第6章 16
◇
修一は力なくベッドに倒れ込むと、あーー、と、聞いている方が気が抜けそうな声をあげた。
血と土とで服が汚れているのだが、シーツが汚れるのは勘弁してもらいたいと思う。あの主人も、そんな事でとやかく言うような人物には見えなかったし。
「ああ、はぁ、…………負けた、か」
今一度、声に出してみると、やっぱり非常に気が重い。
より強く、実感してしまう。
全力で戦って負けた。
ということを。
師匠が勝ち名乗りをあげた後、空き地で戦いを見ていた連中が一斉に二人に駆け寄った。
修一は、ちょっと泣きそうになって「だいじょうぶ?」と聞いてくるレイ、怪我の具合を確認し回復光魔術を使ってくるメイビー、その横で無言のまま治癒神術を掛けてくるクリス、といった具合に、大の字に寝転んだまま揉みくちゃにされた。
師匠の横では、タツキがなにやら色々と師匠から話を聞いていたし、アルも、タツキの隣で師匠をまじまじと見ていた。
そして。
「シューイチさん」
「……よう、ノーラ」
エルフの少女と神官少年から同時に治療を受けていた修一は、ノーラの姿を見てゆっくりと上体を起こした。
腹の上にしがみ付いて顔を押し付けてきているレイが転げないように支えつつ、ノーラの呼び掛けに返事を返す。
「お疲れさまでした」
「ん、ああ、負けたけどな」
それからしばらくして、騒ぎを聞きつけたカブたちが空き地にやってきた。
服中血だらけにした修一を見てテリムが頬を引き攣らせていたし、ウールは若干呆れたような表情を浮かべながら治癒神術を掛けてきた。
カブからは「何やってんだよ、シューイチ」と言われ、テリムには「生きてますか?」などとちょっと失礼な事を聞かれたものだ。
そしてヘレンがメイビーから事情を聞き、そこにノーラが補足を入れたことでカブたちも凡その事情を察した。
聞けば、カブたちは師匠の昔話を聞いてきたばかりであったため、そんな師匠と修一が戦っているのではないかと慌てて飛び出してきたらしい。
心配掛けたのか、と気付いたのはその時だ。
しまったな、と思ったのも。
「はあ……」
ベッドの上でゴロリと転がり、うつ伏せになる。
シーツに顔を押し付けて息を止めてみる。
やがて、自分の鼓動の音が聞こえ始め、修一は息苦しさの限界が来るまで息を止めたまま、鼓動の音に耳を澄ます。
肉体的な損傷は、メイビー、クリス、ウールの三人に治療してもらい、すでに完治している。
疲労はあるが、痛みはない。
内臓も、異常はなさそうだ。
「……」
しかし、気分は最悪だ。
当然だ、負けたのだから。
あれだけつぎ込んで、負けたのだ。
修一は、それが堪らなく悔しかった。
――折角、元の世界に帰る手掛かりが、手に入るかもしれなかったのにな。
師匠は、「約束は約束だ」とだけ告げて、どこかに行ってしまった。
つまるところ、質問に答えてはくれないのだろう。
仏頂面のままでそう告げてくるものだから、いまいち感情や意図するところが分かり難い。
修一は再び転がって仰向けになる。
大きく息を吸い、それから吐き出す。
重い溜め息のようであったが、それを吐き出した後は、まだ、先程よりはマシな気分になった。
「ま、仕方がないか」
結局のところ、師匠に勝てたとしても帰り方が分かるとは決まっていなかったのだし、このままあと数日旅を続けて首都まで着ければ、騎士団にいるという空間魔術師に会う事も出来よう。
今日、どうしても帰らなければならないわけではない。
勿論、早ければそれに越したことはないが、それは明日以降でも良いのだ。
それに、アイツだって――。
――――コンコン
「ん? 誰だ?」
不意に、ドアをノックされた。誰何してみるが返事はない。
訝しみながら修一は、ベッドから降りてドアを開ける。
そこに居たのは。
「……タツキ?」
「はい、僕です! こんばんは!」
元気よく挨拶をしてくる黒髪の少年であった。
さっきの今で、一体何の用なのだろうか。
別段、タツキに対して思うところはなかったが、この少年が師匠の弟子だという事実が、修一に素っ気無い態度を取らせた。
八つ当たりするつもりは微塵もないが、かといって優しくしてやれるだけの心のゆとりがないのも、また事実だった。
「なんだ、何の用だ?」
「お風呂に行きましょう!」
「……はあ?」
「連れてってください!」
どういう意味か、いまいち理解に苦しんだ。
「えっと……、なあ、どうして俺のところに来るんだ? 師匠と行けよ、風呂くらい」
「師匠は、たくさんの人と一緒にお風呂に入るのが嫌いです!」
「……それで?」
「それに、壊した壁を修理しなくちゃいけません! 時間が掛かるから先に入ってろ、と言われました」
そう言われて、修一も思い至った。師匠に蹴り飛ばされたとき、確か空き地を囲む壁をぶち破ってしまったはずだ。
「もしかして、人が住んでる家だったのか?」
「はい、謝りに行って、修理を請け負ったそうです!」
「……」
まさかとは思うが、勝負の後すぐどこかに行ったのは、壊した壁の事を謝りに行っていたのか。
そうだとすれば、なんとも締まりのない話だ。
はあ、と修一は溜め息を吐く。
自分に勝った相手が、そんな間の抜けたことをしていると思うと、尚のこと気が重い。
「シショーは適当ですから!」
「……そうかよ」
「はい! あと、」
「ん?」
「負けたんだからグズグズ言わずに連れてってくださいよ! 僕だって早くお風呂に入りたいんです!」
「……」
ニコニコしながらそんな事を言われた修一は、無言のままタツキの頬を引っ張った。
「ふぇ? わゃー、あはは、気持ち良いふぇす!」
「……」
ただ、タツキはちっとも堪えてない。
それどころか、もっと引っ張ってくれとばかりに修一の手をポンポン叩いてくる。
なんだコイツ。
効果がないと分かった修一は即座に手を離した。
「あれ、もう終わりですか?」
「……」
物足りなさそうなタツキを見て、修一はくよくよしているのがなんだか馬鹿らしくなった。
ついでに、元々自分も風呂に入りたかったのを思い出す。
相変わらず服はベトベトで、それどころか余計に汚れてしまっているのだ。
さっさと汚れを落としてさっぱりしよう。
「……とりあえず、風呂、行くか」
「はい、行きましょう!」
◇
宿にいる他の面々にも声を掛け、皆一緒に風呂に行くことにした。
ノーラは、修一がいつもどおりくらいに元気になっているのを見てホッとしていたが、まあ、この男はクヨクヨと思い悩むような性質ではないことも分かっていたので、そこまで心配していたわけでもない。
「そういやクリスは?」
「アルちゃんと一緒に家に帰ったよ、晩ごはんの時間なんだってさ」
「へえ」
メイビーに問うと、このように返ってきた。
二人はこの町の住人であるし、ともに未成年であるのだから、仕方がないと言えば仕方がないのだが。
「まともなお風呂に入るのも久しぶりですね」
「そうだな、……ウール」
「なんだい?」
「もう、湯船で泳いだりするなよ? また怒られるのは御免だからな」
「分かってるさ、それくらい」
ウールの答えを聞いても、カブはしかめっ面をしたままだった。
当然だ。サーバスタウンにいたころは、公衆浴場に向かうたびに湯船で泳いでいたため、危うく出入り禁止にされるところだったのだ。
川辺の村で生まれ育ったためカブたち四人は皆泳ぎが達者なのだが、その中でもウールは群を抜いて泳ぎが上手く、泳ぐ事自体も好きなのだ。
「折角海が近くにあるんだから、泳ぎたくなったら海に行くよ」
「まあ、それならいいが……」
そう言って、泳ぐ真似をしてみせるウール。
その姿を見た修一が、「湯船でバタフライしたら、そりゃ怒られるな」と小さく呟いた。
さて、公衆浴場に着いた一行は、それぞれの表示に従って男湯と女湯に別れた。
レイが修一に付いて男湯に入ろうとしていたのと、タツキがしれっと女湯に入ろうとしていたのをそれぞれ引き止めた以外は、特に問題は無かった。
お金を支払って脱衣所に入る。
他の客が使ってない籠を四人分取って、各々服を脱ぎ始めた。
タツキが、服を脱ぎながら小さくぼやいた。
「レイちゃんのお父さん」
「なんだ?」
「僕は向こうが良かったです」
「……」
修一は、コイツ意外とませてんな、と思いつつ自分も服を脱いでいく。
懐に入れておいたボロ切れがヒラリと落ちたのはご愛嬌だ。
「レイちゃんのお父さんだって、見てみたいとは思うでしょ?」
「思うよ、でもそれをやったら捕まるだろうが」
「僕は大丈夫です」
「お前を行かせたら、後で俺が怒られるんだよ」
くだらない事を言ってるな、とは自覚しつつも、全裸になった修一はタツキの手を引いて浴場に向かう。
カブはタツキに対して、アイツ将来大物になるな、と考えながら腰にタオルを巻き、さっさと服を脱いでいたテリムはもうすでに浴場の中だ。
修一が仕切り戸を開けると、もうもうと立ち込める湯気の向こうに大きな湯船が見えた。
日本にあった銭湯と、形式はあまり変わらない。
手前に洗い場があり、その奥が湯船だ。
ベイクロードの風呂屋でも似たような構造であったため、この国、というよりはこの地方一帯がこうした入浴文化を持つのだろう。
無論、そうした施設を用意できるだけの需要がなければならないのだろうが、これだけ大きな町であれば需要など腐るほどあるに違いない。
修一は、とたとたと洗い場に向かうタツキに「走ると転ぶぞ」と注意しつつ、その後に続く。
洗い場は、日本の銭湯等とは微妙に様式が異なっていた。日本ならカランや鏡があるところに小型の噴水のような設備があり、そこから流れ出ている温水が周囲を囲う受け皿の中に溜まり、それを手桶で汲んで身体に掛けるようになっている。
噴水自体は、放水魔術の魔導機械でも使っているのだろうか。ボイラーがあるのかは知らないが、まあ、魔術にしろ火力にしろ、暖かいお湯が出てくるのなら、修一に文句はない。
「レイちゃんのお父さん、石鹸貸してください」
「ほらよ」
石鹸を渡してやると、タツキは手拭いで泡立たせてから身体を洗い始めた。
なかなか丁寧に身体を洗っているようで、しばらくするとモコモコとした白い泡で羊みたいになってしまった。
石鹸ってこんなに泡立つものだっけ、と思わなくもない。
「ふわふわー、ふーっ!」
「うおっ、泡を飛ばすんじゃない!」
次第に泡で遊び始めたので、軽く叱ってからお湯を掛けた。
いきなり頭からお湯を掛けられて、タツキは目をパチクリさせた。
「ああ、泡が流れちゃった」
「遊んでないで、洗ったら湯に浸かれよ」
「むう」
しぶしぶ、残った泡を自分で洗い流したタツキは、しかし浴槽に行かずジッと修一を見つめてきた。
「お父さん」
「! ……なんだ」
身体を洗っていた修一は一瞬ビクリとしたが、多分「レイちゃんの」という部分を省略しただけだろうと思い直す。
相変わらず、その呼ばれ方は心臓に悪いというのに。
「呼んだだけです!」
「……っ!」
目に見えてイラっとした様子の修一に、タツキは「ジョーダンですよ」と悪びれずに笑った。
「お背中流しましょうか?」
「ああ? ……いいよ、別に」
修一は断るが、何故かタツキは食い下がった。
「そんな事言わずに! やらせてくださいよ!」
「お、おい!」
ベタッ、と修一の背中に抱き付く。
それから駄々っ子のように顔を擦り付けながら「やらせてくださいよ~!」と喚いてきた。
くすぐったいし、なにより他の客が何事かとこちらを見始めたため、修一は慌てて「分かった、分かったよ」と背中を流してもらうことにした。
タツキは「やった!」と言うとすぐさま背中から離れ、修一の持っていた手拭いを取り、背中を洗い始めた。
丁寧に泡立てて、それからゴシゴシと背中を洗ってくれている。
最初は断った修一であったが、存外、悪くない感覚だった。
誰かが自分の身体を洗ってくれているというのは、中々に新感覚である。
と、その様子を見ていたカブが、笑いながら話しかけてきた。
「はは、そうしてると本当の親子に見えなくもないな」
「……どこがだよ」
「うん? だってそうだろ、髪の色も一緒だしよ」
「……」
そう言われて、タツキの髪を改めて見てみる。
驚くほど真っ黒だ。
瞳の色も含めて、故郷の子どもたちとなんら変わりない。
そもそも、それを言ってしまえば名前だってそうだ。
タツキ、という名前は明らかに――。
「なあ、カブ、黒い髪の毛って、この辺りじゃほとんどいないんだったよな?」
「ああそうだぞ。大体が茶色とか栗色とかで、金髪とか灰色が多少いる感じだな。
俺だって焦げ茶色気味だし、テリムは濃い目の灰色、ウールが赤毛交じりの茶髪で、ヘレンは白っぽい象牙色だろ?」
「……そうだな」
そういえばこの少年は、師匠の弟子をしているようだが、一体どうして、この歳でそんな事をしているのだろうか。
「タツキ」
「なんですかー?」
タツキは、楽しそうな声音で返事を返す。
修一の背中を流すのを、楽しんでいるようだ。
修一は、額の傷を掻きながら問い掛ける。
「師匠とお前は、親子じゃない、……んだよな?」
「? そうですよ?」
タツキは不思議そうに頷いた。
どうしてそんな事を聞くのだろう、とでも言いたげだ。
「じゃあ、お前の両親はどうしてるんだ?」
「……ええっと」
背中を流す手を止めて、タツキは風呂場の天井を眺めた。
それから、こんな事を言い出した。
「そういえば、レイちゃんの本当のお父さんって、どうしてるんですか?」
「……!」
修一は、思わぬことを聞かれ言葉に詰まる。
それから、何とかこのように返した。
「……レイは、なんて言ってた?」
「言いたくないな、って感じでした」
「…………そうか、なら、俺から言うのは駄目だろうな。
――悪かったよ、変な事聞いて」
修一が素直に謝ると、タツキはパッと笑って手を動かし始めた。
「いえいえ! 構いませんよ!」
全く、屈託なく笑うタツキを見て、修一も、横で聞いていたカブもホッと息を吐いた。
「ささ、流しますよー」
「おう」
やがて洗い終わったのか、手桶のお湯を背中に掛けてくる。
そんなタツキに、カブが笑いかけた。
「なあタツキ」
「はい?」
「シューイチが終わったら、俺の背中も流してくれよ」
「へ? いいですけど?」
「ありがとよ、おおい、テリム」
それからカブはテリムの名も呼んだ。
神経質なくらい時間を掛けて髪を洗っていたテリムが、泡を乗せたままこちらに向く。
「なんですか?」
「お前も、タツキに背中を流してもらえ」
「はあ?」
こちらの話を聞いていなかったテリムは、なんの話だ、とばかりに眉を顰めた。
「ほら、頼むよタツキ、あとで飲み物奢ってやるからよ」
「! 本当ですか!」
「ああ」
「わあい!」
カブのその言葉を聞いて、タツキは嬉々として背中を洗い始めた。
それが終われば、今度はテリムも。
テリムは、何故そんな話になっているのか分からずに困惑していたが、まあ洗ってくれるというなら洗ってもらおうか、と思い直し、流れに身を任せた。
男三人、子どもに背中を流してもらった後は、ゆっくりと湯船に浸かった。
あまりの心地良さに、揃って溜め息が出る。
タツキも、修一の隣で湯に浸かり、ぽけーっと天井を見上げていた。
「はあー、気持ち良いですね、お父さん」
「……そうだな、…………ところで、その呼び方なんだが」
「気に入っちゃったので、これからも呼ばせてくださいよ」
「……」
修一が、なんともいえないような顔で黙りこくると、タツキは「むう」と頬を膨らませ、修一に抱き付いた。
「うおっ!?」
「ねえねえ、いいでしょう?
また今度、お背中流してあげますから!」
そう言ってキラキラした瞳で見上げてくる。
上目遣いに強請られて修一は、「俺、どうしてこんなに小さい子どもに懐かれてるんだろう?」と内心で激しく自問した。
彼は基本的には子ども嫌いだし、元の世界では額の傷と目付きの悪さから小さい子どもには避けられていたはずなのだ。
それがどうだ、この世界に来てからというもの、幼い子どもに何故か懐かれることの方が多い。
修一としては、いまいち意味が分からない。
実際のところ修一の言う『子ども』というのは、反抗期が来たくらいの年代の事であり、それは修一と大差ない歳の子どもとも言える。
彼が『子ども』を嫌いなのは、そうした年長者の言うことを聞かない悪ガキどもと何度か遣り合った経験があるからであり、本来的な意味の『子ども』に関していえば、元来お人好しな修一にとって、それは守るべき対象なのだ。
子どもというのは大人が思っているよりも感情の機微なんかに敏感で、自分と楽しく遊んでくれたり、自分の事を守ってくれたりする人間には、自然と懐くものである。
元の世界で避けられていたというのは、修一の事を恐れていた大人たちが、我が子を近付けまいとして振舞っていたためそう感じていただけのことであり、もし普通に遊んだりしていれば、自然と仲良くなっていたなずなのだ。
この男は、なんだかんだといいながらも弱い者には優しいし、悪意を持って接してくる相手でなければ不必要に怒ったりしない。
失敗しても頭ごなしに叱らず理由を聞くし、逆に何かを成せばすぐに褒め、馬鹿をやっても乗ってくれる。
鍛えているから力も強く、なにより気さくで面倒見が良い。
子どもたちからすれば、非常に頼りになるお兄さんなのである。
――先生、その辺りの事が全く分かってないような顔してますね。
テリムが、じゃれ合う二人を見ながら、内心で呟く。
テリムはテリムで、人の考えや意図を察する事に長けていて、例え子どもが相手でも、何をしたがっているのかや何を言おうとしているのかをすぐに察してあげる事が出来るため、非常に懐かれやすい性質ではある。
修一と違うのは、テリムはその辺りの事をきちんと自覚しているという点だろうか。
「ああもうっ、分かったよ、この町にいる間くらいは好きに呼んで良いから、それ以上くっつくな!」
「やったあ!」
無理矢理勝ち取った権利に、タツキは両手を上げて万歳した。
カブがそれを見て苦笑している。
ちなみにカブはといえば、子どもに好かれるというよりも、オモチャにされるといった方が近かったりする。
苦労性というか苦労するタイプであるカブは、その辺を敏感に察知され、その身に余る苦労を背負わされる羽目になるのだ。
と、そこに。
「おおーい、カブーー!!」
「ぶっ!」
女湯の方から、ウールの声が響いた。
突然の事に、他の男客たちがいったい何事かと目を剥く。
「おおーいってば! 聞こえてないのかーい!!」
どうやら、男湯と女湯は天井付近で繋がっているらしい。お互いを隔てる壁は天井付近が開いており、そこからウールの声が響いてきてる。
「おい、呼んでるぞ、カブ」
「……分かってるよ、分かってるけど!」
あんなに堂々と名前を呼ばれては、返事をするのが恥ずかし過ぎる。
周りから一斉に注目を浴びてしまうではないか。
「カブーー!!」
「……!」
カブが返事をせずにいると、ウールは一呼吸置いてから更に声をあげた。
「十歳までオネショしてたカブ! いるんなら返事しな!」
「!!?」
ビクリ、とカブが肩を震わした。
ウールは更に続ける。
「小さいとき、クワガタに鼻挟まれて大泣きしてたカブ! 魚釣りしてて、船から転げ落ちたカブ! 初恋のお姉さんが結婚して三日くらい落ち込ん――」
「ウールっ!? 分かったからもう止めろ!!」
声を荒げたカブに、修一はとても同情的な視線を向けた。
テリムに至っては全く別の方向を向いていたし、タツキはポカンとした顔でカブを見ていた。
羞恥攻めが過ぎる!
「お、やっと返事をしてくれた」
「何の用だ!? さっさと用件を言え!!」
他の客の目もあって、顔から火が出そうな思いをしているカブに、ウールは暢気に用件を伝えた。
「ちょっと剃刀を貸してくれよ! 確か、ひげを剃るって言ってたから持ってるだろ!?」
「……!」
持っている、持っているが……。
「お前! また失くしたのか! これで一体何回目だ!?」
「やだねえ。失くしたんじゃなくて、きちんと仕舞ってたんだけど誰かが勝手にどっかに持っていったんだよ!」
「……!」
その言い種に、カブがブチ切れた。
「やかましい! そんな事あるわけないだろうが!?」
「本当だって! だから貸しておくれよ!」
「いつもいつも適当な言い訳ばっかりしやがって! 全く反省してないだろう!?」
「そんな事ないさ!!」
「大体、俺のひげ剃りで一体どこを剃るつもりだ!!」
その問いに、ウールは数秒返事を返さなかった。
そして、実に楽しそうな声で、カブを攻めた。
「どこ!? 女の子がどこの毛を剃るのか、アンタはそれを聞きたいってのかい!?」
「なっ!?」
「そうかいそうかい! そんなに聞きたいなら教えてやろうじゃないか!!」
「ま、待て!!」
「待たないよ! いいかいカブ! あたしはいつも、アンタに借りた剃刀で――」
「~~~~っ!!」
ついにカブが折れた。
「ええいっ!! 貸してやるからもう静かにしてろっ!!!」
カブは血管が切れそうなほどの怒声をあげながら、手拭いに包んだ剃刀を女湯に向かって投げ込んだ。
そしてそのまま湯船から飛び出し、呆然としている他の客の間を逃げるように走り抜けると、脱衣所に出て行ってしまった。
今の遣り取りに付いていけなかったタツキが、ポカンとした顔のままカブの背中を見送っている。
「……」
「……先生、僕らはもう少し温まってから出ましょう」
今出て行くとカブが困るだろう事を察した修一は、短く「そうだな」とだけ答えた。
なんとも、苦労する男であった。




