傷
お父様も使用人たちも、ここの所ずっとピリピリしている。それは先日、私とエリックが乗った馬車が襲撃された事が理由なんだろう。
私に、襲撃されたという実感はあまりない。
王城からの帰り道、馬車が急に止まったと思ったら、周りが騒がしくなった。少しして馬車が勢いよく走り出して、家に帰った。それだけだ。
私は自分が守られて生きているという事を、意識しなくていいようにされていた。
お父様の部下で、私達の護衛を務める騎士たちだけじゃない。いつも私たちを送り迎えしてくれている御者も、有事の際には何より優先して私たちを守る。カルアですら、いざという時には自分の命よりも私の命を優先するのが当然とされている。
そんな事を、私はずっと知らないでいた。
危険な事、怖い事、残酷な事は私の目に触れない様に、耳に入らない様に、隠される。それは多分私の為を思っての事で、貴族令嬢のほとんどはそうやって真綿に包まれたように育てられる。
カルアやミオリル王女から、私たちに向けられる悪意の存在を教えて貰っても、それがどういうことなのかをきちんと考えはしなかった。ただ、漠然と不安を感じただけで終わらせてしまった。
サラとローアが来る回数が減った事には気付いていた。それまで、私が家の外に出る事が増えてあまり会えなくなっても、二人は、特にサラは頻繁にここに来てくれていた。
来るといつも手紙を書いていってくれる。ジーハス先生に預けられたその手紙を読んで返信を書いて、同じくジーハス先生に渡す。そうやって手紙のやり取りをしていたから、サラとローアが来た日は分かる。
二人が、というより、サラが一人で来ることがなくなったのだと、ジーハス先生に聞いた。私達が襲撃された事を受けて、サラに一人で来ない様にと言ったらしい。サラはそれを素直に聞き入れたそうだ。
私達を襲撃した犯人、実際に襲撃してきた人たち…は捉えられた。けれども、それを命令した前財務庁補佐官は、現在行方をくらませているらしい。それが見つかって捕縛されれば、一安心できるようになるだろう、という事だった。
そういった話は、カルアから聞いた。
私は単に、サラやローアからの手紙が減った事が寂しいと思っていた。しばらく直接会っていない事も。
サラとローアからの手紙が止まった時も、ジーハス先生に「危険だからしばらく来ない様にと言ったのです」と聞けば、納得していた。早く犯人の前財務庁補佐官が捕まってれればいいと、そう思いながら。
呑気に守られていた私は、なにも分かっていなかった。
しばらくサラとローアに会えていないし、手紙も来なくなってしまって、いつになったらこの状態が終わるのだろうと思っていた私は、ミオリル王女に捜査の状況を聞いた。王女様は、どうしてこんなことまで? と思う程に色々な事を良く知っている。だから知っているかもしれないと、そう思ったのだ。
お父様に聞いても答えてくれない。「心配しなくていい」とそればかりで。
ミオリル王女は訝しげな顔をした。
「前財務庁補佐官のゲイル・トウバルクなら、もう捕まったわよ?」
ミオリル王女にそう聞かされて、私とエリックは驚く他無かった。そんな事は聞かされていない。
「捕まった?」
ミオリル王女は頷いた。
「ええ。暫く前に。知らなかったの? 一応当事者でしょう? 襲撃されたんだから」
「そうですが……聞かされていません」
「そう……ローゼルグライム公爵もどうして言わないのかしら。捕まったと聞けば貴方たちも安心できるでしょうに」
「僕にはあまり変わりませんけれど……」
そう言ったエリックが私の方を見る。サラとローアの事を気にしているのだと思う。二人が来なくなってしまったことを私が寂しがっていると、エリックは知っている。その目が少し心配そうで、私はエリックの頭を撫でた。エリックが困ったように目を伏せる。
「どうして、教えてくれないのでしょう」
お父様に捜査の状況を聞いたのは少し前の事だ。暫く前、というのはどのくらい前だろう。時には既に捕まっていたのだろうか。もしそうなら、言ってくれれば良かったのに。
「まあ、不可解な点もあるから、敢えて伏せているのかもしれないわね」
「不可解、ですか?」
「私も詳しくは知らないのよ。けれど、ゲイルは現在重傷だそうよ」
「重傷? 捕らえる時に?」
エリックが首を傾げる。
「どうかしら……捕縛の時には既に、という話もあるけれど」
ミオリル王女にしては曖昧だ。そう思った私に気付いたかのように、ミオリル王女が苦笑した。
「私にも詳しい話が入って来ないのよ。箝口令が敷かれているのだと思うわ。ローゼルグライムが狙われていたことも、その犯人がゲイル・トウバルクである事も隠されていなかったのに、どうしてなのかしらね。でも、少なくとも捕縛された事は隠されてはいないわ」
エリックが首を傾げる。
「箝口令って、ミオリル様にまで有効なんですか?」
「どこが隠しているかにもよるわ。この事については、私の手が届かない所で情報が閉じられているみたいね」
「どこで……?」
「分からないわ。そんなに気になるの? もしそうなら……知っているかもしれない人に聞いてみるけれど」
「知っている人、ですか?」
「知っているかもしれない、よ。あまりあてにはしないで欲しいの。知っていても教えてくれないかもしれないしね」
「……いえ、そこまで気になるわけでは。ただ、もうローゼルグライムが狙われているわけではないのですよね?」
「恐らく、ね。もしまだローゼルグライム危険があるなら、流石に私に知らされる筈よ。貴方たちは私の大切な友人ですもの」
ミオリル王女の「大切な友人」と言う言葉に嬉しくなる。
危険の可能性がもう薄いなら、サラとローアが来ても、もう大丈夫なはずだ。
なのに、来てくれないのは私と同じで、既に犯人が捕らえられていると知らないからだろうか。どうやって知らせればいいのだろう。ジーハス先生に相談してみようか。いや、お父様だったら二人の所に手紙を届けられる筈だ。やっぱりお父様に聞いてみよう。
ついでに、既に捕縛されていると、どうして教えてくれなかったのかも聞かなければ。
そんな事を考える私は、どこまでも呑気だった。
もう犯人が捕まった事を聞いたと、お父様に言っても、お父様はサラとローアに連絡を取る事を許してくれなかった。理由すらも教えてくれない。セイズに聞いても、ジーハス先生に聞いても、カルアに聞いても、誰も何も教えてくれなかった。
知っているけれど、私には教えられない。そういう沈黙だ。
どうしてなんだろう、と思えば、ミオリル王女から聞いた箝口令の事を思いだす。犯人は重傷で、捕縛の時の状況についての情報は、ミオリル王女の耳にも入って来ない位に秘されている。
でも危険がある可能性は低いと、王女様が言っていたのに。
結局私は、ミオリル王女に聞くしかなかった。
不安だったのだ。お父様はともかく、カルアまで私に隠すのはこれまでだったら無かった。王女様は危険の可能性は低いと言っていたのに、私の問いかけに反応して体を強張らせたカルアの反応は、それに矛盾している。どうしてなのか、まるで分からない。
私の相談を受けたミオリル王女は難しい顔をした。エリックは心配そうな顔で私と王女様を見比べる。
王女様は頷いてくれた。
「分かった。聞いてみるわ。待ってて」
真剣な顔で真っ直ぐに私を見て、そう言ってくれた。
ミオリル王女は本当に聞いて来てくれた。誰にどう聞いたのかは分からない。もしかしたら無理をしてくれたのかもしれない。
「完全な情報を貰えたわけではないのだけれど……ローゼルグライム公爵が貴女に隠している事なら、分かったわ」
そうして王女様に教えて貰ったのは、ローゼルグライムの話では無かった。
サラとローアの、話だった。
ゲイル・トウバルクの目的は、お父様へ一矢報いる事だったという。
彼に自分の罪を隠すつもりは無かったらしい。私達の馬車を襲った人間も、口止めも碌にされていなかった。爵位は彼にとって自分の全てであり、それを失ってしまえば、復讐以外の事はどうでもよかったのだろう。
「自暴自棄になっていたのでしょうね。侯爵として以外の生きる道を知らなかったのだと思うわ。職も信用も爵位も失って、家からも見捨てられて、そこからどうすればいいのかも分からず、絶望してしまったのかもしれないわ」
とは、ミオリル王女の言葉だ。
重傷の彼への尋問は未だに満足には行えていないらしく、彼が何を考えていたか、実際に何をしたのか、殆どは推測に頼るしかない。
確かなのは、私達への襲撃に失敗した彼が標的を変えた、という事だ。
サラとローアに。
「ローゼルグライム公爵が家を出た兄君を慕っている事は貴族社会では有名だから、その兄の子供たちに目をつけたのね。リィリヤとエリックを最初に襲撃した事といい、子供ばかりを狙ったのはそれだけ無力だと踏んだのかしら。その方がローゼルグライム公爵を傷つけると思ったのかもしれないわね」
彼がどう考えていたにせよ、サラとローアは、誘拐された。
発見され、保護されたとき、ローアは右腕に、サラは背中に酷い火傷を負って居たそうだ。
どんなにか痛かっただろう。どれだけの間、痛みに耐えたんだろう。もしかしたら、今も苦しんでいるのだろうか。
私が呑気に守られている間、ずっと?
「二人は今、ローゼルグライム公爵に保護されて治療を受けているらしいわ」
「お父様に?」
「ええ……最初は王城で保護していたのだけれど……公爵が引き取ったらしいわ」
「今は……どこに」
「そこまでは分からないわ。公爵に聞かない事には」
お父様に聞いて、答えてくれるだろうか。ずっと何も教えてくれなかった。サラとローアが、私の友達だと知っていた筈なのに。
それとも、知っていたからだろうか。
二人が、私達の所為で傷ついた事から、隠そうとしているのだろうか。
だとしたら、お父様に聞いたら却って隠されてしまうかもしれない。
二人はどこに居るのだろう。
少なくとも王都の屋敷にはいないと思う。いくら私が家の事に疎くて、屋敷が広いとはいえ、流石に気付くはずだ。念の為に探してみるつもりだけれど、可能性は低い。
そうじゃないなら、領地……は、有り得ないとまでは言わないけれど、怪我人を運ぶには遠すぎる。どこの領地も、馬車を急かしたとしても三日はかかるのだから。
だとしたら、王城から少し離れたところにある、別邸が一番怪しい。
「姉様……」
私の様子に何を感じたのだろうか。エリックが私の手を握って不安そうに私を見る。
「変な事を考えては駄目よ、リィリヤ。ローゼルグライム公爵の事ですもの。二人は適切な治療を受けている筈。貴女が何かできるわけじゃないでしょう」
確かに、私に医療の知識なんて無い。会いに行っても、二人に何かできるわけでもない。
会いたいのは、私のわがままに過ぎない。
二人が傷ついているのを知りすらせず、安穏に暮らしていた。本来私が負うはずだった傷を、二人が負った。
なのに、このまま流されてしまえば、二人との縁が切れてしまいそうで怖いのだ。
「王女様。色々教えて下さって、ありがとうございます」
そう言って頭を下げた私を、王女様もエリックも心配そうに見ていた。
どうして私を心配するのだろう。
傷ついたのは、私ではないのに。
別邸に行きたい、と言うと、カルアは困った顔をした。
「リィリヤ様がそんな事を仰るのは珍しいですね。何時になさいますか? しばらくは予定が埋まっておいでですが……」
「今日これから、です。今日のお誘いはすみませんがお断りさせて下さいませんか。急で申し訳ないのですが」
「今日これから、ですか? それでは管理人も困るでしょう。準備もあるでしょうし」
「泊まるわけではありません。少し訪ねたいだけです。お父様が行くわけでもありませんし、気を遣って頂かなくてもいいのです。予告しては却って気を遣わさせてしまいます」
何より、サラとローアを隠されてしまうかもしれないのが怖い。
「リィリヤ様……いきなりどうなさったのですか?」
「カルアは、私が別邸に行くのが嫌なのですか?」
そう問い返すと、カルアは困った顔をした。いつも飄々と笑っているカルアが、そう言えば最近あまり笑っていないと気付く。私の髪を梳くときにいつもしていた小さなハミングも、最近は無い。
襲撃を受けて、屋敷がピリピリしてきた所為かと思っていたけれど、今思えば、襲撃の後しばらくはまだ、カルアはいつも通り明るかった。カルアの様子が変わったのはサラとローアが来なくなった時期と重なる。
そんな事にも気付かなかったなんて。
「カルアは知っているんですね?」
「何の事ですか?」
「サラとローアの事です」
カルアの顔から、すうっと表情が消えた。
「サラ様とローア様がどうかしたのですか?」
それでも尚、誤魔化そうとする。
「王女様から聞いたのです。私は二人に会いたい。別邸に居るのですか?」
「リィリヤ様……」
カルアは酷く疲れた様な顔をした。ふう、と小さく吐息が漏れる。
「主人に隠すべきこと悟らせず隠し通す事も高等侍女の仕事の内なのですけれどね。私もまだまだ未熟です」
「カルアはいつも私に色々な事を教えてくれました。それを、私はとても有り難いと思っています」
「教えるべきこととそうでない事を正しく判断するのも高等侍女の仕事ですから」
「サラとローアの事は、隠すべき事ですか?」
「……どうでしょう、ね」
「二人とも、私の友達です」
目を閉じて何かを考え込み、しばらくして目を開いたカルアは、膝を折って私と目線を合わせた。覚悟を決めたように私の目を見る。
「お二人とも別邸においでです」
「なら」
「でも、今のお二人にリィリヤ様が会いに行くのは賛成できません」
「どうして、ですか」
「お二人とも、酷い目にあったことで、まだ混乱しておいでです。
……ローア様は、お二人に会いに行った旦那様を攻撃したと、聞いています」
ローアが、お父様を。
「でも、サラもローアも、巻き込まれたのです。だから」
半ば自分に言い聞かせるように言うと、カルアが首を振った。悲しげに、力なく。
「それだけではないのです。ゲイル・トウバルクは旦那様に取引を持ちかけていました。取引と言える様なものではありませんでしたが……」
「取引、ですか?」
「旦那様宛に、サラ様の髪と一緒に送りつけた手紙に、二人を返して欲しくば、リィリヤ様を寄越せ、と」
「私、ですか」
「『愛する兄の子供二人と自分の娘一人、どちらを選ぶ?』と、あれは旦那様を苦しめたかっただけなのです。リィリヤ様を渡せるはずもありません。取引に応じたところで、お二人が無事で済むと言う保証も」
「お父様は、どうしたのですか」
「旦那様は……その手紙を、王城へ。それで、捕縛が叶ったのです」
「お父様は……」
二人を、見捨てたのですね。
そう口にしかけた言葉は喉から出る前に重い塊になって体の中に落ちていった。胸の奥に滞って、心臓を圧迫する。
「サラ様もローア様も、犯人の口からその取引の事を聞いているのです」
二人とも、お父様が二人を見捨てたと知っている。
だからローアは、お父様を攻撃したのか。
私達を、憎んでいる?
「リィリヤ様、それでもお会いになりますか?」
いつの間にか私の肩に置かれたカルアの手が、食いこんで痛い。私は泣きそうな顔で私を見るカルアの顔を見返して、頷いた。
「はい。二人に会わせて下さい」
カルアが諦めたようにため息を吐いた。