淡い恋
それから青柳が再び由佳の元に訪れたのは一週間後のことだった。
由佳がいつものように花瓶の水を換えているとノックの音がして、振り返ると紙袋を持った彼がそこに立っていた。
青柳の姿を見た瞬間、由佳は自分の心が躍るのを自覚した。ドキドキと胸が高鳴って、頬が熱く感じる。
小走りに彼の元へ行くと紙袋を渡された。
「遅くなってごめん。これ、約束の本。」
「・・ありがとうございます。」
「それで・・一週間後にまた来れそうなんだけど、その時は中庭の噴水の前に来れる?」
「え?」
「感想、聞かせて下さい。」
「あ、あの・・・」
「迷惑?」
「いえ、そんなことは!」
「じゃあ決まり。・・・心配しなくても変なことなんてしないから。」
それだけ言うと彼は手を振って行ってしまった。由佳は半分ぼうっとしながら彼の姿を見送った。
こんなことが本当に起こるなんて。これは夢だろうか。
由佳は思わず自分の頬を思い切り抓ってしまっていた。
「痛い!・・・・・夢じゃないんだ。」
頬をさすりながら、由佳は青柳の言葉を思い返した。
どうして誘ってくれたんだろう。まさか、まさか。
そんなまさかがある訳ない、だってあの人は大人の男の人だ。
高校生なんて相手にするはずがない、のに。
それでも、心のどこかで期待してしまっている自分が居た。
ほんの少しだけ、浮かれてしまってもいいだろうか。
由佳は病室内を振り返った。
「・・・お兄ちゃんごめんね、少しだけ」
夢を見させて下さい。
そう、小さく呟いた。
待つと一週間というのはとても長く、由佳は毎日やきもきしていた。時間が経つほどに、あれは彼の気まぐれで本当は冗談だったんじゃないか、とか。からかっているだけ、とか。
とにかく色々マイナスなことをいくつも思いついては一人落ち込む日々を繰り返していた。
けれど。
一週間後。約束の日の約束の場所に、恐る恐る向かった由佳は、そこに彼の姿を認めた瞬間。
嬉しさに目に涙を滲ませてしまった。
青柳は噴水脇のベンチに腰掛け、静かに本を読んでいた。
由佳はゆっくりと、一歩一歩彼に向かって歩く。
後もう数歩で青柳の前に立とう、というところで足音に気付いたのか彼が顔を上げた。
二人の目が合った。
青柳は由佳の姿を認めるとホッとため息をつき、はにかみながら頬を掻く。
「良かった。来てくれた。」
その言葉とその姿に、由佳は胸が熱くなるのを感じた。
いつの間にか、名前しか知らないこの人のことを自分は好きになってしまったのだ。
ほんの数回しか会っておらず、まともに言葉すら交わしてもいないのに。
胸を高鳴らせながら由佳は青柳の隣に腰を下ろした。
どうしていいのか分からなくて、顔が上げられない。
どんどん熱くなってくる頬を隠したくて、由佳は両手で頬を覆った。
「どうぞ。」
声をかけられ、俯いた視線の先にスッと缶ジュースが差し出される。由佳はそれを震える手で受け取ると青柳の方に向き直った。
「あの・・・・」
何か、言わなければと口を開いても、緊張しているせいで上手く言葉を発せられない。
由佳はどんどんと焦っていった。
青柳はそんな由佳を目を細めながら見ていたが、おもむろに自分の横にあった紙袋を手に取るとそれを由佳に差し出した。
「これ、本の続き。」
「あ。」
「どうだった?面白かったでしょ。」
そうだった、本題は借りた本の感想を言うんだったと、由佳はここへ来た一番の理由を思い出した。
そう言えば借りた本を持ってくるのを忘れてしまった。
でもまた貸してくれたから、今日で終わりじゃない。
そう思ってもいいだろうか。
少しの不安を覚えつつ、由佳は本の内容を思い起こした。
「すごく、面白かったです。あの――」
そこからの由佳は饒舌だった。青柳から借りた本は非常に面白く、また考えさせられるものだった。
抱いた感想を口にすると青柳も強く同意を示してくれて、自分たちの価値観は似ているのだと気付かされ、それがまた由佳には嬉しかった。
その日、二人は初めてまともに話したとは思えないくらいに饒舌に語り合い打ち解けあった。
会話は尽きず、日が暮れるまで話し込んだ。そして時間が来て帰らなければならなくなった時、当然のように次に会う約束をしてから別れた。
それから由佳は青柳と一週間に一度のペースで会うようになり、会うごとに親密さが増していった。
そうなれば互いのプライベートの話になるのは自然の流れだった。
そこで由佳は彼の名前以外のことを聞いた。弟が居ること、その弟と小さな会社を経営していること。
年は今年で三十歳だという事。
さして重要ではないそれらの情報に、それでも由佳は彼のことを知れた喜びを覚えた。
由佳も同じような内容を彼に告げた。
しかしそれ以上は言い淀んでしまう。
普段、由佳は決して自身のことを他人には語らなかった。話せば根掘り葉掘り余計な詮索を受けると知っているからだ。
それほどまでに由佳の身上は他人の興味を引くものだった。
由佳が青柳と会うようになって一ヶ月が過ぎたある日、青柳にも聞かれた。何故毎日兄の見舞いに来ているのか、どうして由佳以外の親族が見舞いに来ている気配がないのか。
そう聞かれた時、由佳は閉口した。言いたくない気持ちと、言いたい気持ちが同じくらいの大きさで胸の中を占めていて、悩んだのだ。
知れば青柳もきっと自分のことを奇異な目で見て、避けるようになるかもしれない。それが怖くて今まで自身のことを何も言えずにいた。
この人には嫌われたくなかったから。
「言いたくないことなら無理して言わなくていいよ。」
言いよどむ由佳に、何かを察したのか青柳は優しくそう言ってくれたが、由佳はその言葉を聞いて、小さく首を振る。
話したくない気持ちよりも、話したい気持ちが勝っていた。この人なら他の人のように酷いことを言ったりしないかもしれないと、信じたかった。
由佳はニコリと微笑んで見せた。
「大丈夫。だから、聞いて下さい。」
由佳は話し始めた。青柳はそれを黙って聞いた。
「あのね、私両親がいないんです。母は生きてるけど・・・刑務所に居るんです。父は死にました、母が殺したんです。その時私は八歳で、何が起こったのかまるで分かっていませんでした。ある日突然、父と母が家に帰って来なくなって、訳が分からないでいると親戚の伯父が家にやってきて『今日から僕の家で一緒に住もうか』って。その日から私は伯父さんの家に引き取られたんです。それから母には会っていません・・・・こんな言い方をしたら薄情かもしれないけど、元々母のことはあまり好きではなかったんです。父が、母に殺される数年前から寝たきりになっていたから、介護でほとんど構ってもらえなかったのは仕方ないって今ではそう思えるんです。だけど、多分初めから私は母にあまり愛されてなかったんじゃないかって、最近思うんです。勘違いなんかじゃなくて、本当に。だって、いつも私のこと冷たい目で見てきた。今でも夢で見るんです。母は時々物凄い形相で私を睨んできました。あの目で見られると、怖くて私は甘えることも出来なかった。」
青柳は相槌も打たず、ただ黙って由佳の話を聞き続けた。由佳も、堰を切ったかのように話し続けた。
「あまり実感はないんですけど、私・・・人殺しの娘なんですよね。小学校でも中学校でも、そのことが周りに知れると必ずいじめられました。本当に辛かったけど、事実だから仕方がなかった。私のお母さんは、人を、父を殺したんだって。」
由佳は真っ直ぐに前を見つめながら淡々と話した。
横で、青柳が痛ましげに顔を歪めていることに気付かないまま。
「・・母が父を殺した時よりも前に、兄は植物状態で寝たきりになっていました。私、兄がどうして寝たきりなのか、理由を知らないんです。それに兄は私が物心付く前に家を出ていたから、その存在もどこか希薄に感じるんです。兄のことは何も知らない、だけど唯一側にいる肉親だから。私、お兄ちゃんがいなくなったら本当に独りきりになってしまう。」
由佳はそこで言葉を切った。胸がいっぱいになって言葉が痞えてしまったのだ。
「・・・前、青柳さん言いましたよね。毎日お見舞いに来て、お兄さんのこと好きなんだねって。」
「ああ・・・そうだね。」
「私、それ言われた時、ドキッとしてしまったんです。だって、すぐに『そうだ』って返せなかった・・・私、本当はお兄ちゃんのこと好きでお見舞いに来てるんじゃなくて、独りが嫌だから・・・ここに来てるんじゃないかって。」
真っ直ぐに前を見つめる由佳の目から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
「お兄ちゃんだって、私のこと本当は好きじゃないかもしれない。だけど・・・だけど目を覚まさないでずっと寝てるから、私自分の都合のいいように取って」
「・・・由佳ちゃん」
「卑怯ですよね。自分の為に寝たきりの兄を、利用してるんです。・・・先生も看護師さんたちも、いつも来てて偉いねって言ってくれるけど・・・本当は違うの。私、自分の為にしてるの・・私は独りじゃないって思い込む為に、お兄ちゃんの存在を利用してる。」
込み上げる嗚咽を必死で押し殺しながら由佳は自分を責める言葉を吐き続けた。本当は、純粋な良い子のふりをしているだけで、『いい子』などではないのだ。
それがもうずっと辛かった。
ある日気付いてしまった、その時からずっと。
でも。何よりそうでもしなければ、自分の中に誰からも愛された記憶がまるでないのが、辛くて仕方なかった。
だから、愛してもらえる自分を作っていた。
「それは違う。」
「・・・え?」
由佳の言葉を遮った青柳の言葉は強く、由佳は涙に濡れた顔を彼に向けた。
青柳は労わるような優しい眼差しを由佳に向けていた。
「君は一番大事なことを忘れているよ。」
「・・・」
「本当にその人のことを好きでなければ、毎日お見舞いに来るなんて、出来やしないんだ。人間は怠惰の生き物だからね。だから君がどんなに自分を否定しても、毎日お兄さんの所へ通っている事実が、君がお兄さんをどれだけ好きなのかを物語っている。」
「・・・・青柳さん」
由佳が名を呼ぶと、青柳はふわりと、優しい笑みを浮かべた。
「ずっと一人で辛かっただろう。・・・・・偉かったね。」
そんな言葉と共に青柳の大きくて温かい手が由佳の頭を撫でた。
優しく何度も撫でられて、それは由佳の孤独だった心を少しずつ溶かして行く。
由佳の中で張り詰めていた緊張がプツリと途切れた。
次の瞬間、由佳は大きな泣き声を上げながら泣いた。
苦しかった、本当はずっと誰かに知ってもらいたかった。
自分の苦しかった心を、こんな風に受け止めてもらいたかった。ずっと、ずっと。
由佳は泣き続けた。
長い間ずっと由佳を苦しめていた感情が、ほんの一欠けらすらなくなるまで。
青柳はそんな由佳を優しい眼差しで見つめながら、いつまでも少女を慰め続けた。
そしてひとしきり泣き続けた由佳の嗚咽が止み、再び顔を上げた時、その顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
けれど、晴々とさえしていた。
二人の視線が重なり、少しの間そこに沈黙が流れた。
それを破ったのは由佳だった。
「・・・・・泣いちゃった。」
「うん、泣いたね。」
「でも、スッキリした・・・・・・・ありがとう、青柳さん。」
えへへ、と涙に濡れた頬を両手で拭うと由佳は微笑んだ。さっきまであった胸の奥のもやもやがなく
なっているのが分かる。由佳は両手を握り締めるとそれを胸に当てた。
「お兄ちゃんが好きって・・・・何か、やっと胸を張って言える気持ちになった。」
地に足が着いたような、不安定だったものがなくなった、そんな感覚だった。
由佳は病院の方へ視線を投げた。そして兄の病室がある辺りで視線を止める。
「本当にありがとう。」
ふわりと吹いた風に靡いた髪を由佳は手の平で抑え、もう一度言った。
心が穏やかになる、それだけで全ての見え方が違っていた。こんなに辺りは明るかっただろうか、草花の香りが鼻に届いていただろうか。
たったこれだけのことで、こんなにも見え方が違って見えるなんて。
ちょっと単純かしら、と由佳は一人笑った。
「今度」
「・・・え?」
「今度、お兄さんのお見舞いに行ってもいいかな。」
「・・・・・・はい。」
由佳は頬を染め、はにかんだ笑みを浮かべながら小さく頷いて見せた。
やっぱりこの人のことが好きだ。大好きだ。
覚えたばかりの恋心を、由佳は抑えきれなくなり始めていた。




