第2章 ノーラ
◇
白峰修一は困惑していた。
自分が何故ここにいるのか分からなかった。
辺りを見渡せば緑色の草が一面に広がり、足元には茶色く固い土の道。
足元の道は延々と伸びており、道の先を目でたどれば小高い山に向かっている。その手前には森が広がっていて、道の端を咥えている。
反対側に目を向ける。道は草原の彼方までどこまでも続いており、いったいどこに繋がっているのか全く分からなかった。
「ここは、どこだよ?」
今まで見たこともないような光景に思わず首をひねる。
日本という狭い島国で生まれてからの十八年間を過ごしてきた修一は、このような広い草原に来たことが一度もなかった。
去年の修学旅行で北海道に行った時も土地の広さに驚いたものだが、ここはそれ以上の広大さだ。桁が違う。
ひょっとして夢ではないだろうかと思い頬を抓ってみる。痛い。頬の痛みはこれが現実であることを教えてくれた。
――いったい何が起きた?
そう考えた修一が自分の記憶を探ってみるが、こんなところにいる理由が見つからない。
思い浮かぶのは、そもそも何故生きているのか、自分は死んだはずなのに、ということだ。
そう、修一は自らの記憶が確かなら、確かに死んだはずなのである。
その時の記憶は鮮明にある。体中血にまみれ、地面に倒れる自分。全身の痛みと熱と、流れ出る血とともにそれらが失われていく感覚。そして薄れゆく意識の中で最後に目にしたものは――。
そこまで思い出すことはできても、やはり自分がここにいる理由は分からない。
「怪我も全部治ってるし、訳が分からねえ」
しばらくの間その場に立ち尽くしたままの修一だったが、ふと空を見上げて激しく燃える太陽に気が付いた。
太陽はそろそろ天頂に届こうかとしており、雲一つない青空から降り注ぐ強烈な日差しは、遮るもののない草原に立つ修一を容赦なく炙る。
知らぬ間に全身から噴き出している汗に気が付いた修一は、分からないことはひとまず後回しにすることにし、日陰を求めるように森に続く道を歩いた。
しばらく歩いてようやく森に着き、木陰に入って激しい日差しから身を隠す事ができるようになって修一は、幾分冷静に物事を考えられるようになってきた。
というよりも、本来なら日差しを浴び続けても全く問題ないのに、それを忘れて着ている学生服を汗まみれにしてしまったことに思わずため息が出た。
「気が動転していたとはいえ、やっちまったなぁ。いつの間に切れたんだ?」
しばらくは落ち込んだままだったが、やがて「まあいいか」と呟いて立ち直った修一は、とりあえず現状把握が必要だと考え、学生服のポケットに手を突っ込む。
しかし生憎どのポケットも空っぽだ。
「あー、財布もケータイもカバンに入れといたんだった」
そうだった。家に帰ってすぐ飛び出したから制服から着替えてもいないし、荷物も何も持っていないのだった。
――何にもねぇとは、まいったな。
再びため息をつきながら、額の傷を指でなぞる。修一の額には左眉の上から眉尻にかけて古傷が伸びており、それを指でなぞるのがクセになっているのだ。
その後しばらくの間、周りに生えている木を確かめたり飛んでいる鳥や虫を観察したりしてみるものの、よく分からない。少なくとも、自分が知っているものと似たようなものだとは思えるのだが、全く同じとも思えなかった。
修一はこの時点で既に、もしかして、という思いを抱いたわけだが、それを確信するための証拠も見つからないような状況である。
よって修一は、人に会わなければならないと思った。
「ここが何処かは知らんが……、道が出来ている以上は人が通るだろ。道を辿ればとりあえず人のいるところにはたどり着く……はずだ。誰かに会ってここが何処なのか確かめねえと。俺の身に何が起きたのか全く分かんねえ」
そのような結論に達した修一は、山に向かう道をどんどんと進んでいく。今更引き返してどこまで続いているか分からない草原を歩くよりは、森を抜けて山を乗り越えた方がいいと思えたからだ。
――山を越えた先に町が見えるかもしれねえ。
それはあくまでも楽観的な考えであったが、山はそれほど高くなく、草原をひたすら歩くよりは山を越える方がマシに思えたのだ。
また、幸いにも修一は山歩きに慣れてもいたし、もし何日も歩かなければならないのであれば食材のありそうな森や山のほうが食料調達が楽だろうというのも、そのまま歩き続けている理由であった。
「と、そういえば流石に丸腰はマズイかな……。万が一クマでも出てきたら面倒だ」
修一は辺りをきょろきょろと見回し、出来るだけ頑丈そうで振り回しやすい長さの木の枝を手に取った。実際に振り心地を確かめるように二、三度枝を振ると、満足したように再び歩き出す。
護身用としては何とも頼りないが、素手よりはマシといったところだろう。
歩いている途中、食べられそうな果実を見つけたので、一つ手に取り口に入れてみる。
「お、思ったより甘い」
名前も分からない実を食べながら、黙々と歩く修一。
右手に持った木の枝を振り、左手に持った実を食べながら修一は、先の見えぬ山道を歩き続けたのである。
◇
修一が森の中を歩き始めて二時間近くが経過し、そろそろ一度休憩をしようかな、と考え始めた矢先、修一は人の声のようなものを聞いた気がした。
思わず立ち止まり、辺りを見回してみる。
しかし、どこにも人の姿は見えない。
――気のせいか?
そう思いつつも、人がいるのであれば何としても会いたいと考えた修一は、道から少し外れたところまで入り込んでみることにした。
すると、薄っすらとではあるが土の上に靴跡のようなものが付いており、それが道から外れていくように森の奥に向かって伸びているのを発見した。靴跡は少ししたところで分からなくなってしまったが、少なくとも三人分くらいの靴跡が同じ方向に伸びているのが分かり、そちらへ向かえば人がいるのではないかと思えた。
嬉しい半面、どうしたものかと悩む修一。
相手がどれほど奥に進んでいるのか分からない以上、むやみに追いかけても無駄だろう。ここで待っていれば、同じ道をたどって戻ってくるかもしれない。
そうして、道に戻って待とうかという結論に至ったところで、
「――――」
「お、やっぱり誰かいるんだな」
再び声が聞こえてくる。木に隠れてよく見えないが、思ったよりも近くにいるようだ。
ようやく人に会えると思い浮かれてしまった修一は、聞こえた声が切羽詰ったような響きであったことに気付かないまま、森の奥に入っていってしまう。
そして。
「――はぁ?」
修一の口からそんな言葉が漏れた。
目の前の状況が理解出来なかったからだ。
確かに人に会うことはできた。しかし目の前にいたのは。
「…………!」
まるで山賊のような格好をした汚らしい男三人と。
それに取り囲まれて怯えている一人の女性であった。
修一の声を聞き、男三人が振り返る。一人は腰に剣を差し、一人は手に小型の斧を持ち、もう一人は手に持ったナイフを女性に付きつけていた。
女性は木の根元にへたり込むように座っており、ナイフを持った男に両手を押さえつけられたうえ、首元にナイフを当てられていた。
声もなくガタガタと震え、怯え切ったような表情を浮かべている。短めの茶色い髪と、同じ色をした瞳は涙に濡れており、その衣服は若干乱れていた。
いままさに、何が行われようとしていたのか。
思わず眉を寄せて、男たちを睨みつける修一。元々鋭い目つきが更に鋭さを増す。
人に会いたいとは思っていたが、こんな場面に遭いたいとは思っていなかった。
なにより。
「何やってんだよテメエら。その人を離せ、ぶっ飛ばすぞ」
女性に対してナイフを突きつけている男たちが、見た目そのままに山賊のようなものだということが理解できた。
自然、修一は男たちに対して強い敵意を抱き、警告を発する。
対する山賊たちも、修一が敵意を持って睨み付けてきていることにすぐに気付く。
修一を睨み返し、剣を腰に差した男が口を開いた。
だが。
「******! ****************!!」
「あぁ?」
――何言ってるか分かんねえよ。
男の言葉が理解できない。
男は、修一が今まで聞いたこともないような言葉を使っていた。
――やっぱり、ここは……。
内心で、確信する修一。現代日本でこんなことする奴などまずいないだろうし、全く理解できない言葉を使っている男たちが日本人だとも思えなかった。
ここは、日本ではないんだな。
怒れる男たちを前にして、修一は驚くほど冷静にそう結論付けた。
そして、それ以上のこと。例えば、それならここは一体何処で、自分はどうして此処にいるのか。自分の身に一体何が起きたのか。
そういったことは、いまだ一切分からない。
分からないまま、ではあるものの。
「……」
取り敢えず、やるべき事はやるべきだ、と思った修一は。
目の前の男たちを、一人残らず倒すことにした。