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第6章 8

 ◇




 さて、港である。

 太陽からのジリジリとした陽射しが海面の青をより際立たせ、波間には陽光を照り返して銀色の斑模様が無数に生まれている。

 風はほとんど凪に近く、時折、弱い風が港の岸壁を撫でながら、熱された空気を攪拌していった。


 ノーラは、自分の頬を伝う汗を拭いながら、目の前で行われている戦いに溜め息を吐く。


 現在、修一とクリスが殴り合いを始めてすでに数分が経過していた。

 彼らは、いまだにお互いを睨み合いながら、攻撃の手を緩めないでいる。


 修一にしてみれば、いきなり殴られたことを許すつもりになどなれなかったし、クリスはクリスで、大切な妹に良からぬ事をしようとしていた(様に見えた)男に情けをかけるつもりもなかったのだ。


 だからこそ、止まるつもりのない二人は目の前の男を打倒せんとして、体力の続く限り闘い続けるだろう。



 ノーラは、それが虚しくてならなかった。



 ――シューイチさんは、時々どうしようもないほど子供っぽいところがあります。それは、微笑ましい時もあるんですが、……このような事になってしまっては、そうも言っていられません。


 人知れずそのような思いを抱いたノーラは、「これは、いずれ治してもらわなければならない事ですね」と呟くが、それがどういった感情からの言葉なのかは、本人も気付いていない。


 そしてそれに気付くよりも先に、ノーラはすぐそばに来ていた幼い少女に目を向けた。


「お兄さまぁ……」

「……」


 アル、と呼ばれていたその少女は、今にも泣き出してしまいそうなほど目元を潤ませている。

 兄が、目の前で戦っているという事実が、彼女には耐えられないのかもしれない。

 金色の瞳を縁取る睫毛が、涙に濡れてキラキラと輝いている。

 こんな顔をされて何も感じないほど、ノーラは冷徹ではない。


「ごめんなさいね、アル」

「えっ……?」


 だからノーラは、出来る限り優しい声で、アルに謝った。

 ノーラの謝罪の言葉にアルは、若干驚いたようにノーラを見上げる。目元の涙を袖で拭うと、おずおずと問うてきた。


「どうして、アナタがあやまるの?」

「シューイチさんは、私の――」



 私の、なんだ?

 私は、シューイチさんにとって、どういう存在だというのだ?



 ノーラ脳裏を、一瞬だけその疑問がよぎった。

 そしてそれを、すぐに振り払った。


「……私の、護衛です。私が雇った人間が、貴女の大切な人に襲い掛かっているのです。

 私が謝るのは、当然の事です」


 アルは、ノーラのその言葉を聞いて、悲しそうに俯いた。

 そしてゆっくりと首を振ると、泣きそうな声を出す。


「ううん、それなら、お兄さまの方が悪いよぉ、あ、あの人は、わ、わたしを助けようとしてくれたんでしょう?

 なのに、お兄さまが、お兄さまがぁ……」

「……!」


 とうとう、アルは泣き出してしまう。しゃくりあげながら、ぽろぽろと零れ落ちる涙を袖で拭うその姿を見て、ノーラは静かに胸を痛めた。


「クリス兄ぃのバカぁ、どうしてこんなことするのよぉ、ううぅ~~、」

「……そうですね」


 まったくもって度し難い、とノーラは思う。

 二人が戦う意味など、究極的にいえば無いのだ。


 ノーラはアルに近寄ると、しゃがみこんでアルを抱き締めた。

 一瞬、アルは身を竦めるが、すぐに力を抜いてノーラに寄り掛かった。

 自分の胸元に顔を押し付けぐすぐすと泣く少女の頭を撫でながら、ノーラは二人の闘いに視線を戻す。



「まったく、しょうがない人なんですから」



 諦念混じりに零れた言葉は、海風に紛れて溶けていった。




「うらあっ!」

「っ!」


 修一の鋭い蹴りがクリスの肩に叩き付けられる。

 クリスが、頭部への攻撃を肩で受け止めた結果であるのだが、少年の体は衝撃によって二歩ほどたたらを踏んだ。


 それを見た修一が組み付いて足を取ろうとし、それに気付いたクリスがそうはさせまいと足を踏ん張る。

 そこから、上体を沈めて踏み込んでくる修一の脳天に向けて、クリスは右拳を降り下ろした。


「喰らえっ!」

「おおっと!」


 頭を横に振り、その反動で真横に跳び逃げた修一の髪を、クリスの打ち降ろしが掠めていく。

 横っ飛びに躱した修一に、クリスは追撃せんと足を踏み出そうとするが、直後、思い出したかのように足を止める。

 そしてその場で手を合わせ、またもや仰々しい詠唱を行った。


「……成程ね」

「“――、フィジカルエンチャントストレングス”!!」


 クリスの体を淡い光が包み、それが霧散する。

 この少年は、身体強化神術の効果時間が切れると同時に、再び神術を行使している。

 自身が使う神術の効果時間をきちんと把握しているのだ。


 その様を見ていた修一は、小さく頷き、それから飛び込んできたクリスの拳を躱す。

 ヒュオン、っと拳が風を切る音を間近に聞きながらも危なげない身のこなしで追撃を躱し、修一は隙の出来たクリスの胴に左の爪先を捩じ込む。

 勿論、これくらいで効くとは思っていない。この少年が身体強化神術を十全に使っていれば、その肉体の性能は、おそらく現在の修一を上回る。

 現にクリスは、鳩尾を蹴り抜かれた衝撃で一瞬顔を顰めただけで、すぐさま修一の左足を両腕で抱え込んだ。


「離し、やがれっ!」

「っ――!」


 修一は左足を抱え込まれたまま、軸足であった右足を振り上げ、クリスの延髄を蹴った。

 こちらも爪先を捩じ込むように足を振り抜いており、常人が喰らえば一撃で昏倒するほど危険な技であった。

 それを受けて、抱えた左足を思わず落としてしまったクリスは、しかしそれ以上のダメージを負った様子はない。

 則ち彼の耐久力は、常人のそれを遥かに凌ぐのだ。


「はあっ!」

「ちっ……」


 クリスの右拳を避けながら修一は、この金髪神官を泣かせるための手段を頭のなかで練り上げる。


 そして、決めた。


「……」


 修一は、懐から布切れを一枚取り出した。

 本日の買い物の際に購入しておいた、清潔な布である。

 この布は、先程の海水へのダイブによって修一と一緒にびしょ濡れになった布でもある。


 陸上に上がって数分、修一の服はようやく水が滴らない程度まで乾いたがいまだにびしょ濡れのままであるし、よって懐に入れておいたぼろ切れなどの布類が乾いているはずもなかった。


 絞れば海水が滴るであろう布切れ、修一はこれを軽く振って広げると、その端を両手で摘まみ、ニヤリと笑った。


「なんのつもりだい?」

「さあね、なんだと思う?」


 クリスは、修一の返事を聞いて鼻白んだ。

 修一が、まるでマタドールのように手にした布をヒラヒラさせているのを見て、安い挑発だ、と思う。


 そんなことをされても、こちらは痛くも痒くもないのだ。


 そう考えて、自身を落ち着けようとするクリスは、大きく深呼吸をした。

 別に、向こうの挑発に乗る必要もないし、こちらはこちらのタイミングで攻めればよいのだ。



 その思考自体が、修一の策に嵌まっているのだというのに。



 そのまま一分近くも布切れをヒラヒラとさせ続けるだけの修一に、これ以上付き合ってられないと思ったクリスは、一つ息を吸い、そして手を――。



 ――来た!!



 合わせようとした瞬間、修一が一気に距離を詰めた。

 摺り足と運足によって滑るようにして間合いを潰した修一に、クリスは僅かに驚き、そしてすぐに平静に戻ると、近付いてくる修一に右拳を繰り出した。

 修一がそれを上体を下げて躱すと、クリスは返す刀で左拳を握り、無防備な修一の脳天に振り下ろそうとする。


「――!?」


 だが、それは出来なかった。

 なぜなら、修一の体から、いきなり大量の蒸気が吹き出したのだ。


 これは、正確には修一の服から立ち上る蒸気であった。

 修一は、濡れたままの服を能力によって一気に熱し、さながらボイラーのように水蒸気を立ち上らせたのだ。

 一瞬にして濛々と立ち込めた蒸気はクリスの視界を塞ぎ、それでも振り抜いた右拳は、当たり前のように空を切った。


 そこに強い海風が吹き込み、蒸気が押し流されると、すでに修一の姿はない。

 数瞬の間クリスは、修一の居場所を見失った。


「なっ、どこだ!?」

「ここだよ」


 すぐ背後から聞こえた修一の声に、クリスは慌てて振り返り、そして視界が真っ暗になった。


「っ――!?」


 再び視界を塞がれ、思わず狼狽える。

 今度は何だと考えているが、なんのことはない。

 修一が、手にしていた濡れた布切れをクリスの目元に叩き付けただけである。

 ただしこれも熱々になってはいたが。


 ホットお絞りなどより更に熱されている布切れは、叩き付けられた衝撃も加わって容易にクリスの視界を奪い、混乱する頭でそれを取り払おうとしている少年は、目の前の男の挙動が分からない。



 どうにか布を払い除けたのと、腰に手が回されるのは同時であった。

 そのまま、足が浮く。


「は、離――」

「うおりゃああっ!!」


 修一はクリスを全力で投げた。

 投げ方は適当だった。


 柔道の裏投げとプロレスのスープレックスが混ざったような投げ方であったが、クリスの体は簡単に持ち上がり、そのまま放り投げられたのだ。


 クリスの体は、性能はともかく成長具合でいえばまだまだ未発達である。

 身長はそれほど高くないし、筋肉もそこまで付いていない。体重だって修一より二十キロ以上軽いだろう。

 変声期のきていない中学生と変わらないのだ、その肉体は。


「くあっ!」


 投げ捨てられ、背中から着地する。

 勢いで体が半回転し、うつ伏せになって止まった。

 荒い息を吐きながら、クリスは手を。


「させるかよ」

「っ!」


 合わせる事が出来ない。


 修一は、亀の子のように丸まったクリスの頭側から向かい合うように立つと、身を屈め、左膝を相手の右肩に押し付けつつ右足を左脇の間に突っ込む。

 そこからクリスの腰の辺りを掴むと、服を絞るようにしてしっかりと握り、一気に引っ張り上げる。

 同時に右足を更に捩じ込んで、自分の左膝に右足の踵を合わせると、相手の右肩を上方に引きながら自身の体を右へ倒し、クリスの体を仰向けに返した。


「っ――!」


 クリスは、何をされているのか分からないなりに、このままでは不味いと感じ、修一を振り解こうとする。


 が、修一の方が巧みである。


 クリスが暴れるに合わせて体勢を整えた修一は、まず、相手の左腕を取って自身に引き付けながら、左脇に捩じ込んでいる右足をもっと押し付け、左腕の自由を潰す。

 と同時に右足首の上から左膝を被せて絡め、押し退けられないようにしっかりとロックした。

 更にクリスの神官服の裾をグイっと引っ張ると、バタバタともがいていた右腕の手首付近に巻き付け、右手を動かせないようにする。

 あっという間に両手の自由を奪われたクリスに、修一は「やっぱりか」と内心で憐れんだ。


 この世界には、寝技に相当する技術がほとんど無いのではないか。


 という疑問は、前々から感じていた修一である。

 少なくともこの少年が修得していないのだということは、戦い方を見ていれば容易に想像がついた。


 拙いのだ。全てにおいて。


「ダメだなあ、寝技は速度が命だぞ?」

「な、何を!」


 何とか振り解こうと、体全体を使って暴れようとするクリスに対して、修一は涼しげな顔をしたまま往なしている。


 年季が違うのだ。素人がガムシャラに暴れたところで、外れるはずがない。

 寝技は、完璧に決まれば、人間には外せないものなのだから。

 たとえどれほどの身体能力があったとしても、それは違えようのない事実である。


 さて、と修一は思う。


「クリス」

「くっ、ああぁっ、はあっ!」


 徐々に、両足に力を込めながら、修一は淡々と告げる。


「防護神術、とやらが切れてると、やっぱり脆いな」

「!」

「俺が敢えて挑発して時間を潰させたのは、お前の神術が切れるのを待ってたからだ。お前、効果が終わると同時に再使用するだろ? つまり、手を合わせようとしたときのお前は、どれかの神術が掛かっていない状態だってことだ」

「なっ、あっ!」

「……タイミング的にそうかと思ったが、ドンピシャみたいだな。身体強化と違って、不可思議な膜で体を保護していただろう? あれさえなければ、お前は身体能力が高いだけの普通の人間とかわりない。それなら、三角絞めだって効くと思ったんだよ」

「……! ……!」


 クリスはすでに修一の話があまり聞こえていない。

 先程から、どんどんと首を絞められていて、必死にもがいているからだ。


 修一は、じりじりと足の力を強めてクリスを締め上げていく。

 そこには、非情なる戦意が満ちていた。


「講道館ルールでは、寝技は三十秒で一本らしい。もうすぐ三十秒くらいか? 過ぎたら、本気でやってやるよ。

 祈れないだろ? それどころじゃなくて。

 そのうち、他の身体強化も切れていくぞ。

 そうなってきたら、もう外せないだろうなあ」

「!! あ、ああぁああ!!」

「おっと」


 クリスが、残る力を振り絞って何とか外そうとする。

 修一は一気に力を強め、その動きを封殺した。


「かっ、はっ、あっ――」

「……」


 そして、そのまま絞め落とすつもりのようだ。

 クリスの動きが急激に緩慢になっていく。

 頸動脈が潰されて、意識が朦朧としてきているのだ。



 クリスは今、真っ白に染まっていく視界の中で、何を考えることも出来ないでいた。



 もはやこの段階になると、苦しみすら溶けてしまって、何も理解出来なくなるのだ。


 そして、その意識が途切れる、まさにその瞬間。



「止めてよぉ!!」

「!」



 幼い少女の声が響いた。



 その声に驚いた修一が少しだけ足の力を緩めると、ポカリ、と後頭部を叩かれる。

 痛くはない。しかし、何度も何度も叩かれて、修一はクリスを締め上げたまま、後方を見た。


「!!」

「――」


 赤み掛かった金髪の少女が、泣き腫らした目で、こちらを睨んでいた。

 修一と目が合うと一瞬だけ怯んだ様子を見せたが、グッと堪えてもう一度修一を叩いた。


「もうクリス兄ぃをいじめないで!!」

「……!」

「はなして! クリス兄ぃが死んじゃう!」

「いや、」


 落ちたら放すよ、と言おうとして、そういう問題ではないか、と思い直した。


 もう一度クリスを見る。

 先程少し緩めたためか、ヒュー、ヒュー、という微かな呼吸音が聞こえる。

 目は虚ろだが、まだ、完全には落ちていない。


「シューイチさん」

「……ノーラか」


 ノーラが、静かに歩み寄ってきた。


「クリスライトを放してあげてください」

「……」


 有無を言わせぬ響きで、ノーラがそう告げる。

 アルが、縋るような目で、ノーラを見上げた。


「貴方の、雇い主として、命令(・・)します」

「!」

「アルの言うことを聞きなさい」

「……」


 修一もノーラを見上げる。

 目と目が合った。


「――」

「――」


 ほんの数瞬視線を交わすと、修一が観念したかのように息を吐いた。


「分かった、分かりましたよ(・・・・・・・)


 そうしてロックした足を解き、修一はクリスから離れた。



 アルがすぐさま駆け寄る。

 泣き顔で、横たわる兄に縋り付く(アル)を見て、流石の修一も罪悪感を覚えた。


 ――やり過ぎたな。


 調子に乗った、とも言うだろう。

 ノーラが、見るからに私怒ってます、という表情で修一をじっと見据えていた。

 あまりにもばつが悪くて、修一は思わずノーラから目を逸らした。

 しかし、回り込まれた。


「シューイチさん」

「おう」

「やり過ぎです」

「おう」


 ノーラにまで言われてしまった。


「おそらく、言い訳などもあるのでしょうけれども、それは後です」

「ああ」

「まずは、お説教です」

「……」


 ノーラが一際険しく眉を吊り上げて言った。

 こんな表情も出来るのか、と、修一は場違いな感想を抱いた。


「返事は?」

「……はい」

「心配はいりません、クリスライトが目を覚ましたら、二人仲良く正座してもらいますから。一緒にお説教です」

「……はは」


 正座は、修一がノーラに教えた知識の一つであった。

 修一は、こんな形で教えた知識を使われるとは、と自身の短絡さを自嘲しながら乾いた笑いを漏らしたのだった。




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