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愛をつたえる  作者: 川角檀弓
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大好きな人



そんな由佳の決意を感じたのか、穂紬は表情を和らげると口を開いた。

「僕はね、今の仕事を始める前は精神科医だったんだ」

「穂紬さんもお医者様だったの?」

「二年前まではね。今はもう医者じゃあないよ」

穂紬が過去に精神科医であった事実を知り由佳は驚いた。

しかし言われてみれば彼の知識の豊富さもそうであるし、何より自分も以前穂紬に心情を吐露し泣いたことがあった。それは穂紬が精神科医である為であるのなら納得がいった。


「今は弟と会社を経営してるって言ったよね?」

「聞いたわ。・・・人に夢を見せてあげるお店でしょう?」

「あれ、誰かから聞いた?」


苦笑する穂紬に対し、由佳は曖昧に頷いておいた。

すでに自分がそれを体験しているなんて、きっと露ほどにも思っていないのだろう。

穂紬も想定していたのか特に追求もせず、むしろ「それなら話が早い」とばかりに語りだした。

由佳は長ソファに穂紬と隣りあわせで座りながら、そこで父と母の事件のことを聞かされた。

何故母は父を殺したのか、その経緯と動機の全てを。


そもそも父と母の結婚は政略的な要素を含んでいた。

だから母は初めから父が自分のことを愛していないと思っていたようだった。

けれど実際には、父は母を深く愛していた。

それを上手く表現出来ず時間だけが過ぎてしまい、そこへいくつもの誤解が重なってしまった頃、父が事故で半身不随の寝たきりになってしまったのだ。


後遺症でろくに口もきけず会話が持てなかったのも悪かった。

せめて口さえきけていたら、あんなことにはきっとなっていなかったと、穂紬は悲しそうに言った。

愛されていないと思っていた母は父の介護が苦痛だった。

だから、殺してしまった。

浅はかで稚拙な理由だと、誰もが思ったのだろう。

千歳自身もそんな自分を十分に分かっていた。

だから裁判で何も反論しなかったし、反省も見せなかった。


「君のお父さんはね、お母さんとやり直したいと思っていたんだ。だから結婚記念日に当たる日に渡そうと指輪を買っていた。その時に、ちゃんと『愛してる』と言おうと思っていたんだよ。でもその前に事故に遭って渡せなくなってしまった。僕は君のお父さんのその言葉を聞いて、お母さんに夢で伝えた。それが裁判が結審する前のことだ」


由佳は宙を仰いだ。目じりから涙が零れ落ちていく。

母は夢の中で父が言った通りの場所に指輪があったことに愕然としたのだろう。

そして、やっと自分の犯した罪の重さを知ったのだ。

自分を愛してくれている人を手にかけてしまった。


今更その事実を突きつけられて、どれほどの絶望を覚えたのか。


もしそれが自分のことだったのなら、由佳はきっと自分も耐えられないだろうと思った。


「お母さんが犯した罪はとても大きい。だけど、生きてさえいれば必ず罪は償えるんだ・・・死んでは駄目なんだよ」


穂紬の言葉を聞きながら由佳はココアの缶に口を付けた。

生きていれば罪は償える、それがどんな罪であっても。

それなら兄はどうなるのだろうか。兄の罪は償えるものなのだろうか。


「・・・穂紬さん、私・・」

「ん?」

「・・・・・・・ううん、何でもない」


由佳は目を閉じた。

この人が兄を許す日は来るのだろうか。許して欲しいとは言わないし言えないけれど。

ただいつか終わる日が来ればいい、母のようにならないで欲しいと、由佳はそう願わずにはいられなかった。

 



あれから一週間が経った。

母の見舞いに病院へ行くと廊下で偶然香織に会ったので一緒にICUに向かった。

香織の話によると母の容態は安定してきているようで、もう大丈夫だから心配ないと聞かされ由佳は素直に喜んだ。

病室に着いても中には入れないので由佳はガラス越しに眠る母を見つめた。

少し顔色が良くなっている気がした。


「最近お兄さんのお見舞い来てなかったけど、何かあった?」

「・・・・」

「榊先生がすごく心配していたわ。それに会えなくて寂しかったみたい」

「え?」

「定期的に由佳ちゃんが来てないか私たちに確認取ってたわよ」


そうなんだ。由佳はぼんやりと思った。

榊にも酷いことを言ったのに、そんな風に思ってくれていたなんて。

由佳は熱くなる目頭を押さえると香織に笑いかける。


「心配かけてごめんなさい、お母さんも居るし、またお見舞い来ます」


由佳がそう言うと香織は優しげに微笑み、


「でも受験生なんだから無理しないで程ほどにね」

と、小さくガッツポーズをした。

仕事があるからと香織が立ち去ると、由佳は一人その場に立ち尽くした。

香織にはああ言ったけれど、兄の過去の罪を知ってからは一度も会いに行っていない。


正直、今までのように兄を見られるか不安だった。


兄のしたことは女としても家族としても許せないという気持ちが未だに強いのだ。

いつまでも現実から逃げていたらいけないと分かっていても、会いに行く決心はつけられなかった。


「お母さん、私どうしたらいい?」


ガラスの向こうで眠り続ける母に、由佳はそっと問いかけた。

しかしいつまで待っても返事はない。当然だ、母はまだ深い眠りについているのだから。

由佳は小さくため息をつくと、踵を返そうとした。

視線を動かすと廊下の先に黒い人影が見えて、動きを止める。


「・・・・榊先生」


榊も由佳に気づいたのか足を止め、その場に立ち止まった。

榊は一度視線を逸らすように壁に目を向け、再びこちらを向いた。

逆光でその表情は見えにくかったが、口元に笑みが浮かんでいるようにも見える。


「見舞いか?」


榊がゆっくりと由佳に近づいてきた。きゅ、きゅ、とスニーカーのゴムの音が静かな廊下に響いている。

榊は由佳の目の前に立ち止まると持っていたファイルで自身の肩をトン、と打つ。

そこに居るのは、自分がまだ何も知らなかった頃と同じままの、大好きな。


「榊先生」


「容態は安定したぞ。もう大丈夫だ」

「あ、うん。さっき香織さんから聞いたよ」

「そうか」

ゆっくりとした足取りで由佳の横に並ぶと、二人はガラス越しに静かに眠る千歳を見つめた。

そこはとても静かだった。聞こえてくるのは機械の音と、遠くの喧騒だけ。

毎日兄のお見舞いに来ていた頃は、学校であったことや友達の事を榊にもしゃべっていた。

下らない話を榊はいつだって笑いながら聞いてくれていた。

今は何を話したらいいのだろう。

由佳は両手で窓ガラスに触れ、眠る母を見つめ続けた。


この時、榊と接したからだろうか。


由佳の中に一つの思いが込み上げていた。

穂紬に会った時も香織に会った時にも、そんなこと、思いもしなかったのに。


ずっと父のように思っていた。

それだけ慕ってきた。

本当に長い間、一緒に居た。やっぱり好きなのだ、そして信頼しているし頼りたいし、甘えたい。


「先生」

「おう」

いつもと同じ榊の返事に、由佳はホッとした。

「・・・先生、お母さんを助けてくれてありがとう」

「ん?なんだ、急に。医者が患者を助けるのは当然の事だろう」

呆れたような声に、由佳は少し笑ってからガラスに触れている手をギュッと握り締めた。

「本当にありがとう」

「由佳?」

「嬉しいの、お母さんが助かって。本当に心の底から嬉しいって思ってる・・・だけど」

 榊に会った事で自分の中にある一つの本音が、心の中で渦巻き始めて、チクチクと心を刺すのだ。

「だけど何だ?」

遠慮も衒いもなく自分の言葉を追ってくる榊に、由佳は言葉を詰まらせた。

コツ、とガラスに額を押し当てる。

こみ上げてくる熱いものを抑えきれず、由佳は一粒の涙を流した。


「お母さんはどうして自殺を選んだんだろう」


「・・・」

「私が居るのに、死ぬことを選ぶの?二度も私は捨てられたの?」

「由佳」

「私が居るから、乗り越えようって思ってくれなかったのかな・・ねえ、先生」

 

由佳は言葉を切ると泣き顔のまま、笑った。

榊はそんな由佳を見てきつく眉を寄せると、無言のまま強い力で細い肩を掴んだ。


「・・・泣くな」


低い声と共にグッと引き寄せられ、由佳は榊の胸の中に抱き締められる。


「すまん」

強く抱き締められていた由佳には、榊の声はくぐもって聞こえた。

だからだろうか、どこか悲しげだった。


「どうして先生が謝るの?」

「俺はお前を苦しめてばかりだ」

「苦しめてばかりって、先生は何も」

「お前の苦しみの元凶は全て俺にある。こんなことになると知っていたら・・・」

そこで言葉を切ると、榊はゆっくりと由佳の体を離した。

顔を上げると榊が表情を曇らせている。

由佳には榊の言っている言葉の意味が理解できなかった。

「せんせ・・」

「知っていたら、やらなかったのにな」

「・・・?」

「こんなことになると知っていたら・・・俺は」

榊は苦しげに顔を歪めた。由佳はずっとその表情から目を逸らせなかった。

由佳は次の言葉を待った。

けれど、どれだけ待ってもそれきり榊の口からその言葉の続きは出てこなかった。

サッと由佳から目を逸らすと榊は千歳を見やる。


「由佳」

「・・・何?先生」

「あいつが好きか?」

「あいつって・・・」

「穂紬が、好きか?」

「!・・・急に何を・・」


突然の質問に由佳は戸惑う。

意図せず頬が赤くなっていくのを、熱さで自覚しながら、口ごもっていると、由佳には視線を移さないまま榊は苦笑を浮かべた。


「好きなのか?」


尋ねる横顔は穏やかなそれでありながら、鋭利に尖っているようでもあった。

それでも視線を外さずに、由佳は何度か唇を戦慄かせると、思いを紡ぐ。


「うん・・・好き、穂紬さんが好き」


由佳は正直に答えた。何より言葉にすることで、ずっと曖昧なままになっていた気持ちが、自分の中ではっきりと形になった気がした。


「全く・・何だってよりにもよって」

困ったような、呆れたような。そんな榊の声音に由佳はハッとして、自分の髪を一房掴んだ。

毛先をもてあそぶ様に指先を絡める。


「・・・私みたいな子供が好きって言っても、困るよね。穂紬さんは大人の男の人だし」

「別にそんなことは言っちゃいないさ。俺が言いたいのは、いつだって神ってやつは、こっちが困るような道ばかり用意しやがるってことだ」


「かみ?・・・かみって」


榊は真顔を由佳の方へ向けると皮肉に顔を歪めた。

「神様のことだ。由佳、お前は信じるか?」

「・・え?っと・・たぶん、信じてる、と思う、けど」

「そうか。俺は信じてない。目の前に居たら、間違いなく殴り飛ばしてやるよ」

 吐き捨てるような言葉だった。

「先生は、神様が嫌いなの?」

 榊は沈黙した。一度、深く息を吐くと、

「嫌いなんじゃない」

「じゃあ、何?」

「・・俺は神が憎いんだ」

 確かな拒絶である言葉と、そう言い放つ榊の表情は由佳の知る榊ではなかった。

 剣呑な雰囲気を纏う榊だったが、しかし由佳はその姿に別の人間を重ねて見てしまった。

 有美に彼らの過去を見せてもらったあの日、最後の一言を放った彼と同じに見えたのだ。

 あの時の有美はとても辛そうだった。

今、目の前の榊も同じ表情をしている。「先生は苦しんでいるの?」と、尋ねようとしたが由佳は言えないままに口をつぐんだ。

そこは恐らく自分が踏み込んではならない領域に思えたからだ。


「穂紬も俺と同じだ」

「え?」

「いや、どちらかと言えばあいつの方がより一層、だろうな」


 神を憎む。そんな感情なんて抱いたことすらない。

由佳は榊の言葉に何と返せばいいか分からず、グッと手の平を強く握り締めた。

「あいつの心は暗く深い所にある。引き上げるのは容易ではないだろうし・・引き上げたとしても支えるのはきっと辛い。それでもあいつを好きだと言うか?」


「先生、私・・難しいことはあまり分からないし支えるとか出来るかどうかも分からない、だけど穂紬さんが好き。穂紬さんを助けたいの」


一つのよどみなく由佳は言った。

榊は少しの後「そうか」と穏やかな笑みを浮かべ、由佳の頭をぐしゃぐしゃとかき乱した。

最後にポンポンと撫でつけると、まるで「行け」とでも言うかのように由佳の背を押した。


「せんせ」


一歩を踏み出した由佳は振り返った。

「何だ?」

「ありがとう。私、先生と出会えて良かった」

「・・・由佳」

「先生が居てくれなかったら私きっと駄目になってた。本当にありがとう」

 由佳は満面の笑みを浮かべた。

「先生、大好きよ。これからもずっと一緒に居てね」

 僅かに目を見開いた榊は次いで苦笑いを浮かべた。

「医者と長らく付き合うのはあまり喜ばしいことじゃないんじゃないか?」

「いいの!それじゃあまたね」

 手を振って、踵を返すと由佳は廊下を歩き出した。







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