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愛をつたえる  作者: 川角檀弓
28/30

それぞれへの未来へ

榊が命を絶ってから一ヶ月が経っていた。

寒さは体だけでなく由佳の心の芯まで冷たく凍えさせていて、あの日から由佳の顔から笑みは消えたままだ。


「先生」


墓前に花を活け手を合わせながら見つめた。

視線の先には同じく冷え切った墓石がある。

そこに榊の名が刻まれていた。


「先生」


もう何度呼んだだろうか。涙ももう枯れた、それ程泣いた。

けれど、どれだけ泣いてもどれだけ名前を呼んでも榊は帰ってきてはくれないのだ。

当然だ。由佳自身が榊の死を目の当たりにしたのだから。

 

あの日。

榊が兄を伴って病院の屋上から飛び降りた直後、当然の事ながらその場は混乱を来した。

しかし由佳は立ち尽くしていた。

何も出来なかった、身動き一つ出来なかったのだ。

穂紬は猛然と駆け出し、人を呼び、救命の措置を行っていた。

「死ぬな」と何度も叫んでいたのに。


「先生・・・・・帰るね」


言葉を紡ぐのにも多大な精神力がいる。

それ程までに由佳の心身は疲弊しきっていた。

のろのろとした動作で立ち上がると、由佳は俯いた。

そして無言のまま歩き出す。こうして歩いているのでさえ、夢か現かよくわからない。

墓地を出て歩き出しても気分は重く苦しいままだった。

考えることは榊の事、あの日の病院で起こった出来事だけで、他は一切何も考えられない。

心が縛りつけられたまま一歩も動けないでいる。

凍える一陣の風が強く吹き付けた。

色を失ったままの木々がざわざわと揺らめき騒ぐ音を遠くで聞きながら由佳はどこまでも無言のまま、真っ直ぐに歩いて行った。


体は動いても、心がもうどこへも、一歩も動けなかった。




人が一人居なくなってもそれまでと何も変わらず世界はまわる。

由佳がそれを実感したのは母の退院で病院へ行った時のことだった。


「由佳ちゃん」


母の病室につくとそこには香織も居た。

由佳に気づいた香織がこちらへと手を振ってきたので由佳も振り返しながら二人へと近づく。


「香織さん、久しぶり」

「由佳ちゃんも。元気そうで良かった」


髪をくしゃくしゃとかき回されて、由佳はくすぐったそうに肩をすくませる。

目の前に居る香織は変わらず優しく綺麗だ。だけど、やっぱり少し痩せた。

その原因を考えた時、それは自分と同じなのだろうと由佳は思った。

だってずっと一緒に働いてきた人が突然居なくなったのだ。


例えば自分だって、クラスメイトが突然同じような理由で居なくなれば困惑するし、悲しみ意気消沈する。親しければ親しい程、痛みは計り知れないだろう。

他愛のない話を三人でしながら、由佳は頭の隅でぼんやりと過去を思い返した。

いつもなら母の代わりに榊が居て、香織も交えながらよく三人で話をしていた。

 

ほんのちょっと前までは、榊は確かに自分の側に居てくれたのに。

 

不意に喉が詰まり由佳は言葉が発せられなくなった。

そのかわりに、瞳から涙がボロボロと零れ落ちていく。


「由佳ちゃん」


声もなく、嗚咽さえ噛み殺して泣く由佳に香織が掠れた声で名を呼んだ。

「・・・っ」


先生が居ない。先生が居ない。

ずっと一緒に居てねって言ったのに。どうして。


唇を震わせ、噛みしめ、もう戻れない過去を思い由佳は泣いた。

「由佳ちゃん」

言葉と共に由佳の体は温かい何かに包まれた。

涙に歪んだ視界は白い色に覆われて他には何も見えない。

けれどそれはとても優しくて。由佳は震える手で縋り付いた。

「今は泣いて。そして、その痛みを・・・忘れないで」

香織の声は掠れていた。

由佳はゆっくりと顔を上げる。視線の先に、一筋の涙を流す香織が居た。


「榊先生を忘れないでいて」

「香織さ・・」

「お願い」


もう一度髪をくしゃりと撫でられて、由佳は子供のように頷くと「うん」と呟いた。

 


由佳と香織は中庭に居た。

「話がある」と香織に誘い出されたのだ。

噴水の前のベンチに腰を下ろし由佳は香織をチラリと見る。


「香織さん、話って?」


隣に腰かけている香織は僅かに伏し目がちになると、一度強く目を瞑った。

由佳はその様子を静かに見守っていたが、実際には少しずつ心臓の音が大きくなり始めていた。

こんな風に重苦しい空気を出す時、その人はあまり良い話をしないからだ。

最近の自身の傾向を思い出し、由佳は一人皮肉めいた笑いを口元に浮かべる。


「・・誰かが居なくなっても、世界は変わらず回って進んでいくのよね」

「え?」

「先週、新しい外科の先生が赴任してきたの」

「外科の先生って」

「榊先生の代わりの先生」

 

代わりの先生。それは至極当然のことであるのに、この時の由佳は酷い違和感を覚えた。

病院としては、空いた穴は埋めなければならないのだろう。

話に聞く限り、榊は医師としてとても優秀な人だったのだ。

それは埋めなければならない穴。


「・・・もう?」


しかしそれは同時に「その人でなければならない」という存在意義を軽くさせるのではないだろうか。

そんな由佳の心が分かったのか、香織も複雑な笑みをこちらへ向けてきた。


「いい先生なの。インターンの時に榊先生に指導してもらった先生で腕もいいし人当たりも良くて・・もう溶け込んじゃったわ。赴任時も謙虚だけど熱く挨拶をされてね、・・『自分が榊先生の代わりになれるとは思わない。空いた穴の大きさが途方もなく大きくて自分で塞ぎ切れるとは到底思えないけれど、塞がなくてはならない穴だから、どうか力を貸して欲しい』って。・・・・目に涙をいっぱいに溜めてね」


香織は無意識なのだろうか、ポケットからボールペンを取り出すとカチカチと芯の出し入れをし始める。

「他の看護師の子たちは積極的に先生を受け入れて、現場は円滑に回っているわ。だけど・・」

カチ、と音を立てて香織は手の動きを止めた。

視線は真っ直ぐと前に向けている。

しかしその眼はどこかぼんやりとしていた。


「香織さん?」


由佳の問いかけに香織は視線を動かすと頼りなげな笑みを向けてくる。

「私、どうしてもまだ受け入れられないの。新しい先生が悪いんじゃないのよ。ただずっと・・看護師になってからずっと榊先生と一緒に仕事をしてきたから。怒られたり励まされたり、支えてもらいながら・・・この仕事に就いてからずっと榊先生が居たから」

「香織さん」

「自分で思ってた以上に、私の中には榊先生の存在が深くあったみたい」

言葉の語尾は涙に濡れていた。

香織はとうとうと涙を流し、頬を伝う滴を拭いもせず前を見つめ続ける。

 

由佳にはかけられる言葉が見つからなかった。

 

香織は大人の女性だ。

そして強い人だと思っていたし、実際の香織も強い人なのだ。

そんな人が自分のような子供の前で涙を流すのを目の当たりにして、由佳は改めて榊の存在の大きさを知った。

どうして榊は死んでしまったのか。

こんなにも人に必要とされているのに。

由佳も唇を噛み締め嗚咽を押し殺した。

「・・・でも、いつかは受け入れなければならないのよね。どれだけ帰ってきて欲しいと願っても、榊先生はもう帰ってきてはくれない。頭では分かっているの」

「香織さん」

「生きて行かなければならない。私たちは」

 手の平で涙を拭うと香織はいつもの明るい笑みを由佳に向けてくる。

「一緒に生きて行く人がいる。私も、由佳ちゃんも」

「・・・・・」

「お母さんを支えてあげてね」

「・・・・うん」

「私もヒデを支えないといけないしね。ああ見えて結構繊細な奴だから」

強く風が吹き、二人の髪を乱した。

香織は前髪をかき上げながら優しい笑みを浮かべた。


「由佳ちゃんにお願いがあるの」

「うん、何?」

「・・・これ、受け取ってくれる?」

 

香織は白衣のポケットから白い封筒を取り出した。

それを受け取り表に返すとそこには由佳の名が刻まれていた。


「私たちの結婚式の招待状。由佳ちゃんにも来てもらいたいの」

「私が?・・・でも・・いいの?」

「来て欲しいの、由佳ちゃんに」


由佳は大切なものを持つかのように両手でそれを包み込んだ。

「ありがとう。必ず行きます」

香織も香織の恋人も大好きだった。

だから二人が幸せな未来に向かって歩いていく門出を祝福させてもらえることが嬉しかった。


何故、香織はこれを自分に渡したのか。

不意に由佳は考えた。

妹の友達という存在には普通招待状を送ってまで来てもらうなんてないのだと思う。

 

ただ、いつになく香織の存在が近しい。

大切な人を亡くし同じ場所に立ったことが、ここまで距離を縮めたのか。


「香織さん」

「何?」

「幸せになってね」


招待状を大切そうに胸に抱き、由佳は微笑んだ。

香織は僅かに目を見開く。それから、くすぐったそうに笑った。

「もちろんよ」

二人はベンチから立ち上がるとどちらからともなく歩き出した。

ゆっくりとした足取りで、大地を踏みしめ進んで行く。

そして正面玄関までくると足を止めもう一度だけ目を合わせた。

香織がゆっくりと口を開いた。


「・・・青柳さんにもね、招待状を渡したの」

「え?」

「厚かましいとは思ったんだけど、私たちの恩人だからどうしても来て欲しかったの。それに」


彼のことを考えない日はなかった。それでもあの日以来、その存在は彼方へと遠のいてしまった。

会いに行く勇気もなかった。


「榊先生と昔馴染みだって聞いたことがあってね。お葬式にも来ていなかったし、きっと青柳さんもまだ・・・」


それきり香織は口を閉ざしたけれど言われなくてもわかる。彼の傷はまだ癒えていないのだ。

「・・・来るの?」

由佳は恐る恐る尋ねた。

会いたくても会えない、でも逢いたい。

そんな由佳を見て香織は微笑んだ。

「来てくれるって約束してくれたわ」

その言葉に由佳は胸に抱いた招待状を抱きなおした。

不謹慎だけど、嬉しい。


穂紬に会える。


目に涙が滲んだ。でもこれは悲しいんじゃなくて、嬉しくて。


強く風が吹いた。

空気は冷たかったが由佳には優しく感じられた。

顔を上げると由佳は病院の奥へと視線をやる。

突然、周りの喧騒が耳についた。何かが少し動いた気がする。


「私、お母さんを迎えに行かなくちゃ」


香織も自身の腕時計に視線をやる。

「そうね。やっと退院だものね」

どれだけ過去の時間を取り戻したくとも、もう二度と手には戻らないものがある。

残酷な現実に、それでもふり返り続ける訳にはいかないのだ。

「あ、居た居た。田島さん」

突然誰かが香織を呼んだ。それは由佳の知らない男の声だった。

二人で声のした方向へ目をやると、白衣を着た男の人がこちらへやってくる。

 

見たことのない人だった。


「田島さん、すまないけれどちょっとお願いしたいことがあって。今からいいですか?」

「大丈夫です。今、戻る所だったので」

由佳がジッと白衣の男の人を見ていると、彼もこちらを向いた。

「・・田島さんの妹さんですか?」

目が細められ優しい眼差しが注がれる。

「確か高校生の妹さんが居るって言ってましたよね?」

「先生すごい、よく覚えてましたね。でもこの子は妹じゃなくて、私の妹の友達なんです。・・・まあ、妹みたいなものなんですけど。由佳ちゃん、こちらが新しく赴任されてきた新垣先生よ」

香織から紹介を受け由佳は両目を瞬かせた。


この人が新しい先生。


そんな由佳の様子には気づかなかったのか、新垣と紹介された医師はすまなさそうに自身の頭を掻いていた。

「そうなんですか。・・間違えてしまって申し訳ない。僕は新垣と言います。ここへは赴任してきたばかりなんです」

スッと手が差し出された。

それは男の人にしては少し華奢な、榊の大きな手ばかりを見てきた由佳にはあまり馴染みのない手だった。

「初めまして」

人好きのする優しい笑顔を向けられ、由佳は恐る恐る自身の手を差し出した。

「斉木由佳です・・・初めまして」

ほんの一瞬、新垣の目が驚きに見開かれたがすぐにそれは潜められた。

「僕は外科の医師です。怪我をしたら遠慮なく来て下さいね」

握り締めた手を上下に振って、新垣は由佳の手を離した。

「ありがとう。その時は、そうします。でも・・」

「・・?」

「私、なるべくここにはもう来ないようにする」

「え?」

「私、大人になりたいの。だからもうここには怪我や病気をしない限りは来ないわ」

「え?え?」

由佳は飛ぶように一歩、後ろに下がった。そして香織に向き直る。

「香織さん、次に会うのは結婚式ね」


心の傷はきっとまだ癒えない。

けれど世界は立ち止まる自分を待つことなく回り続ける。


残酷で普遍。


その人が居ない世界はぽっかりと穴が空いているようだけれど、誰もがきっとそれを乗り越えて生きていく。

由佳は心からの笑みを浮かべた。

榊の死後、それは初めてのものだった。香織もつられるように笑って「待ってるわ」と言った。


「それじゃあ、お母さんを迎えに行ってくる。香織さん、新垣先生・・さよなら!」


大きく手を振り、由佳は踵を返し歩き出した。

心配性な榊のことだ、きっとどこかから見ている。

そんな気がしてならなかった。それならば、こんなふさぎ込んでいる姿ばかり見せていたら心配させるだけだ。

榊は確かにもう居ない。


けれど、自分の中から消えてなくなる訳ではない。

心に、記憶に、いつまでもいるのだ。


思い出し、由佳はまた少し涙を流したが、溢れたものを手の甲で拭い去ると真っ直ぐに母の病室を目指した。

廊下の角を曲がりナースステーションの前を通り過ぎた先の病室。

何度もここへ通った。

でも当分はもう来ない。

ここは弱い自分を守ってくれる空間だった。居心地が良くて、出来ることならずっと居たかったけれど、それでは駄目なのだ。弱いままでは居たくない。

 

強くなりたい。

そして、支えたい人がいる。

 

由佳は勢いよく扉を開けた。

「お母さんお待たせ。さあ、帰ろう」






窓から差し込む光が不思議と、眩しかった。










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