第6章 3
◇
「そういえば、先輩のその首飾りですが」
「――え? あ、はい、なんでしょうか?」
「……」
テリムは先達を敬う主義であるので、今し方のふわふわしたノーラの顔を見ても、苦言を呈したりはしなかった。
代わりにコホンと咳払いをすると、ようやく意識が正常になってきたノーラに同じ質問を行う。
「その、首飾りですが、何か謂れのあるような品なのでしょうか? 残念ながら、僕の知識ではただのアクセサリーとしか思えないのですが、もし特別な品であるのなら、その来歴などを教えてほしいのです」
「えっと、これですか」
ノーラは、自分の首元でキラキラ揺れている、水晶を加工して出来たであろうそれに手を触れ、それからゆっくりと微笑んだ。
「これは特別何かがあるわけではない、普通のペンダントですよ。
テリムの見立てどおりです」
「そう、なのですか……?」
「ええ」と頷いたノーラは、しかし嬉しそうな微笑みを止めようとしない。
そんな風に微笑まれるとその気はなくてもドキリとしてしまいますよ、とテリムが内心でぼやくが、勿論ノーラには伝わらなかった。
「それ、俺があげたやつだからな、安物だよ。
確か、露天で売ってたのを銀貨五枚位で買ったと思う」
「――ああ、そうなんですか」
修一が、レイの髪を手で梳きながら補足する。
それを聞いたテリムは、どうりで大切そうにしているのか、と納得し、この話題をこれ以上広げるのは先輩にとって良くないだろう、と考えた。
ノーラと出会ってからまだ三日ほどしか経っていないが、それだけしか見ていなくても、ノーラが驚くほど初心だということは分かる。
そして、この話題を突き詰めていけば、ノーラは必ず、羞恥心で顔を赤く染めることになるだろう。
それはテリムの望むところではないし、今ならまだお祈り中のウールが耳聡く食い付いてきたりもしないだろう、と考えた彼は、この話題を早急に畳むことにした。
「いえ、僕が見たことも聞いたこともないような物ならその講釈をしていただきたいと思っただけで、そうでないのなら軽い世間話程度のつもりで聞きました。まあ、そういうことでしたら僕の考えすぎだったというだけのことですね。いやあ、申し訳ない」
「い、いえ……?」
いきなり捲し立てるように喋り出したテリムにノーラは不思議そうな顔をするが、テリムは構わず話題を変えようとする。
ここは多少不自然でも流れを変えるべきだと、そう悟ったのだ。
しかしここで、思わぬところから流れ弾が飛んできた。
「…………ねえ、のーら」
「なんですか、レイ?」
一頻り髪を梳いてもらって満足したレイは、ノーラの名を呼ぶと服の襟刳りを引っ張り、首に掛けている紐と、そこに通された指輪を取り出した。
そして、それをノーラに示しながらレイはコテンと首を傾げる。
「…………おそろい?」
「えっと、そうですね」
レイは少しだけ嬉しそうにしながら、はにかんだように笑う。
「…………のーらも、おとうさんがすきなの?」
そして無邪気に、そんな事を言うのだ。
「…………――――、!?!?」
「ノーラ!?」
一瞬何を言われたのか理解出来なかったノーラは、言葉の意味が脳に染み込んだ途端、林檎じゃないんだから、というくらい顔を赤く染めた。
その様子を見て思わず心配そうな声を出す修一であるが、ノーラは一体どこを見ているのか分からないような目で、なんとか言葉を絞り出そうと口をパクパクさせていた。
「…………わたしは、」
そして、レイがさらに何か恐ろしいことを言おうとしているのだと察したテリムは、心の中でノーラに精一杯謝罪した。
「…………のーらが、おかあさんでもいいな」
「…………お母、さん?」
ノーラは、壊れた魔導機械のようにぎこちない動きで修一を見ると、口元をあわあわとさせて激しく狼狽えた。
修一のことをお父さんと呼ぶレイが、お母さんと呼ぶということは、それは、すなわち――。
「シュ、シューイチさん!!」
「お、おう」
「こ、これは!! その、えっと、あの、――ああっ!!」
「……」
慌てふためき明瞭な言葉を発せていないノーラを、修一は、どことなく困ったような表情で見つめている。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「落ち着けよノーラ」
「いや、でも……」
「別に、レイが勝手に言ったことだろ?」
「えっ……?」
修一は、努めて無感情にしながら、さらにノーラを諭す。
「俺は、ノーラがそういうつもりはないって言いたいのはよく分かってるよ。実際そうだもんな」
「あ、あの……」
「だから、そんなに慌てなくても大丈夫だ。俺は別に気にしてないからさ」
「……はい」
「――うん、落ち着いてくれてなによりだ。
……どうしたテリム、そんな憮然としたような顔して?」
「……いえ、なんでもありませんよ」
勿論、何でもないことは無いのだが、元々この話題を畳もうとしていたテリムは、その思いを呑み込んだ。
そしてノーラは、「違うんです!」ということを言おうとしていたのであって、それを先んじて修一に言われてしまい言葉の矛先を向ける先がなくなってしまっている。
ただ、あんな風になにもかも分かっていますよという態度でいられると、なんだか物凄く心がモヤモヤする。
まるで、そうであってほしいと言われたような気がして、ノーラは、知らずのうちに心が痛むのだった。
「レイも、変なことを言ってノーラを困らせないでくれよな」
「…………」
再びレイを抱きかかえると、修一はそうやってレイに言い含めた。
レイは、何を言われてるのかイマイチ分かっていないようだったが、とりあえず頷いてみせたのだった。
――ちょっと、言い方が悪かったかな?
修一も、先程のノーラが少しだけ傷付いたように顔を歪めたのをしっかり見ていたため、そうやって自戒するが、言った内容については、あれで正しかったのだと思っている。
修一には、それ以外に、言うべき言葉がないのだから。
◇
「シショー! どこですか ー!」
甲板に、幼い少年の声が響き渡る。
波は穏やかで風も強くはないが、それでも船体が波を切る音や、帆が風を受ける音は大きい。
声を張らないと、周りに伝わらないのだろう。
少年は、ぱたぱたと甲板を走り回りながら声を張り上げ続ける。
「シショー! シショーってばー!」
背中に大きなトランクを背負った少年は、年の頃が七歳から八歳程度で、真っ黒な髪が海風になびき、くりくりした黒い眼が元気よく動き回っている。
子供特有の疲れを知らない無邪気さでもって、甲板上を走り回るこの少年は、言葉のとおりシショー、すなわち自らの師匠を探しているのであった。
ここは、北大陸南岸沿いを航海している大型船の甲板上である。
北大陸西岸を出発したこの船は、海岸線の沖合いを南下しながら途中でいくつかの国の港町に寄り、人や荷の積み降ろしを何度となく行いながら、航海を続けているのだ。
そして現在は、南岸沿いを東に向けて進んでいる最中であり、少年は、もうすぐ目的地だと言っていた町に着くということを船員に教えてもらい、どこかに行ってしまった師匠をこうして探しているのだ。
「シショーー!! ……あ、見つけた!!」
甲板上で海を眺めていた師匠を見つけ、少年は嬉しそうに駆け寄っていく。
背中にはランドセルなどよりも遥かに大きい旅行用のトランクを背負っているのだが、そんな事は気にならないとばかりに元気良く走り寄る。
「シショー! 探しましたよ!」
「ん、タツキか」
師匠は、自分を呼ぶ声に反応してそちらを向き、駆け寄ってくる弟子を認めると、また海原に視線を戻した。
「シショー、もうすぐ着くそうですよ!」
「知ってるよ」
タツキ、と呼ばれた少年は、背負い革の付いたトランクを背負い直し、それから師匠の隣に並んだ。
師匠は、ボロボロになった茶色いロングコートを風に靡かせ、同色の、これまたボロボロのハット帽が風で飛ばないように手で押さえている。
やや鍔広の帽子の下では、赤茶けたボサボサの髪が風に揺れていて、茶色い瞳は真っ直ぐに、南の海上を眺めていた。
瞳の下には隈取りのようにはっきりとした隈が浮かんでいるが、健康を損なっている様子は見受けられず、その眼光は鋭い。
と、その時、二人の頭上から降り注いでいる陽光が唐突に途切れ、代わりに黒い影が二人を覆い隠した。
「わっ! 見てくださいシショー!」
甲板から、遥か高いところにあるソレを見上げて興奮したような声を出す弟子に、師匠はただ「この国の名物だ」とだけ答えた。
その下をゆっくりと船が潜り抜け、やがて再び陽の光が当たり始めても、タツキは興奮覚めやらないといった様子で師匠の服を引く。
「シショー! どうして海ばっかり見てるのですか! あっちの方がスゴいですよ!」
「ワは、何度も見たことがあるからな」
そう言いながら全く海から視線を外そうとしない師匠に、タツキは頬を膨らませた。
「むう、シショーはおバカさんです。あんなスゴいのを見ようとしないなんて。
それなら僕一人で見てます」
「そうしておけ」
そう言うとタツキは、いまだにその威容を誇るソレを見上げ、色々と感嘆の声をあげる。
師匠は、その姿を横目に見ながらも、海の向こう側を覗き込むかのように水平線を見つめる。
「……明後日、いや、早ければ明日には来そうだな」
師匠はそう独りごちると、隣ではしゃいでいるタツキの名を呼んだ。
「タツキ」
「はい、シショー!」
「もうすぐ着くのだろう、客室に戻って準備をするぞ」
「はい!」
元気一杯に返事をして、タツキは師匠の後ろをとことこと着いていった。
甲板から船内に戻り、階段を降りて部屋に戻ろうとしたのだが、その途中の狭い廊下で、二人の男がなにやら口論をしていた。
「おや、あの人たちは何をしているのでしょうか?」
「さあな」
タツキの問いに、師匠は仏頂面のまま答える。
全く興味は無いのだが、そこにいられると通行の邪魔であるため、無視するわけにもいかないのだ。
「オジサンオジサン、そこでケンカしてると他の人のジャマですよ」
「ああ!? 喧しいぞ坊主!」
「邪魔すんじゃねえ、引っ込んでろ!!」
タツキが、「そっちの方がうるさいですよ」と言うと、二人の男はさらに頭に血を昇らせたのか、こちらに向かってお互いに喚き合い、最早何を言っているのかよく分からない。
「……」
と、ここで、相手にするのが面倒だと思い始めた師匠が、二人に歩み寄る。
「な、なんだよ」
「やろうってのか!」
師匠にはそんなつもりはさらさら無かったし、そして会話を続ける気も無かった。
師匠は二人の肩にそれぞれ手を乗せると、軽く下に押した。
「なっ!?」
「うおっ!」
それだけで、二人の男は膝から崩れ落ちた。
慌てて立ち上がろうとするが、どれだけ力を込めてもびくともしない。
師匠は、無表情のままで二人に告げた。
「邪魔だ、寝てろ」
そう言って、二人の顎をデコピンで打ち抜く。
二人の男は、仲良く白目を向いて、廊下にひっくり返った。
そして師匠は、二人の男を無造作に担ぎ上げると階段を上がっていき、すぐにまた降りてきた。
おそらく、甲板に寝かせてきたのだろう。
「シショー! あいかわらず強いですね!」
「そうか?」
「でも、やり方がテキトーですね!」
「いいんだよ、これくらいで」
気にした様子もなく部屋に入っていく師匠に、タツキは楽しそうに笑いながら後に続く。
部屋の中に残しておいた洗濯物などの荷物を回収すると、忘れ物が無いことを確認してから部屋を出た。
再び甲板に上がると、先程眠らせた男たちを見つけた船員が、慌てた様子で二人を起こそうとしているのが見えた。
「ふあっ」
見えた、が、師匠は全く気にすることなく欠伸を漏らし、徐々に近付いてくる大地を眺めている。
一切関心がなさそうであり、事実ない。
鬼である。
やがて、別の船員が「間もなくブリジスタ国、ファステムの港に着きまーす!!」と言っている声が聞こえ、その十数分後に船は港に着岸した。
船体と岸壁の間に足場が渡され、準備が整うと、乗客が順番に降りていく。
数日はこの港に停泊するらしいので、まだ船旅を続ける人間も、休憩や観光のために降船しているのだ。
なお、先程の男たちの姿は、その人の群れの中には見当たらなかったらしい。
「おおー、ここがファステムなんですね!」
「ああ」
タツキは、ワクワクした様子で辺りを見回している。
「ひとまず、宿を取――」
「シショー! あそこにいるのは船の中で仲良くしてくれたお姉さんですよ! 僕、挨拶してきます!」
言うや否や、走り出すタツキ。
お姉さん、とやらも、タツキを見つけると嬉しそうに手を振ってくれている。
「お姉さん!」
「アラ、貴方もここで降りたノ?」
「はい! 船の中ではお世話になりました!」
元気良く答えたタツキに、女の人は優しく微笑みながら目を細める。
特徴的な薄い紫色の髪が、ふわりと風に揺れた。
「偉いワ、ちゃんとお礼が言えるのネ」
「もちろんです!」
そう言って、女の人がタツキの頭を撫でると、タツキは、照れたように笑った。
「えへへ、気持ち良いです」
「ありがとウ、そう言ってもらえるとワタシも嬉しいワ」
女の人はタツキを撫で終わると、そのやり取りを無言で見ていた師匠に会釈して、そのまま人混みの中に消えていった。
駆け戻ってくるタツキに、師匠は仏頂面のまま声を掛ける。
別に不機嫌な訳ではなく、単純に、いつもこういう顔なのである。
「良かったな」
「はい!」
それからもう一度、「宿を取るぞ」と言うと、今度はタツキも元気良く返事を返したのだった。




