第8章 25
◇
強制的に転移させられたノーラがたどり着いたのは、朽ちかけた長机と壊れた椅子が散乱する広い部屋であった。
転移すると同時に中空に放り出されたノーラは、机や椅子を巻き込みながらガラガラと大きな音を立てる。
「……い、たい……」
床に積もっていた厚いホコリが宙に舞い、ノーラは盛大に咳き込んだ。
ただでさえ酷使して潰れているのどには、大量のホコリは辛いものがある。
ゴホゴホと、目に涙が浮かんでいた。
「ここは……」
辺りを見回してみる。しかし、明かりひとつない。
手探りしてみても、先程倒した椅子などがあるばかりである。
どうにも、ここがどこなのか分からない。
「……痛っ――! ……あ、」
立ち上がろうとして、痛みに顔をしかめる。
右足首から、鈍い痛みが発せられていた。
ノーラは足元に手を伸ばし、掴んできたまま息絶えているソレの指を、無理矢理はがす。よほど強く握り締めていたのか、両手で引っ張ってもなかなか外れなかった。
「少し腫れていますが、……折れてはいませんね」
これなら立てそうだ。
そう思ったノーラは、手近にあった椅子を支えにしてゆっくり立ち上がる。
ただ、全身を包む他の痛みもあるため、走れそうにはなかった。
「師匠さん、ここはどこでしょう? おそらく、同じアジトの中の一室だとは思うのですが……」
ここに来る直前に見たものを思い出す。
はっきりとは読み取れなかったが、あれは確か、短距離転移用の魔術式だった。
そう遠くない距離を飛ばすために使われるもので、何キロも離れたところにある別の建物に転移させる、という使い方はできないはず。
で、あれば、ここはまだ奴らのアジトということになるのだが。
「……師匠さん?」
ノーラは、師匠が何の返事も返さないことに訝しむ。
もう一度呼んでみるものの、やはり反応がない。
まさかとは思うが――。
「まさか、転移させられたせいで術の効果が切れた……?」
漏れ出た呟きは、確かな形となってノーラの耳にしみわたる。
口に出してしまえば、そうとしか考えられない。
先程までなんとなく感じていた、別の誰かが自分の中にいるという感覚が、きれいさっぱりなくなっているのだ。
ノーラは、とたんに困ってしまう。
今、敵と出会ってしまったら、ひとたまりもない。
「隠れる……? いえ、とにかく外に出ないとどのみち私は――」
痛む足を引きずって、暗闇の中、とにかくまずはこの部屋から出なければと、扉を探し始めるノーラ。
幸いにして、扉はすぐに見つかった。
「――いたいた。見ぃつけた」
ただしソレは、最悪に近い形であったが。
「……!」
声が聞こえると同時に、部屋の扉が開け放たれたのだ。
聞こえてきた声にドキリとする暇もなく、ノーラは部屋の外から差し込む明かりに照らされる。
「罠にかかって飛んできたのは、いったいどこの誰ですかぁ?」
「…………」
「んんー? どうしてアンタがここにいるのかなー?」
扉から入ってきた声の主は、そう言うと壁に手を伸ばす。
「閉じ込めといた、――はずなのにぃ!」
ドン、と叩くと、部屋中の照明が一斉に点灯する。
眩しさに目を細めるノーラは、しかしすぐに、驚愕に目を見開くことになった。
「油断も隙もありゃしない! どこに行こうとしてたのやら! ……なぁ、みんな?」
部屋に入ってきたのは、今までとはまた別のリャナンシー。
そして、彼女が振り返った先には。
「そん、な……」
さらに五体。
別のリャナンシーが、室内を覗き込んでいた。
「この女、どうしちまおうかな? 意見はあるか?」
「聞かれるまでもないでしょう」
「うん。解体して捨てるべき」
「さんせーい」
「あたし爪先からがいいー!」
「では私は腸を引き出しますね」
口々に、化け物たちは勝手なことを言い合う。
ノーラは、急激に目の前が暗くなっていく感覚を味わい、力なくその場にへたりこんだ。
どうしてこんな……、ここまできて……。
「あれあれ? しかもよく見れば、そこでくたばってるのはウチらの同胞じゃん」
「っ……!」
「アンタのところに遊びに行くって言ってたのに、遊ばれたのはソイツのほうだったって? はは、こりゃ傑作だ。アンタを生かしておく理由がますますなくなったよ」
リャナンシーの目がスウッと細まると。
「楽には死なせねー。アンタのほうから、どうか殺してください、つってお願いしてくるまで、ドロドロのぐちゃぐちゃにしてやるからな」
そのままノーラを睨み付けた。
ノーラは、どうすることもできず身体を強ばらせる。今の自分に、できることなど、ない。
「あぁ…………」
ああ、駄目だ。
私はきっと、ここで死ぬ。
はっきりと理解してしまう。
もう、どうにもならないだろうことを。
「覚悟はいいか?」
「――――」
覚悟なんて、できない。
できない、が、……このまま、尊厳すらも踏みにじられてしまうくらいなら。
「……ごめんなさい、シューイチさん」
いっそ、自分で――。
「…………ん?」
と、ノーラが考えていると、化け物たちの背後に、ナニかが現れた。
空間を切り開いて、離れた場所をつなぐ門。
空間開門魔術の出入口と、そこから出てくる人影だ。
「あれは……」
出てきたのは、二体のリャナンシー。
手傷を負ってぐったりしているほうを、もう一体が支えている。
「侵入者の始末に行ってた二人じゃんか。おいおい、まさか返り討ちに遭ったっていうのかよ?」
先頭に立つリャナンシーが呟く。
にわかには信じられない、といった面持ちで振り向いた。
「…………」
いっぽう、ノーラにしてみれば、あまり関係がないというか、それ自体はどうでもよいことであった。
いまさら、一体二体増えたところで、自分にはどうにもならないことに変わりはないからだ。
「二人ともだいじょーぶ?」
部屋の外にいたリャナンシーのうちの一体が、突然やってきた二体に問う。
問われた側、肩を貸しているほうのリャナンシーが答えた。
「予想外に、強かったわぁ。手駒を置いて退いてきたけど、今度は皆で行かないと……。それに、こっちは深手を負わされてる。傷は塞いだけど、誰か、回復をしてあげて……」
「分かった」
肩を貸して支えているのをやめると、ぐったりしているほうはその場に座り込む。
頷いたリャナンシーが近寄って膝をつき、魔術による回復を始める。
「…………」
ノーラは、遠目からぼんやりとその様子を眺める。
あの、二体が通ってきた門。
それが次第に閉じ始めていた。
――あれに、飛び込めれば……。
この状況から、逃げ出せるのではないか?
なんとなくそんなことを考えるが、相変わらず足は動きそうにない。
やはり無理だ。
もう――。
《……なんだ、いいものがあるじゃないか》
「――――!」
声が聞こえた、と思うより早く。
身体を、動かされた。
「――天覆陽炎」
先頭にいたリャナンシーには、ノーラが消えたように見えた。
◇
「っああ!?」
ノーラは、凄まじい全身の痛みに呻きながら、地面を転がる。あり得ない速度で無理矢理突っ込んだため、制動が効かないのだ。
閉じかかっていた門。
なんとか通れた。
《すまない。座標がずれて、見失っていた》
謝る師匠。どうやら、転移の後もずっと探してくれていたらしい。
「……い、いえ」
ノーラがお礼を言おうとしたところで、目の前を何かが横切った。
《……鎌、か》
くるくると回転しながら飛ぶそれは、今しがたノーラの通ってきた門に飛び込み――。
「ふっへっへ。……“チェンジドール”!」
嬉しそうに笑う、男の声が聞こえた。
なんだかんだで、「白峰修一の激戦」も二周年になりました。
皆様、応援ありがとうございます。