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 16:30。


 外は涼しくなっているが、まだまだ明るい。カンカン照りの中を昼から歩き回ったので、体がじっとりと汗ばんでいる。


「とりあえず事務所戻ろっか。シャワー浴びたいし」


 リリィがシャワー。僕は努めて冷静に振舞った。

 ドーナツショップを出て、国道36号線を東へ向かい、やがて左折して、狸小路へ戻る。通り沿いの立ち飲み屋が、すでに営業を始めていた。とても小さな、カウンターだけの店だ。赤い派手な暖簾をくぐって、若い店主が出て来た。僕と同年代だろうか。頭にタオルを巻き、タンクトップから覗く逞しい腕に、びっしりと彫られたトライバル模様のタトゥーが雄々しい。僕達を見つけると、慌てて店内に戻り、何やら酒瓶を抱えて駆け寄って来た。


「リリィちゃん!これ持ってってよ!あ、そちら革ゲンさんですよね?」


 僕が狼狽(うろた)えていると、リリィが店主に会釈した。


「安物だけど、飲んでよ!本当にこの前は助かったわ!」


 以前にリリィが対応した依頼主なのだろう。酒瓶は黒く、ラベルには「ヘンドリックス」と書かれている。


「じゃ、また!ウチにもたまに寄ってね!」


 リリィは酒瓶を受け取り、笑顔でお礼を言った。僕も慌ててお辞儀をした。店主は、すぐにまた店へと戻って行ってしまった。


「これ、美味しいんだよ。帰ったらちょっとだけ飲もうよ」


 リリィが嬉しそうにしている。


「え、飲むって、また夜には仕事ですよね?マズいんじゃないんですか?」


「本腰入れて飲むのは良くないけど、少しならオッケーなんだよ。ほら、こういう仕事だと、人に合わせて飲んだりもするし。源介もよく飲みながらやってるし」


 驚いた。これが自営業の自由さか。



 若い男が腹から絞り出す力強い歌声と、歯切れ良いアコースティックギターの音色。狸小路では、すでにストリートミュージシャンが路上ライブを始めていた。この時間帯から、狸小路の人混みは徐々に減り始め、逆にススキノの人混みは増え始める。行き交う人々の喧騒に包まれながらも、かすかに歌詞が聞き取れた。


 ──流されて行こう、明日また明後日──


 昼に病院で無茶を言われ、午後に依頼人と面談し、メンワリに成功。夕方前にこうして、タバコの缶と酒瓶を抱えて、狸小路を歩いている。昨日の今頃、こんな光景など想像しなかった。二週間前の僕には、こんな人生などありえなかった。明日も想像できないし、明後日はなおさらだ。また今からさらに二週間経てば、どうなっているのだろうか。このまま、目まぐるしく変わっていく人生に、身を任せてみるのも悪くない。人生とは苦労して切り拓くものではなく、勝手に進んでいく大きな強い流れに、只々身を任せるだけのものなのかも知れない。



「先シャワー浴びていい?」


「は、はぁ……どうぞ」


 何だか一戦交える前の男女のような会話で興奮する。だが落ち着け僕。彼は仕事の先輩なのだ。僕は後輩だ。男どうしの先輩後輩の間柄なのだ。


「あっ、そうだ、ちょい待ってて」


 リリィはキッチンから、氷を入れた小さなグラスと、水をたっぷり注いだタンブラーを持って来た。グラスには切ったライムが入っている。そして先ほど貰った酒を、グラスの三分の一くらいに静かに注ぎ入れてから、ライムジュースで割ってくれた。


「ジンライム。先、やってて」


 そう言い残して、リリィはバスルームへ行ってしまった。ジンライム。僕は酒なんて普段は飲まないし、飲むことがあったとしても、せいぜい安い発泡酒くらいだ。美味いものなのだろうか。グラスを傾けて、恐る恐る口に含んでみる。口の中に、甘酸っぱい香りが一瞬フワッと広がり、すぐに辛さが押し寄せる。喉がカッと熱くなり、その熱さは食道、胃へと続いた。

 驚いて、タンブラーの水を飲んだ。辛さが引き、熱さが消えた。不思議なことに、すぐに次の一口を受け入れる態勢が整う。また恐る恐る、ジンライムを一口舐めてみる。芳香はまたしても口に広がったが、それだけではなくて、何やら青臭い香りも感じられた。戸惑ったが、すぐにライムの酸味がそれを爽やかに打ち消してしまう。水を飲む。また、ジンライムが欲しくなる。酒は、こんなに美味いのか。

 テーブルには、ガラスの大きな灰皿がある。よし。缶ピースを一本、口に葉が入らないように慎重にくわえ、火を着けて見た。むせないように、ゆっくりと静かに煙を吸う。驚いた。タバコの煙が、こんなにも重厚で、味わい深いものだったのか。まるで、ハードボイルドな男になったようで、気分が良い。しばらく僕は、ヘンドリックスのジンライムと、ピースを味わった。


「あーサッパリしたー」


 リリィが戻って来た。長い髪をタオルでまとめ、タンクトップとジャージを着ている。とても色っぽい。


「リリィさん、これ、美味しいですね」


「でしょー、あたしはコレ」


 リリィがキッチンから持って来たグラスには、氷と、なぜかキュウリのスライスが入っている。


「それ、キュウリですか?」


「オトには飲みやすい方がいいと思って、ライム入れたんだ。あたしは、これにはキュウリ」


 リリィは僕のものと同じように、グラスにヘンドリックスを静かに注いだが、ライムジュースは加えない。手づかみでキュウリをかき回す。そして、幸せそうに、ゆっくりと味わった。


「か〜っ!おいし!」


「キュウリがあうんですか……想像できないです」


「一口飲んでみ」


 リリィは、そう言ってグラスを渡して来た。これは関節キッスではなかろうか。


 ──喜んでいただきます!──


 一口飲んでみると、何とも表現し難い味がした。だが、不思議と癖になる味だ。さっき感じた得体の知れない青臭さが、隠れずに前面に出て来て主張する。非常にサッパリしていて、これはこれで飲みやすい。


「すごい……美味い」


 リリィは僕の顔を見て、嬉しそうに笑った。


「あの、リリィさん」


 意を決して、聞いてみる。リリィは正直な所、男と女、どちらとして生きており、そして僕はどちらとして接すればよいのか。どうしても、知りたいし、ハッキリさせておきたいのだ。


「んー?」


「えと、リリィさんは、男だと言いましたよね。でも、僕から見て、その、恥ずかしいのですが……」


 リリィは、静かに僕の言葉を待ってくれている。


「すごく綺麗で、女性より女性的と言うか、何と言うか。その」



「あたしに惚れんなよ」



 僕の言葉の先を見透かしたような一言。


「い、いや、惚れてるとか、ではなくて、あの」


「シャワー行っといで」


「は、はい……」


 何だかはぐらかされてしまった。僕は酔っているのかも知れない。余計な、デリカシーを欠いた問いかけだったのかも知れない。酒とタバコで調子に乗っていた。自己嫌悪だ。大人しく、言われた通りにバスルームに向かった。


「オト〜」


「はいっ!」


 何を言われるのか、覚悟を決めて振り向いた。


「部屋着、バスルームに置いてあるからね」


 リリィは、ソファから首を伸ばして、僕に笑顔でそう言った。この人の為なら、僕は何でも出来るかも知れない。



 18:30。


 判明していることとしては、吾妻はすすきの駅を出て、メンワリ婆さんのタバコ屋の前を必ず右に歩いて行く。つまり、ススキノの中心部へ向かうのだ。タバコ屋から右に歩くと、ススキノ交番、ドーナツショップと順に並んでいるので、ドーナツショップの窓側の席から、ガラス越しに外を監視していれば、いずれは吾妻を捕捉できるわけだ。

 午後に一度来たこのドーナツショップに再度リリィと訪れ、窓側の席に陣取って張り込みを開始した。


「いい、そんなガン見しないで」


「す、すいません」


「自然にして」


 これが結構難しい。お代わり自由のコーヒーとカフェオレを交互に頼み、新聞を広げたり、携帯を弄ったりした。自然を装っているつもりだが、やはり外が気になり落ち着かない。今にも吾妻が現れるのではないか。

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