アンドゥ
過去をやり直したいと思ったことは、誰しも一度はあるだろう。
また、睡眠時に学生時代の夢を見てしまうことも、全くないことではないだろう。完全に記憶をトレースするわけではなく状況だけで、遅刻しそうであるとか、なにがしかの授業を受けているとか、その程度であるとしても。
だがよもや、実際にその時代に戻ることができるとは、誰も思いはしないだろう。仮にそんな状態に放り込まれたとしても、夢を疑うだけだ。
「……あれ?」
ふと気が付くと目の前にゲームオーバーの文字が躍っていた。目の前と言ってもテレビ画面の向こう側だが。
そして僕はコントローラーを握ってテレビの前を占領し、行儀悪く背を丸めて胡坐をかいていた。視線を落とせば今は生産を終了したハード機と、だいぶ昔にヒットしたRPGゲームのパッケージが転がっている。
懐かしいという思いより、不信感が湧き立つ。そこにいる感触は夢にしてはリアルすぎた。コントローラーを握る汗ばんだ掌も、少し蒸し暑い室内の気温も、そして何より見覚えのある狭いこの部屋はつい先日戻って来たばかりの―――。
「悟、いつまでゲームやってんの! 明日から中間テストでしょ! 勉強はしたの!」
叱責の声に振り向くと、鬼の形相の母がそこにいた。お気に入りのドラマが見られなくて心底腹を立てているというのが分かる以上に、その姿は般若寄りであったとしても僕が知る母よりずっと若かった。
「今日って何日?」
思わずそう尋ねた僕の声は声変りはしていても知っているものより少し高くて、幼いという以外に形容しようのないものだった。まだ世間の厳しさの何もを知らぬ、ぬくぬくとした中で守られて自由気ままに生活しているほぼ無垢に近い子供のそれ。
「何言ってるの? カレンダー見なさいよ」
呆れた母親の声に視線を戻せば、テレビのすぐ横にカレンダーがかかっていた。よく見るとそのテレビも妙に奥行きがある。数字だけのシンプルなカレンダーによれば今は十月で、西暦は十六年前だった。
「そうか、これは夢か」
他に説明のしようがない。体は十六年前のままだし、現在三十になったばかりの僕の記憶を持ちあわせた精神のみがタイムスリップしたと考えるよりはよほど簡単である。しかし。
「そうやってまた勉強しないつもりでしょ、あんたは! あとになって後悔するのは自分なんだからね!」
「いててて」
母親に力任せに耳を引っ張られる。紛れもない痛覚の存在をまざまざと見せつけられ、僕は一気に自信を失った。夢にしては痛すぎる。痛覚のある夢だとてないことはないだろうが、それにしてもこのまま放っておけば耳が千切れそうだ。僕は痛みから逃れるために、コントローラーを放り出して母から飛びのいた。小言が追いかけてきそうだったので、そのままふすまで区切られただけの隣の自室へとのがれる。
「悟、ゲームはもういいの?」
「片づけといて」
「片づけぐらい自分でしなさい、まったくもう」
セーブしていないことに気づいたがどうでもよかった。どうせゲームオーバーでセーブポイントからやり直しだ。いや、そんなことより。
僕は暗い部屋の電気をつけた。そこには大阪から帰って来たばかりの僕の部屋があって、けれどそれにしてはやたらと散らかっているのは記憶にない。なくはないが、それはもっと昔の話、のはずだった。
四畳半の部屋は、本棚と勉強机でものすごく狭く感じる。真ん中には脱ぎ捨てたままの制服がくしゃくしゃになっていて、その周囲を漫画が積んであったり読みかけのまま伏せてあったりして、他にも脱いだ靴下やらが散乱して、ひどい有様だった。おまけに敷布団は敷きっぱなしで、押し入れには今の僕にはまるで興味のわかない玩具が乱雑に詰め込まれていた。
夢のはずだったがいつまで経っても覚めないので、仕方なく僕は目の前のものを片付ける。ここは団地で、僕の実家である。それは間違いないが、大阪の大学へ進んだのちそちらで居酒屋に就職し、そしてこの度辞めて戻ってきた。今は資格試験勉強の真っ最中だったはずだ。この、今教科書と鞄を置いておくための台と化している机に向かって。
その机の上には当然と言うべきか、資格取得用の教材など影も形もなく、代わりにテスト範囲とテストの日程が描かれたプリントが無造作に置いてあった。間違いなくこの時の自分は、これを見てもいないはずだ。楽しいことばかりを追いかけていた学生時代のテストの結果は、いつだって惨憺たるものだった。
だがそれも致し方あるまい。逃避するしか、当時の自分には選べる道がなかったのだ。勉強して見返してやろうとはつゆほども思わなかった。
そして資格試験を控えた今、それをものすごく後悔している僕がいる。
僕は片づけを辞めた。日程を確認して、教材を選別する。机の隅に追いやられて積まれている紙束は、通信型の学習教材だ。親にねだって小学校高学年から始めたものの、中学に入ってからは届くものをただこうして積んでおくだけで、ついぞ提出したことはなかった。
明日はテストだという。夢ならそろそろ覚めてもいい頃合いだが、時計が時を刻む音が静かな夜に響くばかりで一向にそれは訪れない。隣からは母親がドラマを見ている雑音がするが、僕を阻害することはなかった。
教科書を開く。ぼんやりとしか分からない内容。もし夢から覚めずにこれが現実として続いていくとしたら、これはむしろチャンスだ。やり直すためにこれ以上に素晴らしい環境はない。教科書の内容は、当時どうしてそんなにも難しがっていたのかと不思議に思うほど、するすると頭の中に入ってくる。資格試験の勉強で、本気を出した成果だろう。
学生時代にこの本気を出せなかったことが悔やまれる。むしろ大人になったからこそ勉強の楽しさが分かるというものかもしれないが。
朝になった。布団の中で目覚めた僕は、起き上がってもまだ夢の中にいることを思い知らねばならなかった。眠ったはずだが夢は見なかった。これが夢だからだろうか。
僕はまだ中学生二年生のままだった。台所の方で母親がせわしく働く音がする。この頃はいつもぎりぎりまで寝ていて挙句母親にたたき起こされて、碌に身だしなみも整えずに通っていた。それも彼らに付け入らせた隙であったのだろう。
覚めない夢の中にいるならせめてと僕は、洗面所で恰好を整える。鏡の向こうにはよく知った冴えない、けれど僕が知っているよりずっと幼い僕の顔がある。
暗く不遇な青春時代を送った、否、これから送る顔だ。これでよくもまあ、立ち飲み屋とはいえ居酒屋などに就職したものである。自分で望んだとはいえ、気が触れていたとしか思えない。
「あら、今日は早いのね」
ちゃんと起きてきた僕を見て母親が目を丸くした。驚きながらも少し嬉しそうで、この程度で喜ばせてしまうのだから自分がどれだけ駄目な子供だったかを痛感した。父親はもう出勤した後のようだ。
「行ってきます」
気は進まなかったが学校には行かねばなるまい。もし夢なら彼らには存在事消えていてもらいたいものだったが、残念ながら僕の知っている過去の通りに彼らはいた。
「うわ~、××野郎が来たぞ~」
ひどい罵倒の言葉で恐る恐る教室に入った僕を迎えてくれたのは、このクラスの人間ではない。やくざの息子という噂のある畠山健太である。テスト週間中であるにも関わらず、勉強もせずに取り巻きたる星野吾朗が同調して囃し立てた。教室にいる同級生らは、迷惑だろうに一瞥すらせず、関わり合いにならないようにそそくさと目をそらした。
十六年前の教室で果たして自分の席が分かるものだろうかと思ったが、それは杞憂に終わった。なぜなら畠山らがご丁寧にも、ゴミ箱の中身を僕の机の上にぶちまけておいてにやにやと笑っていたからである。
「きったねえなー、学校くんじゃねえよ」
「どうせ馬鹿なんだから、テストぐらい休めよ」
「聞いてんのかよ、無視すんじゃねえよ、××」
その程度の低さに、僕はどうしてこんな連中に怯えを抱いていたのか呆れたほどだった。十六年分多く重ねた人生観のせいか、幼稚すぎて恐怖すら抱けない。余りに間近で見すぎていたのだろう、こうして離れて冷静に見ると、馬鹿馬鹿しさが浮き彫りになる。
僕は彼らを無視してゴミを片付けると、勉強する体勢に入った。まだ開始まで時間があるせいか、畠山らはせっかく片づけたゴミを再び、汚い言葉と共に僕の頭上から振りまいてきた。まるで構ってほしくてちょっかいを出し続ける子供そのものだ。
「いい加減にしてくれ」
「あ? なんだよ、××のくせに。やんのか、こら」
席を立った僕を見て、一瞬怯んだものの星野は負けじと斜めに睨み付けてきた。僕より背の低いこの男が十六年後どうなっているか、実は僕は知らない。星野と畠山は性悪の二人だけでつるんでいて他に子分らしき者も友人らしき者もいないため、情報が入ってこないのだ。
一方でやくざの息子と噂される方は、これで看護師になるのだから驚きだ。顔だけは整っているがそこに性格の悪さがにじみ出ていて、本当に人看護する側に回れるものかと疑いばかりが強くなるが、事実なのである。
「なんだてめえ、逆らうのかよ」
「勉強したら? もうすぐテストだよ」
「はあ? 勉強したらー、だってよ」
下手なものまねをしてげらげらと下品に笑った畠山は僕がいつものように臆さないのを見て、不機嫌に顔をゆがめた。
「てめえ、俺に指図するのかよ。いつからそんなに偉くなったんだ? あ? ××のくせによぉ」
「××しか言えないのか。その随分と貧困な語彙力には同情を禁じ得ないね」
「……は、なんだその喋り方、きめえ」
まさしく貧困な語彙力を発揮しながら威圧してくる畠山だったが、子供の虚勢以外の何物でもないそれは僕を少しも脅かさない。怖がってうつむいていたのが馬鹿みたいだ。これまでじっと嵐が過ぎるのを耐えていただけの僕が急に反撃めいた行動に出たものだから、たじたじしているのが明らかだ。それは畠山や星野に限らず、教室の生徒たちの目にも異様なそれとして映ったらしく、僕はいつの間にか注目の的になっていた。
口でかなわない子供が次に出る安直な行動、すなわち暴力行為に至る前に、チャイムが鳴った。畠山らはこれ見よがしな舌打ちをして教室を出て行き、生徒たちは見世物の終了と共に無関心なそれに戻っていく。
それは僕の知る教室そのものだった。いじめられていても誰も助けない。かかわりを恐れて見ぬふりをするだけだ。そんなクラスメイトを、当時は恨んだものだ。だが時を経て彼らを恨んだかというとそうでもなく、むしろ彼らこそをどうでもいいものとして記憶していた。つまり、ほとんどの生徒の顔を覚えていないのだ。もしここが過去とは全く別の生徒が放り込まれた教室であったとしても違和感を覚えないほど、この頃のことで覚えているのはむしろ畠山と星野ぐらいという希薄すぎる関係しか持てなかった。
とはいえなんとなく、こんな顔だった気がするという程度のうすぼんやりとした記憶はある。そんな状態でテストを受けた。十六年前のテストの内容など覚えているはずもなく、初めて見るものと同意だった。だが三十の僕がこれから受けようとしている資格試験の内容と比べれば天と地ほどの差がある。ほとんどを勘で埋めた当時と違い、確信を持ってすらすらと答案用紙を埋めた僕だが、それでも一夜漬けでの限界はあった。
その日のテストが終わるなり家に直行した僕は、即座に翌日のテストのための勉強を始めた。母親がひどく驚いていたが気にしていられない。三日間の日程で組まれたテスト期間中、僕はずっと机に向かっていた。ゲームもせずテレビも見ない息子を母が心配したが、父は素行が悪くなったわけではないのだからと取り合わなかった。
そう、これからの僕は違うのだ。ぐうたらしていた僕は消え去った。いじめに屈せず、底辺と呼ばれる高校にぎりぎりで受かるということもせず、貴重な青春を棒に振ったりしない。すべて綺麗にやり直すのだ。悔いなど一切残さないように。
テストの結果は驚くべきものだった。少なくとも教師やクラスメイトや両親にとって。僕にとってはまだまだだ。せっかくやり直しの『二周目』にいるのだから、この程度で満足などしていられるわけもない。
中学だから順位が張り出されるでもないし、教師がわざわざクラス中に喧伝するわけでもない。もちろん僕も申告したりしない。だがなんとなく伝わってしまうものなのだ。クラスで最後尾をうろうろしていた順位を急にトップから数えた方が早いほどに上昇させてしまったものだから、そうするとクラスメイトから無関心さが取っ払われていくのは必然だった。
「お前すごいな。どこの塾行ってんだ?」
成績上位の生徒が食いついてきたのを筆頭に、僕は少しずつクラスへなじもうとしていた。以前なら話しかけられるだけで臆していた僕だが、三十の分別でもってすれば当たり障りのない不快感を持たせない会話を交わすことは容易だった。
「ばっかくせ、どうせカンニングだろ、××は」
「じゃあここで問題出してみれば? 習ってなくても三角関数ぐらいまでなら答えられるよ」
「は……? 何言ってんだよ頭おかしいんじゃねえの、気持ち悪いんだよ」
僕の成績が上がったことすら関係ないくせに気に食わない畠山らをあしらうことも、いっそスマートにできた。クラスメイトの目がみるみる変わっていくのを実感する。あぶれていたのが嘘のようだ。身だしなみを整えることで不潔さも減ったためか、今では女子からすらも話かけられる存在だった。
背を丸め、余裕なく誰とも目を合わせないように息を潜めていたのが以前の僕だ。背筋を伸ばし余裕を持ってどこまでも冷静な目で見渡すことができるようになってふと僕は、そこで初めて違和感を覚えた。
クラスメイトの顔と名前は、今では薄れていた記憶通りに完全に一致している。だが一人だけ、全く覚えのない存在がいるのだ。いくら僕が当時人の顔と名前を覚えることに消極的だったとはいえ、ここまでさっぱり思い出せない存在など、一クラス程度の人数の中であるはずもないのに。
海藤瑠璃。年相応の子供じみた生徒が集う中ではふさわしからぬ大人びた印象を持つ、ショートカットの女子だ。彼女は誰とつるむこともなく、かといって以前の僕のように他人を拒絶していることもなく、全てを見通すような目をして静かに座っていた。
記憶にない彼女の存在は、僕の胸をざわめかせた。忘れてしまうにはあまりに鮮烈すぎた。直接本人にではなくとも誰かに聞いてみたかったが、少なくとも誰も疑いのまなざしを向けていないという事実が僕をしり込みさせた。名簿にも載っているというのに、彼女を知らないのも怪訝に思うのも僕だけらしい。
ということはおかしいのは僕の方ということになる。
だがおかしいことは既に、夢なのかは知れないがこうして僕が精神的タイムスリップをしている以上、起きていることだ。
僕はあえて彼女に近づこうとはしなかった。記憶にないと言うことはこの現象に対する何らかのカギを握っているかもしれなくて、そのため近づくことで夢が覚めてしまう可能性を恐れたからだ。
今となっては、僕は夢が覚めることに恐怖を覚えていた。どれほど現実のように時が進んでいこうとも、これが現実でないことは明らかだ。僕にはここにいる同級生らより十六年分、余計に過ごした記憶がある。
無駄なくそつなく青春を過ごすことなど、誰にも不可能だ。先が見えている人間でもなければ。
しかしいかに先を知っている僕だとはいえ、全てを見通しているわけでもない。
「ねえ宝生くん、これ知ってる? 今流行ってるんだよー」
はやりもの好きの女子がそう言って見せてきた玩具は確かに僕ですら知っている当時の流行アイテムであった。だが周囲がもてはやす一方で、当時をしてすら飛びつくこともなかった僕は彼女の望む反応を得られなかったらしく、不満そうだった。
「宝生くんって冷めてるよねー。クールっていうか、海藤さんみたい」
「え?」
思わぬところで出てきた名前に、思わずどきんとする。だがそれは恋のトキメキなどという甘いものではない。避けつつもしっかりと視界に入れていた危険物を、唐突に目の前に差し出されたような感覚に近い。図らずも急速に高まる緊張感。だがそんな僕の反応を、彼女は実に中学生らしい感性でもって受け止めたようだ。
「あれ、もしかして海藤さんのこと、気になってる?」
「そんなことないよ。海藤さんも興味ないって感じだったの?」
「そうだよ。彼女、いつもそう。これ悪口じゃないだけど、なんか見下されてるみたいで、つまんないんだよね。ちょっと成績いいからってさ、一年の時は全然冴えなかったくせに」
声を潜めている段階でそれは既に悪口の域に達しているが、彼女自身はそれに気づいていないようだ。しかも聞いてみれば成績の良さはちょっとどころではない様子だ。それだけ抜きん出た存在でありながら記憶にないというのもおかしな話だ。印象が薄いというならまだしも。
「宝生って海藤のこと好きなの?」
僕のあずかり知らぬところで、尾ひれのついた噂が拡散していた。そもそも僕から彼女の名を出したわけではないのに、噂を広めた方には関係ないようだ。実に中学生らしい曲解だったが放っておくのではなかったと気付いたのは、囃し立てるでもない別の勢力が存在すると分かった後だった。
「宝生、悪いけどこれ、教室に運んでおいて。俺、部活行かなきゃいけないんだ」
「分かった」
おそらく教師から任されたのであろう一クラス分のノートの運搬を頼んできたのは宇田というクラスメイトで、そういえばあいつとは接点を持たなかったのが不思議なほどに、お節介焼きな男だったことを思いだしたのは、教室についてしまってからだった。
そこには海藤瑠璃が一人で残っていた。日直だった彼女は日誌を書いていたらしく、音に反応して一瞬だけこちらを見た後、すぐに何も見なかったように視線を戻した。僕は宇田にはめられたことに気づいたが、二人きりにさせられたとて何も彼女と話すことなどないので、教卓にノートを置いた後でそそくさと教室を出ようとした。
「あんた、二周目でしょ」
ぴたりと僕の足が止まった。こちらには全く興味がないと言うそぶりを貫いていたはずなのに、振り向くと海藤が僕を睨むような強さで見つめていた。それは普段の、周囲を見つめる静かな視線とは異なって、明確な意思が込められていた。三十の精神を宿す僕が思わず怯んでしまうほど。
それは、ただの中学生の目ではない。
「何の話……」
「とぼけなくたっていいよ。あんた、私が誰なのかわかんないって顔してたし」
海藤は、日誌を閉じた。筆記具を片付けて鞄に仕舞う。僕はごまかすこともとぼけることも忘れて、その場に突っ立っていた。彼女の目は既にこちらを向いていないのに、逃げ出すことを許さない強制力を持っていた。
「私も同じ」
「え」
「二周目なの。本当は中学生なんかじゃない……」
彼女は迂遠な物言いも回り道もせず、ダイレクトに切り込んできた。僕はそれらを避ける術も跳ね返す手段も持てずに、物憂げに始まった独白を遮ることもできない。
「やり直したって、それで未来が変わるわけでもないのにね」
「なんで? やり直せば、変わるだろう」
思わず問い返した僕を海藤が、じっと見つめた。その目は、まるで自分の中からはとっくに消え去ってしまったために、僕の中にあると思しき答えを探しだすかのようだった。
「最良の選択をしても、後悔は常に付きまとい、なくなったりしないから。やり直すことに意味なんかない」
「で……でも、最悪の後悔だけは回避できるだろ?」
「それが最悪だったかどうかなんて誰にも分からない。もっと後悔することがこの先、出てこないとも限らないじゃない」
海藤はにこりともせずに、日誌を持って立ち上がった。すれ違いざまに、嘆息するように言う。
「現実にもアンドゥ機能があればいいなんて思った時もあった。でも実際、やり直した後の私は私じゃないんだ。それはもう別人なの。あんたが私を覚えてなかったように」
そうして寂しげな笑みをほんの一瞬だけ浮かべて、彼女は教室を出て行った。『二周目』という一件馬鹿げた発言を撤回することなく、僕に笑い飛ばされる可能性すら最初から考慮していなかったように、淡々とした態度を貫いて。
彼女の言うとおり、確かにやり直して以前とは違う道へと進んでいる僕は既に、僕の知っている僕ではない。だがここにいる限り僕は失敗を回避し続けるし、彼女とてそうだろう。誰にも必要とされることのない出来損ないの僕が誰にも知られることなくいずこかへと消え去るのは、僕がここにいる以上避けようのない運命なのだ。
とはいえ三十の精神を宿した中学生が、二周目と知りながら辿る未来がバラ色に包まれているとは限らず、そこにまったく後悔が生じないということはありえないだろう。
違う道を歩き出している以上、目の前に広がっているのは白紙の未来に他ならないのだから。
脈絡なく十四歳の中学生に戻った時と同じくらい脈絡なく、僕は唐突に三十歳の現実に引き戻された。どうやら机に向かって勉強をしながらうとうとしていたらしい。時刻は深夜二時の丑三つ時である。家の中は静まり返って、まだ夢の中にでもいるような気分だった。
そこにいるのは、いじめられいじけてゲームに逃避しまくった挙句取り柄もなく成績も悪かった中学生が辿った先にある僕に他ならない。悪いなりにも勉強し、大学に入り卒業して就職して失職し、資格試験を目前に控えた僕。
僕は筆記具を置いて、椅子から立ち上がった。長いこと座り続けていたせいか体が固まっている。それをほぐしがてら、押し入れを探ることにした。探し物はすぐ見つかった。中学の時の卒業アルバムだ。
冴えない顔つきの僕からは早々に目をそらし、問題の生徒を探す。海藤瑠璃。確かにいた。しかしこうして見ても記憶にあるとは言い難い。三年の時は別のクラスだったにせよ、あまりに地味で印象の薄すぎる女子だった。髪形も違う。これで覚えていろという方が無茶だ。
しかし面影はある。精神だけタイムスリップしたあの世界で垢抜けてはいたけれど、彼女は間違いなく海藤瑠璃であった。
僕は戻ってきた。しかし彼女は、どうなのだろう。もしかしたらまだあの世界にいるのではないか。もしそうだとしても確かめようがない。道を修正したはずの三十の精神がいきなり抜け落ちた十四の僕が、これからどういう未来を辿るのかすら見当がつかないのだから。
それを言うなら三十の僕が辿る未来だって、全く見えるわけもない。結局そこに辿り着くなら確かに、やり直したところで無駄だろう。いつだって目の前は真っ新なのだから。
とりあえずすぐ手の届くところから始めなくてはならない。僕はアルバムを閉じて、もうひと踏ん張りするべく机へと向かった。
End