閑話 マリー
◇
マリー・スートは不思議な夢を見ていた。
それが夢だとすぐに分かったのは、自分が空を飛んでいたからだ。
鳥にでもなったような視点で世界を見渡すのは初めての事で、だからこそ、これが夢なのだとすんなり理解できた。
この夢は、どうやら一人の女の子が主人公で、その成長を空から眺めるといったものらしい。
最初に見たのは、女の子が生まれたところだ。
◇
一人の若い母親が、ベッドの上で生まれたばかりの赤ん坊を抱き締める。
一見して十代後半くらいのその母親は、自分が産んだ子を、それはそれは嬉しそうに抱き締めていた。
その隣には、父親と思わしき男が同じような表情で立っており、何か、しきりに母親を褒めたり、労わったりしていた。
まさしく理想の夫婦といった様子であり、自分も将来はあんな風に素敵な恋人が見つかるといいな、とマリーは漠然と考えた。
次に見たのは、女の子が一歳になったばかりの頃だ。
◇
母親と父親が、何かを言い争っている。
その内容までははっきりと聞き取れなかったが、お互いがかなり激しく怒っているらしく、相手の言っていることを一切聞こうとしていないのだと分かった。
そして、両親の言い合う声で赤ん坊が泣き出し、泣き声を聞いた母親が慌てて赤ん坊をあやしに行く。
それを見た父親は怒ったままどこかに出て行ってしまった。
どうして怒っているのだろう、どうして仲直りできないのだろう、と空から見ているマリーには思えてならなかったが、それを口に出して伝えることはできない。
何故ならこれは夢だからだ。
あれほど仲の良かった二人がケンカをしている姿を見て、マリーは心を痛める事しかできないのだ。
次に見たのは、女の子が二歳になって半年ほど経った頃の事だ。
◇
母親と父親は、相変わらず顔を合わせるたびにケンカをしており、二歳になった女の子はすぐに泣きだすことはなくなったが、常に怖い思いをしているみたいだ。
父親は暇さえあればお酒を飲んでいるらしく常に赤い顔をしているし、最近はケンカになる度に母親に手をあげていた。
その時の父親の形相といったら、ゴブリンやオーガといった魔物たちに負けない位に酷い顔で、とにかく感情のままに母親を叩いているのだと分かった。
やがて母親が泣き出すと父親は興が醒めたといった様子で家を出ていき、残された母親は部屋の隅で震えていた女の子を優しく抱き締める。
母親と女の子は、それで僅かでも安らぎを得られたのかホッとした顔になり、それを見たマリーは幾分安心した。
次に見たのは、女の子がもうすぐ三歳になる頃だった。
◇
もうすぐ日付が変わろうかという時刻、その日はちょうど満月の日で、天頂に輝く大きな月が母親の足元を優しく照らしていた。
母親は、家と父親を捨て、僅かな手荷物と自分の娘を連れて村を出たのだ。
故郷を捨てるのは流石に抵抗があったが、母親にはすでに両親がいなかったし、何よりもあの男とこれ以上一緒にいるのは耐えられなかったのだ。
村の南には大きな町があり、そこでやり直そうと母親は考えていた。
町までは二十キロメートル程の距離があってそこまで自分の足で歩くしかないのだが、その位の苦痛はあの男から逃げられるなら安いものだと思っている。
すでに眠ってしまった女の子を背中に背負い、荷物を提げて歩き続ける母親に、マリーは心の底から応援の言葉をかけ続けた。
例え聞こえていなくても関係ない。マリーは兎に角そうしていたかったのだ。
次に見たのは、女の子が四歳になった日の事だ。
◇
その日は女の子の四歳の誕生日だった。
母娘は、町に引っ越してきてから新しい家に住みはじめており、沢山の人が同じ建物の違う部屋に住む集合住宅というものに最初は戸惑ったりもしたが、一年も住み続ければもう慣れたものだ。
母親も新しい仕事を見つけていたし、同じ建物の住人たちとも仲良くしてもらっているようだ。
女の子が、同じ集合住宅に住む友達にバイバイをして家に帰れば、母親がささやかながらも誕生日のお祝いを準備してくれていて、女の子は大喜びで席に着く。
美味しい料理を食べて、小さな櫛をプレゼントしてくれて、女の子はとてもとても喜んでいるようだ。
それを見て、マリーも我が事のように嬉しくなる。
母親が「アイツと一緒にいて唯一良かったことはこの子が生まれた事ね」と悲しそうな顔で呟いていたのは見なかったこと、聞かなかったことにした。
次に見たのは、女の子が五歳の時の事だ。
◇
女の子は、母親に連れられて協会に向かっていた。
協会は、特別どこかの神様を祀っているわけではなく、様々な神様の神官たちが共同で経営している。
神話において、この世界を作った始祖神によって他の神々も生まれたとされているため、どの神を信仰していようとも、神官同士は基本的に仲が良いのだ。
母親は特別信仰深いわけではなかったのだが、協会では毎週三回午前中に子供たちを対象としての青空教室が開かれるため、女の子が勉強に興味を持って通ってくれたらと思い連れてきたようだ。
ブリジスタ公用語及び大陸統一言語の読み書きと、簡単な算数、あとは協会らしく神への祈り方を教えてくれている。
女の子は勉強が好きではなかったようだが、それでも週に一回くらいは通い続けることにした。
行きたくないと言うと、母親が悲しそうな顔をするからだ。
マリーも勉強は好きではないため、女の子に対しては頑張れとしか言いようがなかった。
次に見たのは、女の子が六歳になってしばらく経ったある日の事だ。
◇
女の子はその日、生まれて初めて恋をした。
相手は、同じ階に引っ越してきた優しそうな顔をした若い男の人だ。
顔を見た途端、心臓がバクバクして顔がカアーっと赤くなって、あんまりに恥ずかしかったから、挨拶に来たその人と顔を合わせられず、母親と二言三言挨拶をして次の部屋に向かうその人の背中を、こっそりとドアの陰から覗いていた。
その日から、毎朝その人に挨拶をすることが日課になり、挨拶をするたびに心が躍った。
女の子は、恋をするという事がこれほど素晴らしいものだとは知らなかったのだ。
あの人が自分の恋人になってくれたら天にも昇る気持ちになれるのにと女の子は思ったし、マリーは二人がもっと仲良くなれるようにと一生懸命神様にお願いした。
次に見たのは、女の子が七歳になったある日の事だ。
◇
その日女の子が家に帰ると、母親は嬉しいような悲しいような、よく分からない表情で手紙を呼んでいた。
手紙の相手は故郷の村に住んでいる本当に親しい友人で、その友人にだけは新しい住所を教え、時々手紙を送り合っていたらしい。
手紙には、女の子の父親が死んだと書かれていた。
どうやらお酒をたくさん飲んでいた父親は、家に帰る途中にある橋の欄干の上に立って騒いでいたらしい。
その時突風が吹いてバランスを崩した父親は川に落下、打ち所が悪くそのまま命を落としてしまったようだ。
女の子は、すでに父親の顔をはっきり覚えていなかったし、物心ついたときには怒っている姿しか見たことがなかった父親が死んだと言われても、悲しいと思えなかった。
ただ母親はそう単純なものではないらしく、喧嘩別れしたとはいえ一度は愛した男の死に、少なからず動揺しているようだった。
だから女の子は、いつも自分が悲しいときにそうしてくれるように、母親に力一杯抱き付いた。
母親は一瞬驚いたようだったが、やがて女の子を抱き締め返し、静かに涙を流し始めた。
マリーはそんな二人を黙って見つめていると、何故か、心の奥がチクチクと痛んだ。
次に見たのは、女の子がもうすぐ八歳になる時の事だ。
◇
その日女の子は、一年以上に亘る初恋が終わったことを知る。
若い男の人の部屋に同じくらいの歳の女の人が一緒に住み始めたのだ。
というより、男の人はその女の人とずっと付き合っていたらしく、どうやら女の子の初恋は始まる前に終わっていたようだ。
女の子は男の人に想いを伝えたことはなかったし、そんなこと恥ずかし過ぎて出来なかったのだが、こんな気持ちになるくらいなら、一度くらい気持ちを伝えれば良かったと思う。
例え相手にされなくても、気持ちを伝えることに意味があったのではないかと女の子は思ったし、マリーも同じ気持ちになっていたから、女の子を慰めてあげかった。
結局女の子を慰めたのは母親で、何も言われなくても女の子が落ち込んでいることを察して慰めてくれたようだ。
男の人はその一年後に女の人と結婚して新しい家に引っ越していってしまったが、女の子はもう泣いたりしなかった。
次に見たのは、女の子が九歳になったある日の事だ。
◇
女の子が家に帰ると、母親は机の上に沢山のお金を並べて数えていた。
銀貨や銅貨の他、金貨も何枚か混ざっており、女の子はこれほどたくさんのお金を見たことがなかった。
母親はついに見られたかといった表情になったが、やがて女の子に説明することにしたようだ。
どうやらこれは、女の子を学校に通わせるために少しずつ貯めたお金らしい。
母親は村での幼少時代にまともに修学しておらずそのせいで職を見つけるのに非常に苦労したことから、自分の娘にはそんな苦労をしてほしくないと思い学校に通わせるためのお金を貯めていたそうだ。
この国には、十一歳から十五歳までの子供が通う初等学校と、そこから更に発展した学術を学ぶことの出来る高等学校の二種類が存在する。
優秀な者なら奨学金などの制度が利用できるが、そうでない者が学校に通うためには少なくないお金が必要になってくるため、母親は出来るだけたくさんのお金を貯めておくことにしたらしい。
女の子はそこまでして学校に通いたいわけではなく出来る事ならそのお金は母親自身のために使ってほしかったけど、母親の真剣な表情を見てしまってはそんなことを口に出せなかった。
ただ、「そんな沢山のお金を家に置いとくのは危ない」と言うと、母親も苦笑いしながら「これからは銀行に預けるわ」と答えたのだった。
マリーはだんだんとこの夢の正体に気付いてきたのだが、最後まで考えないようにした。
次に見たのは、女の子が十歳になった夏の日の事だった。
◇
その日女の子は、普段はしない夜更かしのせいで朝から少し眠かった。
何故なら前の日に、母親と協会に行った後の帰り道で親切な男の子から素敵なプレゼントをもらい、普段なら寝る時間になっても貰ったプレゼントを月明かりに照らして眺めてしまっていたからだ。
母親は少しだけ呆れたような顔をしていたが、特に叱ったりはしなかった。
午前中をボンヤリと過ごし、母親が買い物に行くと言っても付いて行かず、もう一度ベッドで横になってお昼寝をすることにした。
マリーはこの時点で非常に嫌な予感がしたが、勿論その事を女の子に伝えることは出来ない。
何故ならこれは夢だからだ。
そしてその嫌な予感は現実になった。
女の子が目を覚ましたのは熱さと息苦しさを覚えたからだ。
起き出してみるとどこからともなく大きな音が聞こえ、物が焼けるような嫌な臭いと黒い煙が部屋の中に満ちてきていた。
女の子はとても驚いて外に逃げようとしたのだが、玄関のドアを開けた瞬間中央廊下からさらに沢山の煙が入り込んできてしまい、慌てた女の子は煙が入ってこないようにドアと鍵を閉めた。
そしてその場に呆然と立ち尽くす。
ここは三階だから窓からは外に出られない、でも玄関から外に出るにはあの煙の中を通らなければならない。
そんなの絶対に無理じゃない。
そうしている間にもドアの隙間から煙が少しずつ侵入してきており、室温も少しずつ上がっている。
女の子は泣き出しそうな顔で寝室に逃げ込むとベッドの上に倒れ込む。
熱さと息苦しさと、悲しさと恐ろしさで涙が滲み、シーツに顔を押し付けて泣き出してしまう。
次から次へと溢れ出す涙とともに漠然とした死の恐怖が心の中から溢れそうになり、必死になってそれを打ち消す。
きっと誰かが助けに来てくれると考えつつも、それらの希望的観測をあっという間に塗りつぶしてしまうほどの死の恐怖が女の子を包み込もうとしていた。
マリーは女の子に、諦めちゃダメ、諦めちゃダメと言い続けるのだが、勿論聞こえるはずもなく女の子は泣いているままだ。
どうしようこのままじゃいけない、とマリーが考えていると、寝室の机の上に置かれたプレゼントに気が付いた。
それを見た時マリーは、何かを思い出しそうな不思議な感覚を感じ、そして気が付けば大声で、力の限りの大声で叫んでいた。
――――――――っっ!!!!
何といったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、その声が聞こえたのかのように、ふいに女の子が顔を上げ机の上に置かれた氷のバラを見つけると、それに手を伸ばす。
意識が朦朧としているのか、視線は定まらず指先も少し震えていたのだが、なんとかバラを手に取るとそれを両手で包み込んで胸元に引き寄せた。
「…………助けて、シューイチ兄ちゃん」
そしてそれだけ呟くと、女の子は動かなくなってしまった。
* 明日十二時に次話を投稿します。




