第8章 34
◇
「調子に乗るなよ、ネズミどもが……!」
血の枯れた傷口を押さえることもせず男は、強い苛立ちを篭めてデザイアを睨んだ。
宝石のようにというよりは、血に濡れた刃のように真っ赤な瞳がデザイアを射抜く。
隠しきれない怒りが瞳の奥に滲んでいて、噴火を待つ溶岩のようにぐつぐつと煮えたぎっている。
自分の血を二度も奪われたことが、よほど腹に据えかねたらしい。
「……悪いが、今の俺は絶好調でね」
向かい立つデザイアは、対照的な青い瞳を細めて男を見据えた。
その澄んだ瞳の奥には激しい衝動が潜んでいたりもするのだが、今はまだそれを表に出していない。
ただ、愉しさを滲ませる声で答える。
「これ以上は、調子を落とせそうにないぜ」
そうして双刃を構え直すと、デザイアは重心を落としていつでも斬り込める体勢になった。
剣でも鉈でも、どちらからでも動き出せる構えだ。
「……うむ」
少し離れて立つブライアンも、油断なく盾を構えている。
デザイアの動きがいつも以上に鋭いのを見て、ブライアンはデザイアの補助に回ると決めている。
自分が動きを合わせることで、デザイアの攻撃のリズムを邪魔しないようにするつもりなのだ。
「…………」
そんな二人を前に男は、言葉なく俯いた。
足は棒立ちのままで、両手も下げたままだ。
そのままじっと動かない。
「……うぅむ?」
なんのつもりじゃろうか、と。
ブライアンは小さく眉を寄せた。
一見して隙だらけにも見えるが、――本当に隙だらけならデザイアが斬り込んでいるはずである。
男を見たままデザイアのほうに意識を向けてみる。
デザイアは構えたまま、動こうとしていない。
だとすれば、おそらくデザイアの勘が働いている。
何かを警戒して踏み止まらせているのだ。
同じように、エイジャも撃たないし動かない。
彼はデザイアと同じくらいデザイアの勘を信じているのだ。
「どうした化け物よ、かかって来んのか?」
「…………」
軽く挑発してみてもだんまりのまま。
男に反応らしい反応はない。
「仕方ないのう……」
ならばここは自分が動いてみるべきか、と。
ブライアンは男に一歩にじり寄った。
デザイアが僅かに反応したが、しかし止めようとはしなかった。
「儂から行くぞ……?」
答えを待たず、身体を沈めてぐっと踏ん張る。
全身鎧の下で筋肉が大きく膨らみ、前面に構えた盾を軽く持ち上げた。
「ぬぅん!!」
大きく踏み込み盾を突き出す。
聖別された分厚い鋼の板が、強烈な一撃となって男に迫る。
「――――!」
男は、躱すことなく盾突きを受けた。
勢いに負けて後方に吹き飛ばされる。
「……むぅ」
数メートルほど床を滑って止まるが、それでも男は無言のまま俯いて立っていた。
ブライアンの一撃を、まるで意に介していないかのようである。
我慢しているのか無視しているのか。はたまた別の理由があるのか。
はっきりとは分からないが、……全く効いていないということもないはずだ。
もう一度打ち付けてみるか。
そう考えて距離を詰めようとしたところで。
「待て、ブライアンさん」
デザイアから呼び止められた。
ブライアンは足を止める。
「それ以上は――」
それ以上は危ない、とデザイアは警告しようとした。
の、だが。
「っ――!?」
次の瞬間にはそんな余裕はなくなっていた。
男から感じる威圧感が、尋常ではない勢いで膨らんだからだ。
「これは……!」
急激に室温が下がったように感じる。
部屋の全てが海中に没したような息苦しさを覚える。
恐ろしくておぞましい死のイメージが、首筋を撫でた。
ブライアンはすぐさま前に出て、全力で防御姿勢を取った。
エイジャと安全地帯を背後に庇う位置だ。
「デザイア! お前は下がれ!」
デザイアは、ブライアンの数歩後ろの位置まで退いた。
全神経を集中させ、まばたきすらせずに男を注視している。
「……貴様ら、」
男が顔を上げた。
真っ赤な両眼がギラギラと輝いていた。
比喩などではない。
文字通り、光り輝いているのだ。
禍々しい紅い光。
男の怒りを具現化したような光だ。
「――――絶対に許さん」
男は右手を真上に振り上げると、
「はぁああっ――!!」
――ちからいっぱい、床に叩き付けた。
「ぐおっ!?」
「くっ――!」
大量の爆発物に点火したような衝撃が室内中の床に響いた。
局所的な地震に見舞われたのと変わらない揺れがデザイアたちを襲い、倒れないまでもバランスを崩してしまう。
蜘蛛の巣状に大きくひび割れた床から右手を抜いた男は、一番近くにいた人間に突っ込んだ。
「――はあっ!!」
よろめき、それでもむりやり盾を構え直したブライアンを嘲笑うように。
男は、ブライアンを盾ごと殴りつけた。
「がっ……!?」
全身鎧を着た重量級の巨体が軽々と吹き飛ばされる。
ブライアンは、エイジャが立っている位置のすぐ目の前まで弾かれて、ようやく止まることができた。
盾は、べっこりと拳の形にへこんでいた。
異常なほどの膂力だ。
「…………!!」
自分のすぐ横を飛ばされていったブライアンを見て、デザイアは全力で踏み込んだ。
ここで立ち止まっていたら一瞬で押し潰される、と理解したからだ。
「はああぁぁぁああっっ!!」
装飾剣と鉈でめった打ちにする。
一手残らず、後先構わない全力攻撃だ。
男に動く隙を与えないつもりで、ただひたすら、力ずくで斬りつけ続ける。
腕でも足でもどこでもいい。
呼吸が保たなくなってもいいから、今は――!
「……目障りだ」
デザイアの攻めを小剣と鞘で受けていた男は、二十数手目を弾いたのに合わせて蹴りを放った。
直前に勘が働いたデザイアはとっさに防御して跳び退がる。が、それより速く蹴り足が伸びてきて、
「っ!!」
――防御した左腕を避けて、土手っ腹を蹴り抜かれた。
数メートルほど飛ばされて膝を付く。
「くっ……、あ……!」
胃と横隔膜がせり上がってきて呼吸ができない。
胃液が出てくるばかりで肺が動かない。
立て、……ない。
うずくまって悶えるデザイアに歩み寄ろうとする男。
そこへ、横合いから弾丸が走った。
「……次は貴様か」
音よりも速く飛ぶ銀弾を軽々と躱して、男は次の狙いをエイジャに定めた。
エイジャは銃口を向けたまま撃鉄を起こす。
先程デザイアが踏ん張っている間に弾丸はこめ直してあった。
「来い。……俺が相手だよ」
トン、と軽い出足から、信じられない速度で滑り寄ってくるヴァンパイア。
エイジャは慌てず、そして一切の無駄なく、引き金を引いていく。
一発、二発、三発、四発、――――五発。
しかし男は銃弾が撃ち出されるたびに急転換して躱してしまう。
エイジャの狙いは確かに素晴らしいが、それよりもさらに男のほうが早い。
「――!」
弾丸を撃ち切ったエイジャに男が迫る。
右腕を引いて小剣を突き出す構えだ。
エイジャは男が目の前まで来た瞬間、火薬銃を投げ捨て、
「――“レーザーバレット”!!」
目にも止まらぬ速さで左腰の銃を抜いた。
男の眼前に銃口を突き付け、ほとんど同時に四度引き金を引く。
まさしく光速に違わぬ四条の光線が男の顔を――、
「っ!」
――掠めていく。
体勢を崩しながらも光線を躱してみせた男は、頬が焼けたことも厭わずエイジャを裏手で払うように打つ。
力のこもっていない手打ちでもエイジャを吹き飛ばすには十分だった。
弾かれて倒れ、床を転がっていく。
「“エクステンドホーリーライト”!」
「!」
そこに、神官トマロットから聖なる光が打ち込まれた。
半透明の壁の向こう側からの援護だ。
肌を焼く痛みと強い痺れに思わず男は「くうっ……」っと呻く。
「ぬぅぅうううん!!」
怯んだ男に、持ち直したブライアンが盾ごと体当たりをかました。
車同士が正面衝突したような激しい音が響き、今度は男が吹き飛んだ。
「プリメーラ! まだか!」
ブライアンが問う。
プリメーラは詠唱を続けながら、小さく首を横に振った。
ブライアンは「仕方ないのう……!」と男に向き直る。
「……鬱陶しい」
男が起き上がった。
ダメージはほとんど入っていない。
ブライアンは決死の表情で盾を構える。
トマロットは、安全地帯を作る壁を平面から半球状に変化させた。
「かあっ!」
「ぐっ……!?」
盾の上から男が殴り付ける。
ブライアンは堪えきれずに押し飛ばされ、神術の壁に激突した。
そこにさらに拳が打ち込まれる。
盾と壁に挟まれたブライアンには、衝撃の逃げ場がない。
壁に押し込まれ、ひびが入り、ブライアンは血を吐いた。
「ブライアン殿!」
トマロットが心配の声をあげる。
ブライアンは、全力で吼えた。
「壁を! ……――砕かせるなっ!!」
三発目の拳が、ブライアンをさらに壁へ押し込む。
神術の壁に触れるとダメージを受ける男は、ブライアンごと壁を殴り、まとめて破壊するつもりのようだ。
「“セイクリッドフィールド”!!」
砕けそうな壁のすぐ内側に、トマロットは新しい壁を作り出す。
男は鬱陶しそうに眉を寄せながら、ひたすらブライアンを殴り続けた。
一発殴るたびにひび割れ、砕け、消し飛ぶ神術の壁。
その間に挟まれて殴られ続けるブライアン。
壁の内側では、ノーラが悲鳴を噛み殺し、満身創痍のチャスカは唇を噛み締めてブライアンを見つめる。
トマロットは必死に壁を張り直し続け、プリメーラは、ひたすら詠唱を続ける。
やがて、何枚目かの壁を壊そうと男が振りかぶったところで。
「――う、お、お、おお、おおぉぉぉおおおおおおおああああああああああっ!!」
男の背後から、絶叫が聞こえた。
狼の遠吠えのような、深くて長い叫びが。
振り向いて見てみれば、立ち上がったデザイアが腹の底から声を絞り出していた。
魂を込めた叫びだった。
全てを出し尽くすための叫びだった。
男はデザイアの様子を見て、何かに気付いた。
「……貴様」
デザイアの髪は逆立っていた。
耳元の髪はうねり、ざわめき、形を変える。
瞳孔は完全に開ききっていた。
青い瞳の輝きが、完全に猛獣のそれになる。
唇をひん曲げて、噛み締めた歯を剥き出しにしていた。
心なしか、犬歯が尖っているようにも見える。
いや、あれはもう人間の犬歯ではない。
あれは、狼の、――牙だ。
「ウェアウルフの血でも混ざっているのか……?」
「があああぁぁぁああああっ!!」
両手の得物を握り締め、デザイアは男に向かって駆けた。