田島香織≪理由≫
「榊先生いる?」
田島香織はナースステーションに戻ってくるとそこにいた同僚の宮坂文に尋ねた。
パソコンに向かって作業をしていた文は「少し前に立ち寄ったけど」と言いながら振り返り、
「由佳ちゃんが来てたから多分あそこでしょう。」
「ああ、斉木さんとこの。」
それならばすぐに戻ってくるはず、と香織は側にあった椅子に腰掛けた。
「さっき由佳ちゃん帰ったからすぐに来ると思うわよ。」
「そう。」
この病棟で彼女のことを知らない看護師はいなかった。
何せ十二年も目覚めない兄の元へ毎日のように通って来ている娘なのだ。知らない方がおかしい。
香織も八年前からこの病院で働いているが、由佳を自分の妹のように思ってしまっていた。
と言うより、実の妹である和歌子の友達なので実家でもよく会うからまるで本当の妹と同じようなものだった。
「今日もお目覚めでない?」
「みたいね。目覚めたらこの病院の一大ニュースよ。」
十二年間眠ったままの王子様、そんな風に看護師達の間で、由佳の兄はそう呼ばれていた。
実際彼が寝たきりなどではなく、例えば同僚として一緒に働いていようものなら壮絶な彼の争奪戦が繰り広げられるだろう・・と、そんな風に思わせるほどに由佳の兄は整った容姿をしている。
痩せこけている現在でそう思わせるのなら、目覚めていればかなりのものだろう。
「ところで、榊先生に何か用なの?あなたもう上がりの時間じゃない。」
「この件が終わったら帰るわよ。ちょっと患者さんのことでね。」
「どうかしたの。」
文からコーヒーを手渡され、香織は「ありがとう」とそれを受け取り口をつけた。
「一昨日入院してきた若い男性患者さん、いるでしょう?」
「いたね。」
「新人の子がちょっとしたセクハラまがいの行為を受けたらしくって、泣きついてきたのよ。先生から注意してもらいたくて。」
南場という男で、良くも悪くも普通の成人男子だった。
どこで仕入れた情報なのか看護師に妙な夢・・ではなく下品な妄想を抱いており、これまでに二人からのべ六回の被害報告を香織は受けていた。
単純に考えてこれは多すぎる回数だった。香織自身が注意に行ってもいいのだが、これまでの様子を見ていると女である自分が注意した所で何の効果も無いかもしれない。
そう思ったので香織は上司である榊に頼もうと思ったのだ。
「榊先生に叱られたら効果テキメンね。」
文はおかしそうに笑ってから机に置いてあったファイルを持って立ち上がる。
時計を見るともう巡回の時間だった。
「間違いなく彼、大人しくなるわよ。何せセクシャルな問題には特に厳しい榊先生からのお灸だもの。」
そう言って、笑いながら文はナースステーションを出て行った。それを見送った香織は盛大にため息をつき、コーヒーに口をつけ残りを一気に飲み干した。
「医療に関わること以外で問題を起こさないで欲しいもんだわ、全く。」
この上なく切実な願いだったが、そうは行かないのが昨今の医療現場でもあった。
榊が来るまで待っている間、ついでに溜まっている仕事を片付けてしまおうと香織は椅子に腰掛け机上の作業に取り掛かった。それらがいくらか片付いた頃、背後に人の気配を感じた香織は振り返った。
「榊先生」
いつの間に来ていたのか、見慣れた上司の姿がそこにはあった。
黒々とした短髪の髪を清潔に整え、笑みを浮かべる表情には男らしさが滲み出ている。
学生時代にアメフトをやっていたというたくましい体躯にはファンの女性患者も多いらしく、「会えなくなる」と退院を渋る人も過去に居たという伝説すら残っていた。
「田島、今日はもう終わりじゃないのか?」
「はい。もう帰りますがその前に先生に話があって、残ってました。」
「わざわざ?伝言を残しておいてくれれば・・・・まあいいか。で、何だ?」
「あの・・・・」
話し出そうとする香織の前に立った榊はジッとこちらを見つめてくる。
その顔を見て一瞬香織は口篭る。笑みを浮かべているが瞳の奥が笑ってはいないように見えたのだ。
「・・・・・・・」
それは直感だった。
もしかすると今はタイミングが悪いのかもしれない。
普段は厳しくも優しく思いやりのある榊だが、時折酷く冷徹な時がある事を香織は知っていた。
この時、何か嫌な予感のようなものを覚えてしまったのだ。
けれど切り出してしまった以上は話さなければならない。
案の定、榊は訝しげに眉根を寄せ自分を見てくる。
「どうしたんだ?」
「いえ・・・あの・・・一昨日入院された南場さんなんですが。」
「大腿骨折の若い奴か?」
「はい。その南場さん、看護師への・・・セクハラ行為があるようです。スタッフ二人から相談を受けました。」
「セクハラ?」
「身体への接触と、執拗に連絡先を聞きだそうとしてくるようです。」
香織がそう言うと、榊から表情が消えた。ピリッと空気が凍りついたように感じたのは恐らく気のせいではないだろう。
思わず香織は肩を竦めてしまった。
「・・・榊先生?」
「・・・・・・・・・」
恐る恐る声をかけるも返事は無く、しばらくの沈黙の後「分かった」と言うと榊はそのままナースステーションを出て行こうとした。香織がその後姿から目を離せないでいると榊は一度振り返り、
「俺が対処をする。この件はもう他に口外しないように。」
そう言い残し香織の返事を聞きもせずその場を立ち去って行ってしまった。
少しの間、香織は呆然とその場に立ち尽くしていた。
今までも榊にはこういった患者によるセクシャルな問題の処理を多々頼んできたが、今回はどうもいつもと様子が違う。
虫の居所が悪かったのだろうか。それならばタイミングが悪かった。
「・・・しまったな。」
呟いて、片手で口元を覆った。
自分で頼んでおきながら何勝手な心配をしているのかと笑ってやりたい所だが、正直言って笑えない展開になってしまいそうな気配を榊が発していたのをひしひしと感じてしまっていた。
セクハラを働いた南場の自業自得ではあるが、相当きついお灸になってしまうのは目に見えていた。
機会を改めるべきだった。そう後悔してももう遅いのだけれど。
「あー・・、まずったかも。」
思わず天井を仰ぐと、そこへちょうど巡回を終えたらしい文がナースステーションへ戻ってきた。
そして開口一番、
「まずったって、何が?」
香織の言葉が聞こえていたらしく、そう聞いてきた。
「文。もう巡回終わったの?」
「だって今日、患者さん少ないもの。それよりまだ帰ってなかったの?確か明日からの連休を使って彼氏の実家に挨拶に行くんでしょう。準備あるんじゃないの?」
「そうなんだけどー・・・」
まさか帰る直前にこんな心配事が出来てしまうなんて露ほどにも思っていなかった。
おまけに文の言う通り自分は明日から三連休に入ってしまう。
その前に相談事を片付けてしまいたかっただけだったのに、より一層気がかりな事態になってしまうとは。
こんな状態で連休に入れない、そう思った香織はチラッと文を見やった。
「確か三連勤だったよね、文。」
「あなたが休むからねぇ。・・・何。」
嫌味は聞こえなかったフリをして香織は続ける。
「ちょっと榊先生に注意向けててくれない?南場さんの件、先生に頼んだんだけどかなりピリピリしちゃって。」
お願い、と顔の前で合掌をして香織は文を上目遣いに見上げた。
すると文は大きくため息をついて苦笑を浮かべる。
「思い過ごしなんじゃないの?さっきすれ違ったけど、先生普通だったわよ?」
「念の為よ。何もないならそれでいいから。」
「・・・しょうがないわね。じゃあ見るだけ見ておくからあんたはさっさと帰って準備する。」
その文の言葉に香織は、自分がどうして連休を取るのか思い返した。
「しっかし、あんた達も長かったわよね。よく彼も踏み切ったじゃない。」
「ん、やっとね。おじいちゃんとおばあちゃんがもう年だから。」
香織には長く付き合った恋人が居た。
その付き合いはもう十年が近く、最近になってやっと結婚の動きが出てきたのだ。
香織自身は随分前から結婚を意識していたのだが、恋人が中々乗り気になってくれなかった。
そのことで恋人を責めた時、彼から結婚を踏み出せない理由を聞かせられた。
それを聞いた香織は複雑な気持ちになったが、しかし彼の気持ちが動くのを待とうとその時決めたのだ。それが三年前の話。
そして歳月を経て、最近やっと結婚への動きが出てきた。
しかし待ちに待った展開になってきたにも関わらず、香織の心は晴れやかではなかった。
その理由も分かりきっていて、結局彼の結婚に踏み出せない理由が解決出来たのではなく、彼の祖父母が高齢になってきた為、と言うのがこの結婚話に至った理由だからだ。
全ての心残りを払拭して、何の迷いも無く香織は彼と結婚をしたかったのに、現実はそう上手くはいかない。
ただ、彼の事情が解決出来る事柄であるのかと聞かれると、それは「否」であった。
待っていたらいつまでも結婚には至らなかったのかもしれない。
ならば話が進展したのだから、喜べばいい。自身が望んでいた未来へと足を踏み出しかけているのだから。
香織はそう何度も自分に言い聞かせてきたのだ。
「とりあえず、行ってくるわ。」
内心の葛藤は微塵にも顔には出さず、笑顔でそう言うと香織は文に手を振りその場を後にした。
家に帰ると時間はすでに七時を回っていた。
1DKの一人暮らし用の部屋は、旅支度で散らかっている。洋服が積み重なっているベッドに持っていた仕事カバンを投げ出すと香織はキッチンへ入り冷蔵庫を開けた。
丸三日留守にするため中身はほとんど空っぽで、残っていた卵と冷凍してあったミンチを取り出すと手早く調理し、ジャーの中のご飯をお椀に盛って電源を切った。
そして部屋に戻りベッドの横に腰を下ろすとテレビの電源を入れ、黙々と食べる。
テレビの内容は頭には入ってこなかった。
頭の中にあるのは、恋人である野中のなか秀文ひでふみのことだった。
明日恋人の実家に挨拶に行く女の心境なんて、不安がありつつも浮かれているものだろうに、自分にはそんな気持ちがほとんどない。
それは秀文との付き合いも長く、彼の祖父母とも顔見知りでもう何度も会っているせいでもあるのだと思う。
しかしそれを除いても、どうする事も出来ない彼の問題を解決しないまま結婚をすることに、心残りを覚えるのだ。
待つと決めた理由を解決しないまま通り過ぎようとしていることが、どうしても嫌だった。元来、中途半端が嫌いな性格なのだ。
「やっぱそのせい・・だよね。」
明日、二人で秀文の故郷へ行き祖父母に結婚の報告をして、その後墓参りに行く。
秀文の両親の墓参りだ。
彼の両親は彼が幼い頃に事故で亡くなっている。結婚に踏み切れなかった理由は彼の両親に起因していた。
「・・・あー、なんか・・・・胸が痞える。」
香織自身が納得出来ていないなら当の本人はもっと納得出来ていないだろう。
こんな気持ちのままで、大好きなおじいちゃんとおばあちゃんに挨拶なんて出来ない。
やっぱり駄目だ。きちんと解決しないと、きっと結婚してからも嫌な気持ちを抱えたままになってしまうのは目に見えていた。
「・・・・・」
香織は食事していた手を止め、テーブルに置いていた携帯を手に取った。
すぐに秀文の番号をディスプレイに表示させ通話ボタンを押そうとした、
その時。
「わっ!・・・びっくりしたー」
まさに押そうとしたその瞬間、携帯が鳴り出したのだ。表示を見なくても分かる、この着信音は職場である病院からだった。
「えー、なになに?・・・・・・、はい田島です。」
一気に仕事モードになった頭で電話に出た香織は、受話口から友人の声を聞いた。
てっきり引き継ぎミスでもあったのかしら、などと考えていた頭は彼女の話の内容を聞く内にすぐに真っ白になってしまう。そこから聞こえてきた言葉は自分が思っていた仕事の話ではなかったからだ。
「・・え?文、ちょっとわかんない・・・もう一回」
頭がぼんやりして、電話の向こうの文の言葉が上手く飲み込めない。そんな香織に気付いたのか、文は受話器の向こうから言い聞かせるように、落ち着いた声音で何度も同じ言葉を繰り返した。
「・・・・・ヒデが、事故に遭って・・・運ばれてきたの?ほんとう?」
体の奥底から震えが湧き上がって止まらない。それを押さえつけようと携帯を持っていない手で自身の体を強く抱き締めた。
「うん・・・・聞いてる、大丈夫。・・・・・うん、分かってる・・・すぐ行く」
通話を切ると香織は少しの間、その場に立ち尽くした。今電話の向こうから聞いた内容がとても信じられなかったのだ。しかし冗談などではないのだろう、文の声は強張っていた。
「落ち着け、私・・・」
一つ深呼吸をしてから香織はベッドに投げ出してあったカバンを引っ掴むと全てをそのままに部屋を飛び出した。
「あの馬鹿っ、事故に遭うなんて」
病院に着いたら真っ先に怒鳴りつけてやる、そう思いながら香織は病院へ向かった。
そんな香織の眦からいくつかの雫が散り、落ちていった。




