小さな宿の再出発
その日は朝から雨だった。じめじめとした空気の中、店主エスノアはため息をついて、カウンターで細工物を作っている。
「兄ちゃん、暇だねぇ」
朝ご飯のパンをかじりながら、エスノアの弟キリィが兄の手元をのぞき込む。まだ12歳のキリィではエスノアの細工物を手伝えないのだ。
「そうだな」
エスノアとキリィは二人とも早くに亡くなった父親に似ており、はっきりと兄弟だとわかるぐらいにそっくりだった。キリィは見事な黒髪を伸ばしており、エスノアは作業の邪魔になるので後ろでまとめているが。違うのは紫色の瞳をしたエスノアに対して、キリィは青い瞳をしていたということだった。
二人がいるのは宿屋のカウンターだ。そして客は誰一人おらず、キリィの言うとおりに暇だ。
フイネイの片隅にあるこの宿屋はここ数年客も入らず寂れている。数年前に宿屋の店主だった名物女将が亡くなり、息子のエスノアがこの宿を継いだのだ。壊滅的に料理下手なエスノアのおかげで、常連達は離れてしまい今は副業の鉱石加工の収益で食べている。
いっそのこと宿屋を廃業して鉱石の加工一本で食べていくこともエスノアは考えたが、そのためには鉱石の安定した仕入れが必要であった。
「ねえ、兄ちゃん」
「何だ、キリィ」
「料理できる人雇おうよ」
キリィの言葉にエスノアは手を止める。そして一つため息をついた。
「キリィ、今この店は俺とお前が食っていくのがやっとだ」
「うん」
「ここに住み込みで雇うにしても、給金も入らないなんていう奇特な奴じゃないと無理だ」
厳しい現実を弟に突きつけるが、キリィはめげなかった。
「じゃあさ、俺がどっか奉公いくから」
「駄目だ」
キリィの提案をエスノアは退ける。貧しい暮らしの家では子供を奉公に出す事は珍しくない。だが、細々とはいえ弟を養えるのに、手放すなど考えたくなかった。
「お前は俺のかわいい弟だ」
「うん」
「だから、お前にできる内職を増やす事までは許す。奉公はお前に会えなくなるから駄目だ」
エスノアがきちんと理由を話すとキリィはうんうんと笑顔で頷いた。
「わかってるよ、兄ちゃん。じゃあ俺そろそろ行ってくる」
頬張っていたパンを水で無理矢理流し込んでキリィが立ち上がる。
「ああ、いってらっしゃい」
慌ただしく鞄を持って駆けだし、学校へと向かうキリィをエスノアは見送った。キリィは今年で初等教育を終えてしまう。このまま働くのか、高等教育を受けるのか選ばなくてはならなかった。
このままではキリィは初等教育で働かないといけない。それだけは回避したかった。悩む宿屋の閑古鳥が鳴く日々に終止符が打たれたのは、この日キリィが行き倒れた少女を拾ってきてからだった。
「兄ちゃん! 大変!」
学校から帰ってきたキリィは、雨に濡れてぐったりとした少女を抱えていた。年の頃はキリィより少し上ぐらいだろうか。褐色の肌はフイネイではあまり見かけない肌色だった。
少女を運び込んだはいいが、濡れた服を着替えさせることができずにエスノアは頭を抱える。当然だがここには男二人しかいない。目を覚ました少女が気分を害することは間違いなかった。
困ったエスノアは近所に住む女性に力を借りた。キリィが熱を出したときに助けてもらっている女性で、マーシィという。柔らかな茶色の髪を揺らして、マーシィは少女と用意した着替えを抱えて空いている部屋へと姿を消した。
「キリィ……あの子どこで拾ったんだ?」
「夜になると賑やかになるとこの入り口あたり」
キリィが言っているのが歓楽街のことだとわかり、エスノアは眉をひそめた。夜まであそこで放っておかれていたら彼女は無事ではいられなかっただろう。倒れていた時点で無事とは言えない状況だが。
「ねえ、兄ちゃん」
「何だ」
「あの姉ちゃん兄ちゃんの知り合いじゃないの?」
「何でそう思う?」
「あの姉ちゃん拾ったとき、姉ちゃん一回目開けたんだ。俺を見て兄ちゃんの名を呼んでた」
キリィの言葉にエスノアは首を傾げる。キリィを見て自分の名前を呼んだという事は、エスノアを知っているのだろう。しかしエスノアには少女に対して心当たりはない。
「いや、覚えがないな」
「そうなの?」
「ああ」
不思議そうに首をひねるキリィの頭をポンポンと撫でて、マーシィが出てくるのを待つ。もし少女が怪我をしていたとしても、マーシィがいるのだから安心だった。マーシィは癒しの力に長けている。その力で何度キリィを癒してもらったのかわからないほどだ。
そのうちに、扉が開いてマーシィが出てくる。柔らかな笑みを浮かべて彼女はエスノアに告げる。
「大丈夫よ。怪我も病気もないみたい。ただお腹が空いてるみたいね。何か作ってくる?」
「あー……マーシィさんにそこまでお世話になるわけには」
「あら、そう?」
エスノアはお礼をマーシィに渡そうとしたが、マーシィに断られてしまう。お世話になったときもいつもそうだった。
「また困ったことがあったら言ってね」
マーシィはニコニコと帰ってしまう。せめても、とキリィが彼女を送っていく。一人残ったエスノアは少女の寝かされた部屋へと入った。
眠る少女の顔を改めて見ても、会った記憶はない。なのにこの少女はエスノアを知っているらしい。目を覚ませばわかるだろうかと、手近な椅子に座ると少女が呻いてゆっくりと目を開いた。
露わになった金色の瞳を見てエスノアは驚いた。その瞳の色は竜だけが持っていると言われているものだったからだ。そして竜たちは一部の例外を除いて、王都より北の山岳地帯から出ないはずだ。
「竜……?」
エスノアの呟きに、金色の瞳が滑るようにエスノアに向けられた。彼を見て少女は嬉しそうに笑う。
「エスノア……」
「君は、俺を知っているのか……?」
「……エスノア」
エスノアの質問に、少女はもう一度エスノアの名を呼んだ。それが答えなのだろうが、エスノアは釈然としなかった。
「君の名前は?」
「アルファ」
「君は……」
「私、父様を探しにきたの」
何しに来て、街で倒れていたのか聞く前にアルファから答えが返ってきた。
「でも、見つからない」
アルファはそれっきり黙ってしまった。もしかしたらあまり喋るのが得意ではないのかもしれない。
「……つまり、行くあてがない?」
エスノアが少女に聞くと、少女はこくりと頷いた。彼女の金の瞳が竜の瞳であるならば、彼女はフイネイ以外の竜ということになる。
フイネイに現在いる竜は1000年以上昔に南の大陸からやってきたのだと伝説に残っている。と、いうことはこの少女は南大陸からはるばるここまでやってきたのだろうか。
行くあてのない少女を放り出してしまうことはできないが、少女を無条件で養えるほど収入も蓄えもない。エスノアが困った顔で黙り込んでいるのを、アルファは不安そうに見上げ、口を開いた。
「あの……料理でも掃除でも洗濯でもなんでもする……から……」
「いや、洗濯や掃除の人は足りて……。ん? もしかして料理作れるのか?」
「うん、作れる」
この料理を作れるのであれば、最低限の客は呼べそうな気がした。もっとも、どれだけ料理ができるのかは作ってもらわないとわからない。
試しに今晩に作ってもらおうか、とエスノアは思考を続けた。少なくとも卵を爆発させてしまう、スープを変な色にしてしまう自分よりはましだろう。
「ちょっと今晩作ってもらえないか。体調が悪かったらすまないが」
「大丈夫、作るよ」
アルファはどこか必死な様子でエスノアに訴える。まるで子犬が捨てられまいとしているような雰囲気を感じた。
「そんな必死にならなくても、追い出したりしないよ」
アルファを落ち着かせるように、ポンポンと頭を撫でてみる。すると彼女はほんの少し嬉しそうに笑った。
結果からいうとアルファの料理の腕はとても良かった。彼女が作ったのは何の変哲もないごった煮だったのだが、野菜の湯で加減も肉の火の通り具合もちょうど良かった。味付けに香草を使ったようなのだが、その風味もクドくなく具や汁の味を損なうことなく引き立てている。
「兄ちゃん、あの姉ちゃん料理上手いな」
はしゃぐ弟を苦笑しながらなだめて、エスノアは向かいに座って緊張するアルファに笑いかけた。
「明日からでいいから、俺の店を手伝ってくれないか。見ての通り宿屋なんだが、料理できる人がいなくってな」
「そうそう、兄ちゃんの料理すごくってな」
「余計なこと言うなよ」
壊滅的に料理下手な事を弟に暴露されかけて、エスノアは焦るがアルファはそんなこと気にしていないようだった。
「いいよ、エスノアの仕事手伝う」
「やったぁ! これで屋台飯なくなる!」
少女の答えにキリィは歓声を上げて立ち上がる。
その時だった。入り口の扉が開く音がする。エスノアは客が来るのは珍しいと立ち上がって振り返った。
彼らはどうせ客が来ないだろう、と宿の食堂を使って食事をしていたのだ。そのために振り返るとすぐに入り口が見える。
開いた扉をゆっくりと二人の客がくぐってくる。降り続いた雨は陽が落ちた今も止む気配がなく、濡れた雨具から水滴を滴らせた客の一人がそのフードを上げた。
「この宿って部屋空いてる?」
黒い髪に金色の目をした青年が、困ったように笑って言った。その目の色を見て驚いたエスノアに、青年は続けて言った。
「あ、目の色驚いちゃいました? すみません、俺は半分竜なんです」
「半分……?」
エスノアは呆然と呟いて、アルファを振り返った。青年も釣られて視線を動かして少女に気がついた。
「アルファ、お前も半分竜?」
「そう。父様が竜」
こくりと頷いた少女の素性にやっと納得して、エスノアは目の前の客のことを思いだした。
「あ、すみません。部屋なら空いてますがお連れ様とは同じ部屋を?」
「……別で」
エスノアの質問に答えたのは、青年の連れだった。周りを警戒しているような硬い女性の声だ。
「またそんな愛想のないことを。ほら、雨具も脱いで」
濡れた雨具を脱ぎながら言った青年に従い、女性も雨具を脱いだ。その女性の素顔を見たときに、後ろで鋭くアルファが息を呑む気配がした。エスノアも今度こそ驚きで声を上げそうになる。
女性は黒い髪に縁取られ整った顔だちをしていたが、その目は血のように赤く耳はピンと鋭くとがっていた。
「あー……かっこいい!」
言葉を失ったエスノアのすぐ後ろでキリィが笑う。女性の姿が人とは違うことにも全く動じずに女性に近づいていく。
「……気味悪がられるのには慣れているが、褒められたのは初めてだな」
女性はキリィの言葉に気分を害した様子もなく、変わった生き物を見るような視線を目の前の少年に向けていた。
「私は普段部屋から出ない。人間に危害を加えることはない。それでも駄目だろうか」
「本当に申し訳ない。彼女がこうだからどこの宿屋でも断られちゃって」
固まっていたエスノアは、人のよい笑みを浮かべた青年の姿に呪縛を解かれて考えた。
「ちょうど他に客もいないし、いいですよ。何日ですか?」
「それがちょっと決まってなくって。泊まれるだけ泊めてもらっていいかな」
青年がぎっしりと詰まった袋をエスノアに手渡した。その重さに驚いて中身を確認するとぎっしりと金貨が詰まっている。
「さすがに多すぎるので、一ヶ月ごとの精算じゃ駄目ですか?」
手の中のお金の重みが何となく恐ろしくて、エスノアは恐る恐る提案する。
「あ、やっぱり多すぎます?」
あははは、と青年は笑って返された袋を受け取り、エスノアの提示した一ヶ月分の宿代を支払った。
「じゃあ俺が案内する! お客さんこっち!」
無邪気にキリィが、部屋の鍵をカウンターから取ってきて二人の客を案内する。残されたエスノアはアルファを振り返った。
「ちょっとびっくりしたな。でも客が入ったし明日から料理頼むな」
「うん、がんばる」
少女を拾って料理人として雇うことを決めた日に、久々の客が舞い込んだ。この日からまるで少女と二人の客に引っ張られるように様々な人と彼らは関わっていく。
だが、それはまた別のお話。