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愛をつたえる  作者: 川角檀弓
22/30

砂上の楼閣





その週末に由佳は母と共に暮らすべく、かつての実家に戻った。

ずっと伯父が管理をしてくれていたので、今もそのまま住める状態になっていたのだ。

由佳の不安に反して母との生活は順調に始まった。

子供の頃と違い、母がいつも穏やかで笑っていたからかもしれない。

どうしてあの頃母はあんなだったのだろうか、そもそもどうして父を殺したのか。

暗黙の了解で由佳はその件には一切触れなかったが、考えてみれば父と母のことも何も知らないのだと気付いた。

それでもそのことだけは絶対に聞くまいと、心に誓った。


知らなくていいことがこの世界にはたくさんあると由佳は知っていたから。


千歳と暮らし始めて一週間が過ぎ、十二月も半ばになり年末も近づいてきたので二人で大掃除をすることにした。由佳はリビングと自室を、千歳は水周りと自身の寝室を。

午前中を使ってリビングの掃除を終えると、ふと母の姿が見えないことに気付いた。


「お母さん?」


家中を探すと、母は寝室に居た。

タンスの前に座り込み、手に何かを持っている。

呆然とした様子が見て取れて、不安を覚えた由佳は母に駆け寄った。


「どうかしたの?」


声をかけるが聞こえていないのか、母は無反応だった。

明らかにおかしい様子に由佳は肩を掴むと揺さぶった。

ガクガクとされるがままの母の手から、持っていたものが零れ落ちる。


それは指輪のケースだった。


どうしてこんなものが?・・・由佳は首を傾げた。


「・・・・・ぁなた」

掠れた声に、由佳が覗き込むと母は号泣していた。

大粒の涙を幾つも零し、しゃくりを上げると落ちた指輪ケースを拾い胸に抱き、蹲って泣き続けた。

由佳は困惑した。何故母が泣いているのか分からないのだ。

でも、胸に抱いている指輪のケースがその原因であることは容易に想像がつく。

落ちる時にちらりとケースの内側が見えた。

収まっていた指輪は母のものなのだろうか。

贈られたもの?誰に?父に?


「お母さん」


訳も分からないまま由佳は何度も母に呼びかけ、そして側に寄り添い続けた。

どれくらい経っただろうか。

ようやく嗚咽が止んで、母が顔を上げる。

その表情は妙にすっきりとしていて、憑き物が落ちたかのようだった。


「ごめんね、由佳。変なところ見せちゃったわね」


涙を拭いいつものように笑いかけてくる。由佳は母の肩に手をかけたまま、顔を覗き込む。


「本当に大丈夫?・・・それ、どうしたの?」


母は両手の中に指輪ケースを大切そうに握り締めている。


「・・・うん」


由佳の問いには答えず、千歳は立ち上がると持っていた指輪ケースをタンスの引き出しにしまった。


「もう大丈夫、ごめんなさい。さあ、掃除に戻りましょう。」

「だけど」

「大丈夫だから。ほら、由佳おいで。」


手招きしながらそう言って部屋を出て行く母の背を、由佳は無言のまま扉の向こうに姿が消えるまで見つめ続けた。少しの間立ち尽くしてから、由佳は母の後を追いかけるように部屋を出た。


母は、さっきの出来事は本当にあったのだろうかと思うくらいに何事もなく振舞っており、由佳は結局それきり何も聞くことは出来なかった。しつこく食い下がれば、全てが脆く崩れ去ってしまいそうな錯覚を覚えたからだ。


自分は不安定なものの上に立っているのかもしれない。

「・・・・・っ」

由佳は身震いした。

分かっていても、どうもなりはしないのだ。自分が選び取った答えなのだから。

「由佳?」

「・・あ、今行くー。」


 思考を止め、由佳は母に向かってそう言うと笑みを浮かべる。そして母の元へ駆け寄った。



夕方に大掃除を終えてから二人で簡単な夕食を取ると、いつものように少しくつろいでから由佳は風呂を済ませた。

夜の十時を過ぎた頃だった。


「疲れたから私もう寝るね、おやすみ。」


タオルで濡れた髪を拭いながらリビングに顔を出す。

「ええ。おやすみなさい、由佳。」

ソファに座っていた母はそう言って笑って、手を振ってくれた。

その様子に由佳は「今日の事はきっともう何の問題もないのだろう」と安心してそのまま自室へと入ったのだ。



翌朝、目を覚ますといつものように由佳はリビングに行った。

ガチャリと音を立ててリビングの扉を開ける。


「おはよー。」


返事がない。

そこは物音一つなく静まり返っていた。由佳は辺りをキョロキョロと見回す。

てっきり母が居るものだと思っていたのに、そこに千歳の姿がなかった。

一緒に暮らし始めてから一度もこんなことはなく、何故か由佳の胸に言いようの知れない不安が過ぎていく。


「お母さん、まだ寝てるの?」


 母の寝室へ行くがそこにも姿が無い。


「お母さん、どこ?」


由佳は手当たり次第に探した。

家中の部屋という部屋を全て確認したが、しかしどこにも母の姿はなかった。

由佳は最後に浴室へと向かった。探してないのはもうそこだけだったのだ。

脱衣所の扉を開くと中から水音がしてきて、シャワーを浴びているのかと安心したがすぐに様子がおかしい事に気がついた。


浴室の扉が少し開いているのだ。


「・・・・お母さん?」

恐る恐る近づくとムッとした、鉄のにおいが鼻につく。由佳は震える手で浴室の戸を開けた。


そこに母はいた。

湯を張った浴槽に腕をつけ、そこにもたれかかるようにしている。

辺りは一面真っ赤に染まっていた。


何が起きているのか、由佳には一瞬理解出来なかった。

「お母さん!」

動かない体に飛びつくと、千歳の体はずるりとその場に崩れ落ちてしまう。

由佳の頭の中はパニックになって、どうしていいのかもう分からない。


「いや、いや!やだよぉ・・・・誰か・・・、誰か助けてよ!」


泣き叫びながら由佳は風呂場を飛び出しリビングに行くと、そこに置いておいた携帯を震える指で操作した。誰にかけているかなんて分かっていなかった。

ただ、繋がって欲しい、それだけを考えて電話をかけた。

呼び出し音が数コール鳴って、相手が出た瞬間。


「お願い助けて、お母さんを助けて!」


相手が誰かも分からないまま、泣きながら叫んでいた。





ーーーーーーーーーーーーー





一時間後、由佳は病院の手術室の前のベンチで震えていた。


「大丈夫だから。」


そう言って優しく手を握り締めてくれるのは、穂紬だった。

穂紬は泣きながら突然電話をかけてきた由佳に動じることも無く冷静な対応をしてくれた。

由佳の家の場所を聞き出し救急車を呼び、すぐさま駆けつけてその対応もしてくれた。

そして泣いて動けずにいる由佳を励ましここへ連れてきてくれて、病院に着いてからもずっと側に付き添ってくれていた。

千歳は腕の動脈を切り裂いており、病院に着いた時には危険な状態だった。

運ばれたのは榊の勤めている病院で、丁度居合わせた榊が迅速に対応をしてくれ、すぐに手術室へと運ばれていくその姿を由佳は扉が閉まるまで見続けた。

直後、手術中のランプが赤く点る。

まるで夢を見ているかのような、そんな気持ちのまま、穂紬に促され側にあったベンチに由佳は腰掛けた。

身動き一つ取れなくて、固く目を瞑ると握り締めた両手に額を押し当てた。

由佳は祈った。こんな時ばかり神頼みをするなんて、調子が良いと思われても他に縋るものは無い。


神様。神様。神様、どうかお母さんを助けて下さい。

由佳はただただ、終わりなく、祈り続けた。


手術が終わったのはそれから三時間後のことだった。

由佳にとって恐ろしく長い時間だった。

手術中のランプが消え手術着をまとった榊が手術室から出てくる。

由佳は咄嗟に立ち上がった。精悍な顔に少しの疲労が見える。

そう言えば榊にもすごく久しぶりに会った気がする。

こちらへと歩み寄ってくる榊は、由佳の目の前で立ち止まった。


「とりあえず危機は脱した。・・・・・・よく、頑張ったな。」

「・・・・先生」

「まだ油断は出来ないが、必ず助けるから安心しろ。」


力強い言葉に安堵を覚え、由佳は涙を流した。

何度も頷きながら嗚咽を漏らしていると、くしゃりと髪を撫でられる。

顔を上げると榊が優しい眼差しで由佳を見ていた。


「先生?」

「・・・・いや」


手を放すと榊はそのまま立ち去っていった。


「由佳ちゃん、少し休もう。」

穂紬にそう声をかけられ由佳は顔を上げた。

笑みを浮かべる穂紬に、由佳は涙を拭いやっと笑いかけることが出来た。


「穂紬さん、本当に、ありがとう。」

「僕は何もしてないよ。」


苦笑し手を振る穂紬だったが、由佳一人だったのなら恐らく母は手遅れになっていたのだと思う。

廊下の先へと向かっていた穂紬がふとこちらを振り返り、小さく手招きをしてくる。

由佳はその後を小走りに追いかけた。

そのまま二人で待合室に移動すると、自販機で穂紬が飲み物を買ってくれた。

手渡されたのは温かいココアで、由佳はそれを握り締めてひっそりと微笑んだ。


「あ、勝手に選んだけど・・・大丈夫だった?」

「うん、大丈夫。これ、好きです。」

「それなら良かった。」


まだ越えなければならない壁がある。

だけど、今だけは穂紬とこうしていたくて由佳は口を噤んだ。


「一つ、聞いてもいいかな?」


ポツリと言葉が発せらる。

彼は、少し険しい顔つきをしながら、苦しそうにこう言った。


「お母さんはどうして自殺未遂を?」

「・・・・どうしてって」


由佳は真っ直ぐに穂紬の目を見つめた。


「私には分からない、でも」

「でも?」


由佳は昨日のことを脳裏に鮮明に思い起こした。


「昨日、家の大掃除をしてた時、少ししたらお母さんの姿が見えなくなったの。だから探して、そうしたら、お母さん自分の寝室のタンスの前に座り込んで、指輪の入ったケースを握り締めて泣いていたの。」


穂紬は真っ直ぐに由佳を見つめ、その言葉を聞き続ける。


「他に、おかしい所はなかった。だから、きっとあの指輪が理由なんだと思う。」


母を自殺にまで追いやったあの指輪がなんだったのか由佳には分からない。

けれどどうしてだろう。

嫌なものには思えないのだ。

だって母はとても大切そうにケースを握り締め胸に抱いていた。


「そうか、お母さんは指輪を見つけたのか。」

由佳から視線を逸らすと穂紬は短く息をついた。そしてうな垂れるときつく目を閉じてしまう。

穂紬の言葉に由佳は引っ掛かりを覚えた。

「穂紬さん、何か知ってるの?」

しかし問うても穂紬はうな垂れたまま。微かに口元が何かを呟くのが見えたきり、彼は少しの間固まって動かなくなってしまう。

由佳は待った。

いつも彼がそうしてくれているように、黙ってジッと穂紬を見つめていた。


「以前・・」


「え?」

抑揚の無い小さな呟きに、由佳は身を乗り出す。

膝に置いたままの穂紬の腕をそっと掴み、吐息が触れ合う距離にまで身を寄せた。

そうしなければ、彼の声はあまりに小さくて聞き取れなかったのだ。

「以前、君のお母さんの精神鑑定をしたことがある。」

「・・・精神鑑定って、穂紬さんが?」

「ああ。とは言ってもちゃんとしたものではなくて、君のお父さんの言葉を・・・・お母さんに伝えたんだ。夢に見せて」

穂紬はそう言った。

「待って。穂紬さんもお医者さまなの?え、ちょっと待って・・・それじゃあ、穂紬さんはお母さんのことを知っていたの?」

「由佳ちゃん」

「待って、待ってよ。・・・・一体、何がどうなってるの?」

 あまりの混乱に、由佳は取り乱してしまう。思いがけず涙が零れ落ちてしまい、慌ててそれを隠すように手で目元を覆ったが、穂紬には見られてしまった。

「由佳ちゃん、落ち着いて。」

 

自分の腕を握り締めていた由佳の手をそっと掴むと「全部話すから、ゆっくりと息をして、気持ちを落ち着けて欲しい」そう言われ、由佳は空いた手で涙を拭うと顔を上げ、浅い呼吸を何度か繰り返した。

図らずも穂紬と見つめあう形になり、由佳は向けられる視線を真摯に受け止めた。


「ごめんなさい、もう大丈夫です。」

「由佳ちゃん」

「全部、聞かせて下さい。」

 知らないままでいいなんて目を背けることと同じなのだ。

 もう現実から目を逸らさない。由佳はすべてを知る覚悟を決めた。








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