文字を習う
全ての源は、火、水、大気、土、の四つの元素。それらが混ざり合い、複雑に干渉しあって世界は形作られている。
そう教わりながら初めて書いた四つの単語は、歪な文字でぐにゃぐにゃと歪んで書かれていた。しみじみ思う。読むより書く方がずっと難しい。それでもそんな字を、読み書きの先生は満面の笑顔で褒めた。
「初めてでこれだけ綺麗に書けるとは! 流石はローゼルグライム公爵令嬢でございますね!」
それから新しい紙を差し出して、
「素晴らしいですわ! でも手に覚えさせるために、もう五回ずつこちらに書いて下さいね」
と言った。
私は頷き、インクを浸したペン先を紙に付ける。先生のお手本を見ながら、同じように綺麗に書こうと思うのに、慎重に書こうとすればインクがすぐに丸いシミを作ってしまう。難しい。思っていたよりも、ずっと難しい。手を止めずにサラサラと、なのに綺麗に書くなんて、本当にできるんだろうか。
頑張って書いたけれど、五回ずつ書いた言葉はやっぱり歪で、がっかりしてしまう。それでも少しは綺麗になった気がした。もっと練習しなければ。それから自分の名前と、他にもいくつかの言葉を習って書いた。やっぱり汚い字だったけれど、書けば書くだけ、少しずつコツが掴めてきた気がする。
読む方ならもっと楽だった。前からこっそりと、少しずつ、ジーハス先生に教わっていたから。昔からこの屋敷にあるらしい古い物語の本を、ジーハス先生がゆっくりと指で辿りながら読んでくれた。その指を目で追いながら少しずつ読める言葉を増やして行って、簡単な本なら自分で読めるようになった。初めて一人で本を読み始めた時、ジーハス先生が驚いた顔をした事を覚えている。
読み書きの先生も驚いたみたいだった。
「読む方はもう完璧ですね……」
少しぼうっとした様な声で言うので、慌てて首を振った。完璧だなんてとんでもない。まだまだ、読めない言葉ばかりなのに。
それでも、褒められるのは嬉しい。
「ありがとうございます」
と先生に言うと、先生は少し悲しそうな顔で、
「本音で言っているんですよ? 読む方は勿論、書く方も……」
と言って私の頭を撫でる。
「はい。褒めて頂けて、とても嬉しいです」
その言葉に返って来たのは、寂しげな微笑だった。
その話をサラとローアにしたら、サラが苦笑した。
「きっと、口で言ってるだけに聞こえちゃうんだろうね。そのうち分かってくれるといいね」
きっと、私が嬉しそうに笑いながら同じ言葉を言ったなら、あの先生も笑い返してくれたんだろう。そう思うと、やっぱり自分の無表情が恨めしい。
「どうすれば、嬉しいというのが伝わるのでしょうか」
「どうだろうね? まあ、めげずに伝えるところからやってみれば? リィリヤが無表情に頑張って嬉しい、って言うの、気付けばかなりの破壊力があるから」
「破壊力って何……」
呆れたように言ったのはローアだ。私もそう思う。破壊力って何だろう。破壊しちゃ駄目だと思う。
「つまりリィリヤは可愛いって事」
サラがぎゅっと私を抱きしめて、私の頭に頬ずりする。サラにこうしてもらうのはすごく嬉しい。けれどどうしていいか分からなくなる。最近やっと、少し慣れてきた。
「あー、幸せ……癒される……」
そう言うサラの声は本当に幸せそうで、顔は今見えないけれど幸せそうな顔をしているんだと思う。私も、そんな風に表現できたらいいのに。
私の向かいでローアは、そんなサラと私を少し不満げに見ていた。申し訳なくなる。サラはローアのお姉さんなのに、私がこうしてサラに構われていてもいいんだろうか。
しばらくそうやって私を抱きしめていたサラはやがて私を放すと、
「それにしても読み書きかぁ……いいなあ」
と言った。ローアが不思議そうな顔でサラを見る。
「読み書きできると嬉しいの?」
「あったり前でしょ! 世界が広がるよ。それに何より、口伝えのお話よりももっとがっつりした話が読みたいって言うか……ああでも、本その物がなぁ……」
後半遠い目になってぶつぶつ呟くサラに、ローアが怪訝そうな目を向ける。私も、サラの言葉にはちょっと良く分からない部分がある。けれどどうやら、サラは本が読みたいらしい。
「サラは本が好きなのですか?」
聞けば、サラは照れたように微笑んだ。
「本っていうか、物語が好き」
「物語……」
「そ。耳で聞く話もさ、同じストーリーがお母さんとお父さんの話し方の違いで全然違って聞こえるのもいいと思うし、通りで時々やってる寸劇とか紙芝居も面白いけど、やっぱり本で読むのって……」
熱っぽく話していたサラがはっとしたように口を噤んだ。それから誤魔化すように肩を竦める。
「まあ、何ていうか、文字の読み書きっていうのには憧れるよ」
にこっと笑って紅茶を口に含むサラは、私からもローアからもすっと目を逸らした。
それから会話が途切れてしまい、どことなく気まずい空気になる。私やローアが思わずサラに向けてしまう視線をサラが気付かないふりをするかの様に、目を逸らして流す。サラは今、困って、るんだろうか……。
「図書室、行きますか?」
この話題を続ける事がいいことかも分からず、私はそう提案した。
サラの目がぱっと輝いて、それから静かに沈む。間違えたかもしれない、とドキドキしながら私は続けた。
「もしかしたらジーハス先生が読み方を教えてくれるかもしれません。それが駄目なら、あの、私で良ければ……読む方だったら……」
言いだした言葉は徐々に小さくなって、最後は消え入りそうな声になった。ジーハス先生は私に本を読んでくれたけれど、本来ジーハス先生の仕事は魔法の研究をする事であって私を教える事じゃない。字も読めないまま静かな図書室に入り浸る私の面倒を、ジーハス先生が見てくれただけでも、本当なら無い事なのだ。
だからと言って私が教える、だなんて……そんな事を言ってしまうなんて。きっと読み書きの先生に褒められた事で、図に乗ってしまったのだ。恥ずかしい。
「あの、すみません。やっぱり」
今のは、聞かなかった事に。
言おうと思って、でもサラの胸にふさがれて言えなかった。
「ありがとう!! リィリヤ! ありがとう!」
頭と背に回る、サラの腕。歓喜に満ちた声。
恥ずかしさにか強張っていた体から、ゆるりと力が抜けた。
図書室に行けばジーハス先生は、いつものように本を開いていた。図書室に入ってきた私たちに顔を上げ、本を静かに閉じて優しく微笑む。
「私に何か御用ですか?」
私は頷いて、ジーハス先生のところまで行くと、袖を引いた。
「あの……文字を教えてくれませんか?」
ジーハス先生が少し目を丸くして、私を見る。それから私の向こう、サラとローアが居る方へと目を向けた。どこか慎重に、口を開く。
「……リィリヤ様には先日、読み書きの先生が付いたのでは?」
「いえ、あの……」
言いかけた私を遮ってサラが言った。
「教えて欲しいのはあたしなんです。あたしがリィリヤに頼んで……駄目だったですか?」
振り向けばサラがジーハス先生を見つめていた。ジーハス先生は少し困ったように、サラを見て微笑む。
「どうして字を習いたいと思ったかを教えて頂けますか?」
本が読みたいからだと、サラはそう言うだろうと思っていたけれど、違かった。
「リィリヤが字の勉強を始めたって聞いて、あたしもやりたくなったんです。駄目ですか?」
にこ、とどこかわざとらしい笑顔を浮かべていつもより少し幼く聞こえる声だった。
サラが嘘をついている。
いや、嘘とは違うのかもしれない。私が読み書きの勉強を始めた、というのはサラがいいなあ、と言ったきっかけである事には違いないだろう。でもやっぱり、サラは私に関係なく字の勉強をしたいと思っていたんじゃないんだろうか。本が読みたいって、言っていたのに。
「勿論、私で良ければ教えましょう。けれども文字がサラ様のお役に立つかは分かりませんよ?」
ジーハス先生も、私と一緒に本を読んでくれた時と違う。教えてくれるって言っているけれど、これはむしろ、サラが「やっぱりいい」と言うのを望んでいるかの様に聞こえる。
それでもサラは嬉しそうに笑った。
「本当ですか! ありがとうございます!」
顔全体で喜びを表す笑顔。だけれどそれは、私を抱きしめた時の歓喜の声と比べると、やっぱり作られたもののように聞こえた。
読み方を習う時も、最初に覚えるのは私が最初に書いた四つの言葉だ。世界を形作る、四つの元素。
「一番最初に習うんだね」
サラが感心したような、不思議そうな、そんな声で言ったので、私は読み書きの先生が言ったことと同じ言葉をサラに言った。
「それが世界の大本だから、言葉もそこから始めるんだそうです」
「ふーん」
そういうサラは面白がっているかのように笑いながらそう言って、
手元に書かれた四つの言葉を見つめる。
「誰が考えたの?」
サラの質問に私は首を傾げた。考えた? 誰が? 何のことを言ってるんだろう。首を傾げる私に合わせるように、サラが首を傾げた。
「だから、これ、四大元……」
「サラ様。次はご自身で書いてみてはいかがでしょう?」
ジーハス先生がサラを遮るようにしてペンを差し出した。サラはそれを嬉しそうに受け取ると、二つに分かれたペン先をやっぱり面白そうに眺める。それからジーハス先生の手元にあるインク壺を引き寄せた。
「これに書いていいんですか?」
浮き立った声で聞くサラにジーハス先生が
「どうぞ」
と頷く。ジーハス先生が四つの言葉を書いた紙の余白を確かめるように指先で撫でたサラは、緊張した面持ちでペン先をインク壺に浸した。
あれ?
私が内心、違和感に首を傾げる間にも、サラはペンを紙に付けていた。ところどころインク溜まりを作りながらも、すいすいと四つの言葉を書いて行く。そうして、私が最初に書いたものよりずっと綺麗な字を書いた。
それを見て面白そうだと思ったのかもしれない。ローアが
「俺も」
と手を伸ばした。
サラがジーハス先生に視線を向けると、ジーハス先生が頷く。サラの手からローアの手に渡ったペンをローアもまたしげしげと眺めた。そうして、戸惑いがちにペン先をインク壺に浸す。ペンの中ほどを摘まむように持ったまま、紙にペンを下ろそうとした。
「ペンの持ち方をご説明いたしましょう」
そう言いながらジーハス先生が手を伸ばす。ローアがきょとんとジーハス先生を見上げた。ジーハス先生がまず手本を見せるように持ち方を見せ、ローアにペンを返す。マネするローアの指を調整して、それからやっと紙に文字を書く段階になった。
私もまた、こうして読み書きの先生にペンの持ち方を教わった。
でもサラは、何も教わらずにペンを持って字を書いた。
サラがペンを持つときに抱いた違和感はこれが理由だったのだ。どうしてサラは、正しくペンを持てたのだろう。まるで最初から知っていたかのように。
サラに目を向けると、ちょっと気まずそうな顔をしていた。私と目が合うと誤魔化す様に笑う。
どこか寂しそうに見える笑顔だった。
読み書きの先生を始めとして、私には何人かの先生が付いた。ピアノ、詩作、刺繍、魔法、等々。
そうやって急に私の先生が増えたのには理由がある。私がラグラス殿下の婚約者候補になったからだ。
王族の婚約者はそう簡単には決まらない。決まっても仮、という形になる事が多い。と私が候補になったと聞かされた時に、一緒に教えて貰った。外国との関係に変化があれば、王族との婚姻は重要な武器になるからだという。国内での婚姻だって同じだ。王族が誰と結婚するかで、国内の貴族の権威だって変化する。だから王族の婚姻関係についてはかなり慎重に行われるらしい。
だから私もまたあくまでも候補であり、更に言えば私以外にも殿下の婚約者候補は何人か居るという話だった。他の候補者が誰かは聞かされていない。それはお父様とお母様も知らないらしかった。○○家じゃないか、いや△△家も怪しい、というような会話をしていたから。
私が急に色々な事を習う事になったのは、他の婚約者候補よりも優秀になって選んでもらうためなんだそうだ。私には愛想も女の子らしい可愛らしさも無いから、その他の素質で売るしかないと言っていた。
そして、私が婚約者候補である事も誰にも言ってはいけないと言われた。名指しでサラとローアの名前までも出されて。
王城でのパーティの話をして以来、サラは私と殿下の事を気にしているようだから、黙っているのは苦しい。でも絶対にだめ、と言われてしまえば言うとおりにするしかなかった。
「ラグラス殿下とは合ったりするの?」
サラにそう聞かれれば、私は首を振る。
「パーティ以来お会いしていません」
それは嘘じゃない。婚約者候補になったからと言って、私とラグラス殿下が親しくなったわけではないのだ。
「そうなんだ」
と答えるサラの顔はほっとしている様に見えて、私はそれに罪悪感を感じるのだった。