬間、それまで夢現の調子だったカラの意識は明瞭な状態に戻り、慌てて不安定を感じた足下に視線を向けた。 果たして足下に穴などは開いてはいなかったが、足元の影が、小波立つ水面に映っているかのように、ゆらゆらと不安げに揺れ続けている。 その様を見て、カラの心にも不安の揺らぎが起こった。
「な、なに、この影のゆらゆら――……」
カラが心細げな声を出すと、瞳を閉じていたユーリがゆっくりと瞼を開き、カラから手を離して穏やかな笑みを浮かべ、カラに合わせ屈めていた背を伸ばした。
『これは〝揺らぎ〟だ。 そなたの《影》が安定してはいないという証の現象』
「《影》が安定していない――って、どういう意味? なに、何が悪いの?」
表情をやや強張らせて訊くカラに、ユーリは対照的に明るい笑顔をしてみせる。
『答えは簡単だ。 《名》を取り戻していないからだ。 《名》と《影》は対となるもの。 鳥の翼と同じようなものだ。 両翼が揃わなければ鳥は空を飛べぬ。 カラ、そなたには片翼である《名》が戻っていない故、もう片翼である《影》がそなたの〈器〉である身体に安定して従えない』
「あんていしてしたがえない――って、どういう意味? 《ふたつ》揃わないとやっぱりだめってこと?」
『その通りだ。 《名》という相方が戻らねば、この先出遭う状況次第では取り戻した《影》すら、またそなたから離れてしまう危険が残っている。 そなたの〈器〉は、ウルドにとっては獲り損ねた獲物であり、他の〈闇に棲むもの〉にとっても、そなたの血肉は魅惑的な狩りの対象だろう。 もしそういった輩――特にウルドと不意に遭遇すれば、奴はまず第一に邪魔な《影》を再び奪い取るだろう。 今度は完全に奪い取る。 そなたの自我を失わせる為に。 〈器〉を得るために、その〈器〉の主の魂とも言える自我は邪魔なものでしかないからな。 そしてそなたの《影》は、現状容易に〈器〉から引き剥がせる。 これは襲う側にとっては幸運なことだ』
「……えっと、それって、つまりはどういうこと……なの?」
カラが眉を寄せ首を傾げながら訊ねると、ユーリは絶やさなかった笑みを少し控え、カラの顔を静かに見詰めた。
『現在のそなたは、未だ危うさを抱えたままの不安定な状態に在る、ということだ。 不安定な状態は危険な状況を招く率が高まる――もっと簡単に言えば、そなたはウルドをはじめとした様々な存在から襲われる可能性がとても高い状況にある、ということだ』
「な、なんでっ? 〈闇森の主〉もそうだけど、他のその〈闇に棲むもの〉なんて奴等に、なんで俺襲われる可能性があるのさ? そいつらが〈闇森の主〉の手下だってこと? 俺の血肉がなんとかって、ぜんぜん意味が分かんないよっ」
『いま理解できぬのは致し方ないことだ。 いずれその理由を知る時が必ず来る。 それまでは、現在のそなたの置かれている状況を、過不足なく的確に把握しておくことだ』
「いずれ知るって、〝いずれ〟っていつだよ? それに《名》をいつ取り戻せるか分かんないのに、それまでの間に《影》がもしまたなくなったら、また硝子みたいな透けた身体になって、また人前で堂々と歩けなくなるってことだよね? 襲われるのも嫌だけど、もうあんな変な身体に戻るのは絶対に嫌だよっ!」
混乱しつつも、状況をそれなりに把握したカラの様子に満足したのか、ユーリは微笑みながら再びカラの頬へ右手を添わせた。
『不安を完全に払拭するには《名》を取り戻すしかないが、そなた自身が己を護る術を身に付けることで、現状よりは格段に、不測の事態に遭遇しても凌げる確率は増すだろう。 その為に、カラ。 そなたには少しの間、とある地へ行ってそれらの術を学んで欲しいと考えている』
言いながら、ユーリはラスターへ手を伸ばした。 ラスターは、一拍の間を置いてユーリの手を取った。
『――お前もだ』
ユーリは柳眉をやや寄せて、カラに対してとは違う厳しい表情をラスターへ向けた。
『ラスター。 お前も、ファーエンでしばらくセラムの世話になって来い。 淀みが抜けていない。 澱が溜まったまま残っている。 理由は何であれ、キソスの地下でティダの護りを欠いた時間が痛手であったのだろう? その判断をとやかく言うつもりは無い。 だが解っているだろう? 現状のままではまたいつ障りが出るか判らぬことは』
言いながら、ユーリはラスターの額に手を当て、早口で何か詞を口にした。
『〝いま一人〟の様子もお前が直に見て把握しておいた方がよいからな。 カラの不安定さを、かの地でならばいま少し安定させることも出来るやもしれぬ。 お前に託すしかないのだ。 とにかくファーエンへ行って来い。 これは命だ』
有無を言わさぬ調子で最後の一語を言い放つと、ユーリは再びカラへ視線を戻して、打って変わった優しい顔で微笑んだ。
『カラ、聞こえたろう? そなたの学びの地も、このファーエンという山間の村なのだが、そこでラスターにはしっかり休息を取らせたいと私は考えている。 こいつの身体はまだ本調子ではない故、そこでしっかり身体を休ませ回復させたい。 そなたには学びの傍ら、こいつのお目付け役にもなってもらいたい。 見張っていないと、こいつ何かしらすぐ動きたがるからな。 頼めるだろうか?』
「ラスター身体悪いの? 俺、ずっと一緒だったのにそんなのぜんぜん気付かなかった。 なに、なんかの病気なのっ?」
驚きと少なからずの衝撃が綯い交ぜになった顔で、カラはラスターとユーリの顔を交互に見た。 ユーリはくすくすと笑いながら、心配の必要はないとまずは言った。
『こいつは瀕死の大怪我を負っていても、おくびにも出さない。 そなたが気付かないのは仕方がないことだ。 それに病気というわけではなくて、どう言えばいいのか――そう、まあ疲れが溜まっているようなものだよ。 ただその程度が甚だしい故体力の消耗も激しい――といった状態だな』
「ファーエンって、そこに行けばラスターの身体が良くなるの?」
『確実に回復が早まる。 良いところだよ。 もっとも、私自身は行ったことはないのだが、かの地は〈闇に棲むもの〉を容易には寄せ付けぬ強い護りが自然に働いている、類を見ない清浄の地だ。 かの地ならば、カラ、そなたの身体に残る不安も、少なくとも滞在中は気に掛ける必要性が薄くなる。 不安を気にすることなく学びに専念出来る』
「うん――でも〝学び〟って、いったい何をするの? 俺でも出来ること? 勉強とかだったら、俺、まだ字あんまり読めないし書けないから、あんまり得意じゃないんだけど……」
少し自信がなさそうに訊くカラに、ユーリはくすくす笑ってカラの腰に在る棍とオスティルの短剣を指した。
『ファーエンで世話になるセラムという男は、ラスターの剣の師であり優れた〈風使い〉だ。 このラスターすらも頭の上がらない、レーゲスタで最強と讃えられた伝説的な騎士だ。 老いてはいるが、あの者からは武芸に限らず諸事学び得ることはあると約束できる。 学ぶことが易いかどうかはそなた次第だが、そなたは騎士になるのが夢なのだろう? ならば、少なくとも武芸の修業はやりがいがあるだろう?』
ユーリの言葉に、カラはぱっと頬を染めて瞳を煌めかせた。
「武芸を教えて貰えるの! じゃあ剣も習える? そのラスターの〝師〟って人に?」
『何をどう教えるかは、かの地に着いてからセラムが伝えるだろう。 その他の事も、騎士になる為の修行と思えば、少しはやる気が起きるだろう? そなたの望む道だ。 たとえ多少時間はかかっても、自ずから求め吸収したことは、定着したらなかなか剥がすことはできない。 修行が辛いと感じても、まずは容易に諦めないことだ。 弱音を吐きたくなったら、後ろにいるナハや――シュアというのだったか? 彼等に聴いてもらうといい。 確実に、弱音を吐きたくなる時も来るだろうからな。 なんなら私に話したっていいんだよ。 そなたの為ならば所用のひとつやふたつ後回しにしても構わないのだから。 つなぎはオルテがしてくれる』
悪戯気ににやりと笑ったユーリの背後から、ラースの諌める声が聞こえた。 更に二人の間で何語かの言葉のやり取りがあった後、ユーリが僅かに沈んだ顔でカラを、続いてラスター達を見ると、右手を水平に上げて歌うように短い詞を口にした。 その詞に振われたかのように、室内の空気が玻璃細工のように輝き、それまでよりいっそう澄んだものに変わった。
『――時間が来たようだ。 離れた地からではあるが、皆の健闘を祈っている。 オルテ、シア、そなた達は変わらず耳目を頼む』
「御心配は無用ですわ、ユーリ」
オルテはにっこりと微笑み、シアはやや面倒くさそうに承諾の返事をした。
それぞれの反応を見届けると、ユーリは最後にもう一度カラを見、その額に触れて短い詞を口にすると
『また逢える時まで、息災であれ』
と言って、銀の水盤の上から姿を消した。 ユーリの姿が消えた水盤の水は、鏡のように静かで、僅かにも波打つことはなかった。
カラはユーリが触れていった額に手を当て、あるはずの無い残りの温もりを感じた。
「ユーリって、不思議な人だね。 なんでだろ、俺、すっごく昔から知ってる気がするんだ。 〝離れた地〟って、ユーリはどこに住んでるの? ラスターの友達って言ってたけど、ラスターより偉いの? あれってラスターに命令してたんだよね、ファーエンってとこに行って休めって。 ラスターにあんな風に命令する人なんているんだね。 あ、ユーリって〈方円の騎士団〉の偉い人とか?」
思ったままを口にし質問をしたが、ラスターは何を答えることもせず、そのすぐ後ろに寄り添うように立っていたオルテが、苦笑気味にカラの額を押しながら口を開いた。
「あんた、まったく見当も付かないの? まあ、何も知らなければ見当の付けようもないのは仕方ないことだけど、あの瞳を見て……って、あんたも同じオスティルの瞳だからそれに意味は無いかしらね?」
少しもったいぶったオルテの言葉に、カラは一寸むっとして、額に当てられた手を払いのけた。
「ユーリってしか名乗らなかったんだから、仕方ないだろ! 他に何か手掛かりになるような物が映っていたわけでもないし、オスティルの瞳がなんだよ? それが何か手掛かりになるの? にしたって、どっちみち俺にはわかんないし」
「まあそうね。 教えてあげてもいいけど、ここで見聞きしたことは外部の人間に言ってはいけない決まりなのだけど、あんた、その約束を守れるかしら?」
くすくす笑いながらカラの顔を覗き込むオルテに、カラははっきりと腹を立てた表情を見せ、上手く言い返せない代わりに顔を大きく横へ背けた。 その様子を見かねたのか、ナハが背後から近寄って来て、カラの腰の棍を指差した。
「それをカラに作ってくれた人だよ。 キソスの旅籠の中庭で話したろう?」
ナハの言葉に一瞬きょとんとしたカラは、記憶を手繰り寄せるように腕を組んでしばし考え込んだ。
「棍を作ってくれた人って確か、〝精霊王殿の長〟って人で、確か、えっと――ティルナの……王様!」
眼を見開けるだけ見開いて、カラは口をあんぐりと開けたまま動けなくなった。
ティルナ王とは、神エランに次ぐ人類至上の存在とされる、カラとはまったく別世界の人である。 棍の経緯を聴いた時にも驚きはしたが、実際に逢った印象の大きさはその比ではなかった。
カラが懐かしさを感じたように、ユーリもカラに何かしら、を見ているように感じた。
自分と同じ、オスティルの瞳を持つ青年王が何故自分に逢いたかったのか、その理由をとても知りたい。
ユーリの姿を映し出していた水盤の水は、いまは天井の梁を映しているだけだった。