閑話 レイ
◇
レイがテグ村を訪れたのは、八月も終わりに近付いた暑い夏の日のことであった。
父と母に連れられて旅をしていたレイがブリジスタ国内に入ったのはそこから一月ほど前の事で、北部地域から順に町や村を回り、今日、この村に辿り着いたのだ。
自分の両親とともにテグ村を訪れたレイがまず初めに感じたことは、村全体を覆うどんよりとした空気だった。
村自体を一つの生き物と考えたとき、まるで重い病に蝕まれて先が長くない病人のような、そんな雰囲気を纏っていたのだ。
それは、決してレイだけが感じていた事ではなく、レイの父親も同じように不穏な空気を感じていた。
だから、村人たちにそれとなく確認をしたりもしていたのだが、生憎と誰もその原因を教えてくれない。
仕方なくレイの父親は、村の中に唯一存在する宿屋の一室を借り、その日の寝床を確保すると、自分の妻と娘に「この村には長居しない」と告げた。
割と暢気な性格の母親は「慌ただしいのね」と笑っていたが夫の提案には反対しなかったし、レイは一も二もなく頷いた。
それだけこの村は、レイにとって嫌な場所だったのだ。
明日か明後日か、次の町への足が用意出来次第この村を離れることにして、その日は家族三人で川の字になって寝た。
レイはこの村の中で寝ることに本能的な忌避感を感じていたが、隣で横になっている母親にギュッと抱き付いて寝ることでそれに耐えた。
夜中、ふと目が覚めた母親は、眠りながら必死になって自分にしがみ付く幼い我が子に苦笑しつつ、その頭を撫でてあげたのだった。
朝になり村内の馬車乗り場に向かった父親は、翌朝に出発する予定の馬車を予約してから宿に戻った。
明日の朝まではこの村に居なければならないと聞いたレイは少しだけ不満を覚えたが、彼女は父親の言葉に小さく頷く。
ここで聞き分けのないことを言うつもりはなかったし、元々レイは親の言うことには素直に従う子であった。
両親も、レイが基本的に我が儘を言ったりしないことをよく知っていたし、だから、ここで素直に頷いてくれたことは、言ってしまえばいつものことだったのだ。
――それがどういう結果を生むのかなど、その時には知る由のないことである。
◇
その後父親は、どうせ時間が余るのなら、と村の中を見て回ることに決めた。
父親は元々行商人をしていたのであり、結婚し、レイが生まれてからは安定した生活を求めて知人が経営する商会に籍を置くことになったが、それでも時折、遠くに出掛けては新たな商売契約を取り付けたりもしている。
そして、今朝の食事で出てきたサラダに使われていた夏野菜、これは、新鮮なこともあるだろうが、他の町で食べたものよりも美味しかったように思えたのだ。
今回の旅は商店の契約を取り付けるためのものではなく、個人的な用件により親子揃って行っているものである。
だからここで、美味しくて新鮮な野菜の売買契約を交渉する必要などなかったのだが、個人的な用件で数ヶ月仕事を休ませてもらっている身としては、商会に対して何かしらの恩返しをしておきたかった。
どうせ、商会長の立場にいる知人は「そんな必要ないのに」と苦笑するだろうが、こういうものは気持ちの問題だ。
父親は、「私も付いていく」と言い出した妻とともに村のすぐ外に広がる畑に赴くことにし、お前はどうする? とレイに尋ねた。
レイは悩んだが、部屋に残ることにした。
ただでさえ嫌な雰囲気の村の中を歩くのは、出来れば遠慮したかった。
父親は優しげな口調で「暗くなるまでには戻るよ」とレイに言い残し、夫婦揃って宿から出ていった。
窓から見下ろして両親の背中を見送ったレイは、早く戻ってこないかなと思いながら、部屋の中で静かに過ごした。
途中に一度、一階に降りてお昼を食べたときと、何度かトイレに行ったとき以外は部屋から出ず、やがて太陽が西の空に沈み始めたころ、レイはそわそわと落ち着きなく二人が帰ってくるのを待っていた。
しかし、窓から下を見ていも一向に二人の姿が見えず、その内太陽が完全に沈んでしまう。
レイはそれでも辛抱強く待っていたのだが、外が真っ暗になってしばらくして、部屋のドアがノックされた。
そこにいたのは、一人で宿を経営しているという大柄な体型の主人だった。
朝出掛けていった二人が夜になっても帰ってこないため、心配になって見に来てくれたのだそうだ。
レイはおろおろとしながらも拙い言葉で、両親が帰ってきていないことを、宿の主人に伝えた。
それを聞いた主人が一瞬顔を強張らせ、「まさか、あの二人も……?」と小さな声で呟いたのを、レイは聞き逃さなかった。
ただ、レイがそれを問うことは叶わず、宿の主人は自身の動揺を取り繕ってしまう。
そして、「私が明日探してきてあげるから」と、レイを安心させるためにそう言った主人は、「今日のところは夕御飯を食べて早めに寝るんだよ」とレイを食堂に連れていった。
レイは、美味しいはずのご飯がひどく味気ないものに感じ、盛られた料理の半分ほどを残して早々に部屋に戻った。
そして一人でベッドに横になり、昨晩と違うベッドの広さとその心細さに、声を圧し殺して泣いた。
いつまでも、いつまでも泣いた。
やがて泣き疲れて自然と眠りにつくまで、レイはその夜、ただ一人で泣き続けた。
◇
明くる日レイが目覚めたのは、すっかり太陽が昇り切ったころであった。
むくりと起き上がり、やはり両親が帰ってきていないと知ると、再び涙が頬を伝う。
レイはごしごしと顔を擦って涙を拭うと、昨日の主人の言葉を思い出し、一階に降りてみる。
宿の中に主人はおらず、代わりにカウンターの上には簡単に拵えられたサンドイッチと、手紙が置かれていた。
レイには少々難解な表現や知らない単語もあったが、「警備隊の人たちと一緒に近くの山へ君の両親を探しにいく」といった内容であると、なんとなく理解した。
レイは、用意してくれていたサンドイッチをよたよたと自室に運び、父親の荷物の中から財布を取り出すと、一階のカウンターの上に、何枚かの貨幣を乗せた。
どうやら、サンドイッチの代金のつもりらしい。
父親が、常日頃からお金の大切さというものを暢気な母親に説いていたのを聞いていたため、そうしたのだろう。
サンドイッチの代金がいくらになるか分からないし、そもそもレイはまだ算数が出来るかも怪しいのだが、たまたまその時置いたお金はサンドイッチの代金とほぼ等価であった。
レイは、取り敢えず財布を自分のポケットに仕舞うと、部屋に戻ってご飯を食べた。
レイが少食というよりも、元々そのつもりだったのか多目に作られたそれを、レイは朝の分と遅めの昼の分とに分けて食べ、宿の主人が戻ってくるのを待った。
そう、レイは、祈るような気持ちで待っていたのだ。
両親が、帰ってくるのを。
やがて、窓から見えるところに宿の主人と、似たような服を着た男二人――警備隊隊員だろう――が現れる。
レイは、その姿を泣きそうな顔で見つめていた。
そこに、自分の両親の姿がなかったからだ。
そして――、
「…………ちがう、」
ポツリと呟いた言葉は、ほとんど無意識の内に口から零れていた。
「…………あのひと、……あのひとじゃない」
それは、宿の主人に対して向けられた言葉であり、
「…………あのひとも、あのひともだ」
隣を歩いている警備隊隊員に向けられた言葉でもあった。
「…………どうして」
レイはまた、溢れてくる涙を堪えられない。
ぼろぼろと涙を流しながら、声を圧し殺して泣いた。
レイには、分かるのだ。
今、歩いている人たちが、人間ではないことが。
それが、いったい何というモノなのかなど知りはしなくても、解るのだ。
だからレイは、涙を流しながら部屋を飛び出した。
アレが、主人の姿をしたアレが、この宿に向かって歩いてきているのが見えたからだ。
宿の裏手から建物内に入ろうとしているアレから逃げるように、宿の正面から外に出る。
そのままパタパタと走り続け、息も切れ切れになりながら、村の外に逃げた。
村の中は相変わらず嫌な空気で満ちていて、そんなところにいる気には、とてもじゃないがなれなかったし、なにより後ろから先ほどのアレが追いかけてきていないか、怖くて怖くて堪らなかったのだ。
レイはそのまま村の外まで走り抜け、手近にあったボロボロの小屋に逃げ込んだ。
中も、見た目に違わぬ古さとボロさであったが、それでも最低限、雨風は凌げそうである。
小屋の奥にうず高く積まれている藁の中に潜り込み、そこから顔だけを出して、小屋の扉を見つめる。
誰かが小屋の前を通る度、レイは恐怖で身を震わせたが、壁の隙間から入り込んできていた陽光がゆっくりと赤く染まり始め、やがて外が夜の闇に覆われ始めても、小屋の扉を開ける者はいなかった。
レイはゆっくりと藁の中から這い出すと、恐る恐る小屋の扉を押し開けて外の様子を窺う。
少なくとも、目に見える範囲に人影はなく、何よりもあの恐ろしいアレがいないことに僅かばかり安堵する。
そしてすぐに胸の奥から寂寥感が滲んできて、目元を涙で濡らした。
レイは普段から大きな声を出さない。
だからその時も、大声で泣き喚いたりはしなかった。
ただ、慌てて小屋の中に戻り、再び藁の中に潜り込むと、そのまま小さく丸くなって、静かに泣き続けた。
普段あまり感情を顔に出さないレイが、この時ばかりは悲しさや寂しさ、恐ろしさに顔を歪めていた。
「…………おとうさん、おかあさん」
その呼び掛けに答えてくれるはずの者は、その日もレイの前に姿を現さなかった。
◇
次の日からレイは、小屋の中に潜んだまま一日の大半を過ごし、日に一度だけこっそりと村に戻ると、宿に近付いて両親が帰ってきてないかを確かめる。
そして戻ってきていないことが分かると、アレに見つからないようにすぐさま宿を離れ、適当に選んだ近くの家に向かうのだ。
小さな村であるためか、大抵の家は玄関に鍵を掛けておらず、また日中は農作業に出掛けている者が大半であるからして、レイが勝手に家に入り込んでも咎める者はいない。
家の中を歩き回り、やがて炊事場を見つけると、レイは調理しなくても食べられそうな物をいくつか手に取る。
宿から逃げ出すときにポケットに入れたままになっていた父親の財布から何枚かの貨幣を取り出し、食べ物の代わりに置くと、家主が帰ってくるまでに家から出る。
そのまま足早に村を出ようとして、ふと、他の子どもたちの笑い声に足を止める。
無邪気に遊ぶ、自分よりも年上の子どもたちを見て、そこに混ざりたそうにするレイであるが、アレに見つかる事の恐怖の方が勝っていたため、我慢して村を出る。
それから小屋の中に戻り、持って帰った物をモソモソと食べながら、悲しくてまた泣くのだ。
レイは、一週間以上もそんな生活を繰り返した。
一日一度だけ食事をし、二、三日に一度近くの水路を流れる水で簡単に体を洗い、そしてアレや、小屋の持ち主に見つかりやしないかと怯えながら藁に潜って眠る。
当然の事ながら、幼い子どもがそんな生活に耐えられるはずもなく、レイは段々と衰弱していってしまう。
そして、そんな生活をしながら待ち続けても、一向に帰ってこない両親に、レイがとある予感を感じ始めたころ、
「こんにちは、可愛い猫ちゃんね」
――レイは、一人の女性に出会った。
※ 本日十三時に次話を投稿します。




