第8章 39
◇
プリメーラが立方体の檻の中へ自分ごと化け物を閉じ込めたのを見たトマロットは、素早くデザイアたちに駆け寄った。
三人まとめて高位治癒神術をかける。神々しく、柔らかい光がデザイアたちを包み込んだ。
じわじわと傷が塞がっていく。が、深すぎる傷に関してはなかなか塞がりきらない。
トマロットは痛々しげに顔をしかめた。
「……この三人をここまで痛め付けますか」
三人とも、放っておけば間もなく息絶えていたであろう。
特にチャスカが酷い。手前からの戦闘によるダメージが抜け切らないまま再戦して刺され、最後は上階から突き落とされている。自分の神術でもってしても回復しきれそうにない。
デザイアやエイジャも、チャスカよりはマシだが重傷だ。ここで回復させたとしても、少なくとも数日は絶対安静にしておかなくてはならない。
「あの子が踏ん張ってくれている間に、なんとか治さなくては」
トマロットは、ちらりと光の檻に目を向ける。
化け物はいまだ動けずにいるが、あれがいつまで保つかは分からないのだ。
少しでも早く治るように、強く祈る。
「そして願わくば、あの子が無事でいるうちに転移術式が完成しますよう」
重ねて祈る。こちらは純粋に祈るだけだ。
トマロットには、祈るしかできない。
友人の娘の、……彼女の無事を――。
プリメーラの父は魔術師隊の前隊長であった。名をトレバー・イルミラージという。
神官隊副隊長のトマロット・キャンプスと同様に間もなく六十になろうかという歳の男で、薄くなった頭髪と決別するかのように綺麗に剃りあげスキンヘッドにしている。ガタイは良いが運動はからきしダメで、生粋の魔術師として騎士団に勤めていた。
トレバーの魔術師としての実力は相当なもので、第六騎士団団長のファニーフィールをして、純粋な技量の勝負ではこの男に勝てないと言わしめるほど。
彼は、詠唱によるものよりも、あらかじめ用意しておいた術式陣を必要に応じて取り出して使うことを得意とし、精密さという一点を突き詰めたような細やかな術式を用いて魔術を発動させる魔術師だ。
トレバーが書く術式は、針の先で削ったような恐ろしく精緻なものでありながら、全体図を俯瞰すれば極めてシンプルな、美しい構造になっていることが見てとれる。
より少ない魔力でより大きな威力を発揮できるように、絶妙なバランスで文字や記号を書き込んであるのだ。
そのあたりの感性が、他の魔術師たちとは一線を画すのだろう。
彼の類稀なるセンスは、凡人どころかそんじょそこらの秀才や天才にだって到底真似できなかった。
また、トレバーは魔術師連盟ブリジスタ支部内でも強い発言力を持っていた。
ギルドを通じて大陸中の高名な魔術師とも繋がりを持っていて、定期的に技術や情報のやり取りをしていたという。
新しい理論を知ればそれを自分の手元に落とし込み、惜しむことなく自分の部下たちに講釈したりもしていたとか。
ちょっと変わった趣味を生き甲斐にしていることを除けば、トレバーは非常に優秀で勤勉な魔術師だった。
そしてその変わった趣味というのが。
人間を、ゼロから創り出すこと。
人造人間を製作すること、であったのだ。
トレバーは、通常業務の傍らでこの趣味に没頭していた。他国の同じ趣味を持つ者たちと知識や技術のやり取りをし、少しずつ形にしていっていた。
神を冒涜する行為ではないのかと、神官連中からはあまりいい顔をされていなかった。
同じ騎士団の人間であっても、友人であったトマロット以外の神官は彼のことを避けていたぐらいだ。
ホムンクルスなど造れるはずがないと、彼の趣味を徒労であると断じる者もいた。
それでもトレバーは研究を重ね、そして遂に成した。
特殊な材料と製法で組み上げた等身大人形。
その全身にくまなく術式を刻み込んでいたところで、声が聞こえた。
『…………ここは、どこ?』
可愛らしい少女のような声だった。
驚いたトレバーが見つめる先で、人形はゆっくりとまばたきをした。
『……貴方は、誰? 私は?』
まるで感情のこもっていない言葉。しかしトレバーにとってはささいな事だった。
震える声で、トレバーは答えた。
『……私はトレバー、ここは私の家だよ。君は――』
『…………』
じっと見つめてくる人形を、――いや、少女を。トレバーは、涙を流して抱き締めた。
『君の名前は、プリメーラ。――ようこそ、よく来てくれた』
その時のプリメーラには、トレバーの涙の意味は解らなかった。
「…………!」
プリメーラは、無言のまま跪く化け物を見下ろして、脳内でカウントを行っていた。
ノーラに任せた術式陣。
先程までのノーラの筆速から計算して、それがあと何秒あれば完成するのかのカウントダウンだ。
もちろん多少の前後はあるかもしれないが、大きくずれることもないだろうとプリメーラは考えている。
「……動けませんね?」
男は答えない。答える余裕もない。
普通の生物ならそのまま潰れて床のシミになってしまうほどの超重力である。
それを全身に受けているのだ。気を抜くこともできないだろう。
「最大威力を、接触行使しましたから」
そう言いながら、胸に刺さったままの小剣の柄を両手で握る。
そして力を込めてゆっくりと引き抜いた。
「ん……」
ズルリと刃が滑る。黒い刃は真っ白な血でべたべたになっていた。
プリメーラは抜いた小剣を足元に捨てると、あろうことか胸の傷口に指を突っ込んでぐちゅぐちゅと動かした。
見ているだけで痛い光景だった。が、これを見ている者は室内にはいなかったし、あいにくプリメーラには必要以上の痛覚がない。眉ひとつ動かさず、指だけを動かす。
数秒ほどそうやって動かしたところで内部の確認が終わり、傷口から指を抜いた。
「問題はなし。傷口は帰ってから塞ぎましょう」
手に付いた血を拭いながら視線を巡らせる。
トマロットがデサイアたちの治療をしており、神々しい光が三人の身体を包んでいた。
その様子を見て、ふと疑問に思う。
この身体は果たして、治癒神術で回復できるのだろうか。
前の身体ではできなかったが、今はどうなのか。
試してみたいという気持ちは、ある。もちろんそれは今すぐにではないが。
「…………」
だからプリメーラは、本部に帰ったときに隊長に確認してみようと思った。
現隊長、ゲドー・リペアパッチに。
今の身体を造るのに、大きく手を貸してくれたあの男に――。
いかにトレバーが優秀な魔術師であったとしても、寄る年波と病には勝てなかった。
老齢と病気を理由にこの春騎士団から引退したトレバー。
新しく団長の椅子に座るのは、前年の半ばごろにふらりと騎士団にやってきた傷だらけの若い男である。
その若い男は、トレバーの隊長権限(正一等騎士による特別指名)に基づいて騎士団の魔術師隊に入隊し、トレバーの引退に際してそのまま隊長になっていた。
明らかにトレバー自身が後任を呼び寄せて席を譲った形である。
それだけ聞くと、隊長という責任ある立場にそんな簡単に就けるのかと思うかもしれないが、特別特務隊はどれも専門職の集まりだ。
神官隊隊長のケイナのように隊長職を外部の人間に任せることもあるし、その配置や運用に関しては隊独自の基準や流儀がある。
騎士団の役員たちからの強い反対でもない限り、隊での人事は隊内で決められるのだ。
ただ、そうはいっても限度はある。
現隊長のゲドーは、ブリジスタ国内においては全くの無名の存在であり、あろうことか魔術師ギルドにすら在籍していなかった。
そのため、いくらなんでもそれは、と元から在籍していた部下たちから批判の声があがり、……そしてすぐに、声はやんだ。
その若い男自身が、己の実力をきちんと示してみせたのだ。全身傷だらけのその男は、単純な事実として強く、そして色々なことをよく知っていた。
隊員の誰も、知識や実力でゲドーに勝てなかったのだ。
そんな状況で反対の声をあげ続けられるような人間は、隊の中にいなかった。
そうして隊長になったゲドーは、トレバーとの約束を果たす。
当時から副隊長に就任していたプリメーラ。
彼女をより人間らしくするために、トレバーに協力するという約束を。
そもそもプリメーラの肉体は、トレバーの手によって作られた人工物だ。勝手に身長が伸びたり体型が変わったりすることはない。爪や髪も伸びないし、食事も摂らなければ睡眠も必要ない。
一応、年に一度新しく作り直した肉体に、記憶と精神を宿すための核石を移し替えることで擬似的に成長させていたのだが、それだけではどうにも人間らしい感情が生まれにくいのではないかと、トレバーはそう考えていた。
そんなトレバーの前に現れたのが、ゲドーであった。
ゲドーは、自分の連れていた少女をトレバーに立ち会わせ、こう問うた。
『どうだ? コイツが人形に見えるかい?』
問われたトレバーは激しく驚愕した。
その少女は、どこからどう見ても人間であった。
だが、少女は笑いながら自分の腕を引き抜くと、トレバーに肩口の断面を見せてきた。
内部には、明らかに人工物である大量の管と配線が、ところ狭しと通っていた。
今まで見たことのない構造にトレバーは言葉を失い、そこにゲドーは言葉を重ねた。
『アンタのやりたいことを、オイラも手伝うよ。代わりにアンタも、オイラとコイツを手伝ってくれ』
トレバーは、その申し出を受けた。
プリメーラを、より人間らしくしてやれるなら、そのぐらい容易いことだった。
トレバーは、少しでも彼女を人間にしてやりたかったのだ。
自分の命が尽きてしまう、その前に。
そうしてプリメーラは、ゲドーの全面的な協力を受けて、今までとは比べ物にならないほど生身に近い身体を手に入れた。
体温もある。脈拍もある。擬似的とはいえ食事もできる。
痛覚や触覚だけでなく、味覚や嗅覚までも備わっている。
弾力性のある素材で全身を薄く包み、リアルな肌の質感を再現していた。
さらに、五感を得たプリメーラは受ける刺激が増したことで飛躍的に成長した。
肉体的なものに合わせるように、その精神が大きく発達したのだ。
少なくとも、今まで欠片も見せることのなかった感情らしきものを、ふとしたときに見せるようになるくらいには。
ほんの僅かにでも、微笑んでみせるくらいには。
そしてトレバーにとっては、それだけで十分だった。
自分の娘が、彼女自身の意思で笑ってくれるだけで。
トレバーは、引退した今でもプリメーラの身体を作り続けている。
ゲドーから教わった知識を元に、さらによい身体を目指して。
そしてプリメーラには、騎士団を引退する際にこのように告げている。
『騎士として、そしてひとりの人間として、自分が正しいと思うように生きなさい』
その言葉に、プリメーラは問い返す。
『それは、命令ですか?』
トレバーは苦笑した。そして答えた。
『君の思うように取ってくれていい。……ああ、あと、新しい隊長殿の言うことはきちんと聞くように』
プリメーラは、相変わらずの無表情のまま頷いた。そしてふと、言葉を足した。
『はい、分かりました。……お父さん』
『っ……!!』
その時のプリメーラには、トレバーの涙の意味が、ほんの少しだけ分かった気がした。
◇
「…………」
胸の傷を確認したプリメーラは、しばらくじっと足元にうずくまる化け物を見下ろしていた。
追撃はしない。
転移術式を通すために魔力の残量に気を付けなければならなかったし、今使っている術以上に効果のありそうな魔術もなかったのだ。
「あと、四十秒ほど……。……?」
そう呟いたとき、化け物に動きがあった。
「っ…………!」
全身の骨を軋ませながら、化け物が少しずつ身体を起こそうとしていた。
床に手を付き、片膝を起こし、頭を持ち上げてプリメーラを睨む。
立てた片膝に右手を乗せる。
歯を喰い縛り、端正な顔を苦痛に歪ませている。
本来なら、本に挟まれた押し花のようにペシャンコになってしまうほどの超重力なのだ。
動けなくなるところまでで耐えているという時点で異常であるのに、この化け物は少しずつ、力に抗って立ち上がっていく。
「…………」
プリメーラは、決して慌てることなく化け物の動きを見守る。
やがて化け物が、真っ直ぐに立ち上がった。
プリメーラは、静かに口を開いた。
「……どのような燃料を使っているのか知りませんが、それほどの力が出せるとは思いませんでした」
「我輩の能力は、集めた命を燃やす。魔力などとは比較にならん」
そうして化け物は、空いている右手でプリメーラの首を掴んだ。
ギリギリと力を込めていく。
「確かにこの重さは堪えるが、これが最大威力なのであれば、これ以上負担は増えん。ならば、身体を馴らしてそれを上回る力を使えばいいだけよ。少々無駄遣いが過ぎるが、今日はもう今更だ」
プリメーラは、抵抗らしい抵抗もせず首を絞められていく。
今は彼女の首から、骨の軋むような音がしていた。
「握り潰してくれる」
男の表情には強い苛立ちが浮かんでいる。
化け物の膂力であれば簡単に握り潰せるだろう。
「……あ、……に」
それでもプリメーラは表情を変えない。
掠れる声で何かを、化け物に告げようとした。
「――砕けろ、人形め」
そして化け物はそれを待たず、プリメーラの首を握り潰した。
いや、正確には、頭部を支える支柱をへし折ったことになるのだが。
プリメーラの首がだらりと傾いた。
「…………解、……除」
パリン、とガラスの砕けるような音がして、二人を囲む檻が消えた。
同時に、男の身体を苛む重力も一瞬で消失し――。
「なっ……!?」
男は思わずたたらを踏んだ。
急激な重力の変化は、ジェットコースターよろしく強烈な浮遊感を男に与えた。
足は地に着いているはずなのに、どこまでも踏み外して落ちていくような錯覚。
男の視線が揺らぎ、手の力が弛む。
そこに上方から、別のモノが降ってきた。
「“――――、ゴッドスマッシュ”!」
神々しくも荒々しい光が、男の頭上から叩き付けられる。見かねたトマロットが攻撃したのだ。
神の鉄槌を模した神術は、再び男に膝を付かせた。
「貴様ら……!」
男は怒りで目が充血していた。
何度も膝を付かされたことが、いたく癇に障るらしい。
男は足元に捨てられていた小剣を掴み、よろめくプリメーラに斬りかかる。力なく垂れる頭部を、その無表情ごと真っ二つにしてやろうと、身体を伸び上がらせて小剣を降り下ろした。
「…………!」
だが、斬れたのは、プリメーラを庇うために飛び出してきたトマロットの背中であった。
プリメーラは頭部に核石が埋め込まれていて、それは身体と違って傷付けられると直せない、替えの利かないものなのだ。
それを知っているトマロットは、プリメーラを守るために身を呈した。
「うぐっ……!?」
背中に焼けるような痛みを感じながら、トマロットはプリメーラの身体を抱えて倒れる。
化け物はさらに斬りかかろうとするが。
「“――~~、~~”……。これで、」
ノーラの声が、やけにはっきりと聞こえてきた。
そして思う。
今、何秒たった?
「完成、……です!」
術式陣から、真っ白な光が溢れ出した。
◇
「くっ……!!」
男はプリメーラもトマロットも無視して全力で駆けた。
ノーラのところまでコンマ数秒もかからない。
「させんっ!!」
発動しきる前に、土台である床ごと砕く。
トマロットが残していた神術の防壁を力ずくの体当たりで砕いた化け物は、そう考えて小剣を逆手に持ち替えた。
「おおぉぉおおおおお――――!」
眩く光る陣のど真ん中に、真っ黒な刃を突き込もうとした、
――――次の瞬間。
「――修羅血潮唯一」
「っ!?」
横合いからの衝撃で、化け物は吹き飛ばされた。
何かを突き破ったような感触。
今、自分がどこにいるのか分からない。
回る視界の先に一瞬見えたのは、夜空に煌々と輝く十六夜の月。
それでようやく理解した。
一撃で、――砦の外へと吹き飛ばされたのだと。
そして、化け物を吹き飛ばした男は。
「……おうおう、こいつはひでぇな」
奥義を叩き込んだ姿勢のまま、静かに呟いた。
「白峰修一、ただいま参上だ」