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 僕の名は横山音栄(おとえ)、26歳。

 大学には馴染めず一年足らずで早々に中退し、就職も潔く諦めてから、もうかれこれ七年近く経つ。 実家は北海道のやや東側、十勝(とかち)地方の中心に位置する帯広(おびひろ)市にあるが、もう何年も帰っていない。大学生活の為に借りたこの札幌市の安アパートに、今も惰性で住み続けている。

 いい歳をして親から仕送りをしてもらい、パチンコやスロットで小金を稼ぎ、最底辺の暮らしを細々と続けるだけの毎日。はっきりと自覚しているが、僕はクズだ。


 人と接していた頃は、よくチビだのデブだのと言われていたので、当然ながら中身だけでなく外見もすこぶる悪い。小中学校の頃の成績はおおよそ中の下、高校は地元のボンクラ私立。スポーツに関しても、この体型から見てわかるように、言わずもがなである。人に自慢できるような特技も趣味もない。世間でニートと聞くと、パソコンやITには強いイメージがあるが、それにも特に明るいわけでもない。

 恋人、つまり彼女なんて一度たりともできたことがないし、これからも死ぬまでできることはないと断言できる。淡い期待なんて持ったところで自分を傷付けるだけであるし、身の程はよくわきまえているつもりだ。


 まるでゲームのように人生をリセットできればどんなに楽かと思うが、人生にリセットボタンなどない。しかし、電源ボタンならある。電源ボタンはあるが、相当の苦痛を伴う。恐ろしいのでそれはできない。

 かくなる上は、極限まで自分の存在を社会から遠ざけ、消費される様々なエネルギーを最小限に抑え、湧き出る感情を都度封じ込め、晴れて天寿を全うするその日が来ることを、ただひたすら静かに耐えて待つ。これこそが僕に残された最良の生き方だと確信している。


 ところで、今日は久しぶりにスロットで大きく勝ったので、唯一の楽しみであるファッションヘルスに行くことにした。店は、ススキノにある。世捨て人であろうと、原始的な欲望は抑えられない。食欲と睡眠欲と性欲の支配には、忠実であり続けたいと思っている。


 札幌市は南区にある、札幌市営地下鉄南北(なんぼく)線の澄川(すみかわ)駅が僕の最寄駅だ。

 初めてこの町に越して来た頃、田舎者の僕の目には、地下鉄が地上を走っているこの澄川駅の光景が不思議に映ったものだが、東京や横浜では当たり前のことであるらしい。

 ゴムタイヤでチュンチュンと音を鳴らして走る地下鉄に乗り、およそ10分。僕は南北線すすきの駅で降りた。駅名の『すすきの』の部分は、平仮名で表記するのが正しい。

 観光協会が「ススキノはアジア最北の歓楽街だ!」とうたっていたが、本当の所はどうなのだろうか。中国に行けばもっと北に賑やかな大都市がたくさんありそうな気がするが、海外のことは僕にはわからない。

 道外(ないち)から来た人は、「新宿歌舞伎町をショボくした感じ」だとか、福岡の中洲(なかす)より栄えてる」だとか、「道路が広くて綺麗だけど飲食店と風俗店が節操なく混ざっていてキモい」だとか、「だがそれがいい」だとか色々言うらしい。


 六月下旬。夕方から夜に変わる頃のススキノは、異様に明るかった。ただでさえ日の長い季節でまだ日は落ちきっていないのに、歓楽街のネオンがあちこち灯り始めているからだろう。

 まだ夏ではないが、すでに暑く感じられる。数年前は、こんなことはなかった。この時期は、まだまだ涼しかったはずだ。近頃は札幌でも真夏は30度を超えることが珍しくなくなった。昔は、25度を上回ると猛暑だと言われていたのだが。湿度も年々少しずつ高くなっている気がする。ヒートアイランド現象とかいうヤツなんだろうか。それでいてどうせ冬はしっかり寒く、雪も多いのは相変わらずなのだろう。


 気候に関しては住みにくくなりつつある一方だが、街の風紀は少しずつ良くなっているかも知れない。最近はススキノでも行政の取り締まりが強化された為、迷惑な客引きやキャッチの類は随分と大人しくしているようだ。

 まだ鬱陶しかった数年前は、カラオケや高級ソープの客引きどもは僕を見るとあからさまに無視し、激安ヘルスの客引きだけがしつこくまとわりついて来たものだ。彼らもプロであるので、一目見ればそれが自分達にとっての獲物であるのかそうでないのか、わかるのだろう。数年前のあの日、しつこく食い下がって来た客引きのせいで、今もこうして僕は、小さなヘルスがひしめき合うビル街に向かっている。


 金曜日なので、さすがに人が多い。スーツを着たサラリーマン達が、ネクタイを緩め、下品な笑い声をあげている。早い時間だが、すでに顔を赤くしている者もいる。ずいぶんとはしゃいでいるが、彼らは普段、社会人として、守るべきものがきっと沢山あるのだろう。社会経験の乏しい僕には詳しくわからないが、取引先とのやり取りでの精神的な摩耗、デスクワークでの窮屈さ、社内の派閥や上下関係であったり、日々様々なストレスと戦っているに違いない。今のあの姿は、息も詰まるような日常の中での、束の間の無礼講なのだろうか。そして、それを当たり前の光景として許容する街、ススキノ。酒は、ホステスは、そして短い夜は、彼らを分け隔てなく受け容れ、癒そうとしている。


 僕は彼らを羨ましいとは思わないし、そして彼らは僕を蔑むだろう。蔑まれることには慣れているし、もはやそうされたとしても痛くも痒くもないほどに鍛えられているはずなのだが、今誰かが僕を蔑んだとして、それによって新しい価値ある何かが生まれるわけではないし、誰も得をしないことは明白なので、やはりできれば勘弁してもらいたい。そうやって僕は強がりながら、自然と身についた防衛本能を発揮させ、彼らのような存在から距離を取りつつ、先を急いだ。


 目当てのビル街に差し掛かった時、集団で争っているような騒がしい声が聞こえてきた。酔っ払いどうしの喧嘩だろうか。しかし、視界にはそれらしきものは見当たらない。確かに聞こえるのだが、音の距離感や方向が掴めない。喧騒は随分と遠くから届いて来ているようだ。何が起きているのかはわからないが、こういったことはススキノでは別段珍しいことでもないだろうし、何より自分には全く関係のないことだ。僕は気にせずに歩こうとした。


 その時、喧騒の発信源がどこであるかが判明した。上だ。上から聞こえる。ビルの屋上か?



「そっち行ったぞ!」

「もう逃がさねえ!」



 ビルは四階くらいだろうか。高さはそれほどまでもない、ありふれた商業ビルだ。商業ビルと言っても、テナントは水商売関係や風俗店だけで埋め尽くされており、入口にはびっしりとそれらの店名の書かれた看板がある。ビルの屋上から地上まで聞こえて来るということは、余程大きな声で喚いているのだろう。まだ辛うじて言葉として聞こえていた喧騒が、突然ドッと大きく盛り上がった。大勢の男達だと思われる。


「うおおお!!」

「あーーっ!!」


 うるさいなあ。



 反射的に空を見上げたその瞬間、すでに僕の頭上、いや、目前に人がいた。



 ビルから人が、僕の真上に落下して来たのだ。



 そう理解したのと同時に、鈍い音が頭蓋骨を通して脳に伝わり、視界は回転し、アスファルトが目前に迫り来る。立っていたはずなのに、膝が地面に激しくぶつかった。落ちて来た人物の汗の臭い、衣服の臭い、地面の臭い、それらが次々と一瞬のうちに嗅覚をかすめていった後に、鉄っぽい血の臭いが鼻の中に充満する。

 野坂昭如(のさかあきゆき)の著作「火垂(ほた)るの墓」の冒頭で、人間は瀕死の状態になって体が動かなくなっても、耳だけははっきりしていて、通り過ぎる人々の声が聞き取れるものだ、というようなことを読んだ記憶がある。さてどうだろうか。周囲で通行人の悲鳴が聞こえるが、その悲鳴がどんどん遠ざかっている。まるでテレビのボリュームをリモコンで一気に下げるように、世界の音が小さくなっていく。


 ということは、僕は野坂さんよりも、もっと瀕死な状態なのだ。


 反比例して、頭の内側に響くようなキーンとした耳鳴りだけが、次第に大きくなっていく。視界はゆっくりぼやけていく。体は全く動かない。動かそうとも思わなかった。痛いとか痛くないとかは、正直もうよくわからない。


 自宅のパソコンのハードディスクの中身は誰かに見られるのか。財布の中には、ヘルスの会員カードが何枚か入っている。口座の残高はゼロだ。警察が、僕の持ち物や生活の痕跡を調べ、実家に伝えるのだろうか。この期に及んでそんなことを気にするということは、どこか僕にもまだ人間としての最後の羞恥心や見栄、プライドなどが残っていたのかも知れない。


 人生とはこうもあっけないものなのか。しかし、これで終わりだ。楽に死ねたら最高だなんて、今日も地下鉄に乗る時に思っていたじゃないか。驚きはしたが、予定外ではあったが、これでまあよかったじゃないか。



 けれど、少し寂しいのは何でだろう。



 寂しいな。

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