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第8章 38

 ◇




 チャスカが上階から突き落とされた。

 その様子を正面から見たノーラは、蝋墨を走らせる手を思わず止めてしまった。


 床に叩き付けられて動かなくなるチャスカ。

 じわじわと床に赤いものが流れていく。


 こんなことをするのはいったい誰か。

 その答えを求めるようにして改めて上階に目を向ければ。


「…………」


 全身をボロボロにして、それでもなお倒れることなくこちらを見下ろしてくる化け物がそこにいた。

 ぞわり、と背筋に悪寒が走る。


 あれだけやって倒せないなんて。


 いくらなんでも異常だ。おかしい。いかにヴァンパイアが強力な種族といえども、あそこまで耐えられるものなのか。

 ノーラは底知れぬ怖ろしさを感じるとともに、頭の中があるひとつの思考で埋め尽くされる。


 すなわち、――この化け物は、果たして本当に倒せるのだろうか、という思考に。


 化け物は、そんなノーラに一瞥をくれると階下に飛び降りる。

 一瞥された一瞬、化け物と目が合った。


「っ――!!」


 それだけでノーラは、心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じる。

 全身からどっと冷や汗が噴き出して、鼓動が荒くなる。


 同じだ。あの時と。

 どうしようもないほどの恐怖が、身体を縛るのだ。


 そしてその恐怖を後押しするように、着地した男は踏み込んだ。

 体力の、最後の一滴まで振り絞ったデザイアの一太刀を躱し、青髪の青年に刃を突き立てた。


「…………!」


 化け物は刃を引き抜き、床に血を払う。

 刺されたデザイアは膝から崩れ落ちた。


 ノーラにはそれが、……心臓を突かれて倒れた修一の姿とダブって見えた。


「あ、あ……!」


 さっと顔から血の気が引く。

 目の前が暗くなりそうになる。


「――~~~~、”……落ち着いて」


 それを押し止めたのは、プリメーラの声であった。


「え……? ……あ、はい」

「心配はいりません。それより、集中を」


 詠唱を途中で中断し、青ざめるノーラを労るように声をかける。

 普段の彼女からは考えられぬ優しい声であった。


「これは、必ず完成させなくてはなりませんから」

「…………」


 ノーラは術式を見る。

 そして再び手を動かし始めながら、不安を口にした。


「間に合うんでしょうか……?」


 残りはおよそ七分の一。陣の円周を二周半ほど。

 化け物は、これを書き上げるまで待ってくれたりしないだろう。


「大丈夫」


 プリメーラは、確かに頷き、そして立ち上がった。

 そしてこんなことを言うのだ。


「私たちが時間を稼ぎますから」

「……え?」


 呆気に取られるノーラ。

 だが、ノーラが何か言うより先に、事態は先へと進んだ。



「くそっ……――」



 エイジャが倒れたのだ。


 プリメーラは、トマロットへ告げる。


「行きましょう」

「仕方ありませんな」


 躊躇いなく、トマロットは防壁を一旦解除した。

 それから二人して安全地帯の外に出ると、ノーラを残して行ってしまった。


 残されたノーラは、手元を見つめながら泣きそうな顔をしていた。


「…………ああ、もう!」


 再び張られた半透明の壁の中で、祈るような気持ちで蝋墨を動かし続ける。


 もう、信じるしかなかった。

 これが完成したとき、騎士団本部からやってくるという応援部隊のことを。

 術式作成の残りをノーラに託し、「時間を稼ぐ」と言ったプリメーラたちのことを。


 信じて、とにかく、完成させるしかなかった。


「……! ……!! …………!!」


 やがてノーラは、目の前の恐怖から目を背けるようにして、術式を完成させることに意識を傾注させていった。

 もはや、プリメーラたちの戦う姿を見る余裕もない。


 音は耳に届かず、見ているのは手元の文字と術式の設計図だけだ。

 ガリガリガリガリと蝋墨を動かして、文字や記号で陣の空白を埋め続ける。


 丁寧に丁寧に。

 乱雑であったり誤字があったりすれば発動に失敗してしまうから。


 しかしできるだけ早く。

 間に合わなければ、全ては終わってしまうから。


 動かす腕にも力がこもる。

 誤って蝋墨を折ってしまわないよう、気を付けなければならなかった。


「……………………!」


 なお、手元を見ればよく分かるが。


 ノーラの筆記の速度は人並み外れて速い。

 学院時代に大量の論文を書いたことがあるためか、そうしたことには慣れているのだ。


「っ……………………!!」


 それでもノーラには。

 間に合うかどうか分からなかったから。



「…………“~~~、……~~、~~、~~~――」



 知らず知らずのうちに口は、プリメーラが中断していたところから詠唱を再開していたのだった。




 一方、防壁の外では。化け物と女性が対峙していた。




「命令を遂行します」


 それだけ言った緑髪の女性――プリメーラは、腰から折れて頭を下げた。

 プリメーラの少し後方ではトマロットが祈りの言葉を唱え、いつでも神術が使えるように準備している。


 頭を下げられた化け物は、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな表情を浮かべた。


「わざわざ死にに来たか?」


 見るからに魔術師と神官の二人である。

 離れて魔術なりを打ち込んでくるならともかく、こんな目の前までのこのこやってきて何を言っているのか。


 そう考える化け物に、プリメーラは頭を上げながら答えた。


「いいえ。無駄死にをするつもりはありません」


 それならどういうつもりだと言うのか。

 ……まさかとは思うが。


「貴様らに、我輩を倒せるとでも?」


 先程の、そこらで倒れている人間たちの姿を見ていてなお、そんな事を考えているとするならば。

 化け物に言わせれば、怒りを通り越して呆れを覚えるほどの浅慮である。


「それも、いいえです」


 プリメーラは、表情を変えずに首を横に振った。


「そもそも私が受けた命令は、貴方を倒すことではありません。敵の拠点のできるだけ奥深くで出口を作り、道を通すことです」

「出口……? ……まさか貴様ら」


 その言葉を聞いて化け物は理解する。

 あの部屋の隅に陣取って何をこそこそしているのかと思ったが、そういうことかと。


「転移術式は、もう間もなく完成となります。あとは時間さえあれば彼女ひとりでも書き上げられる。ならば、私が今すべきことはそのための時間を稼ぐことになる」


 プリメーラはなんの迷いもなく言い切る。

 彼女にとっては、与えられた命令こそが絶対だった。

 命令を遂行するためには自分が今なにをしなければならないかを常に考えるし、そのために必要なことは迷わずやる。


「それともうひとつ付け加えるならば」


 プリメーラは人指し指をピンと立てる。


「貴様ら、ではありません。貴方の相手をするのは私だけ(・ ・ ・)です」


 彼女の後方でトマロットが準備しているものは、攻撃用の神術ではなく倒されたデザイアたちを回復させるための治癒神術であった。


 彼の最優先事項は部隊内から死者を出さないことだ。

 そのためには、まだ息のあるうちにあの三人を速やかに治療し、生死の淵から引き戻さなくてはならない。


 となれば、トマロットにはプリメーラを援護している余裕がないことになる。

 だからこそプリメーラはひとりで相手をすると言っているのだが、……通常考えればそれは、自殺行為以外のなにものでもない。


「さて」


 プリメーラは、化け物との距離を詰めるようにして一歩前に出た。

 本当にひとりで戦うつもりのようだ。


「…………」


 化け物は無言のままプリメーラを見つめる。

 この状況でこの行動。頭がおかしいのか、それとも何か策でもあるのか。


 現時点では判断が付かないが、――化け物は気にせず斬りかかることにした。


 どうせ時間稼ぎが目的なら女のほうから攻めてくることはないだろうし、こちらが手を出さないことは向こうの得になる。


 攻めあぐねているうちに術式を完成されては面倒になるため、化け物は先手を取って相手を倒しにいった。


 さすがにこれ以上人間どもをこの砦に踏み込ませるのは、化け物としても避けたかったのだ。


「ふっ――!」


 右手の小剣で最短距離を突いていく。


 能力によって通常以上に強化された化け物の速度にはデザイアたちですら苦戦していた。常人ならまともに目で追えない速さだ。

 そんな攻撃に対して、魔術師であるプリメーラはどのように対応するというのか。


 直後、その答えは判明する。


「――――!」


 化け物の小剣は、――プリメーラの胸を深々と貫いた。


 背中からは剣先が飛び出し、刃は鍔本まで完全に埋まっている。


 プリメーラは、何も対応しなかった。

 回避も防御も。反応さえも。


「……ああ、」


 今、ようやく刺されたことに気が付いたのか、ゆっくりと胸元に視線を下げる。

 その様子に、化け物は拍子抜けした。


 あれだけ大口を叩いておいてこの程度か、と。


 時間稼ぎと言っておきながら、一秒も保っていないではないかと。


 これならまだ先程まで戦っていた人間どものほうが骨があった。と、若干の失望を抱きながら化け物は、心臓を貫いたであろう刃を捻り、抜き取ろうとする。


「……?」


 しかしそこで、違和感を覚える。


 捻ろうとしても何かに引っ掛かって小剣が動かないのだ。

 まるで、硬い木の幹(・ ・ ・ ・ ・)に刃を突き込んだみたいに。


 数回試してみても動きそうになかったため、化け物はそのまま小剣を引き抜こうとして……。


「――捕まえ(・ ・ ・)ました(・ ・ ・)


 それより早く、プリメーラの左手が化け物の右手に乗せられた。

 聞こえた声に、思わず化け物はプリメーラの顔を見る。


「……!」


 プリメーラの表情。

 なんの感情も浮かんでいなかった。


 痛みも怒りも苦しみも、なにひとつ感じていないかのように。

 ただ、透き通るような緑眼が化け物を捉えているだけであった。


 その事実に、化け物もようやく気付く。

 わざと刃を受けたのだと。


 この女は――。



「“ウルティマグラビティ”」



「っ!?」



 プリメーラの呪文によって、暴力的な強い力が化け物の身体にのしかかった。


 押し潰されそうになって、なんとか耐える。


「ぐ、お……!?」


 何体ものアイアンゴーレムが両肩に乗っているのかと思うほど、身体が重い。

 男の膂力をもってしても、立っていられないほどに。


「き、貴様……!!」


 小剣から手が離れた。プリメーラに手首を捕まれたまま、とうとう膝を付く。

 重すぎて顔を上げていられない。

 化け物は、全身の骨がミシミシと軋むのを感じた。


 足元の床が少しずつひび割れていく。


「このままでは床が抜けそうですね。――“バリアキューブ”」


 プリメーラと化け物を取り囲む形で、一辺二メートルほどの立方体が組み上がった。

 薄緑色に光る半透明の壁。獲物を逃がさぬ光の檻だ。化け物を襲う超重力にも耐えることができる。


「これで大丈夫でしょう」


 そう言うとプリメーラは、口の端からいつの間にか垂れてきていた血を拭う。


 プリメーラの血は、真っ白(・ ・ ・)だった。

 ミルクのように。作り物のように。真っ白なのである。


「あと一分少々、大人しくしていてください」


 跪く化け物の頭上から、プリメーラの声が降る。

 男は、無理矢理首を持ち上げてプリメーラを睨んだ。


「…………!」


 こうやって、そうだと思いながら見て、ようやく分かる。

 肌や髪、瞳の質感。細かい所作や言葉遣い。

 どこからどう見ても人間の女だと思っていたが、違った。


 この女は――!



「貴様……、――人形(・ ・)か……!?」



 問われたプリメーラ、――人造人間(ホムンクルス)の女性は、無表情のまま首を横に振った。



「いいえ。今の私は、――人間です」




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