朧月夜
肌暖かい春の夜。ほのかにかすんだ月が、下界をぼんやりと照らし出す。
私は、その銀光を浴びながら、仄暗い砂利道をひとり行く。
私がそこを通っても不思議と音は立たず、あたりは不気味な空気に包まれていた。
畔には、小さな小さな水路が、静かに静かに流れている。
耳を澄まさなければ、その存在さえも忘れられてしまうような、人工の川。
けれど、こんなちっぽけなものが私たちの生活を支える田園へと流れ込み、私たちを生かしてくれていたことを思うと、素直に感動してしまう。
今更だけど、本当に今更だけど、私はその健気さに感謝した。
さて。
鬱蒼と草木が生茂った、この田舎道は、彼の実家へと繋がっている。
私は、彼に逢うために、今日ここに来た。
でも、彼は、そんな事を望んでいないのかもしれない。
なぜなら、私達はちょうど一年前に別れたのだから。
そして。
彼は、おそらく私を忘れるために、実家へと帰ってきたのだから――
ふと、横を見ると、私の周りを二羽の蝶が舞っている。
それは、見たこともない、夜闇に溶け込んだ黒い色をしていた。
私が撫ぜようとして、その手を伸ばすと、漆黒の蝶は一羽、二羽と私の体をすり抜けるようにして、飛んでいってしまった。
不意に、私の胸に不安が芽生え、私は立ち止まる。
彼は、こんな私に逢って、くれるのだろうか……
私は、本当は此処にいてはいけない存在なのだ。
それは分かっている。
今こうしているのは、単なる私の、我儘で、エゴで、身勝手なのだ。
ただ――今日は、今の私が生まれた日。
だから。
せめて、今日だけは逢ってほしい。
私達は、気軽に逢うことも、話すことも、メールを交わすことも、出来ない。
けれど。
せめて、一目だけでも彼の姿をこの目に焼き付けたい。
強い願いが私をつき動かし、強い思いだけが私の背中を優しく押してくれる。
私は顔を上げて、また暗闇を進み出した。
しばらくすると、奥の奥にほんのりとした明かりが見える。
優しい金色の光に包まれたところに彼の家はあった。
古い木の質感が漂い、時代の流れを思わせるその造りは、付き合っていた頃、彼によく聞かされた家のイメージと見事に一致していた。
彼はいつも、ボロイだの、汚いだの、口を尖らせて悪口ばかり言っていたけど、最後はいつも、「まあ、一緒に住むなら、あそこしかないんだけど、さ」と照れくさそうに笑っていた。
私は、その頃の自分達と照らし合わせながら、彼の家をじっくりと眺める。
すると、その頃の私が思い描いていたイメージが、何年も、何十年先までも呼び起された。
――彼の声、子供達の声、私の声がこだまするなかで、私達はいつも笑顔だった。
老朽化が進んだ家を、子供たちが走り回るせいで、床がぎしぎしと軋んでいる。
夏が近づいてくると、室内は異様なほど暑くなるので、私達は出来る限りの薄着になる。
秋になれば――
ガチャリ
誰かが扉を開ける音がして、私は現実に引き戻された。
ドアの向こうから顔を覗かせたのは、彼ではなく、彼の母親だった。
一度会ったことがあるだけだが、私はしっかりと彼女の快活で優しそうな顔を覚えていた。
しかし、彼女はこちらに目を向けることもなく、扉を閉めた。
その無機質な音が、無慈悲に私の中を壊そうとする。
私が先に描いていた幻想は、形を帯びることなく消え失せ、この場所において、私は自分が完全に部外者であることを思い知らされてしまった。
でも、負ける訳にはいかない。
私は、玄関から入ることは躊躇ったが、変わりに彼の部屋の窓辺に立とうと思った。
顔を上げて、明かりの点いている部屋を闇雲に探し始める。
確証など無かった。
それでも、今の私には絶対に彼を見つけ出す自信があった。
すると、三つ並んだ部屋の内、一番小さな部屋の窓から、まばゆい蛍光灯の光が漏れ出しているのが目についた。
あそこだ。
私はそちらへゆっくりと近づいていき、そして、窓の外から室内の様子をこっそりと窺った。自分の鼓動が高鳴っているような、そんな懐かしい感覚に捉われながら、脳裏に刻まれた彼の姿を確認しようとする。
いた――
窓のすぐそばに置かれている机に向かって、彼はいた。
思わず声を漏らしそうになるほど近くに、彼はいた。
手を伸ばせば触れられるほど近くに、彼はいた。
一年前とほとんど変わらない姿で、彼はいた。
私がいつも傍に寄り添っていた彼のままで、彼はいた。
思い出は駆け廻る。いずれかは終局する今へと向かって。
それでも、私は笑顔になっている。昔も。今も。
そう。彼の傍にいる私は――いつも笑顔なのだ。
私の胸が充足で溢れる気がした。
こうして望み通り彼に一目逢えたのだから、もう十分だろう。もう、帰ろう。
気がつくと、涙を堪えて自分自身にそう言い聞かせていた。
窓に背を向け、立ち去ろうとしたとき。
明らかに。鮮やかに。艶やかに。清らかに。
朧げな月が煌いた。
私は思わず立ち止まり、彼は思わず窓を開ける。
金色の光を浴び、天高い星よりも輝く私を見て、彼の口は私の名を刻んだ。
「理紗……」
私の声も彼の名を呼ぶ。
「……孝之」
私達はそれ以上何も言わず、ただ視線と視線を交わしていた。
でも、言葉が出てこなかったわけではない。
私と彼は、ただそれだけで通じ合っていたのだ。
二人の糸は鎖よりも強く繋がっていて、絆よりも固く結ばれている。
そう思い込んでいるのは私だけかもしれないし、どこにも根拠はないのだけれど、それでも、私はそう確信していた。
だから笑顔で彼に訊ねる。
「また、会いにきていいかな?」
彼もいつもの笑顔で言う。
「ああ、また、な」
彼の返事と笑顔を心に留めて、私は彼に背を向ける。
そして――
銀色の月を見上げ、吸い込まれるようにして、私は消えた。
今日は今の私が生まれた日――私の命日だった。
一年前の今日、私と彼は死に別れ、私に未練を残さないために、彼はこうして実家へと戻ってきた。
そんな決意をしていた彼に逢いに行っていいのだろうか。
私の心は揺らいだが、結局、自分の気持ちに嘘はつけなかった。
こうして、朧月夜のなか、彼の実家へと続く砂利道を一人進んできてしまったのだ。
朧月夜のおぼろげな記憶。
朧月夜は、おぼろげな私の姿を写し出し、彼の記憶もおぼろげにしてくれる。
明日になれば、今日の出来事は彼にとって、夢のようなものになるのだろう。
たとえ、彼が忘れてしまうとしても、私は彼に逢えて嬉しかった。
自分の我儘を貫き通したことを、反省してはいなかった。
彼には届かないかもしれないが、銀色の月に吸い込まれるようにして消える直前、私は彼にこう囁いた。
朧月夜にまた、ね――