閑話 ウール
◇
「いやー、しかし」
少しずつ騒ぐ者がいなくなっていく青狸亭の食堂で、ウールは濃い目の蒸留酒を手酌しながらしみじみと呟いた。
「今日は、良い日だったよ」
ウールにとって今日という日は、非常に思い出深い一日となった。
大型幽霊船ウェイトノットスライス号の登場からして、今までの冒険の中でもトップスリーに入るくらいの大事件だったわけだが、そこから離れ小島にて師匠と共同で幽霊船を迎撃したり、その最中に胸の奥に仕舞っていた事を洗いざらいぶちまけたり、港に戻ってみればカブが大怪我をしていて冷や汗をかいたり、ノーラの適切な応急処置と町の神官の協力もあって大事には至らないと分かってホッとしたり、まあ、色々あった。
「カブのあんなに驚いた顔なんて、いつ以来だったかねえ?」
今も鮮明に思い出せる、魂が抜けたように呆然としたカブの顔と、その直前の唇の感触。
あれは一生忘れまい。
そして唇が離れた後、呆気に取られていたカブの喉が動いたのを、ウールははっきり見ていた。
口移しした酒を飲み込んでくれたのだと、そう思うだけで顔がニヤついてしまい、それを誰にも指摘されなくて良かったとも思う。
それに、エルメントラウトからは良い話が聞けたし、修一の面白い姿は見れたし、酒も料理も美味しいしで、言うことなしだ。
後はこのまま一人静かに酒を飲み、酔い潰れて寝てしまえれば完璧じゃあないか。
明日の朝は、さぞ気持ちの良い目覚めになりそうだ。
「……ん?」
上機嫌のままそんな事を考えていたウールは、何気なく視線を向けた先の階段に、二階から降りてくる人影を見つけた。
「おや、ノーラじゃないか」
人影の正体は、短いながらも旅の道連れであり、ついでに言えばこの宿で同じ部屋に宿泊している女性、ノーラ・レコーディアであった。
そういえばしばらく前から姿が見えなかったけど二階に上がってたのか、と納得しつつ、ちょうど良いから一緒に飲もう、と呼び掛ける事にした。
「おおーい、ノー、……ラ? んん?」
しかし、ウールの呼び声は途中から一気に尻すぼみになってしまい、最後には大きく疑問符が浮かぶ。
何故ならよくよく見てみれば、ノーラの目元が泣き腫らしたかのように真っ赤になっていたからだ。
誤魔化そうとして顔を洗ったのか、薄くしていた化粧も落ちてしまっているし、表情も消えて無くなっている。
何より、目に生気が感じられない。
先ほどまでとは、明らかに様子が違っていた。
「うーん……?」
何かが在ったのだろう。
ウールは、漠然とそう感じた。
それと同時に、あれは良くないとも思う。
この祝いの場にそぐわないのは勿論の事、あんな表情を浮かべた人間の思考は、大抵碌なものではないからだ。
今は感情の火が消えているように見えるが、その奥底ではどうなっているのやら分からない。
もし、火山の奥に覗く溶岩のようにドロドロとした感情が燻っているのであれば、ふとした拍子にそれが爆発する事だって有り得るのだ。
放っておける状態ではない。
「……仕方ないねえ」
カブの手当てをしてくれた恩もあるし、なにより彼女はもう気心の知れた仲だ。友人と言っても過言ではない。
そんな彼女のために出来ることはしてやりたい、と思うのは、ウールにとって必然と言えた。
ウールは、手元の酒をグッと飲み干しふらりと立ち上がる。
それから、憔悴し切った様子で空いた椅子に座っているノーラに近寄ると、陽気に肩を叩いた。
「やっ、ノーラ」
「…………」
ノーラからの返事は無かった。
というより、肩を叩かれたことにすら気付いていないのかもしれない。
それでもウールは、めげずにもう一度呼び掛ける。
今度はノーラも反応してくれた。
「ノーラってば、酔っちゃったのかい?」
「…………ウール?」
「――!」
振り返ったノーラの顔を至近距離から見て、思わずウールは笑顔をやめてしまった。
ノーラの顔は、それほどまでに酷い状態だった。
今までそこで大人数に乱暴されていた、と言い出しても不思議ではないほどの、強烈な闇を瞳に湛えている。
――本当に、何があったのさね?
ウールが背中に冷たい汗を感じていると、ノーラも目の前の少女の様子を見て自分の表情に気付いたらしい。
ノロノロとした動きで目元を拭うと、気丈にも笑おうとする。
しかしそれは、普段のような、見る者を魅了してしまう素敵な笑顔とはまるで違う。
脆いガラスの器を万力に挟んで締め上げていくような、そんなイメージが浮かんでしまうほどの危うさを感じさせた。
「あ、……ごめんなさい。ちょっと、……その、思わぬ出来事が、――ありまして」
「……」
その掠れ切った、笑顔とは到底呼べぬ笑顔を見たウールは、即座に決断する。
「あの、も……もう大丈夫ですので、そんな、心配していただかなくても――」
「ノーラ」
「は、はい……?」
「……」
ウールは、戸惑ったように自分の言葉を待つノーラの前で静かに瞑目し、自身の信仰する太陽神に祈りを捧げた。
一切の雑念を排した、心の底からの真摯な祈りであった。
――太陽神様、どうかあたしに、ご加護を。
心を強く持たなければ、自分さえも呑まれそうであった。
だから祈った。
ノーラの本来の笑顔を取り戻すために。
「――部屋に戻ろう」
「……えっと」
「聞きたいことは山ほどあるけど、それをここで聞くことは出来ないよ。
だから、部屋に戻ろう」
「……」
「あたしと、サシで話をしようじゃないか。……酒でも飲みながら、さ」
そう言ってウールは、無理矢理笑ってみせた。
◇
自分の言葉の意味がいまいち理解できていないような様子のノーラの手を引き、問答無用で自分たちの部屋まで連れ帰ったウールは、一旦ノーラを部屋において一階まで駆け下りる。
それから、厨房と食堂との間にある狭い通路に椅子を置いて一人で酒を飲んでいた、この宿の主人に詰め寄った。
「ボス!」
「おお、ウールか、どうした?」
「ここの宿に置いてある酒の中で、一番強いのはどれだい!?」
「なに?」
主人はいきなりの事に面食らうが、尚も詰め寄ってくるウールの気迫に押され、何も聞かずに厨房に戻ると、透明な液体の入った酒瓶を持ってきた。
ウールはそれをありがたく受け取ると、ついでに小さなグラスを一つ借り受けてから自室に戻った。
勢い込んで部屋に戻ってきたウールにノーラは僅かばかり驚き、しかし再び表情を消してしまう。
構わずウールは、部屋に置いてあった丸テーブルに酒瓶とグラスを置くと、ノーラを椅子に座らせて自分はその対面の椅子に腰を下ろした。
持ってきた酒瓶の封を切る。
漂ってくるのは、強烈な酒精の香りだ。
まだ注いですらいないのに、この匂いだけで酔いが回りそうであった。
――ボスめ、こんな酒まで置いてるのかい。
内心でのみ舌打ちし、ウールは一つだけ借りてきたグラスに酒を注ぐ。
水のように透明な液体のくせして、顔を近付けるのを躊躇ってしまうくらいに濃い香りがするのだから、タチが悪い。
北大陸北部地帯にある国が製造元のこの酒は、修一の世界でいうところのスピリタスに近いものだ。
この世界の蒸留技術の限界まで蒸留を繰り返し、限りなく純粋なアルコールにしてある。
流石に九十パーセント越えとまではいっていないだろうが、それでもそれに近い状態にはなっているはずだ。
どう足掻いても、ストレートで飲むような酒ではない。
ノーラも、あまりに濃い酒精の香りに思わず眉を顰め、ウールは――。
「――!」
祈るようにギュッと目を瞑り、グラスに口を付けて飲み干した。
「なっ……!?」
途端にウールはカッと目を見開くと、涙を浮かべながらゴホゴホとむせ込んだ。
あまりのキツさに、ザルのウールですら体が拒否反応を起こしたのだ。
「ゴホッゴホッ! ――はああ……!」
しかしウールは、心配そうにこちらを見てくるノーラに対して涙目のままニッと笑う。
そして手にしていたグラスをノーラに押し付けた。
「ケホッ、次はノーラの、……ゴホッ、番だよ」
「……私の?」
「ああ」
乱暴にグラスを押し付けられて困惑した様子のノーラに、ウールが説明する。
これは、昔自分たちの村に立ち寄った旅人から教わった、彼らの故郷での飲み方なのだそうだ。
「返杯、って言うんだってさ。一つの器で、交互に酒を差し合うんだ。相手に注いで貰ったら一気に飲んで、飲んだら相手に器を渡して自分が注いであげる。これを延々繰り返しながら酒を飲む、馬鹿みたいな風習なんだってさ」
「……はあ」
「空っぽの器をそのまま渡すのはダメらしいからあたしから飲んだけど、……まだ、喉が痛いよ。
とにかく、あたしは飲んだから次はノーラの番なんだよ」
「あっ」
そこまで言うと、ウールはノーラに酒を注ぐ。
グラスのサイズは、シングルのショットグラス程度だ。
注がれた酒は一口に満たない量であろう。
それもあってかノーラは、ウールの強引な押しに抵抗らしい抵抗もみせず、これくらいなら大丈夫だろうか、という気持ちで酒を飲んだ。
透明な液体が、ノーラの形の良い唇に流れ込んでいく。
「っ!?」
途端に、後悔した。
飲んだ瞬間舌に感じたのは酒の味などではなく、単純な痛みだった。
咄嗟に飲み込んでしまうと、今度は喉や食道がカッと熱くなる。
焼けた炭をそのまま飲み込んだみたいだ。
酒が今どこを通っているのかが、痛みで分かる。
やがて酒が胃の腑まで到達すると、ノーラも盛大にむせた。
「ケホッ! こ、これは……!?」
「ほら、グラスを寄越しなよ、次はあたしの番だからさ」
そう言って右手を差し出してくるウールに、ノーラは信じられないモノを見るような目を向けた。
恐る恐るグラスを渡す。
「ほ、本当に、飲むつもりですか?」
「飲むよ、――死ぬほど嫌だけど」
結局その後、ウールとノーラは同じ遣り取りを繰り返し、お互いが五杯ずつ飲んだところで耐え切れずにノーラが立ち上がる。
窓を開けるためだ。
外の空気を吸いたいのもあるが、室内に揮発したアルコールが溜まってきて、換気の必要が出てきたのである。
匂いだけで酔いが進むし、火花でも散ると冗談抜きで火事になってしまう。
それに、ショックのあまり酔いは醒めてしまっていたはずなのだが、今の数杯によって再び酩酊感が押し寄せてきた。
酒が回って、頭がぼうっとしたくる。
「はぁー……」
大きく深呼吸して、頭の中に掛かってきたもやを振り払う。
それから室内を振り返ると、ウールが真剣な面持ちでこちらを見据えていた。
ノーラは、「ついに来たか」と思った。
「ノーラ」
「……はい」
ノーラは静かに頷く。
ノーラだって分かっている。
こうして馬鹿みたいな酒を飲んでいたのは、少しでも口の滑りを良くしようとウールが考えたからなのだと。
自分が、一体どうして泣いていたのか。
それを、ウールは聞こうとしているのだと。
「ノーラ、言っておくけどあたしは、決して興味本位なんかでノーラの話を聞こうとは思っていないよ」
「……それは」
「あたしは、一人の友人として、アンタの心に寄り添ってやりたいんだ」
「……!」
ゴクリ、と唾を飲み込む音が、やけに耳に響いた。
「あたしは、落ち込んだ人間を慰めるのは得意なのさ。
だから、……辛いことがあったのなら、素直に吐き出しておくれよ。ちゃんと、受け止めてあげるからさ」
「……」
「教えてくれないか、ノーラ。
アンタはどうして、そんなに悲しそうにしているんだい?
何がアンタを、そこまで苦しめているんだい?」
「……」
語り掛けるようなウールの言葉に、ノーラは窓から射し込む月明かりを背負ったまま、黙り込む。
もう数日もすれば満月になるだろう月は、何も語ろうとしないノーラを見守るようにして、静かに輝いていた。
やがて、黙り込んだままのノーラに焦れたウールが、こんな事を言い出した。
「……ひょっとして、シューイチに何かされたんじゃないだろうね?」
「!!」
ハッとしたように目を見開くノーラ。
それを見てウールは、更に当て推量を口にする。
「二階にいたって事は、シューイチのところに行ってたのかい? 酔って寝てるはずのシューイチの様子を見に行って、そこでシューイチに何かされたと、そういう事なのかい?」
「……いいえ」
否定するノーラの語調は、信じられないほど弱々しかった。
そんな言葉では、ウールは止まらない。
「あたしみたいに、とんでもない事を言われたのかい?」
「……いいえ」
「酔った勢いで、無理矢理迫られたのかい?」
「…………いいえ」
「殴られたり、暴力を振るわれたりは?」
「………………ありません」
「……まさかとは思うけど、そのまま乱暴――」
「っ、そんな事っ!!」
ノーラは、それ以上言わせようとしなかった。
先ほどまでの弱々しさが嘘のように、激しく叫んだ。
「シューイチさんがするわけない!!」
「――!」
ウールはすぐさま両手を上げて謝罪する。
「ああ、いや、ゴメンよ。そんな事しないって、あたしだって分かってるさ。
だから、そんな怖い顔しないでおくれよ」
「…………」
ノーラの表情、吹き零れそうな感情を無理矢理抑え付けているかのようであった。
ウールは、チャンスだと思った。
この激情を、見極めてやらなければ。
「でもそれなら、実際は何があったのか教えておくれよ。シューイチが関係してるっていうのは当たっているのかい?」
「……はい」
「そうかいそうかい」
「……」
ウールは、ノーラの瞳をしっかり見据える。
ノーラが抱いている感情の種類を確かめようとして、だ。
そして気付く。
それは、少し前の自分も抱いていた感情である事に。
その感情の名前は、失望だ。
そこに少しだけではあるが、悔恨と未練が混じっているような気がする。
それに先ほどのノーラの叫び、あれは、大切な人を貶められた時に出る言葉だった。
単純な友人知人などよりも、もっともっと愛しい人を、庇う時の。
そこまで考えて、唐突に閃いた。
自然、ウールは口を開いていた。
「……ノーラ」
「……はい」
「アンタまさか――」
「……」
「酔いに任せて、……告白したんじゃないだろうね?」
「――――!」
果たしてその言葉は、ノーラの芯を捉えたらしい。
目に見えて、ノーラが動揺した。
ウールはそこに畳み掛けた。
「しかも、そんなに悲しんで、……落ち込んでいるって事は」
「…………」
「ふ、振られた、……の、かい?」
「…………」
「シューイチのやつ、ノーラを、袖にしたのかい?」
「…………」
ノーラは、観念したかのように、ゆっくりと俯いていく。
それから、本当に小さな声で「はい」とだけ呟いた。
「……」
「……」
なんて馬鹿な事を、と思いながらもウールは、なんと言ってよいやら分からずにいる。
そのまま数秒、互いに黙ったままとなったが、不意に、ノーラの足下に水滴が落ちた。
「……えっ」
「――」
ハッとしたウールの目の前で、更に二滴、三滴と水滴が零れ落ちていく。
すぐさま歩み寄ろうとウールが立ち上がったところで、ノーラは両手で顔を覆った。
「ノーラ?」
「…………」
掌の隙間から更にもう一滴零れると、噛み殺したような嗚咽が漏れ聞こえてきた。
聞くだけで、胸が締め付けられるようだった。
「っ、ノーラ!?」
「――――っ!!」
そのまま崩れ落ちそうになったノーラの身体を間一髪で支えたウールは、震えるノーラの身体を抱き留めたまま一緒にベッドに腰掛け、それからノーラが泣き止むまでの間、何も言わずにノーラの背中を撫で続けた。
ノーラは、そうしたウールの気遣いに少しだけ救われた気持ちになりながら、気の済むまでウールにすがり付いて涙を流し続けたのであった。




