第8章 23
◇
「――断る」
言い切ると同時に茶色い瞳を眇める師匠。
結界の急所を正確に見極めようとするその視線の鋭さは、抜き身の刃に相違ない。
師匠は、抜いたのだ。
ノーラの肉体で。
抜き放ってそして、――切るつもりなのだ。
「……密法呪印、」
合わせた手のひらを少しだけ離し、右手の示指と中指を伸ばしたまま、他の三指を畳んで手印を作る。
左手は、伸ばした右手の二指を包むようにして軽く握り、両手を顔の前に持ってくると――。
「――九字切捨」
包む左手から、右手を引き抜いた。
「!!」
リャナンシーには、それが、鞘から剣を抜いたように見えて。
「――――!」
頭で考えるより早く、ノーラに斬りかかろうとする。
全く知らないモノなのに、それは絶対に完成させてはいけないモノなのだと、本能が訴えた。
《臨、》
手印を作ったままの右手で、左から右へ一祓い。
《兵、》
次は、上から下へ。
この時点で、結界が微かに軋んだ。
「止めなさい!!」
リャナンシーが叫ぶ。
振り上げた爪で、ノーラの首を掻き切ろうとする。
「――――カアッッ!!!」
空間全てを震わせて、師匠が吼えた。
ノーラのノドから生み出された衝撃波。形のない暴力が、近くのもの全てを巻き込んで激しく揺らす。
「……!?」
それは、目前に迫っていたリャナンシーとて、例外ではない。
耳が聞こえない。声が出ない。身体が、動かない。
全身を余すところなく強い痺れが襲い、指一本どころか、まばたき一つすることができない。
「……じっと゛、してな゛さい゛」
完全に潰れたノドで、ノーラが呟く。
血を吐きそうなほど、声が掠れている。
《闘、者、》
そしてそれとは関係なく、師匠によって右手は、横縦と祓い続ける。
「も゛う゛すぐ、」
《皆、陣、》
一つの動作のたびに、リャナンシーの作り出した結界がミシミシと軋んでいく。
化け物は、なんとしてもノーラを止めなくてはともがくが、どれだけ力を込めてもびくともしない。
「終わり゛、ま゛すから゛……」
「っ――!」
悪鬼のように表情を歪めたリャナンシーが、牙をむき出しにしてノーラを睨み付ける。
まるで、視線だけで射殺さんとしているみたいに。
《烈、在、》
その視線を真正面から受けて、あろうことかノーラは、一歩踏み込んだ。
怯む素振りは微塵もない。
あるのは、燃えるような闘志だけだった。
「喰ら゛え゛――」
「――――!」
《――前》
最後に、横に一祓い。
ノーラは更に、もう一歩。
手を伸ばせば触れられそうな距離に立ち。
「化け物ぉ――!!」
化け物の目の前で、右手の手印を鞘に納めた。
音を立てて、結界が砕ける。
「が、あああぁぁああああああっ!!」
その瞬間、身体の自由を取り戻した化け物が飛び掛かってきた。
ダメージが帰ってくるまでの僅かな時間。おそらく一秒にも満たないような短い時間で、最後の最後の最後まで、足掻こうとしている。
「っ!」
粉々に砕けた結界の欠片。
天井や壁に張り付いていた赤い膜が、ガラスのシャワーのように降り注ぐ。
ある種の幻想的な光景。
ノーラもリャナンシーも、それらに全く見向きもしない。
ただ、前だけを見て、お互いだけを見据えて。
左手を、引いた――!
「――!」
「――!」
伸ばした五指。一つに束ねて、真っ直ぐ突き出す。
狙いはノーラの顔面。その、力強い瞳を、抉り出すように。
最短距離を、最速で。
ノーラは、引いた左手を緩く握り、踏み込むとともに腰から沈む。
相手の突きに合わせて眼前に残しておいた右手を引き、連動した動きで左手を前に。
リャナンシーの突きを、下を潜るようにして躱す。
拳を内側に捻り、当たる瞬間に握り込む。
「あ゛あ゛っ!!!」
中段逆突き。
空手道でいうところのその突きは、化け物の身体を軽々と吹き飛ばした。
「――――」
声もなく、宙を舞う化け物。
通路の端まで飛んでいって、曲がり角の壁に叩き付けられた。
石材でできているはずの壁が砕けてへこみ、磔にされたように壁に埋まる。
――決着、だ。
「――痛っ!!」
そこで、限界だった。
ノーラは膝をついてうずくまり、歯を喰い縛って痛みに耐える。
全身、特に左腕の痛みが尋常ではない。
痛み以外の感覚がないくらいだ。
額に脂汗が浮かび、呼吸がどんどん荒くなる。
ちらりと見てみれば。
左腕全体が、折れて歪んでいる。
拳は、目を背けたくなるほどに砕けていた。
最後の一撃を打つために、肉体のリミッターを完全に外した代償が、これだ。
《じっとしているんだ。今、治せるだけ治す》
労うような師匠の言葉。
ノーラ自身から引き出せるだけ燃料を引き出し、回復力を限界まで高めて傷を癒す。
特に状態の悪い左腕とノドを優先するが、おそらく現段階では完治させることができない。
「あ、ありがどう、ゴホッ、ござっ、痛っ……!!」
《喋らなくていい。呼吸を整えろ》
そう言われたノーラは、意識して深く呼吸を行い、荒い呼吸を整えるように努める。
一分ほどそうして、なんとか落ち着いてきた頃には、師匠による応急処置は終わっていた。
「どうにが、動けぞうですね……」
全身の筋肉痛のような痛みや、治りきらなかった左手の痛みはまだあるが、歩けないほどではない。
ノーラはゆっくりと立ち上がると、ふらふらしながら歩き出す。
こんなところ、早く抜け出してしまいたいものだ。
「……あの前を通るのですよね」
通路の先に進もうとすると、さきほど磔にしたリャナンシーが嫌でも目に入る。
深く壁に埋まってしまったせいか、落ちる様子がない。
口からは大量の血が溢れ出ており、流れ出た血で床一面が真っ赤に染まっている。
結界に預けていたダメージが帰ってきて、身体中の骨や内臓がぐちゃぐちゃになっていることだろう。
「……さすがにもう、動きまぜんよね?」
足を引きずるようにして歩きながら、ノーラは、冗談めかして師匠に問う。
いくらなんでも有り得ないとは思うのだが、ここまで苦労させられた身としては、つい考えてしまっても仕方ないだろう。
《さて、な……。気になるなら、目を離さないでいるといい》
師匠としては、あのリャナンシーは間違いなく倒したと確信しているため、口ばかりそんなことを言う。
ノーラもそれが分かったのか、僅かに安堵して頷いた。
「そ、そうですよね、油断は禁物――」
ガシッ、と。
ノーラは足首を掴まれた。
「――えっ?」
意味が分からず、足元を見ると。
「……どこに、行こうってのよ」
真っ先に倒したはずの若いリャナンシーが、うつ伏せのまま、左手を伸ばしていた。
彼女は、確か、首を締めながら投げて落とした――。
「逃がさない、――わよ?」
「――!!」
首だけ動かして見上げてくる瞳。
ゾッとするほど昏い情念を湛えていた。
さきほど倒したリャナンシーと同質の。
怨念じみた妄執を。
ノーラはとっさに引き剥がそうとするが、どこからそんな力を出しているのか、万力のように締め上げて離さない。このまま握り潰すつもりか。
そしてリャナンシーは、右手の銃を持ち上げて、ノーラの心臓に狙いを定めた。
「喰らえ……!」
《――!》
師匠が、むりやり身体を動かす。
足を掴まれたまま倒れ込み、発射された弾丸をなんとか躱した。
もう、師匠が動かしても、素早く動けなくなっている。ギリギリであった。
「……!」
ノーラは、倒れた衝撃で全身に激痛が走り、声にならない悲鳴をあげる。
目がちかちかして、今自分がどうなっているのかも把握しきれていない。
そんな状態で、目の前にあるものにとっさに手を伸ばして掴んだノーラは。
「あ゛ああああああああっ!!」
自分の足元に銃口を向け、躊躇うことなく引き金を引いた。
リャナンシーが、ノーラを掴むために手放していたもう一挺の銃は、パン、と乾いた音が鳴らして弾丸を吐き出し。
「あっ……!」
持ち主の側頭部を、完璧に撃ち抜いた。
頭部へのダメージで、リャナンシーは一瞬で意識を刈り取られそうになり――。
「――――!」
寸前で、踏み留まる。
もはや致命傷といってもいいぐらいのダメージを受けて、なお、執念のみで意識を繋ぎ止めている。
それも、保って数秒程度のことなのだろうが、それだけあれば、出来ることはある。
若いリャナンシーは、右手を開いて銃を取り落とすと、のろのろと手を伸ばす。
その先には、一見して何もないように見えるが、この砦の構造や仕組み、罠の位置を熟知している彼女にとっては、そこには確かに有るのだ。
短距離転移用の、魔術式が。
果たして、リャナンシーは意識を失う前にそれを探り当てた。
震える指先が触れると同時に、魔術式は狂いなく発動する。
白い光によって浮かび上がる術式を見て、ノーラはそれが何を意味するものなのか、正確に読み解いた。
「しまっ……!?」
しかし、それに気付いたノーラが足首から指を剥がす暇もなく。
リャナンシーだったモノとともにノーラは、術式に従って、指定された場所へと転移させられた。




