酷い言葉
すみません、残酷描写が入ります。
急に腕を掴まれた、と思ったらお腹を殴られた。呼吸が押し出されて、げほげほと咳き込みながらローアを見れば、体格のいい男の人に抱え込まれてぐったりとしている。
ローア!
息もままならないまま名前を呼ぼうとしたら、首筋に衝撃が走った。それで気絶したのだろう。
目が覚めた時には、ローアと二人、冷たい石の床の上に転がっていた。
真昼間、店のある通りから、ほんの二本離れた通りに居た時の事だった。よく店にパンを買いに来てくれる近所のお姉さんが、直ぐ近くに居たのを覚えている。
いつもと同じ風景の中で、変哲もないと思っていた日常の中で、あたしとローアはあっさりと誘拐されてしまった。
後ろ手に縛られて転がるあたしたちを眺めて歪んだ笑顔を浮かべた男が言った。
「恨むなら、ローゼルグライムを恨め」
公爵はおまえたちを見捨てたと、自分の娘の命を選んだと、呪詛の様に繰り返しながら、あたしのお腹を執拗に蹴る。蹲って耐えていると、ローアが泣きそうな声で繰り返し、繰り返しあたしの事を呼んだ。
大丈夫。あれだけ人が見ている中で攫われたんだから、こんな場所すぐに見つかる。
きっとすぐに助かる。
そう思う事で耐えた。
あたしの脇腹を足で踏みつけながら、男の注意はローアに向いた。空間の中を魔力がうねってぶつかり合うのを感じる。ローアが男を攻撃しようとしては、防がれているのだとそれで分かった。
時々ぶつかり合う二人の魔法の余波か、あたしの体に水が掛かった。ローアに背を向けて蹲っていたあたしには見えなかったけれど、ローアが火の魔法を使って、男が水で打ち消したんだろう。
そうやってしばらくローアと魔法をぶつけ合っていた男は、不意に楽しげに言った。
「下手な魔法だな。その程度でこの私を攻撃するとは愚か者め。魔法とはこうやって使うんだ。手本を見せてやろう」
あたしは男の足でうつ伏せにされた。続いて、あいつに切られて短くなった髪を乱暴に引かれて、のけ反って背を逸らす。目の前にローアが居るのを見た。背中に男の手のひらが当たる。
次の瞬間、背中に激痛が走った。
肉の焼ける嫌なにおいがして、あたしとローアの悲鳴が重なる。
「お姉ちゃんを離せ!」
ローアが叫んだのが聞こえた。
髪から手が離されて、あたしは再び床に倒れる。背中の激痛に耐えながら必死に顔を上げれば、ローアの腕が男に捕まれていた。男が手に纏った炎で、じゅう、とぞっとするような音がして、ローアが悲鳴を上げた。
肉の焼ける匂いに、ローアの悲鳴に、人形のように投げ捨てられたローアに、男の笑い声に、
それら全てに、気が狂ってしまいそうで
死んでしまえ
男に向かって魔力の手を伸ばした。あたしが魔法を使おうとしている事に気付いた男が冷笑を浮かべ、あたしに手のひらを向ける。
その男を引力で壁に叩きつけた。
「かはっ!」
壁に貼り付けられた男が、苦しげに息をするのに構わず、力を強めて行く。歪な力に男の体が歪むのを、感じるはずも無いのに、手のひらに感じた気がした。ボキ、と男の体のどこかで音がした。
でもまだ足りない。あいつはローアの腕を焼いた。あたしの背を焼いた。
火には火を。
可燃物質に火を灯す事はできても、ローアの様に空気中に火を作る事ができないあたしが、どうすれば同じ事をできるかを考えた時に思いついた事がある。あまりに危ないと思って、結局今までやろうとはしなかった事が。
空気中の水分を、分解して、集める。そうして男の腕に水素と酸素を引き寄せ集める。水素は燃える気体だ。それに、火を。その結果起こるのは……
水素爆発。
バアン! と大きな音と共に男の半身が焼かれた。
どの程度の水素を集めれば、どの程度の爆発が起こるのかあたしは理解していなかった。それがあたしとローアを巻き込まなかったことは幸運に過ぎないと今では思う。
うめき声を上げる塊になった男を見て、やっとそれを壁への引力から解放したあたしは、ローアを振り返った。
あたしを見返すローアが怯えている。一歩、あたしが近づくと、ローアがビクリと体を竦めた。
それからしばらくの事を、あまりよく覚えていない。
途切れ途切れの記憶の中で、ごめんなさい、と繰り返し謝った気がする。
色々な事を聞かれた気がする。
誰かが「傷ついた子供に何をしている!」と怒った。
誰かが「可哀そうに」とあたしの頭を抱きめた。
でもあたしに、そんな風に優しくしてもらう価値なんて無い。
あたしがやった事とあの男がやった事の、何が違うと言うのだろう。
むしろ、あたしの方が、あの男よりも、ずっと……
あたしは、バケモノだ。
伸ばされた優しい手を振り払った。
「近寄らないで」と叫んだかもしれない。
自分自身が、怖かった。
落ち着いてきたのはローゼルグライム公爵の別邸に来てからの事だ。
毎日、お医者様があたしの背中の傷を診て行って、毎日、お父さんとお母さんが会いに来る。
一度公爵様が来て、すまない、と頭を下げた。恨み言も許しの言葉も言えずに黙りこくるあたしの顔を見て、公爵様は、
「何があったか覚えているか」
と聞いた。
「……途中までは。あの人、は…………捕まったんですか?」
本当は生きているんですか? と聞こうとした。けれどもそれが怖くて、質問を変える。
「ああ……現在王城で、治療を受けている」
――生きている。あいつが、生きている。
それが安堵なのか、失望なのか、自分でもよく分からない。両方なのかもしれない。
ただ、あたしはあの時確かに、あの男を殺そうとしていた。自分がやった事を思いだす。骨の鳴る音を、焼けた匂いを。
吐き気がする。
「……辛い事を聞いた。すまない。詫びになると思っては居ないがせめて……ゆっくり傷を癒してくれ」
公爵様がそう言って立ち去れば、気遣われた事がまた苦しかった。
ローアが同じ屋敷の中にいると知っていたけれど、会いに行くことができなかった。禁じられていたわけじゃ無い。寧ろお父さんにもお母さんにも、「ローアに会わないの?」と心配された。
あたしがローアに会いに行けなかったのは、怖かったから。またローアに怯えた眼で見られたらと思うと、怖くて会いに行けなかった。
あたしがあの男をにやった事をあたしは自首すべきなんだろう。あのまま行けばあたしたちはあの男なぶり殺されていたかもしれないけれど、あたしがやった事がいい事であるはずがない。
けれども自首することで、あたしが異質な魔法を使う事を知られるのが怖い。この国の魔法使いにとって、あたしはウィルスのような物だろう。異質な魔法の知識は下手をすると、魔法の原理を揺るがし魔法を失わせてしまいかねないのだから。
しばらくして、また事件の事を聞きに来た人が居たけれど、あたしは何も言わなかった。
人を殺しかけておいて、あたしが一番に考えてしまうのは、結局は自己保身なのだ。あの男が回復したら、あたしの事を話すだろうと、あの男が死ぬことを望みすらした。
そんな自分が嫌でたまらなかった。
リィリヤが来たのは傷もおおよそ治った頃の事だった。
跡は残った。鏡で見たわけではないけれど、指で触ってみた時の感触からして、ケロイド状になっているのだと思う。まだ痛み止めのお薬は飲んでいるし、寝る時はうつ伏せだけれど、普通に生活するのに困らないくらいにはなっていると思う。
それでも、公爵様のこの別邸に留められていた。ローアもそうだと聞いていた。二人とも家に帰ってしまったら、問答無用でローアと顔を合わせなければならないのが怖くて、あたしはそれに甘えた。
日々を無為に、先に進めないまま過ごしていた。
リィリヤが来たのは、そんな時だった。
あたしが応接間に入ると、リィリヤが弾かれた様に立ち上がった。
「サラ」
消え入りそうなほどに小さな声があたしの名前を呼ぶ。
リィリヤの顔は真っ青だった。ただでさえお人形めいた顔が、余計に無機質で蝋人形のようだ。
案内されるまでの短い間に聞いたところによると、リィリヤはつい最近、あたしたちに起こった事を知ったのだと言う。まあ、公爵様だってリィリヤの耳に入れたい話ではないだろう。
真っ青な顔が痛々しくて、あたしはにこりと笑ってみせた。随分久しぶりに笑った気がする。表情が上手く動かなくて、ぎこちない顔になった気がする。笑いかけない方がマシだったかもしれない。
リィリヤは、表情が動かない分、いつも言葉で気持ちを伝えようとする。
だったらあたしも、そうしよう。
「心配かけちゃったかな? ごめんね。この通り、怪我ももうほとんど治ったよ。だから大丈夫」
言葉もなんだかぎこちなくて、余所余所しくなってしまっている気がする。どこか嘘くさく響いてしまうのはどうしてなんだろう。
「久しぶりに会えて嬉しいよ、リィリヤ」
ひっこめられなくなってしまったぎこちない笑顔を唇に張り付けて、そんな事を言ったら、
「サラ」
と掠れた声で言うのと同時に、リィリヤの目からはらりと涙が零れ落ちた。
思わずぎょっとして、リィリヤの顔の下に手を差し入れて、涙を受け止めようとしてしまった。そんな事をしてどうするのというのか。自分で何がしたいのか分からない。あたしはリィリヤが泣くのを実際に見るのは初めてなのだ。軽くパニックである。
「サラ、痛いですか?」
ぼろぼろと涙を零しながら、リィリヤの手があたしの首のあたりに伸びた。短くなった髪を悼んでくれているのかもしれない。
「痛くないよ」
あたしは涙に濡れるリィリヤの頬に触れても大丈夫なのかも分からずに、中途半端な位置で手を固まらせてしまう。
「怖かったですか?」
「うん、まあ、でも大丈夫」
「怪我を、した、と」
「公爵様が治療してくれてるから」
「お父様が、でも、二人を、見捨てて、私の、ために」
あの男が公爵様にした要求の事も、リィリヤは聞いたのだろうか。
「それは、ほら、仕方ないし」
本音を言えば、そんなに簡単に割り切れない。けれども今はとにかく、泣いているリィリヤを宥めたくて必死だった。二年ほど前にリィリヤが泣いたとき、公爵様が半ば強引にあたしたちを呼び出した事を思い出す。なんだか凄く気持ちが分かる。
「だから、ね?」
おろおろとリィリヤを宥めようとしたら、リィリヤの顔がくしゃりと歪んだ。
「仕方なくなんて、ありません!」
叫んだ。リィリヤが。
どうしよう
リィリヤは顔を手で覆ってしまい、ひっく、ひっくとしゃくりあげている。助けを求めて思わずカルアさんを見たら、目を逸らされた。
「駄目です。サラもローアも、居なくなってしまっては駄目です。嫌です。怖いのです。だから、だから」
しゃくりあげながら、途切れ途切れにリィリヤ言う。苦しそうなのに、必死に。
「仕方、無いなんて、そんな酷い事、」
リィリヤの手が伸びてあたしの服を掴んだ。
「怒ってくれていいんです。嫌われ、るのは、悲しいですけど、でもそれよりも、仕方無い、なんて、」
「あの、ごめ……」
「そんな酷い事、言わないで、下さい……!」
「ごめん、ごめんね、リィリヤ、ごめん」
「サラが死んだら駄目です」
「うん、ごめんね」
「絶対に駄目です」
「うん……」
あたしの服を掴んで泣きじゃくるリィリヤの背を恐る恐る撫でて宥める。リィリヤが小さな声で呟いた。
「すみません……」
それを皮切りに、壊れたように、すみません、と繰り返す。
「リィリヤは何も悪くないよ」
言うと、白金色の頭が頑なに振られた。
その頭をぽんぽんと叩く。
しばらく泣きじゃくっていたリィリヤが、ぽつりとつぶやいた。
「サラが無事で、よかった……」
その言葉に、泣きじゃくるリィリヤに、自己嫌悪で重苦しかった胸が軽くなった。
あたしがしたことが許されるわけじゃ無い。罪を黙っている事を正当化できるわけでもないけれど。こんな風に心配してくれるなら、自己保身だってあたしだけの為じゃないんだって、思えるから。
それこそ卑怯な考え方だ。あたしがやった事を知れば、リィリヤだってきっとあたしに怯えるだろう。けれど、
「大丈夫。もう大丈夫だから」
あたしの言葉に小さく頷いて、しがみ付くようにあたしの服を握りしめるこの子を守りたい。せめてゲームの時系列が終わるその時までは、どんなに卑怯になっても構わない。
そう思えた。