勇者サマ、旅立つ
跪く騎士は朴訥とした顔立ちながらよく鍛え上げられた体をしていて、なるほど勇者とたたえられるだけはありそうな実力を備えているように見えた。
ただ、その瞳は己が身を焦がさんとする恋情に燃えていて、ただただ切々と、唯一と決めた相手のことを見つめている。
対して、手を握られた女の方はといえば。月も花も彼女の前では恥らって逃げ去ってしまうだろう美貌を持っていて。難を言うなら出るところも引っ込むところもない、ストーンとした体つきだろうか。私は「彼女」だと知っているからいいものの、華奢な男だと言えば信じてしまいそうなぐらい凹凸がない。
まあ、あれほど日頃好き嫌いはするなと口酸っぱく言っているのに、あれは嫌だこれも嫌だと我儘三昧、偏食の限りを尽くせばさもあらん。補正下着不要な痩身は、むしろ胸部に本来施すべき下着すら不要である。
(おっと、殺気が)
すかさず首を引っ込める。つい先ほどまで顔があったところを容赦なく切り裂いていくカマイタチ。流石は我が君。でも、愛しい恋人に集中しなくていいんですか?
「いつになるかわからない。もしかしたら、もう帰って来られないかもしれない」
「アルブレヒト……」
「それでも僕は、君が愛しいんだ」
だから、どうか。勇者アルブレヒト・ターナーは、自身の恋人の手に取りすがる。おお、必死ですなあ。
「僕が、無事使命を果たして、帰って来られたら。そうしたら、僕と結婚してくれないか」
「アルブレヒト、そんな!」
男に合わせて、女の方も膝を折る。
目線を合わせれば、どちらからともなく唇も合わさって。あ、これ、我が君、私がここにいるって都合よく忘れてません?
「いやよ、行かないでアルブレヒト! 使命なんてどうでもいい……今すぐ私と結婚して!」
「ごめん。でも、どうか聞き分けて、オルガ」
僕は勇者なんだ。改めて言わなくても、我が君は重々承知してると思うけど、この場合は恋人にというより、自分自身に言い聞かせてるんだろう。だってもうベタ惚れだもんなあこの勇者サマ、我が君に。いくら使命――絶対神からの神託とはいえ、離れ難いと思うだろう。
ましてそれが、生きて帰れる保証のない使命なら。
「必ず帰る。もし道半ばにして倒れたとしても、僕が魂だけになったとしても」
「いやよ、アルブレヒト……」
「オルガ、僕の愛しい人。僕だけの女神。君がいるから、僕はどんな試練にも打ち勝てたんだ」
試練、って。ああ、あの「勇者選定」とかいうお題目でやらされてた諸々のやつですか。ドラゴン族の宝玉を奪えとか、毒沼にしか育たない蓮の蜜を集めろとか、それ神の試練っていうより一部上層部の我儘だよね? っていうよくわかんない無茶ぶりの数々。うんまあ、見方を変えれば我が君のおかげかなー?
裏で暗躍した私とか私とか私の苦労も知らないでと、ぐぬぬと唸ればまた殺気。もー、我が君ったら最近短気すぎるんだからー。
「使命なんて知らない! 神殿なんて、神なんて、そんなもの放っておけばいいじゃない! お願い、アルブレヒト、行かないで!」
「オルガ……!」
ひしと抱き合う、恋する男女。いい加減こうやって見守ってるのも馬鹿馬鹿しくなってきたんだけど、ふたりのやり取りはまだ終わらない。
「……明日、発つよ」
「そんな」
「身勝手でごめん。でも、絶対、絶対帰って来るから。使命を果たして。そうしたら、ねえ、オルガ」
勇者が我が君をかき抱く腕にぎゅうと力を入れたのがわかる。あいたたた、それ、我が君だからいいけど、普通の人間の女にしたら背骨折れるからね?
まったく、我が君もあんな人間のどこがいいのか……。
「僕は必ず、使命を果たすから。そうしたら、僕と結婚して。僕のお嫁さんになるって、約束してほしい」
「アル……」
「絶対、絶対……僕は、魔王を倒してみせるから」
我が君の体が震える。それを、勇者サマは怯えとでも思ったんだろう。
あやすように頭を撫でて、合間に口付けして。そのまま暗転。私? 流石に無粋だ、我が君が半裸にされた時点で引っ込みましたとも。
明けて翌朝、まだ日も昇らぬ早朝。馬上の人となり遠ざかる恋人を見送って――とうとう我が君が爆発した。
「……っいい加減気づけバカアアアァァァァ!!」
我が君こと、オルガマリー・アッシェンバッハ。
めでたく今年で御歳二百、第十七代魔王陛下なのである。
「どうしていつまで経っても気づかないのよアイツは! 五年よ、五年! 五年もずっと一緒にいて、少しも『あれ、なんか変だな?』って思わないって、どーいうことよ!?」
「いやあ、側近の私が有能過ぎた結果ですかねー」
喚き散らす我が君を放って爪を磨いていれば、燭台が飛んできた。真鍮製の重いやつ。今日も我が君は殺気に満ち満ちておられる。
「おかしいでしょ、この美貌、この魔力! いったいどこにこんな『流れの魔術師』がいるわけ!?」
「『お嬢様はさる高貴な御方の御落胤なのです。ですが、身分低い御生母様はお嬢様の幼い時分に儚くなり……その悲しみからか、お嬢様は屋敷を追い出される以前のことは覚えておられないのです』。いやあ、我ながらあの時の演技は神がかってましたよ、我が君」
「憎い! 有能すぎる側近のせいでいっこうに正体がバレないことが憎い!」
「なんたる理不尽。これが宮仕えの苦悩というものですか」
そもそも、絶対に正体を見破られないように! なんてアホな命令を下したのはご自分でしょうに。
ひと抱えほどもある水晶には、聖都で神官長から祝福を受ける勇者サマが映し出されている。おお、その悲壮な覚悟を宿した横顔よ。平凡顔ながら内面の苦悩と憂いが滲み出ているおかげで、三割増しいい男に見えるような気がするようなしないような。
そんな勇者サマに見とれながら憤るなんて器用な真似をしていた我が君は、神官長が引き合わせた勇者サマの「旅の仲間」を、目を皿のようにして観察していた。
「……よし。とりあえず、アル狙いの雌猫はいないわね」
「あはは、我が君ってば面白いですねー」
「ちょっと!? 私今ひと言も面白いことなんて言ってないわよ!?」
聖剣使いの勇者サマに、攻撃魔術に長けた天才魔術師、そこに次期神官長なんて言われてる補助魔術と回復術担当の神官ひとり。総勢三名、これで我が君を倒しに来るというのだから、舐めくさった話である。
「魔界に繋がる門は、人間の力ではそう何度も開けるものではないもの。一度に通れる人数だって、三人が限度でしょ」
「計画性のない話ですよねえ。こまめにコツコツ送り出して、魔界での地盤固めと拠点造りくらいできないもんですか」
「ねえ、アンタどっちの味方なわけ……?」
「そりゃもう、我が君に決まってますよー」
「軽い! 気持ちも言葉も軽すぎるわ!」
「さてさて、勇者サマたちはこれから苦難に満ちた使命を果たす旅が始まるわけですか……同じ苦難を乗り越えた者同士、熱い思いが芽生えちゃうかもしれないのは、なにも男女に限った話じゃなかったりするかもしれませんよねー」
「んな……! ア、アルが男に走るって言いたいの!?」
「人間たちの戦場では、別に珍しい話じゃないらしいですよー」
「そんな……」
おや、ふらりとよろけた我が君が、水晶に抱きついてしまった。我が君、我が君、それはあくまで遠見の水晶であって、実物は遠く離れた人間界にしかいませんよ。
「ああアル、アル……どうして貴方が勇者なの……」
「そりゃもちろん、絶対神とかいうクズが選んじゃったからでしょ」
多分、我が君が勇者サマと恋に落ちるなんてこともぜーんぶ見越して。アレはそういう神なのだ。魔界の誰より性格が悪い。
「アル、アルぅ……」
めそめそ、しくしく。ああーこれはマジ泣きモードだ。こうなったらしばらく動かないんだよねえ、我が君。湿っぽいったら。
私は仕上げに息をふっと吐きかけて、ツヤツヤの爪を満足げに眺める。うむ、いい仕事をした。
「さっさと打ち明けちゃえばいいんですよ、そんなの」
「いやよお……き、嫌われちゃう……」
「嫌いませんよー、あの男なら」
なにせ、骨の髄までお人好しのアンポンタンだ。そりゃ悩むだろうし苦しむだろうが、本当に大事なものを間違えるバカではない。
「お嬢様の乳母」だの「乳兄弟」だの、姿を変えて我が君のフォローに走り回っていた私の前で、あの男は常に我が君に対して誠実だった。もっと言うならぞっこんだった。
率直に言えば、愛が重い。我が君も、勇者サマもだ。まあ、お互い様なら釣り合いも取れるんだろう。
「我が君は愛する人への隠し事がなくなって万々歳、勇者サマは使命の重圧がなくなって万々歳、ついでに私は我が君のフォローをする必要がなくなって、選ばれし勇者による魔王討伐なんて茶番を処理する必要もなくなって万々歳。完璧な策だったはずなんですけどねー」
「この有能うぅ……全部アンタの思惑通りじゃないバカアァ……」
「我が君のヘタレっぷりだけが想定外でしたけどもー」
本当はもうちょっと、あのゴミみたいな絶対神の鼻を明かす計画なんかもあったんだけど、残念ながら見送りだ。
(……まさか、『勇者のお仲間』がこのふたりなんてねえ)
ああまったく、カミサマってやつはどこまで性格が悪いのか。
天才魔術師ステファノはまあいい。実は勇者サマの幼馴染だったりとかいうオチがついて、人間に擬態した我が君のことを怪しんでた程度の話。近いうち正体をバラす我が君には関係ない。
もうひとり。神官長肝いりの人選、ジルベール。
我が君ではなく、私にとって因縁浅からぬ相手の姿に、私は計画の変更を余儀なくされたのだった。