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気が付くと、僕は病院のベッドに寝かされていた。しまった。死に損なった。最悪だ。後遺症は?腕は?足は?治療費は?警察は?ハードディスクは?
様々な不安が次々と頭をよぎり、つい飛び跳ねるように起き上がってしまった。勢いよく起き上がれたということは、もしかして意外に軽傷なのだろうか。
布団をめくり、体を点検した。よくテレビなどで見かける、入院患者が着ているような服に着せ替えられてはいるが、どこも骨折した様子はない。点滴のようなものもされていない。腕や足に数箇所、ガーゼや絆創膏、湿布が貼られている。打撲や擦過傷による鈍痛はあちこちあるが、体を動かすことに支障はなさそうだ。ただ、目覚めたばかりだからか、頭が少しボンヤリしている。
しかしホッとしたのも束の間、とんでもないことに気付いた。
「ひっ!」
思わず声が出た。
体が、痩せているのだ。
あの見慣れた太鼓腹も、豚足のような腕や足も、まるでクリームパンみたいな拳も、ここにはもうない。体全体が、平均的な成人男性くらいに細くなってしまっている。忌々しく醜くても、長年付き合って来た自分だけの体。それが突然こうして変わってしまうと、ものすごい不安感が押し寄せる。
もしかして、僕は植物人間状態で、数年間眠っていたのではないか?ここはどこの病院だ?今は、何年の何月何日で、何時だ?そう考えながら、自分の呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が早くなるのがわかった。
「起きたね。よかった」
突然の女性の声。僕は驚いて声の方へ視線をやると、さらにまた驚き息をのんだ。ベッド脇のパイプ椅子に座っていたのは、絶世の美女。
20代中盤くらいだろうか。
ヘソの辺りまで伸びた、限りなく白に近い、金色ストレートのロングヘア。前髪は真一文字に眉を隠す程の長さで切り揃えられている。目は大きく愛らしくパッチリ、それでいてやや釣り目がちで力強い。小さいが低くもない形のよい鼻、ふっくらとして柔らかそうな肉厚な唇は、内側だけ血が滲んだように鮮やかな赤色をして、濡れているように艶がある。肌は透けるように白いが、頬がうっすらとピンクがかっていて可愛らしい。僕と同じ人間なのかと疑いたくなるほど小さなその顔は、総評として、まるで西洋人形のように美しく整っている。
顔の印象に反して服装はと言うと、黒いタンクトップと細いダメージジーンズ、大きな革のゴツいブーツが男性的だ。細く白いが締まった肩と二の腕。何かスポーツをやっているのだろうか。胸は小ぶりだが、細いウエストと丸みのある豊かな腰周りが描くボディラインは完璧なクオリティであり、体のシルエットがハッキリ出る服装であれば、何を着ても似合いそうだ。
その人の不思議な美しさに、僕は見とれて固まってしまった。
「気分はどう?」
足を組みながら、顔を傾けて彼女はそう言った。我に返って思わず目を逸らしてしまったが、その顔からは想像できない中性的でハスキーな低い声が、より一層彼女を魅力的に感じさせた。
ただでさえ女性と会話をすることは僕にとって困難なことであるのに、こんなに美しい人に話しかけられたらどうしていいかわからない。
風俗でも基本的に僕はあまり会話をしない。風俗であれば、僕は客であり金を払っているので、僕がまるで話をできなかったとしても、申し訳ないという後ろめたさはない。することはするわけで、会話がなくとも淡々と物事は進むので問題ない。
しかし日常で女性と言葉を交わすとなればそうはいかない。まして今は自分の置かれている状況をよく把握できておらず、混乱しているのだ。そうだ、まずは現状の把握だ。彼女と会話するしかない。僕は勇気を振り絞った。
「あ、あの、僕は一体……」
自分の声が変だ。喉をやられてしまったのか、または薬の作用か何かだろうか。
時計を見ると、22時を過ぎていた。
「四時間くらいかな?ずっと寝てたよ」
何と、あれはついさっきの出来事だったのか。
「ええと、あなたは……?」
「あたし?リリィって呼んで」
リリィは笑顔でそう言った。笑顔も格別に可愛い。リリィとはさすがに本名ではなさそうだが、今はそれはどうでもいい。
名前ももちろん知りたかったが、それよりなぜここにいて、何をしているのかとか、僕との関係性とか、そういうことを知りたくて質問したつもりだったのだが。
「あの、リリィさんが助けてくれたんですか?」
「あぁ、あたし一人だったわけじゃないけどね。そうだよ。もしかしてあんまり覚えてない?」
「はい、ビルから落ちて来た人の下敷きになったのは覚えてますが……」
僕はしどろもどろにならないよう、頑張った。しかし、相変わらず相手の目を見ずに話してしまう。それでもこうして何とか僕が話をできるのは、リリィが僕と向き合って、話を聞こうとしてくれているからだ。普通の女性なら、僕をまるで汚物を見るかのような目で見下すだろう。そうだったらここまで頑張れない。
「その、これってやっぱり事件になるんですか?この後、事情聴取とか」
「警察沙汰にはなってないから、安心して」
その言葉を聞いて、僕は一つの不安から開放された。事件だったら、もしかして実家に連絡が行って面倒だったり、恥ずかしいことになったりするのではないかと危惧していたからだ。これでパソコンのハードディスクも財布の風俗カードも、とりあえずは人目には触れずに済んだ。
しかし、あれだけの騒ぎであれば、普通なら事故や事件として扱われるだろう。警察沙汰になる前に、リリィやその仲間が、赤の他人である僕をわざわざこの病院へ運んでくれたと言うのだろうか。一体なぜ?
「そりゃそうだよ。あたしだっていまだに信じられないもん」
リリィが、僕の腹の中を察した様子で言った。「信じられない」とは、何がだろうか。人がビルから落ちたことか。僕が奇跡的に軽傷だったことか。そしてリリィは、バッグの中から手鏡を取り出して僕に差し出した。
「見てみて」
もしかして、僕の顔は悲惨なことになってしまっているのだろうか。健康な状態でも元から悲惨だったのに、さらにグチャグチャになってしまったのか。初対面の他人から信じられないとまで言われるくらいに。今まではさすがにそこまでは言われていなかった。恐る恐る手鏡を覗きこむ。
見たこともない男が、驚いた表情で、手鏡の中から僕を覗き返している。
一瞬、何が起こっているのか全くわからなかった。脳が理解し、現実として認識できる範囲を超えてしまっていることが起きているのだ。
僕は声も出せないまま、手鏡をひっくり返した。手鏡は手鏡だ。僕と、手鏡と、その先にはベッド、病室の壁。もう一度手鏡を見る。
「うわああ!!」
僕は叫んでいた。
「だよね」
リリィは、哀れむような目で僕を見ながらそう呟いた。
ベッドから立ち上がって、素足のまま、病室を飛び出す。廊下を走り、男子トイレを見つけ、洗面台の前に立った。
「何だよこれ……」
鏡に映った僕の姿は、全くの別人だった。
年齢こそあまり変わらないだろうが、顔も、髪型も、体型も、全く違う別の男性のものになってしまっていた。
そして今さら気付いたが、声が変だったのは当然だ。声帯そのものが、変わってしまっているのだから。
だがしかし、鏡に映ったそれは、確かに僕なのだ。
うまく説明ができない、奇妙な状況。いや説明などできるはずがない。何だ何だ。
僕はどうしてしまったんだ。世界はどうなっているんだ。
血の気が引き、足が震え、胃の中のものがこみ上げて来る。僕は嘔吐した。苦しい。夢ではない。
何が起きているのかまるで理解できず、ただひたすら怖くて、不安で、涙が出た。もしかしたら世界の中で自分一人だけが理解できないだけで、周りは皆、理解できるようなことなのではないか。自分がクズで、誰からも必要とされていないことには慣れていたつもりだったのに。真の疎外感とは、こんなにも恐ろしいものだったのか。
いつの間に追いかけて来てくれていたのか、リリィが優しく背中をさすってくれてた。背中をさすられると、余計に涙が出るのだった。