第8章 20
◇
ノーラの肉体に限界が近付いている。おそらくそれは、燃料を使い切るよりもさらに早く訪れるだろう。
荒くなりそうな呼吸を押し殺して、師匠は静かにそう思った。
「ノーラに怒られる? 変なの、貴方がノーラでしょ?」
「……そう、だったな」
リャナンシーの疑問の言葉。
師匠は適当に相槌を打ちながら肉体の状況を確認する。
はっきり言ってよろしくない。
要所要所で瞬間的に肉体のリミッターを外し、壊れないように騙し騙し戦っていたわけだが、それでも使うたびに筋繊維はちぎれ、内臓は捩れる。
特殊な体液を生成するにも体内の水分や栄養素を多量に消費する必要があり、いくらかは燃料で代替したとしても、使い続ければすぐに枯渇してくる。師匠自身の肉体であれば普段から蓄えている大量のスタックで賄えるのだが、常人の肉体ではまさに、腹の奥から絞り出す必要があった。
今の状態でこれ以上絞り出そうと思えば生命維持に必要な部分まで削ることになり、そうなればまさに肉体の限界。じきに動けなくなってしまう。
そしてそれが、すぐそこまで迫っているのだ。
「それに、タツキ……? いったい、誰のことなのかしら?」
「……」
師匠は、決して焦ることはなかったが、いくら冷静に考えても厳しいことに変わりはない。
治すのに必要な分も計算すれば、もうほとんど、猶予はないに等しい。
「いきなり別人のように強くなってるし。よく見たら顔付きも少し変わってない?」
「……そう、か?」
「ええ、そうよ。まるで、……誰かが乗り移ったみたい」
リャナンシーが、一歩近付いてくる。
もう、嗤ってはいなかった。
真剣な表情で目を細めて、ノーラを、師匠を、見定めようとしている。
「降霊呪術? それとも似たなにか? どちらにしても、貴方……」
「……」
「何者? その子とは、どういう関係?」
なかば確信をもって問いかける。ノーラの中に別の誰かがいることを、リャナンシーは感覚的に察したようだ。
「……」
問われた師匠はすぐには答えず、頭の中で決断を下す。
それからノーラにだけ分かるように視線を投げた。なにかを確認するような視線を。くっきり浮かんだ隈に縁取られた瞳で。
言葉はない。だからノーラには、それがどういう意味なのか、想像することしかできない。
《っ……!》
しかし、それでもノーラは、師匠の言わんとしていることを理解する。
根拠のないただの想像でも、確かにそうだと確信できる。
あるいはそれは、師匠が使っているのが自分の肉体であるという特殊な状況と、それに起因する不思議な繋がりを通じて伝わってきた感覚によるものだったのかもしれない。
どちらでもよかった。ノーラにとっては。
ただ、迷いなく答えるだけだ。
《構いません》
「……」
《この化け物を倒せるのなら》
「……ふむ」
師匠が頷くと同時にまぶたを閉じると、ノーラは自分の肉体に引っ張られた。
溶け込むようにして肉体に戻っていく。数瞬ののち、ノーラの視界はあるべきところに収まっていた。
「……何者か、ですか」
「……!」
そして、それだけではなかった。
ゆっくりとまぶたを開くノーラを見て、リャナンシーは訝しむように眉根を寄せて、そして気付く。
「おかしなことを言いますね。私はノーラです」
「貴女……!」
「私の名前はノーラ・レコーディア。それ以外の何者でもありません!」
堂々と告げたノーラの言葉に、しかしリャナンシーは。
「そこまで、するかしら……!?」
唇をひきつらせて、怒りにも似た表情を浮かべた。
ノーラがまぶたを閉じて開いた、ほんの一秒にも満たない時間。
その間に何が起きたのか、開いた瞳の輝きを見て理解したからだ。
「重なったわね!? さっきの奴と……!!」
きれいに隈のなくなった目を眇めて、ノーラが答える。
「……正解、だ。もっと正確にいうなら、ワを取り込んだ形になる。私の肉体を使うのですから、私の精神が主になったのでしょう」
ノーラの口からノーラの声で。二種類の言葉が紡がれる。一人の人間が使い分けているのではなく、まるで人格が二つあるかのごとく。
いや、間違いなく二つあるのだ。リャナンシーはすでに確信している。ノーラ以外にもうひとり、あの肉体には誰かがいる。あるいは、いたのだ。
「流石に、正気を疑うわ? そんなことして、戻れなくなるわよ?」
「お前に心配される道理はないな」
ピシャリと言って切って捨てる。
師匠にしてみれば、これくらいならあとでどうとでもなる。
師匠は、一時的に自分の意識とノーラの意識を接続したのだ。ノーラの魂の一部を、燃料として使えるようにするために。
ノーラの肉体の限界。それを先伸ばしにするために必要な燃料を、ノーラ自身から捻出するために。
今、ノーラの肉体を動かしているのはノーラ本人の意識であるが、同時に、ノーラが意識して動かすことのできない部分を師匠が補助している。
たとえば内臓。たとえば反射運動。本来なら、長い年月を修練にあてることで制御し、使えるようになる技術の数々を、師匠のアシストによってノーラが使えるようにする。
「そうまでして、何があるの?」
「決まっています。――貴女を倒せる」
そうすることで、目の前の化け物を倒せる。
倒したあとに、出口に向かえる。
肉体の回復や戦闘に使う分の燃料をノーラの魂から引き出すことで師匠自身の燃料を節約し、師匠の意識を繋ぎ止めておける時間を伸ばす。
こうすることで、当初の目的を達成しようとしているのだ。いうなれば、苦肉の策である。
「……理解に苦しむわ」
意識を繋ぐということは、やろうと思えばお互いの思考を読める状態ということだ。
覗かれたくないような隠し事も、想いも、見られてしまう可能性がある。
それでも、そのリスクを承知の上で、ノーラはそれを行った。
リャナンシーはあらためて、そこまでするか、と思う。
なにより。
「けど、要するに、それ……」
リャナンシーが、五指を開きながら構える。
「私を、倒せると思っているってことよね? 負けるだなんて、まるで考えてないってことよね?」
それが一番、気にくわない。
たかだか、その程度のことで、勝てるつもりでいるノーラが。
無性に腹が立つ。
「もちろん。はじめに言ったとおりだ。虐めてやるとな」
「…………そう」
師匠が、淡々と答える。
リャナンシーは、腹の奥からふつふつと沸き上がる怒りに、完全に表情を消している。
赤い瞳が、ゾッとするほどに冷え冷えと、濁った光を灯していた。
そんなリャナンシーに向けて、ノーラは毅然と告げた。
「貴女だけは、絶対に許しません」
レイの両親の仇。
その事実は、ノーラに決意させるに十分な重みがある。
修一を「おとうさん」と慕い、自分を「おかあさん」と慕う少女、レイ。
あの幼い少女が、一体どれ程の気持ちでそう呼んでいるのかノーラには分からない。小さな子どもの言うことであれば、そこまで深い気持ちもなく言っているのかもしれない。
だが、本来そう呼ばれるべき二人は、この化け物たちの手にかかり命を落としているのだ。理不尽な襲撃を受け、淀んだ穴ぐらの奥深くで。
ノーラは、自分の両親の顔を思い浮かべる。フローラとセドリック。二人が殺されてしまったと想像してみる。レイの両親と同じように理不尽に。その死すらも辱しめられるような形で。
決して、決して許せるものではない。
しかも、レイはまだ五歳だ。まだまだ親の愛を必要とする歳だ。触れ合いを、言葉を、感情を、もっともっとたくさん、必要とする歳だ。
その機会を永遠に奪われたレイを思えば、ノーラは自分の抱く感情をしごく当然のものとして受け入れられた。
すなわち。悲しみと、怒りを――!
「この気持ちが、一体どこからきているものなのか。私にもはっきりとは分かりません。義憤か、憐憫か、はたまた別の何かなのか。筋違いかもしれないし、余計なお世話かもしれない。あの子が望んでいることではないかもしれない。単に私の独り善がりかもしれない!」
「……」
「それでも、あの子の悲しそうな顔を見ると心が痛くなる。あの子が私を「おかあさん」と呼んで抱き付いてくると、守らなければと思ってしまう。あの子の未来を、せめて少しでも明るいものにしてあげたいと思う! ――だから!」
「……だから?」
ノーラは、いかにも素人くさい構えで拳を握った。
「貴女は、いえ、――お前だけは、私が倒す!!」
と、同時に、一息に踏み込んで、拳を振り抜いた。
今までとは、――比べ物にならない速さで!
「――!」
反射的に右腕で防御するリャナンシー。
構わずその上から、ノーラの拳が叩き付けられて――。
「はああっ!!」
「っ!?」
リャナンシーは、大きく右腕を弾かれた。
殴られた部分がじんじんと痺れ、その衝撃で後方にたたらを踏む。
明らかに力の込め方が違う。拳が異常に固い。まるで石のように。おそらく、無茶苦茶な力で拳を握り固めているのだ。全力で!
「あああああっ!」
ノーラは追うようにして更に踏み込み、今度は反対の腕で殴った。
斜め下からすくい上げるようなアッパーもどき。鋭く、それでいてやはり素人くさい拳だったが、よろめくリャナンシーの腹部をまともに捉えた。
「がっ……!」
両足がわずかに浮いて、身体がくの字に折れた。
思わず膝を付く。痛みで呼吸ができない。吸おうとしているのに、横隔膜が動かない。開いた口からは唾液が垂れ落ちるだけだ。
すぐには、立てそうにない。
肉体のリミッターを完全に切ったノーラの拳は、リャナンシーを悶絶させるに足る威力を発揮した。
初めて全力で人(の姿をした化け物)を殴ったノーラは、その手応えと衝撃に思わず身震いしたわけだが、同時に、高まる血圧と心拍数が高揚感に似た感覚を生み出していて、恐れているのか悦んでいるのか、ノーラには自分がよく分からなかった。
ただ、目の前の化け物を倒さねばならないことだけは、はっきりとしていたから、ノーラは更にもう一発打ち込もうとして。
《今は駄目だ。拳が砕けている》
「――!」
師匠に止められた。見れば、言われたとおり骨が砕けて両手とも真っ青になっている。痛みを感じなかったので気付かなかったが、さすがにこれでは殴れない。
《肉体的な苦痛はワが引き受けているし、これぐらいなら十秒もかからずに治せる。だが、いちいち砕いて治しては無駄が多いし、隙もできる。これ以上拳で殴るのは止めておけ》
「それでは、どのように?」
《拳を開け。そして、腕の力を抜け。奴が立ち上がるまでにやり方を教える》
師匠は、意識の接続を利用して直接的にノーラに技術を伝えていく。
その間にノーラの拳は完治し、リャナンシーがゆっくりと立ち上がる。
リャナンシーは荒い息を零しながら、呪術を唱えた。
「“フィジカルギミック”……!!」
リャナンシーの左肩から先に、銀色のもやが絡み付いていく。
それは次第に腕の形へと集束していき、ついには失った左腕の代替品として完成する。
感覚を確かめるように左手を動かす。創ったばかりでは多少ぎこちないが、それでもいい。
片腕では、対応できそうにない。
いたぶるなどと考えている暇もない。
手を抜いて、勝てる相手では――!?
「“ヘイスト”!!」
「っ!」
とっさに飛び退がる。またもやノーラが攻めてきたのだ。右手での大振り。加速呪術を使ったのに、避けきれずに服を掠める。
リャナンシーは創ったばかりの左手の爪でノーラを突いた。右目を抉り取るつもりだ。ノーラは首だけ振って突きを躱し、さらに前に。掠めた頬の傷は、今は無視する。
お返しは同じ左手。
五指から、手首から、左腕全体から力を抜いて、腰で振り抜く。
リャナンシーの使う、鞭のようにしなる突き。
あれを更に越える、腕全体を鞭のように、――否。
「ふっ!」
「っ!?」
鞭そのもの、にして、叩く。
服の上から肌を。着ている服ごと、皮膚を!
剥ぎ飛ばす――!
「やあっ!!」
右手でももう一発。
バチィン、と弾ける音がして、リャナンシーの肌から血が飛び散った。
「~~~~っ!!」
声にならない声をあげて悶えるリャナンシー。
堪えようのない痛み。勢いよく生皮を剥がれる苦痛は、痛覚を持つ生物には絶大な効果を発揮する。
リャナンシーは歯を喰いしばって反撃を試みるが、ノーラは軽々と躱してさらにもう一発。防御した右腕が、焼けるように熱い。
「どこに、当たっても……!」
ダメージがくる。防御が意味を成さない。少なくとも、防具を使って防がなければ意味がないのだ。急所など関係ない。狙いを付ける必要もない。
当たれば、効く。容赦は、ない。
「まだまだぁ!!」
「くぅ……っ!」
苦痛に顔を歪めながら、ノーラの攻撃を躱すリャナンシー。
防御に意味がないのなら、避け続けるしかない。
鞭として振るため攻撃速度は速いが、振れる軌道は限られてくるため避けられないことはない。
躱して躱して躱して、目を慣らす。
じりじり下がりながら躱し続け、合間を見計らっては爪を繰り出してみる。
だが、リャナンシーの攻撃も当たらない。
回避行動自体は、踏み込みのような鋭さもないしそこまでの速さもない。リャナンシーも、当たる、と思って突いている。なのに、当たらない。完璧に見切られているのかと思うほど、真っ赤な爪はむなしく空を切る。
ならば、と。ノーラの攻撃にカウンターで爪を合わせようとしてみる。強固な爪ならかち合っても勝てると考えたのだ。
「!?」
すると、当たる直前に恐ろしい反応速度で手を引かれた。
ノーラ、ではない。
ノーラ自身も、僅かに驚いたような顔をしている。
つまり……。
「重なった、もう一人ね……!」
ノーラの意識とは別のもう一人、……師匠が、ノーラの動きを手助けしているのだと理解する。
今、ノーラは、戦闘終了後に無理矢理治すことを前提としてギリギリまでリミッターを外して肉体を酷使している。それによって運動性能は遥かに高まっているが、元が素人のノーラではとっさの反応が遅れる。
そこを師匠が、手綱を引くようにして制御しているのだ。
致命打を喰らわないように。
限界を越えない範囲の動きで。
リャナンシーからしてみれば、唐突に介入されるぶん余計に動きが読みづらい。なにせ、ノーラ本人が分かっていないのだ。本当に、一瞬だけ師匠が動かしてくるため、予測がつかない。
そんな動きを、攻撃で使われようものなら……。
「痛ああああっ!!」
躱した、と思った攻撃を、むりやり当てられる。
脇腹を弾かれて、またも悶えるリャナンシー。脂汗を流しながら傷口を押さえる。
「はあ、はあ……」
そして、ノーラもまた顔をしかめていた。腕に違和感を感じているのだ。鈍い痺れが、腕全体を覆っている。それに、だんたん意識が朦朧としてきている。
やはり限界が近い。
ノーラには、あと何秒もつか分からない。
《全力で動けるのは、あと一分もない》
「……!」
《それまでに倒して身体を休めないと、回復しきれない。そうなれば、どのみち脱出できなくなる》
「……はい」
それを聞いてノーラは、気力を振りしぼる。
もう少しなのだ。
間違いなく、リャナンシーも苦しんでいるはずなのだ。
あれだけ何度も叩かれて、ぴんぴんしているはずがない。
もう一押しか二押しすれば、倒せるはず……!
……ノーラの予想は、おおむね間違っていない。
今のリャナンシーは、全身の痛みと出血でかなり消耗している。
時間をかけて押し込むか、一息で強く畳み掛ければ、倒すことは可能だ。
それは師匠も理解していて、だからこそノーラに残り時間を教えたし、それで倒し切るための技も教えようとしている。
「……あはは」
――誤算があるとすれば。
「あは、は、はは、――ははははは! ははははははは!!」
このリャナンシーの、執念。
「アハハハハハハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
ゼーベンヌに心臓を貫かれても反撃しようとし、頭を撃ち抜かれていても蘇生に成功するほどの。
痛みをものともせず、狂ったように嗤い。
何がなんでも目的を達しようとする、狂気的な執念。
「っ……!!」
《……ふむ》
そして、妄執に嗤う化け物は――。
「うふふ……。――“咒詛、不撓不屈の不死不滅”」