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第0章 白峰修一

 ◇




 少年はその瞬間まで、もうここで死んだって構わないと思っていた。




 ごうごうと燃え盛るコンテナ倉庫の中で少年は、力なく手足を投げ出して仰向けに倒れていた。


 見上げる先にあるのはコンクリートで塗り固められた高い天井とそれを支える鉄骨たち。

 少し顔を動かせば狭苦しそうな二階部分とそこに繋がるギャラリーも見えるだろう。

 天井から伸びる小型のクレーンは火勢に炙られ今にも千切れそうになっていて、換気用の高窓などはとっくに全て割れ落ちている。

 建物全体に油を撒いたのと変わらない、下手すればそれ以上の勢いで燃え上がる炎が、壁や天井を焦がしそこに刻まれた傷跡を呑み込んでいく。


 そんな今にも焼け落ちてしまいそうな倉庫の中だというのに少年は、その場から動こうとしない。

 いや、そうではないか。

 正確には、動けないのだ。全身の傷と出血によって。

 起き上がって外に出るだけの体力が、もう残っていないのだ。


「――――あぁ、」


 少年のすぐ近くで、壁に立て掛けてあった鉄パイプがガラガラと音を立てて倒れる。

 纏めていたチェーンが熱で焼き切れたらしい。

 転がり広がっていくパイプも相当熱くなっていることだろう。

 さらに倉庫のすぐ外で爆発音が聞こえた。

 これは港に沈みかけてる貨物船からだ。

 先程までも、一般船舶に偽装するために積んでいた小麦粉やコーンミールに引火して激しく燃えていたのだが、とうとう燃料にも火が回ったらしい。

 おそらく、もう間もなく海底に没する。

 土手っ腹に大穴を開けられて横転した船の末路など、決まりきったものである。


「――――」


 少年はもう声を出すこともままならないのか、ひゅうひゅうと細い呼吸音を漏らすばかりだ。

 口の中にはじわじわと血の味が満ちていく。

 目は薄く開いているが、もうどこを見ているのかも分からない。

 左腕は半ばで千切れ飛んでいて、脇腹には肋骨ごと抉るような傷ができている。

 右外腿はごっそり削り取られているうえに、腹にはいくつか風穴が空いていた。

 少年は、生まれて初めて腸を零しそうになるという感覚を体験したのだ。傷口を焼いて無理矢理塞いだのだ。止まらない出血に血管を凍り付かせ、痛みを麻痺させて耐え続けたのだ。


 そんな少年の命が、尽きかけている。

 きっと誰が見てもそう思う。虫の息だと。風前の灯火だと。何故まだ生きているのか不思議なほどだと。

 そしてこうも思うだろう。

 これだけの惨状を引き起こしておきながら、よもや生き延びるつもりではないだろうな、と。


 血だまりに倒れる少年。

 右手に掴んだままの黒々とした凶器。

 少年の周囲にはおびただしい量の血が流れていて、それは到底一人二人のものではなかったし、その中に散らばって転がっているものは、もうどれがどれだか分からない。

 少年は十から先は数えていなかったが、外の貨物船に乗っていた数も含めれば大層な数になるだろう。

 少なくとも、数日前からの分の比ではない。


 そのほとんどが、少年によって一方的にやられている。

 少年には、それが出来るだけの実力があって、それが出来るほどの怒りがあった。

 今少年が倒れているのも、二人ほど恐ろしく手強い相手がいたからであって、そうでなければ燃え盛る倉庫を背に悠々と立ち去れた事だろう。

 もっとも、例えここで無事だったとしても、その次か次の次で同じような末路を辿ったであろうし、そもそも少年にはそのつもりもなかったのだが。


 少年は、ここで終わるつもりだったのだ。

 何がどうなっても。


 もう少年には、何も残っていないから。


「――――」


 母はおらず。


 祖母もおらず。


 知人は首を吊り。


 友人は行方知れず。


 父を奪われた時点で少年の感情は振り切れていたし。


 愛しい人が消えたことで、もう、繋ぎ止めておくものがなくなってしまっている。


 何もかも。

 何もかもだ。


 そしてあらゆるモノを失っていって、最後に残ったものが力だった。


 生まれもった能力。

 鍛え上げた剣術。


 それは、身も蓋もない暴力だ。

 或いは抑制の利かない暴力だ。

 今この場の惨状を見れば、それがどういったものかは一目瞭然であった。


 だからこそ厳しく躾けられた。

 その力の使い道を過たぬように。

 人間であることを止めぬように。


 決して人を殺すなと。

 生かすことに生かすのだと。

 少年は幼き日よりそう教わってきた。

 だから少年は、そうあろうと心に誓い、そうあれるように心を砕いた。

 そうでなければならないのだと、そうでなければ間違ってしまうと、少年は幼いながらにそう理解していた。



 それを破ったのだからこうなることは、少年にしてみれば当然の帰結だった。



「――」


 もっといえば、これは少年の自己満足にすぎない。

 こんなことをしたところで、何かが変わるわけではないのだ。

 ただただ少年が、抑え切れぬ感情のままに自棄になって暴れたにすぎないのだ。

 今まで何度も感情に身を任せて失敗したことのある少年は、最後の最後までそうであったというだけのことなのである。


「」


 大海に溶かした墨汁のように急速に薄れていく意識。


 いよいよ終わる。

 少年の全てが。


 もはや流れ尽くしてしまって何も残っていない。

 感情さえも溶けてしまったみたいだった。

 こうして終わろうとしているのに、それを静かに受け入れられるのは。

 未練も何も残せていないからだろう。


 ああ、本当に。

 何一つとして残らずここで尽きるのだな。


 少年は最後にそんな事を考えていた。


『――!』


 そんな時だ。

 少年は不意に声を聞いた。

 それは、聞き慣れた声。

 もう聞くこと叶わぬと思っていた声だった。


 ――…………。


 少年は途切れそうな意識をなんとか繋ぎ止めてそちらを見ようとするのだが、生憎少年の身体は全く言うことを聞かない。

 感覚がなくなっているのだ。

 動かそうとする意思を、肉体が受け付けてくれない。


 同時に、目と耳も働かなくなっていく。

 視界は霞がかかったようにぼやけて、耳はすぐそこまで近付いてくる足音すらも聞き取れなくなっていっていた。


 ――……っ。


 そこに、衝撃が加えられた。

 動かない少年の身体が勢いで揺れる。

 ゆさゆさ、ゆさゆさと。

 誰かが少年の身体を揺すっていた。


 ――……。


 覗き込んできた顔。

 悲痛そうに歪んだ表情。

 動く唇から言葉が漏れている。

 顔にポタポタと垂れ落ちてくる何かが、少年にはなんなのか分からなかった。


 血を失いすぎた少年の脳は、もはや何一つ理解が――。


『……死なないでっ!』


 理解が……。


『あたしを置いて、逝かないでよっ!!』


 絶叫する、声。

 自分に向けられた、願い。


 少年は、聞こえない耳でもはっきりと聞いた。

 霞んだ目を精一杯凝らして、その顔を見た。


 愛しい人の泣き顔を。

 零れ落ちる涙を。


 少年は、しっかりと理解した。


 悲しませてしまったと。

 また泣かせてしまったと。


 そして、強く悔いた。


 もう泣かせないと誓ったのに。

 幸せにしてやると、そう約束したのに。


 なのに、この様だ。


 自分は一体何をしているのだ。

 恥を知れ、人間のクズよ。


 今際の際に、罵倒の言葉ばかり浮かんでは消える。

 自分自身を、これでもかと詰る。


 ああ、こんな。


 ダメだ、まだ死ねない。

 少なくともこのままでは。


 せめて、一言…………――――。


 そして、そこまでだった。

 少年の意識はそこで途切れた。


 結局何も残せないまま。



 少年の命の火は消えてしまった。




※ 明日午前9時に次話を投稿します。

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