勉強したい子供たち
文字を習い始めてから、ローゼルグライム公爵家を訪れる回数は増えた。そして、リィリヤと会う時間が減った。
遊びに行く回数が増えているのにどうしてリィリヤと会う時間が減っているのかと言えば、それは単純な話で、リィリヤが忙しくなったからだ。これは公爵夫人の姑息な妨害とは別次元で、最近のリィリヤは色々な勉強で忙しいようだ。
以前は表門から入って、リィリヤと遊びに来たと言っていたけれど、最近では違う。主に使用人が出入りする裏口の方に回って、ジーハス先生が居るかを尋ねる。
「お前らまた来たのか……」
そう言って呆れるのはこの公爵家の下男のハルトさんだ。裏口から出入りするようになってからというもの、あたしたちを入れてくれるのはハルトさんを始めとする下男やメイドの中の下っ端の人たち、偶に庭師のおじさん、と様々だけれど、その中でダントツに多いのがハルトさんだ。お蔭ですっかり顔見知りである。
「お邪魔しまーす」
あたしはにへ、と笑ってハルトさんの呆れ顔を受け流す。庭師のおじさんみたいに「おーよく来た」とか言ってくれないけど、あたしはハルトさん結構好きだ。主に見た目が。いや、イケメンでは無いんだけど。寧ろ、一重で厚ぼったい瞼をしたハルトさんはこの世界の平均より地味だと言える。だけど、その日本人みたいな外見は見ていて落ち着く。名前も何か日本であるような名前だし。髪は赤毛だけどね。
こうやって裏口から入る事を教えてくれたのはジーハス先生だ。こちらからだったら公爵夫人に気付かれることなく、ジーハス先生のところまで行ける。代わりにリィリヤと一緒のお茶の時間が無くなって、美味しいお菓子が食べられなくなったけれど。
でも会えなくなったわけじゃない。リィリヤは勉強の合間を縫って図書室に来る。そうして、少しあたしたちと話してまた次の授業へと戻っていく。
「何でこんな急に習い事増えたの?」
聞いたら、リィリヤは固まってしまった。黙りこんでしまったリィリヤの答えを、ローアを牽制しつつ待っていたら、やがてリィリヤはゆっくりと口を開いた。
「……言えません。理由は言えませんが、お父様もお母様も、私にもっと高い能力を求めておいでなので」
ふむ、どうやら口止めされているらしい。
「大変だねえ」
言えない理由は非常に気になるけれど、言えないといういう物を無理に聞くわけにもいかない。何より、貴族的事情に巻き込まれるのは避けたい。知らぬが仏ってやつである。ローアはちょっと不満そうにしているけれど、それを目線で黙らせた。後でフォローしておこう。
最近ローアは、元気が無い。と言うより、苛々している。
リィリヤが忙しくなって、あたしたちと会う時間が減った事も、リィリヤがローアの知らない色々な事を学んでいる事も、リィリヤとあたしたちとの距離が開いたようで寂しいんじゃないかと思う。まあ、ローアが自分がどうして苛々しているのか分かっているかは微妙だけど。
でも無意識にでも何でも、ローアはリィリヤとの差を開けまいとしているのではないかと思う。始めのうちはそこまで乗り気じゃなかった文字の勉強を最近はやけに頑張っているし、リィリヤと話している時も、リィリヤが勉強している内容をやたらと知りたがる。
前なんか、
「俺もリィリヤと同じ勉強、できる?」
とジーハス先生に聞いて困らせていた。ジーハス先生にやんわり無理だと言われて落ち込んでたのはちょっと可哀そうだったかな。
で、あたしはと言えば、思いもよらずに始める事ができた文字の勉強に夢中になっていた。
思うに、あたしは飢えていたんだと思う。ああ、いや、飢えている、かな。現在進行形で。
だってさ、前世の世界は良くも悪くも娯楽に満ち溢れていた。小説、漫画、映画、ゲーム、その他にも、いっぱい。それらは、欲しいだけ全て、とまでは行かないにせよ、手の届く範囲で多くの物を手に入れる事ができた。あたし、服にも宝石にも興味が無い、普通に稼いでる社会人だったから、そういう事に結構お金使えたんだよね。
広場で見かける大道芸も、吟遊詩人の弾き語りも、この世界に来て初めて知った楽しみだから、この世界が退屈だって、そう思ってるわけじゃない。だけどやっぱり、物足りないって思っちゃうときもある。
この世界では恐らく、活版印刷技術が無い。そして、平民の識字率も低い。つまり、本は平民が持つ様な物では無い。
まあ、平民の中でも知識があったり、特別な技術があったりして貴族に仕えている技能階級は別だけど。貴族街を囲うようにして居を構えている貴族相手の商人たちも、技能階級の端くれだ。彼らは平民の中では高い身分を持っていて、教養だってある。
貴族が行くような劇場ではお芝居を見ることができるんだろうけれど、劇場だって入場料は高いし、そもそも技能階級ですら無いパン屋のあたしたちでは入場できないだろう。ドレスコードに引っかかって追い出されるのがオチだ。
そもそもあたしのような生まれの大半の人間は、そんな世界があるという事すら知らずに生きるんだろう。そうであれば、あたしもそれが欲しいと思わなかっただろう。
けど、前世で元々本好き、ゲーム好きだったあたしは、物語に埋もれるようにして生きていた。
あたしが、もっと欲しい、と思ってしまうのも当然じゃないだろうか。
文字を習ったところで、そもそも本をそう簡単に入手できないんだから、本を読めるわけじゃ無い。けれども、読める言葉、書ける言葉が増える度に、図書室の本のタイトルが分かるようになって、それだけでもワクワクした。
そしてそのうち、本棚を眺めてはそわそわするあたしに気付いたジーハス先生が、本を一冊貸してくれた。ローゼルグライム公爵家の本ではなく、ジーハス先生が個人的に購入した物らしい。タイトルは「薔薇姫と白の騎士」。タイトルからの期待にたがわぬコッテコテのラブロマンスな冒険譚だった。ジーハス先生の趣味とも思えないけど、面白かった。やっぱり本はいいよね。恋愛物、大好き。そうじゃなきゃ乙女ゲームはやらんだろう。
文字を教える時も、本を貸してくれた時も、ジーハス先生は躊躇いがちだった。平民のあたしにこんな事教えていいんだろうかって、そんな迷いが透けて見える。前世の記憶の所為であたしが、本来だったら手に入らない物語を求めてしまうように、あたしやローアが持つことができない物を知り、望むようになるのを恐れてるのかもしれない。
あたしもあたしで、こうして文字を習う事を後ろめたく思っていた。誰に対して後ろめたいかっていうと、お父さんに対して。
お父さんは、ここにある物全て捨ててパン屋として生きる事を選んだ。なのに、その娘のあたしがお父さんが捨てたものを欲しがったら、それってお父さんはどう思うんだろう、ってそれがね。お父さんに対して残酷な気がして。
例えばお父さんが公爵家を継いでいたら、あたしはここにある本全て、自由に読めたんだろうなって、あたしがそんな事を考えたことを知ったら、傷つくだろう。もちろん、お父さんとお母さんが結ばれた事によって産まれたのがあたしなんだから、そんなIF、考えてもしょうがないんだけど。
だからジーハス先生に借りた本も、服の中に隠して腕で抱え込んで、こそこそ持ち帰った。そんなあたしの行動をローアが微妙な顔で見るから、この事はお父さんにもお母さんにも言うなと厳重に口止めしておいた。
服の中に隠した所で、隠しきれるもんじゃないってことは分かってる。どうやって抱え込もうと、出っ張った角が見えてしまって、「ああ、何か隠してるな」っていうのはバレバレだったろう。お菓子か何かだと思ってくれたらいいんだけど。
枕の下に隠した本を、朝の僅かな時間にこそこそ読むのはスリルがあって楽しくもあったけれど、やっぱり後ろめたい。本を返す時にジーハス先生に重々にお礼を言って、でももう貸してくれなくていいと言ったら、その時から読み書きの授業の前に読書の時間を作ってくれた。
本当に優しい人だ。
しかし、そんなジーハス先生は一体何者なんだろう。
「ジーハス先生って何の仕事をしてるの?」
それは本当に珍しい事に、ジーハス先生が図書室に居ない時の事だった。ジーハス先生はどうやらこれまた珍しく家にいる公爵に呼ばれて、丁度リィリヤと入れ違いになるようにして図書室を出ていってしまい、あたしたちは図書室で三人、顔を見合わせた。
それまであたしは、ジーハス先生が何者かと言う事を意識していなかった。最初に会った時からあまりに自然に図書室に居て、図書館のカウンターに座る司書のように、何となくそこに居るのが当たり前な人と認識していたのだ。
そんなジーハス先生が初めて図書室を出て行く様子を見て、あたしは初めて疑問に思ったのだった。
あの人は何者だ? と。
リィリヤの答えはこうだった。
「ジーハス先生のお仕事は魔法の研究です」
と、その答えで、ローアの目の色が変わった。
「魔法?」
ローアのその反応は少し意外だった。あたしだって魔法に興味はある。寧ろ、魔法という話題にに食いつくとしたら前世の時から魔法に憧れていたあたしだと思っていたから、そのあたしよりも早くローアが反応したのは驚きだ。
「はい。魔法です。ジーハス先生は、いつもここで魔法についての書物を読んでいるそうです」
「じゃあ、ジーハス先生は魔法使えるの?」
「そうなのではないでしょうか」
首を傾げつつリィリヤが言う。ジーハス先生が魔法を使えるか、考えたことが無いという風に見えた。でもまあ、魔法の研究をしてるって事は、魔法が使えると思った方が自然だ。
でも研究って、単に座って本を読むだけでできるもの? あたしはジーハス先生が何かをメモする様子すら見たことが無い。ジーハス先生はあたしたちに字を教えているか本を読んでいるかのどちらかだ。実験も計算もメモすらない研究なんて有り得るんだろうか。
そう言えばあたしは、ジーハス先生が読んでいる本を覗いた事が無い。一体何を読んでるんだろう。
あたしがそんな事を考える間にも、ローアがリィリヤに詰め寄るようにして尋ねていた。
「リィリヤもそのうち、ジーハス先生に魔法を習うの?」
「いえ、私は別の先生に教わってます」
「……リィリヤも、もう魔法使えるんだ」
ショックを受けたみたいな顔をしているローアに、リィリヤが首を傾げる。
「まだ、とても基礎的な事しかできません。」
ローアが唇を噛みしめる。この子、なんでこんなに魔法に拘ってるんだろう。確かにローアはずっとリィリヤが勉強している内容を気にしていたけど、ここまで強く反応したことは無かった。
ローアがいつに無く真剣な目で言った。
「俺も魔法、勉強したい」
戻って来たジーハス先生に、リィリヤがあたしたちに魔法を教えてほしいと言うお願いをしてくれた。けれどもやんわりと断られ、それにローアは酷く落ち込んだようだった。
ローアの落ち込み様を見たリィリヤが教えてくれようとしたけれど、それもジーハス先生に止められる。熟達した大人が居ない状況で魔法の訓練をするのは危ないそうだ。
「リィリヤ様も魔法の先生にそう教えられたはずですよ」
ジーハス先生にそう静かに注意されて、リィリヤが俯いた。
「はい。申し訳ございません」
相変わらずの無表情でそう言うリィリヤもまた落ち込んでいるようで、なんとも居たたまれない気分になる。そんなこんなでリィリヤが次の授業に行かなければならない時間になってしまう。気まずい空気まま、ぺこりと頭を下げて図書室を出て行くリィリヤを見送って、あたしはローアの頭をぽんぽんと叩いた。まあ元気出せよって意味を込めて。
その日の帰り道。
「どうしてそんなに魔法勉強したいの?」
聞くと、ローアはむすっとあたしを見上げて唇を尖らせる。不機嫌なんだろうけど、寧ろ可愛い顔になっている。なので頭を撫でてやった。ぐりぐり。嫌そうにあたしの手を払いのけるローアに笑ってしまう。可愛いな、ホント。
いーっとあたしを威嚇するローアにもう一度同じ事を聞くと、ローアはしぶしぶ、といった様子で答えてくれた。
「テオのお兄ちゃんは魔法が使えるんだって」
「え? そうだったの? え? お兄ちゃん? テオの?」
テオと言うのはローアの友達だ。三軒隣の果物屋さんの息子さんである。でもあの子にお兄ちゃんなんていたっけ……?
「シンセキのお兄ちゃんなんだって言ってた。それで、魔法の学校に行ってるって」
「ほうほう」
何時の間に。そんな情報を入手していたとは。ローアとあたしもいつもべったりってわけじゃないしなあ。まあ、当然なんだけど。
「魔法の学校、貴族と一緒の学校で、貴族と同じくらいの勉強ができるんだって」
「ふうん」
「俺、そこに行きたい」
ああ、なるほど。ローアはつまり魔法そのものよりも、魔法学園に行くことが望みなわけだ。
ゲームの舞台に。
ゲームの設定の中で、ローアが魔法学園に入った理由は何だったんだろう。勿論、魔法の才能があったから、というのは大きいんだろうけど、貴族嫌いというキャラだったローアが学園に入学したのに、何か特別な理由は無かったんだろうか。
今のローアのモチベーションが、リィリヤにある事はまず間違いないと思う。ローアは多分、少しでもリィリヤと同じ目線に居たいんだろう。もしかしたら一つ年下のリィリヤよりも一歩先に居たいとも思ってるかもしれない。その健気さが、可愛くてちょっと怖い。
五歳の初恋って、一般的にどのくらい真剣な物なんだろう。あたしの時はどうだったっけ? 今世でも前世でもほとんど恋の記憶なんてないんだよね。うん。参考にならん。
身分違いの恋愛と言うシチュエーションが萌えるのは、それに障害が多いからだ。物語として楽しむ分には大歓迎だけど、弟がそれに邁進していきそうなのはちょっと……大丈夫なのかな……。公爵夫人も公爵も怖いし。それに多分リィリヤの方にはそういう感情なさそうだしなあ……。前途多難だ。
それに、ローアがリィリヤを殺す未来を確実に回避するためには、あたしはローアの入学を阻止するべきなのかもしれない。とも思う。
だけどそれって、リィリヤの命を守るために、ローアの将来を妨害するって事でしょ? 命と比べれば……って思わなくもないけど、そもそもローアが殺さなくたってリィリヤが学園で死ぬ可能性だってある。どちらかというと問題は学園でのリィリヤのポジションと半ば戦争めいた状態になる学園そのものだと思うんだよね。
だったらあたしのすべきことは、ローアのお姉ちゃんとしてローアの事を応援することなんじゃないだろうか。
今の動機はちょっと不純な気がするけど、姉の欲目を抜きにしたってローアは賢い子だと思う。だから、学園で高水準の教育を受ければきっと多くの物を吸収するだろう。
そして、あたしも、学園の入学を目指すべきなんだろうか。
学園は十二歳で入学して十八歳で卒業する。全部で六学年だ。ゲームの時系列は、今から十二年後、正確には十一年と三ヵ月後だ。リィリヤが第四学年に上がった時に、編入生としてヒロインがやってくる。その時、あたしが丁度十八歳。
例え入学できたって、ゲームの時系列がスタートするのって、あたしが卒業した直後なんだよね。
何せ、ローアは攻略対象だけど「ローアの姉」のあたしなんて、ほっとんど存在感が無いって言うかモブですらないって言うか……。ゲームに登場すらしない。ゲームの中じゃ名前すら付いてなかったんじゃないかな。そんなあたしが入学しても何ができるだろう。
だけど、入学すれば確実に、リィリヤ第四学年に上がるまでの間を、ローアが第五学年に上がるまでの間を、一緒に過ごす事ができる。
「お姉ちゃん」
不意に、ローアがあたしの手を引いた。見れば不安そうな顔をしている。あたしが考え込んで黙り込んでしまった所為かもしれない。
「ん? 何?」
あたしは笑ってローアの手を握った。ローアがほっとしたように手を握り返してくる。
「無理だって、思う?」
学園への入学の事を言ってるんだろうか。まあ、学園には魔力がなければどう頑張ったって入れない。そして、魔力というものは完全に生まれ持った体質に依存する。少なくともゲーム内の設定ではそうだった。けれどローアは大丈夫だろう。学園の中でもかなり優秀だったはずだ。
「無理だって思わないよ」
むしろあたしが大丈夫かな? 魔力あるといいんだけど。
学園に入学する資格を得るには、入学の試しの場で魔法を見せる必要がある。あたしたちのような技能階級でもない平民から入学する子供は、何らかの偶然で魔法を発現した子ばかりだ。言わずもがなその中でもかなり特殊なケースがヒロインなわけだけど。大抵、そういう偶発的な魔法を使ってしまうのって、四歳~十歳の間と言われている。少し稀なケースで十一歳。そのあたりを考慮して学園への入学年齢が決まっているのだ。
このまま放って置けば、ローアも「偶然に」魔法を習得するのかもしれない。
「どうやったら魔法、使えるようになるかな。……テオに聞いても分かんないって言うんだ」
まあ、魔法を使えるっていうのはテオじゃ無くてテオの親戚のお兄さんだし、そりゃそうだろう。そう突っ込みたくもなったけれど、ローアは真剣だ。
ここで「きっとそのうち使えるようになるよ」とか誤魔化すのも可哀そうかな? それに、いくらゲームの設定があるとは言っても、ローアが本当に魔法を発現させる事ができるのか実際には分からないんだし。更に言えばあたしに付いて言えばそんな事ができる気がしない。このままいけば、あたしは魔法に触れずに終わるんじゃなかろうか。
「そうだねえ……」
一人、確実に魔法について知っている人がいる。もしかしたらあたしたちに魔法を教えられるかもしれない人。
貴族は殆ど全員が魔法使いだ。そしてあたしたちのすぐ身近に、元貴族、かつて公爵子息だった人が居る。そうであった事を全力で忘れようとしてるみたいに見えるけど。どういう反応返って来るか分からないけど。
どの道、魔法学園への入学を目指すんならいつかは話さなくちゃいけないんだし。
「お父さんに、聞いてみようか」
次回サラ視点にするかリィリヤ視点にするか悩み中です