ある男の執念の話
男には名前がなかった。
求められていたのは神力と呼ばれる力であり、頭を垂れる従順さである。下される命を解する能さえあれば十分で、自ら思考、判断した上で行動するようなことは、誰にも望まれていなかった。
当時、神官と呼ばれる人間の中で自前の神力を扱える人間はほとんどいなかった。ほとんどの神官は、神殿で飼っていた神力持ちを番わせ、生まれた赤子を利用していた。或いは、市井から拾ってきた神力持ちの捨て子を。
そうした道具たちはある程度の年齢になるまで陰のように主人である神官に付き従い、子を作れる年頃になれば指示された相手と子を作った。どちらの意味でも使い物にならなくなれば処分される。そのことに、何の疑問も持っていなかった。
高貴な者の人形遊びだと、過去をそう断じることに躊躇いはない。事実男は人形であり、もっと悪いことに、いくらでも替えのある使いつぶしの一体に過ぎなかった。
呼び名もなかったが、問題にはならなかった。おい、と呼ばれれば出向き、これ、あれ、と指されれば従った。そこに何の疑問もなかった。
彼女も同じ境遇だった。だが、便宜上師とされた神官が違った。道具に学をつけさせる、変わり者と評判の神官だった。
不必要なことを備えた彼の神官の道具たちは、主人に従順とは言い難いモノもいた。反対に、盲目的に神官に従うモノもいた。彼女は前者だった。だから、捨て猫をやるように王族の聖女に引き渡された。
男の主人は、聖女の補佐役を務めた。ゆくゆくは還俗した聖女と婚姻を結び、王族の仲間入りをしようと目論む野心家でもあった。
聖女もまた、若く美しい神官に熱烈に言い寄られて、満更でもなかったのだろう。ふたりきりになりたいからと忍んでいずこかへと籠もる時、男と彼女はよく置き去りにされた。誰も来ないように見張れと、一応はそんな指示もされていた気がする。
『真っ昼間からぎしあんぎしあん、猿の方がよっぽど理性的ですね』
にっこり笑って、可愛らしく小首を傾げて同意を求められたのが、覚えている限り最初の交流だった。
学のなかった男には彼女がなにを言っているのかわからず、困惑に瞬く。
その反応で、気づいたのだろう。おや、という顔をして、咳払いをひとつ。次には胡散臭い猫なで声で、『もしかして番号呼びされてるところの子ですか』と、今思えば大概不躾な問いかけをしてきたのだった。
「貴女は本当に変わりない、ジャンヌ」
水晶を撫でる。その指先に癒え切らない古傷がある。
彼女は驚くほど神力の扱いに長けていた。降るような賞賛はすべて聖女のものとなっていたが、気にした風情などひとつもない。表向きは、他の道具たちと同じように従順で無知であった。そのフリをしていた。
呼び名を尋ねられ、番号を答えることを恥じたことなど初めてだった。それじゃあ呼び難いと、彼女がつけたジルベールという名前に、心が震えた。
焼け付くような衝動だった。足が竦むほどの恐怖でもあった。自我を覆う硬い殻は壊れ、何も持たないむき出しの心に、彼女という存在はあまりにも鮮烈に刻み込まれた。
彼女の名はジャンヌ。幼くしてあまりに強力な神力の使い手であったため、仕える主人よりも先に、仕える地位が定められた道具。
引き合わされたのが偶然ではなく、子を作る相手としてであったとしても、それでよかった。
『私は御免ですよ、ジルベール』
『どうして?』
『簡単に言いますけどね、出産ってのは女の私にとっては文字通り命がけなんです。そんじょそこらの有象無象との子どものために命をかけるなんて、私はそんな安い女じゃないですよ』
子どもを作る相手を選ぶ、なんて、当時のジルベールには思いもしないことだった。
生まれる先も、生き方も、死ぬ時もすべて決められているはずの境遇で、従う気なんてさらさらないとうそぶく彼女は眩しくて。同時に、彼女と子どもを作れと命じられていたジルベールにとっては悲しくもあって、『じゃあ、どんな相手だったらジャンヌは子どもを産んでくれるの?』と彼女に尋ねた。
彼女もまた、ジルベールの問いに思いもしないことを聞かれたとでも言うように瞬く。腕組みをして、そうですねえと考えた。
『……地位と財と権力は必須ですね。子どもっていうのは、妊娠して出産すればそれで終わりじゃないですから。不自由なく育てるためには、そのくらい備えた相手じゃないと』
『地位と財と権力? それだけでいいの?』
『あはは。今のところ何ひとつ持ってないどころか、文字すら満足に読めないもの知らずがなにを大きな口叩いてるんですか。面白いですねー』
『う、これから頑張るから……だから……!』
『はいはい。せいぜい頑張ってくださいねー』
文字を教わった。一方的に引き出されるだけだった神力の扱いも、神力を身に留めておく方法も、およそ生きるために必要なことは全て、彼女から教わった。愚か者の子どもなんて産みたくないと彼女が言うから、ジルベールは必死で学んだ。
彼女が大切だった。彼女しか大切ではなかった。だから気づかなかった。聖女が、ジルベールに目を付けたことに。
色に溺れた聖女に寝台に連れ込まれ、精通すらしていない体を弄ばれても、最初は意味がわからなかった。主人である男がおとなしくしていろと命じたから黙ってされるがままになっていたけれど、生暖かい他人の温度は不快でしかなく、鳥肌を立てれば気持ちが良いのだろうと聖女が喜ぶだけだった。
きつく目を閉じて、ひたすらに時間が経つのを待っていれば──唐突に、聖女と主人の男が寝台から蹴り落とされた。
『発情期の豚どもが。屠殺場に引きずられたくなかったら、おとなしく養豚場に引き籠っていてくれませんかね』
唾を吐き捨て、ダメ押しとばかりに転がるふたりの腹を蹴飛ばし。ジャンヌは茫然とするジルベールに布を投げると、深く深くため息を吐いた。
『もうちょっと、おとなしくしてるつもりだったんですけどね。ああ、やだやだ。私が処刑されたら化けて出てやりますからね、ジルベール』
神殿兵に乱暴に引きずられながら、そんな捨て台詞を吐いて。地下の牢獄に押し込められたジャンヌは、その五日後には忽然と姿を消してしまったのだ。
あれから、どれだけの時が経ったのか。ジルベールは水晶越しにジャンヌの頬に触れ、そっと口づけを落とす。
「地位と、財と、権力と──貴女が出した条件を全て満たしたんですよ」
無能な人間は全て引きずり下ろし、偽りの神は半身を引き裂いてやった。彼女を殺せと命じた聖女には呪いを送り、かつてジルベールの主人として振る舞った男と共に傀儡にした。
そうしてすべて整えて、探して探して──ようやく見つけたのだ。
「ジャンヌ、ジャンヌ。貴女の声が聞きたい。貴女に触れたい。どうか私を見て。貴女が与えた名前を呼んで。私はもう、百年待ち続けているのに」
彼女の瞳は閉ざされている。つれない女だ。知っている。彼女は残酷で気まぐれで、どれだけ切々と想いを訴えても、一瞥すらせず笑っていなくなってしまうのだ。
だからこうして、閉じ込めた。数十年分の神力と、引き裂いた神の欠片で作った封じの水晶でなければ、とうに彼女はいなくなってしまっていただろう。
哀願しながら、ジルベールはまたひとつ水晶に陣を描き込む。ぼうと数瞬淡く光った線はすぐに沈み、反発するように火花が飛ぶ。
「ああ、あれほど清廉だった貴女の体が、これほどに魔王の魔力に染まって……。許し難い。忌々しい。貴女は私のものであったのに」
ジルベールの瞳の灰色が紫を帯びる。同時に、その場にいるはずのない誰かの声が重なったが、それも一瞬のことだった。
穢れなき神の恩恵を示す白銀の髪と灰色の瞳を持つ神官、ジルベールは自身の身に起きた異変に気付きもせず──あるいはその異変を異変とも思わず──ただひたすらに、水晶に眠る少女に呼びかけ続けていた。