閑話 ケイナ
※ 今回、ちょっと長めです。
◇
ケイナ・ワークリング、二十九歳独身。
エイジャ・ワークリングの実姉である。
職業は神官。
信仰する神は、始祖神だ。
そんな、エイジャと同じ灰色の髪を腰元まで伸ばしている彼女は、現在自分の執務室内にいた。
柔らかい革張りの椅子に腰掛け、大きめに作られた執務机にずらりと並べられた書類の束に向かい合う彼女は、普段よりも量の多いそれらを、さらさらとした直毛を片手で弄びながら一枚一枚確認していく。
時折、自分の決済を必要とする書類が混じっており、それらに抜かりなく署名を行っていた彼女は、「ふぅ……」と疲れたように溜め息を吐いた。
魔導機械式の柱時計をチラリと見る。
時間はすでに夜の十時過ぎだ。
疲れが溜まるのも無理はない。
「疲れた……」
ぐうっ、と背伸びをしてみる。
パキポキと、凝り固まった関節から音が鳴った。
鈍い痛みを訴える両目を揉みほぐしてやるが、これは寝ないと治らないだろう。
ケイナは諦めて、次の書類に目を落とす。
そこに書かれている内容に、改めて溜め息が零れた。
「……ウェイトノットスライス号、ね。
俄には信じられんが、多数の目撃情報と船内に乗り込んだ者たちの証言もある。間違いはないんだろうな」
三百年もの間、大海を彷徨い続けた亡霊船。
数多くの船と人を飲み込んできた、悍ましき化け物だ。
これほどの大物がこの国の港町に現れたなど、冗談でも止めてほしい話だ。
しかし、験を担ぐ船乗りたちならその名と姿を知っている者も多い。
そんな彼らがそうだと言うのなら、おそらく本物だったのだろう。
もっと言えば、この亡霊船は出現した当日、すなわち今日の内には冒険者と神官たちの共同戦線によって退治されているのだ。
今更、やっぱり間違いでした、などと言われても困るのだ。
ぬか喜びなど御免蒙る。
「不幸中の幸い、と言っていいのかは分からんが、死者も出ず、私たちが出る間もなく討伐されたから、これくらいの量で済んでいるのだろうな。これで被害が出ていたら、まず二、三日は帰れなかったな」
ケイナは、ぼやきながら手元の書類を適当にパラパラめくる。
まだまだ机を埋め尽くさんばかりの量があるが、ピークだったころに比べれば半分程度の量だ。
そのころには新しく持ち込まれる書類の量も減ってきていた為、ようやくここまで処理出来たのである。
このままのペースなら、日付が変わるころには終われそうだ。
……日付が、変わるころには。
「…………」
ようやく目処が立ったというのにケイナは、ぼんやりと書類の束を見つめる。
まるで、そうしている内に書類が減っていかないかな、とでも思っているみたいに。
しかし勿論そんな事があるはずもなく、数分ほど見つめ続けた後に彼女は、諦めたように次の書類に手を伸ばす。
しばらくの間はカリカリとペンを走らせる音と、柱時計が刻を刻む音だけが執務室内に響いていた。
ケイナ以外にこの部屋には誰もいないのだから当然といえば当然ではあるのだが、しかしこうも静か過ぎると、気が滅入りそうでもある。
書類を捌きながら、ケイナはそっとお腹に手を当てた。
夕飯を食べていないため空腹は感じるが、これくらいなら、まだ、我慢できるだろう。
だからさっさと終わらせて、寮に帰って休みたい。
正直言って、しんどい、の一言に尽きるのだ。
と、そんな風に考えていたところである。
机の引き出しの中から、鈴のような音が鳴った。
「ん? ……鏡か。誰だ、こんな時間に」
引き出しを開け、何枚かの内から音の鳴っている対話鏡を取り出すと、鏡面に指を触れる。
鏡に写る自分の顔がグニャリと歪み、相手の顔が写し出された。
「あ、良かった、まだ起きててくれたんだ、ケイ姉」
「……エイ君じゃないか。どうしたんだ、こんな時間に」
「あはは、ごめんねえ。あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
相手は、二つ下の弟だった。
前に会ったときと変わらないような、にこやかな笑みを浮かべている。
ケイナは、少しだけホッとしたような気持ちになりつつも、姉としての威厳を損ねないようにいつもどおりの口調で相槌を打った。
「一体なんだ?」
「いやあ実は、以前作ってもらったアレを、数日前にほとんど使っちゃってさ。新しいのを作ってもらいたいんだ。……ダメかな?」
「アレ、とは、……アレか? お前、ここ一週間くらい姿を見ないと思っていたが、どこで何をしていたんだ?」
普段から問題ばかり起こしている弟に、また何かやったのか、と姉である彼女は鋭い視線を向けたが、エイジャの方も負けず劣らず真剣な視線を返してきたため、逆に少しばかりたじろぐ。
そんな姉の様子を気にすることもなく、エイジャは言葉を繋ぐ。
「ああ、その事も一緒に話したいからさ、今からケイ姉の部屋に行ってもいいかな?」
ケイナは一瞬硬直し、それから机上の書類の束を見て、どこか安心したように答える。
「私の部屋にか? ……悪いが、まだ職場にいるんだ。ちょっと急ぎの書類があって――」
「そうなの? だったら余計に都合がいいや。俺らも一度本部に戻ろうと思ってたんだ。だから、そのままの足でケイ姉のところに行くよ。
執務室でしょ? 書類仕事してるってことは。
そっちの方が広いし、皆で行くにはちょうど良いねえ」
「な、何? お、おい……!」
「あ、デザくーん! ケイ姉は執務室にいるってさー!」
「っ……!」
デザイアの名前が出た途端、ピクリと反応するケイナ。
デザイアを呼ぶために振り返っていたエイジャはそれに気付かなかったが、鏡の向こうから聞こえた「了解だ、エイジャ」という返事に、ケイナは内心で大いに動揺していた。
「それじゃあ、取り合えずそっちに行くから。多分、後二十分くらいで着くと思う」
「あ、ああ、……分かったよ」
「……それじゃあヨロシクね、隊長さん」
「……」
冗談めかしてそう言って、手を振ってきたところで通話は終了する。
鏡が再び写し出すのは、自分の顔。
「……そうか、デザ君が、一緒なのか」
ただしその顔は、通信前と比べて若干紅潮していた。
「っと、そうだ、こうしてはいられない」
ケイナは素早く机上に広げていた書類を一瞥し、絶対に、明日の朝までには確認、訂正、署名が必要な物を選り分けると、素早くその作業を行っていく。
作業速度は先程までの比ではない。
あっという間に書類が捌けていき、十分ほどで作業を終える。
決裁済みと決裁待ちの書類を分かりやすいように分けて整理し、机の横の書類入れにしまう。
それから彼女は、「えっと、そうだな、身嗜みくらい整えておくのは、当然のマナーだよな」と誰に対してか分からない言い訳のような言葉を呟くと、足早に執務室を出ていく。
おそらく洗面台にでも向かったのだろう。
そして、誰もいなくなった執務室の入口に掛けられている札には、こう記されている。
『神官隊隊長執務室』
と。
ケイナ・ワークリング、二十九歳独身。
職業、神官。
所属、国際教会連盟ブリジスタ支部。
出向先、ブリジスタ騎士団神官隊。
相当階級、正一等騎士。
……要するに、――隊長だ。
そう、彼女こそ、ブリジスタ騎士団神官隊の隊長なのである。
◇
ブリジスタ騎士団神官隊の隊長と言えば、国内ではかなり名の知られた人物である。
人呼んで、「天秤のケイナ」。
彼女はこの国で唯一、輪廻転生神術を行使出来る神官であり、尚且つ、国内では厳しく使用を制限されている蘇生呪術の使用を正式に許可された呪術師なのである。
若かりしころは聖国に留学し修行していた経験もある彼女は、有り体に言って天才であった。
最高位神術である輪廻転生神術を修得出来た人間など、ブリジスタの歴史をひっくり返しても数人ほどしか記録されていないのだ。
その時点で、彼女の神術に対する才能、――如何に神様から愛されているか、という点は、他の追随を許さない。
このままのペースで信仰を積めば、いずれは神身降臨神術の修得すら確実であると言われているのである。
という話をゼーベンヌに聞かせながら本部の廊下を歩くエイジャは、ここで話を区切った。
間もなく姉の執務室に着くはずだからだ。
「と、いうわけで、ケイ姉はとっても忙しい日々を送っているんだよ。騎士団神官隊の隊長であると同時に教会連の幹部でもあるから、回ってくる書類も馬鹿みたいに多いんだって」
「……そんな人に、こんな気軽に会いに行って大丈夫なのですか?」
「いいんじゃない、別に? ケイ姉って事務処理能力も段違いに高いから、通常量の書類なら日が暮れる前には全部仕上げ切っちゃうし」
「今日は、こんな時間まで残っているようですが?」
そう言われてエイジャは、「そうだねえ」と少しだけ考え込む。
「……神官隊が出動していた様子は無かったから、何か、教会の方で大掛かりな出来事でもあったのかもしれないね。まあ、本当に修羅場になってたらそもそも対話鏡にも出なかっただろうから、今はもう収束したか、喫緊の脅威は排除されているか、ってところじゃないかな?」
「なるほど、それなら大丈夫そうですね」
「多分だけどね。
あと、ケイ姉ってゼーちゃんと同じで生真面目だからこんな時間まで残って仕事してるんだろうけど、結構寂しがり屋でもあるから、こうやって俺が顔を出すと何だかんだで喜んでくれるんだよねえ」
「そうですか」
何度か本部内で顔を合わせた事はあっても世間話をするような間柄ではなかったゼーベンヌは、ケイナの人柄を知らない。
それなら、まさしく生まれた時から一緒に居たであろうエイジャの言葉を疑う必要もない。
それよりもゼーベンヌには、気になっている事があった。
「ところで隊長」
「ん、どうしたの?」
「どうして、ここに来たときからデザイア団長の手を握っているのですか?」
「ああ、これ?」
エイジャは、右手でガッシリと掴んだデザイアの左手を持ち上げて、困ったように笑う。
対してデザイアは、ここに来てから一言も喋っていなかった。
「デザ君が逃げないようにだよ」
「はあ……?」
「あ、そうだ、ついでだからゼーちゃん、反対側の手を握っといてよ」
「えっ!?」
いきなり何を言い出すのだ。この男は。
「ほらほら、早く早く」
「え、いや、流石にそれは」
「いいから、はい」
「あっ……」
無理矢理、デザイアの右手を握らされる。
前回握手したときも感じたが、とても硬くて、そしてゴツゴツしている。
誰が触っても、厳しい鍛練の賜物だと想像出来るほどに。
そうやって、ゼーベンヌが無意識的にデザイアの手の感触を確かめていると、ようやくデザイアも口を開いた。
ただし、とても苦々しげな声音ではあったが。
「……エイジャ、ここまでせんでも、今更逃げたりしない」
「そう? でもまあ、もうすぐ着くんだから黙って付いてきなよ」
「…………はあ」
デザイアは深く溜め息を吐いた。
その様子にゼーベンヌは、何故これほど嫌がってるんだろう、とも思ったが、それを確認する前に目的地に着いた。
「到着、と」
「……」
「あ、ここがそうですか」
木製の分厚いドアの前に立つ三人。
エイジャが代表してドアをノックし、「ケイ姉ー、来たよー」と声を掛ける。
数秒も待たずにパタパタと足音が聞こえ、それからドアが開く。
中から顔を出したのは、灰色の髪を腰元まで伸ばした妙齢の女性であった。
――あら、美人だわ。
と、ゼーベンヌはまずそう思った。
垂れ目がちな灰色の瞳は見る者に安心感を与えるのだろうと思えたし、小さめの鼻とか柔らかそうな唇とか、ほんのり桜色に色付いた頬とかは、同性の自分から見ても「華やかな美」を感じた。
全身から感じられる穏やかな雰囲気はさながら慈母のようであり、服の胸元を押し上げる膨らみは、ゼーベンヌよりも二回りは大きいだろう。
騎士団神官隊の制服をきちんと着込み、その上から始祖神の神官であることを示す紋章の付いた薄い上着を羽織っているのは、生真面目だと評される性格の現れだろうか。
ゼーベンヌ的には、非常に好印象だ。
少なくとも第一印象だけで言えば、エイジャなどとは雲泥の差である。
――だけど、……どうしてこの人、こんなに驚いているのかしら?
次に思ったのは、それである。
なんというか、愕然としたようにしている印象を受ける。
表情そのものは、少しだけ目を見張っているといった感じだ。
だが、視線は動揺したように揺れているし、明らかに、想定外の事態に陥った時のような焦燥感抱いていた。
「忙しいとこゴメンね、ケイ姉。取り合えず入っていいかな」
「……あ、ああ、入って、くれ」
「ありがと。ほら、二人も」
そう言って、エイジャはデザイアの手を引いて室内に踏み込んでいく。
そしてデザイアとともに引っ張られたゼーベンヌも、同じように室内へ。
「…………」
その時ゼーベンヌは、ケイナの視線が自分たちを追って動いているのを見た。
それ自体は、自然な事だろう。
しかし、何か、視線の位置がおかしいように思えた。
自分たちの顔や胸元よりも、もっと下。手元付近を見られているような、そんな気がした。
その疑問を解消する事も出来ず、執務室内に立ち入ったゼーベンヌ。
次にケイナに目を向けた時には、ドアを閉めるためにこちらに背中を向けていた。
――何だったのかしら、一体?
とは思うが、自己紹介もする前から不躾な質問をするのも憚られたため、口には出さない。
それに相手は上司の家族であり、彼女自身も自分より階級が上だ。歳だって幾つか上だろう。
あまり失礼な事は出来ないのだ。
だからゼーベンヌは、デザイアに手を引かれるまま歩きソファに腰掛けた。
そして、エイジャが自分の事を話題に出してくれるまで、静かに待つ事にしたのだった。
◇
「ほら、これを取りに来たんだろ。取り合えず今出来てるのは、この七発だけだ」
「分かったよ、ありがとうね。それから、……これも聖別しといてくれないかな?」
「こんなに? お前、本当に何と戦うつもりなんだ?」
ケイナがエイジャに手渡した物は、エイジャの右腰に吊られた火薬銃で消費するための弾丸だ。
弾頭を銀に替えたうえでケイナが聖別したこの弾丸は、魔なる者を問答無用で撃ち貫く事が出来るほどに強力な品である。
無論、これを何発も使わなければならない相手など、滅多にいるものではない。
ケイナには、どこで五発も撃ってきたのか不思議でならない。
そしてエイジャは、更に三十発ほど未聖別の銀弾をポーチから取り出して、ケイナに手渡したのだ。
幾ら何でも多過ぎる。
これほどの備えが必要な敵が、どこにいると――。
「リャナンシーが出たんだ。サーバスタウン近くのテグ村で」
「…………何だと?」
「しかも、俺たちで斃しておいたはずなのに、いつの間にか起き上がって逃走していた。多分、他にも仲間がいるはずなんだよ」
「…………」
エイジャは、テグ村で起きていた出来事を、かいつまんで説明していく。
その中で、ゼーベンヌの事や途中で別れた黒髪の友人の事なども説明していくが、ケイナの表情は非常に重苦しい。
リャナンシーが現れるというのは、つまりはそういう事なのだから。
「と、いうわけでケイ姉、その弾丸は、奴等を仕留めるための切り札たり得るんだ。いくらあっても困るものじゃないし、出来るだけたくさん準備しておきたい」
実際、エイジャが持ってきた三十発というのは、エイジャが保有している弾薬の全てなのである。
出し惜しみをする気は、一切なかった。
「そういう事なら、分かった。明日の夜、……いや」
ケイナは柱時計に目を向けながら、数瞬考え込む。
「……夕方で構わない。執務時間が終わる頃までには終わらせておくから、取りに来てくれ」
「うん、お願い」
そこまで言うと、エイジャは立ち上がる。
そしてドアの方へと歩いていった。
「隊長、どちらへ?」
「任務の達成報告に行ってくるよ。
ケイ姉、フー様はまだ部屋にいると思う?」
「フー殿か? 一時間ほど前にはまだ部屋の灯りが点いていたように思うが」
「ん、じゃあ居るね、ちょっと行ってくる」
「私が代わりに行きましょうか?」
「いいよいいよ。ゼーちゃん、フー様の顔知らないって言ってたし、直接会って確認したい事もあるしさ」
エイジャはヒラヒラと手を振りながら執務室を出ていく。
ドアがパタンと閉まると、残された三人は不意に無言になった。
室内に、柱時計の音だけがカチコチと響いている。
――隊長がいないと、話す事がないわね。
ゼーベンヌは内心でそう思う。
デザイアの方も、無言だ。
いや、デザイアは最初から黙り込んだままだし、ゼーベンヌもケイナに対してむやみに話しかけるつもりもなかったから、仕方がないのだが。
そして柱時計の秒針が一回りしたころ、ようやくケイナが言葉を発した。
「な、なあ」
「……」
「はい、なんでしょうか?」
デザイアが返事をしなかったため、取り合えずゼーベンヌが相手をする。
まだ親しくはないとはいえ、無視するのは失礼すぎる。
「あー、その、だな」
「はい」
「……えっと」
ケイナは、なにやらモジモジとしながら視線を彷徨わせていたが、やがて恐る恐るといった様子で本題を切り出した。
「ゼーベンヌ、といったかな」
「はい、そうです」
「エイ君の下で働いてくれているそうだが、どうだろう? エイ君はしっかりやっているかい?」
「……そうですね。基本的には、仕事は真面目にされていますよ。他の部下たちからも慕われていますし、訓練も手を抜いたりなどしていません」
「本当か?」
「時々、とんでもない事をされたりもしますが」
「そ、そうか……」
「はい」
ゼーベンヌは、そこそこ本音で喋ったのだが、ケイナもある程度普段の状況というものは知っているため、そこまで気にしてはいない。
というか、ケイナが一番気にしているのは、そんな事ではなかった。
「ところで、……ゼーちゃんよ」
「…………はい」
あ、やっぱりそう呼ぶのね、とまでは口に出さない。
「先程は、随分と親密そうだったが、その、君は一体どういう関係なのかな?」
「……は?」
思わず素が出てしまった。が、ケイナは気にせず続けた。
「いや、ほら、デザ君とだな」
「……デザイア団長と?」
「て、て、手を繋いでいたではないか?」
「……はい、繋いでいましたが」
エイジャ隊長が無理矢理握らせてきましたので、と繋げる前に、ケイナが大きく目を見開いた。
「! な、なら、やはりその、君は!」
「はい」
「デザ君の、こ、こ、……恋人なのか?」
「…………えっ?」
いきなり何を言い出すのだ。この女は。
ゼーベンヌがそう思っている間も、ケイナは矢継ぎ早に言葉を繋げてくる。
「や、やはりそうなのか。最近、なんだか避けられてるなとは思っていたが、恋人が出来ていたからなのか。ま、まあ、デザ君は昔と比べたら、その、非常に凛々しくなったし、男らしさも段違いだから、恋人ぐらいいつか出来るだろうと思っていたが」
「えっと、ケイナ隊長?」
「し、しかし、何故ゼーちゃんなのだ? あれだけ言い寄る女性たちを袖にしてきて、何故今更? 確かに、ゼーちゃんも凛々しい目をしていて、ああ、ピシッとしているな、とは思うが、胸なんて有って無いようなものじゃないか。私の方がいくらも大きいのに……」
「……」
胸は関係ないだろ。胸は。
相手が隊長でなければ、殴り掛かっていたかもしれない。
ゼーベンヌは、なんというか、「ああ、この人って間違いなくエイジャ隊長のお姉さんだわ」と心の底から理解できた。
「やはり若さか、若さなのか……!」
「……あの」
そろそろ止めないと、とんでもない事を言い出しそうである。
ゼーベンヌはそう考えて、如何にしてケイナを説得しようかと思案する。
と、ここで。
「――ケイナさん」
「っ、な、なんだい、デザ君?」
見るに見かねた様子のデザイアが、渋々口を開いた。
「何か勘違いをしているようだが、俺はゼーベンヌと交際などしていないぞ」
「えっ……?」
「なあ、ゼーベンヌ、そうだろ?」
デザイアは、心底疲れたような顔をしているが、瞳の力強さは有無を言わせぬものがあった。
勿論ゼーベンヌも同意見であったので、きちんと頷いておく。
「はい。私は、デザイア団長と交際などしていません」
「ほ、本当に……?」
「勿論です。確かに、私にとってデザイア団長は憧れの人物でありますが、それは騎士として、一人の人間として、尊敬しているという意味です。思慕の念など、これっぽっちもございません」
これは、少しだけ嘘だ。
だが、ケイナの表情は目に見えて明るくなっていっている。
わざわざ、掻き乱す必要はない。
デザイアの眉がほんの少しだけ動いたのは、見間違いのはずだ。
「そもそも、私がデザイア団長に出会ったのは昨日の事ですよ? 交際するしない以前の話です」
「……そうか、…………そうなのか」
「はい」
ケイナは、まるで迷子になった子どもがやっとの思いで両親を見つけた時のような、深い安堵の表情を浮かべて天を仰いだ。
その時彼女は、本当の本当に小さな声で「……良かったぁ」と呟いたのだが、二人の耳に届かなかった。
「そういう訳だ、ケイナさん。俺は誰とも交際などしていないし、するつもりも――」
「デザ君!」
「――なんだ?」
デザイアは、来たか、と身構えた。
「喉は渇いていないか!?」
「……いや、別に」
「おお、そうだ! この間貰った焼き菓子が残っていたな。ゼーちゃん、食べたくはないか!?」
「えっ、その、いただきます……?」
その途端、ケイナはパッと微笑んで、立ち上がる。
デザイアは、嫌そうに眉を顰めた。
「そうかそうか! ちょっと待っていてくれ、取ってくるから。一緒にお茶も淹れてくるよ!」
「ケイナさん、そんなに気を使ってくれなくとも……」
デザイアの言葉を最後まで聞かず、ケイナは部屋を出ていってしまった。
いきなりの事にゼーベンヌは呆気に取られているが、デザイアは頭痛を堪えるかのように頭を押さえていた。
「あの、デザイア団長?」
「……俺は別に、ケイナさんが嫌いという訳ではないんだ」
「へっ?」
一体何の話だろうか。
デザイアは、尚も言葉を絞り出す。
「俺も、小さい頃からケイナさんには世話になっている。幼い頃の俺は少々問題があったが、それでもケイナさんは俺の事を実の弟のように扱ってくれていたからな。その事は、本当に感謝しているんだ」
「は、はあ……?」
デザイアの幼少時代。ゼーベンヌとしては中々興味のある話であった。
だが、主題がそこではないため、デザイアも話を流した。
「だが、今のケイナさんに会うのは、忍びないんだ。見ているのが、辛い」
「何故ですか?」
「……ゼーベンヌ、こんな事聞くのは失礼だと承知の上で聞くが、お前、歳は幾つだ?」
「私ですか? 今年で二十二歳です」
「そうか、……ケイナさんは、今年で二十九歳だ。来年の春には、三十歳なんだ」
「……はあ」
あれ、なんだか話の雲行きが怪しい気がする、とゼーベンヌは思った。
「ケイナさんは、とても生真面目な人だ。聖国で修行して帰ってきてから、余計にそうなった。神官として、敬虔な信徒として、誰に恥じる事のないほどに、立派に活動してきた」
「……」
「エイジャと俺が騎士団に入団して暫くした後、ケイナさんが神官隊に出向で来てくれたときは、確かに嬉しかった。しかし、そのせいでケイナさんは余計に忙しくなったんだ。忙しくなって、そして――」
「……そして?」
「…………婚期を、逃した」
「…………婚期?」
デザイアは、呻くように「そうだ」と頷いた。
「ゼーベンヌ、お前、この国の一般的な女性が何歳くらいで結婚しているか知っているか」
「……私の友人は、十九の時に結婚しました」
「そうだ。早ければ十代半ばから二十代前半、遅くとも二十八くらいまでだ。ケイナさんは、それを越えてしまっている」
「……まあ、そういう事もあるんじゃないでしょうか」
ゼーベンヌには、いまいちその恐ろしさは分からない。
しかし、デザイアはかなり恐れているようだ。
「問題は、あの人が、今になってその事に焦りを覚えていることだ」
「……焦り、ですか?」
「ああ。ここ一年ほど、あの人の俺を見る目が、おかしい。いや、おかしくはないんだろうが、今までのような、弟を見守っている目から、獲物を狙っている目に変化した」
「……気のせいでは?」
と、言いつつも、デザイアの言わんとすることが何となくゼーベンヌにも理解できた。
「俺の『勘』は、外れた事がないんだ」
「ああ、天恵なんでしたっけ」
「そして、これが一番の問題なんだが」
「はい」
まだ問題があるのか?
あるらしい。
「もし万が一、あの人に懇願されたら、俺は断り切る自信がない」
「……どういう意味ですか?」
「…………結婚してくれ、と泣きながら縋られたら振り払えない、という意味だ」
「……」
「……分かってる、俺も馬鹿みたいな事を言っているとは思う。
しかし俺の勘は、このままだと近いうちにそうなると言っているんだ……」
彼の、神憑り的な勘は、いまだかつて外れた事がない。
その事実が、デザイアの気を重くしているらしい。
「だから、ケイナさんには早くイイ人を見つけてもらって、結婚してもらわなくてはならない。出来れば、ケイナさんの身の回りの世話が出来る、優しい人にだ」
「……エイジャ隊長に相談してみては?」
「それは出来ん。エイジャは基本的に聡い奴だが姉の事になると途端に鈍くなる。アイツは、ケイナさんが焦っている事に微塵も気付いていないし、もし気付いたら、俺とケイナさんを結婚させようとしてくるはずだ」
「……」
味方が皆、敵のようだ。
孤立無援とはこの事か。
「そもそも、ケイナさん自身が自らの焦燥感に気付いていない可能性が高い。俺も藪蛇は御免なんだ」
「……そうですか」
ゼーベンヌには、なんとも言いようがない。
言い方は悪いが、昨日今日会ったばかりの人たちの微妙な人間関係など聞かされても、返事に困るのだ。
デザイアもその辺りは察しているので、「悪いな、変な事を言った」と疲れたような顔で謝った。
「あと、今の話は他言無用で頼む」
「他人の秘密をペラペラ喋る趣味は有りませんので、ご安心を」
と、言ったところで、ケイナがお茶とお菓子を持って帰ってきた。
「む? なんだ、二人で仲良く密談か?」
「いえいえ、違いますよケイナ隊長」
「ああ。エイジャが中々帰ってこないよな、という話をしていただけだ」
「そうか、確かに遅いな」
二人は、先程までの遣り取りなど無かったものとして話をでっち上げた。
ケイナは、素直に信じてテーブルの上に茶と菓子を置いた。
「ところでケイナ隊長、お聞きしたい事があるのですが宜しいでしょうか?」
「なんだ? いきなり畏まって」
「エイジャ隊長の幼い頃の話を少しばかり聞いてみたいのですが」
「エイ君のか? おお、勿論良いぞ」
「ありがとうございます」
ケイナは、嬉々としてエイジャの昔話を語り始める。
そこには付随して、デザイアやケイナの過去も含まれていたため、幼い頃からの幼馴染みだというのは本当なのだろう。
なんでも、デザイアの父親とエイジャたちの父親がブリジスタ国軍での戦友らしく、ドランキッシュ壱佐が陸軍、ワークリング弐佐が海軍に在籍しているらしい。
そしてその縁もあって、デザイアとエイジャたちは幼い頃からよく一緒に遊んでいたそうだ。
小さい頃は非常にヤンチャだったデザイアと、小さい頃から好奇心旺盛で五分とジッとしていなかったエイジャの二人に、いつも振り回されていたそうだ。
当時すでに使えるようになっていた神術でよく二人のケガを治していたな、とケイナは染々と語る。
デザイアは、流石に少しばつが悪そうにしている。
「そういえば小さい頃のデザ君は、大きくなったらケイ姉と結婚するんだ、って言ってくれてたな……」
「……!」
「ケ、ケイナ隊長!! 隊長が聖国に行っていたというのは、いつ頃の話なんてすか!?」
「え、ああ、それは――」
ケイナが十四歳の歳の話だそうだ。
一年間ほど聖国の教会に住み込み、神への祈りを捧げたり奉仕活動をしたりして過ごしたそうだ。
そして帰ってきてすぐにこの国の教会連の一員となり、今日まで活動しているらしい。
因みに、エイジャが騎士団に入団したのはその三年後の十六歳の時、デザイアは更にその一年後の十五歳の時に入団している。
エイジャは第二騎士団、デザイアは今と同じ第四騎士団に配置になっていたそうだ。
更に言えば、ケイナが騎士団出向になったのは今から三年前の事であった。
「そういえばエイジャ隊長って、第二騎士団のブライアン団長と親しくされているそうですね」
「ああ、ブル爺は元々軍人だったんだ。デザ君の父上と同じ陸軍にいて、私たちの父ともども仲が良かったそうだが、若い内に騎士団へ異動になって、それからずっと騎士団の第一線で働いているんだ」
「なるほど」
軍人上がりなのか。
どうりであの歳になっても身体つきが良いのだろう。
元々の鍛え方が違うという訳だ。
「ただ、そのせいで第三騎士団の団長とは仲が悪いな。あの人は最初から騎士団一筋だから、基本的に軍人上がりの団員の事が好きじゃない」
「第三、と言えば、……チャスカ団長ですよね」
ゼーベンヌは、少しだけ眉を顰めた。
第三騎士団団長、チャスカ・キャリー。
彼は、少しばかり通り名が怖いのだ。
その名も「惨劇の化身」。
若しくは「首吊案内人」だ。
どちらも、ひたすらに印象が悪い。
本人の見た目も意地悪爺さん然としているため、尚の事である。
「数年前に起こった事件で、何かとんでもない事をしたのだ、とは聞いていますが、私も詳しい話は聞いた事がないんですよね」
「ああ、私もだ。私が聞いたのは、村の住人を皆殺しにして、村一つを地図から消したという話だが、どうにも嘘臭い。そんな事、仮にも騎士団の人間がするはずがないし、物理的にも出来るわけがないからな」
「そうですよね」
どうやら、二人ともチャスカ団長の通り名の由来は知らないらしく、あれやこれやと推測を口にする。
「…………」
そしてデザイアは、その二人の推論を聞きながら静かに目を閉じ、胸に手を当てた。
まるで、故人を偲ぶかのように。
◇
「それじゃあ、また明日来るよ、ケイ姉」
「おやすみなさい、ケイナさん」
「今日はありがとうございました」
結局。
エイジャが帰ってきたのは、あれから三十分後であった。
ゼーベンヌとケイナは、その間になんだかんだと言葉を交わし、今ではそれなりに仲良くなっている。
元々、性格的な部分は似ている二人である。
ケイナが寂しがり屋である事も加わって、親密になるのに時間は掛からなかった。
今は、一旦自分たちの部屋に帰ることにしたデザイアたち三人を見送るために、ケイナが騎士団本部の玄関まで降りてきているところである。
「ああ、三人とも、また明日」
三人の後ろ姿を見送るケイナ。
団員の住居は基本的に、騎士団本部敷地内に併設された寮だ。
大した距離ではないが、まあ、気分というやつである。
そうして、三人の背中が見えなくなったところで、ケイナは振っていた手を下ろす。
不意に、涼しい風が灰色の長髪を揺らした。
昼間はまだまだ残暑が厳しいが、夜になると、秋の訪れを感じられる。
空を見上げる。
少し雲が多い。
明日からは、曇るかもしれない。
「……」
それでも、雲の切れ間から覗く星々は、その輝きを誇る。
天頂近くに登る月は、ほとんど真円に近付いていた。
もう二、三日もすれば、満月になるだろう。
その時は、晴れているだろうか?
ケイナは、ふと、そう思った。
「……戻るか」
踵を返して、本館建物内に戻る。
折角だから、残りの書類も仕上げてから帰ることにしたようだ。
三階にある自分の執務室に戻りながらケイナは、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「……デザ君、変わってなかったな」
ケイナが思い浮かべるのは、幼い頃から一緒にいた青髪の青年だ。
相変わらず格好良かった、と心から思う。
そう、ケイナは、自分の感情をはっきりと自覚しているのである。
「しかし、ゼーちゃんか。……デザ君と手を繋いでいるものだから、本当に焦ってしまった。上手く取り繕ったつもりだったが、ひょっとしたらバレていたかもしれんな」
部屋に入るときのゼーベンヌの視線。あれは、間違いなく何らかの疑念を抱いていた。
バレていたと考える方が自然か。
「話して見れば中々良い子だったし、デザ君を取り合う事にならないのであれば、これからも仲良くしたいものだな」
ケイナは、深く頷きながら階段を登る。
三階まで辿り付くと、長い廊下を歩く。
途中、斥候隊隊長の執務室前を通ったが、やはり中からは人の気配がした。
こんな時間まで、お忙しいことである。
「まあ、それを言ったら私も同じようなものか」
ケイナは、自嘲気味に苦笑いをし、それから執務室のドアを開け――。
「あラ、お帰りなさイ」
「――はっ?」
自分の椅子に腰掛けて書類をめくっていた誰かに、挨拶をされた。
◇
「誰だ、貴様!?」
ケイナは瞬時に臨戦態勢を取る。
先程までの笑顔は消え失せ、まさしく外敵を排除せんとする獣のように、眇められた目で睨む。
相手。
薄い紫色の髪をした、おそらく女。
数。
一人だけ。
武器。
腰に剣、そして他にもいくつか。
倒せるか。
……倒さなくては、ならない!
あの女がめくっているのは、教会連の機密文書だ。
情報を持ち出される訳にはいかないのだ。
「貴様、……どこから入った?」
「そこの窓ヨ、鍵が掛かっていなかったワ」
ここは三階だというのに、女は何でもないことのようにそう言った。
「それにしてモ、ワタシが離れた後にこんな大物が出てたなんテ、……船で一緒だったあの子は大丈夫かしラ?」
「……何の話だ?」
「あア、こちらの話ヨ」
女はケイナに向けてニッコリ微笑む。
緩いウェーブの掛かった紫色の髪が開けっ放しになっている窓からの風でふわりと揺れた。
そして。
「ところで、ケイナ」
「……!」
「さっきから臨戦態勢を取っているみたいだけド、もしかして、ワタシが誰か分からないノ?」
「……なんだと?」
女は、困ったように笑っていたが、ふと思い出したように手を叩いた。
それから、ゆっくりと口を開き。
「~~~~、~~~~、~~~~、――――」
歌を、歌い始めた。
それは、伸び上がるような旋律で、ゆったりとしたテンポの歌であった。
女自身の歌唱力の高さによって、聞く者を魅了するような不思議な力を纏っていた。
そして、歌を聞いたケイナは。
「……まさか、お前、…………ヴィラか?」
その声の持ち主を、思い出していた。
「――――、そうヨ、ようやく思い出してくれたのネ」
自分の愛称を呼ばれた女は歌うのを止め、目を細めて笑う。
髪と同じ薄紫色の瞳は、昔と同じ光を湛えていた。
だが。
「お前、その、姿は……?」
「……ケイナは、立派なレディになったわネ」
「何故、だ、お前、なんで……!」
ケイナの言葉は震えている。
およそ、十五年振りに再会した友人だというのに、ケイナの胸中を占めるのは、懐かしさよりも驚愕であったのだ。
自然と足が前に進む。
友人に近付くために。
そして、あと数歩というところで、名を呼ばれた。
「ケイナ」
「っ! なんだ!?」
「昔のよしみで、教えてあげル。……次の満月の夜は気を付けテ、きっと、大変な事になるノ」
「なんだと、……どういう事だ!?」
ケイナは必死になって頭を働かせる。
どうして彼女が、ここにいるのか。
その姿は、どうしたというのか。
大変な事とは、一体、なんだ。
問いたい事はたくさんある。
だが、それらの問いを、ヴィラは待たない。
「ごめんなさイ。
きっと貴女たちの力も必要になル。
だから、先に謝りに来たノ」
「ヴィラ!」
「――さようなラ」
その瞬間、窓から突風が吹き込み書類を巻き上げる。
視界を塞がれたケイナが慌てて手を振り、書類を払い落とした。
「――ヴィラ!!」
だが、彼女の姿は既にそこに無い。
あの一瞬で、姿を消してしまったのである。
ケイナの呼び声は、執務室内に虚しく溶けて、消えていってしまったのだった。
※ 次回から第7章に入りますが、何時もの如くしばらくは書き溜めを行います。
十月中には再開したいと思いますので、それまでお待ちいただければと思います。
また、細かい報告等は活動報告にて行いますので、ご了承ください。
それでは、ここまで読んでいただき誠にありがとうございました。
感謝です!




