第7章 26
◇
レコーディア邸の一室にて娘たちの帰りを待つ、ノーラの母こと、フローラ・レコーディア。
彼女は今、自室の椅子に腰掛けたまま机の上に置いた小さな鏡を見つめていた。
数分ほど前に、その鏡を使って娘との会話を終えたばかりであり、そのまま机の上に置きっ放しになっているのだ。
「…………」
そこから少し視線を下げる。
小さな女の子のつむじが見えた。
レイも、無言のまま鏡を見つめていた。
「ねえ、レイちゃん?」
「…………」
膝の上に座らせているレイに呼び掛けるフローラ。
茶髪黒眼の幼女はチラリと見上げてきたものの、やっぱり返事をしない。
フローラは困ったように溜め息を吐く。ノーラたちが出ていってからずっとこの調子なのだ。ムスッとしたまま、不機嫌真っ最中ですというオーラを全身から放っている。
「…………」
そしてそれが、少し前からより顕著になった。具体的には、ノーラとの通話を終えた直後から。
呼び掛けても全く返事をしなくなったのだ。
「ねえってば」
「…………」
「レイちゃーん?」
「…………ん」
重ねて声を掛けていると、小さい小さい声で、ようやく返事をしてくれた。
不承不承といった感じであったのは、ともかくとしても。
「どうしてそんなに怒っているの?」
「…………おこってない」
「じゃあなんで、そんなにムスッとしているの?」
「…………」
レイは答えない。
フローラは、レイのつむじを見つめながら思案する。
「ノーラとメイビーちゃんが、貴女を置いて出ていったから?」
「…………」
「それとも、シューイチ君が帰ってこないから?」
「…………!」
ビクリと、レイは身体を震わせた。
やっぱりそうなのね、とフローラは思った。
「大丈夫よ。貴女のお父さんは今、ノーラたちが探しているの。そのうちここへ連れて帰ってくるわよ」
「…………」
「もしかしたら、今日の事にはならないかもしれないけど、きっと明日の朝までには帰ってくるわ」
「…………」
「そういえば、もしそうなったら可愛い娘を置いて朝帰りってことになるわね。許せないわねえ、一緒に叱ってあげましょうよ」
「…………」
「……レイちゃん?」
「…………」
レイは、答えない。
フローラは、そっとレイの顔を覗き込んだ。
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
レイは、――泣いていた。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
大粒の涙をポロポロと零して。
声を漏らさないように、小さな口をキュッと引き結んで。
無言のまま、泣いていた。
レイを抱き締めるフローラの手に、涙の雫がポタリと落ちた。
「…………おとうさんが、かえってこないの」
「え、ええ、だから今、ノーラたちが探しに――」
「ちがうの」
レイは首を横に振る。
「かえって……こないの…………」
「……」
涙を流しながらそう呟くと、袖でぐしぐしと顔を拭く。
拭いても拭いても溢れてくる涙を、なんとか止めようとするみたいに。
その様子にただならぬものを感じたフローラ。
そういえば、と、壁際の柱時計を見る。
――ノーラたちは、まだ確認しているのかしら?
先程通話をしてから、何分経ったか。
はっきりとは分からないが、何もなければ連絡があってもいい頃なのでは?
「まさか、何か有ったの……?」
考えすぎだとは思った。
しかし、気になった以上は確認するべきだとも思った。
フローラは、ゆっくりと鏡に向かって手を伸ばす。
と。
――――パリンッ!
「!?」
「…………!!」
鏡が、いきなり割れてしまった。
「な、なんで……?」
強い衝撃を受けると割れてしまうような脆いものではあるが、いくらなんでも、こんな風に割れることはないはずだ。
「…………おとうさん」
レイは、祈るように目を閉じた。
◇
騎士剣を振り下ろす瞬間に修一は、「勝った」と、そう思った。
油断でも慢心でもなく、純然たる事実として。
積んで積んで積み重ねてきた今の状況。
相手の力を出来るだけ削ぎ、自分の力は限界一杯まで引き出す。
言葉にすれば簡単なものだが、それを実践するのは生半可な事ではない。
もちろん今の状況が最上かといわれればそうでもないだろうし、もう少し取れる手立てもあったように思う。
それでも修一は、構わないと思えた。
この化け物を倒し切るためであれば、この状況まで持ってこれれば大丈夫だろう、と。
自分の剣。霊装填の合算使用に焦熱壊剣を重ねた上での破断鎚。
ヴィラの剣。詳細は分からないが、おそらく彼女の剣技の中で特に威力の高いもの。
それを、防御も取らせずに叩き込むのだ。
二本同時に。
全力で。
これで倒せなければ嘘だろう。
修一は、そう思いながら剣を振った。
「――――!!」
立ち竦むヴァンパイアに向けて剣を落とす。
目をつむっていたって当たる距離だ。
タイミングもヴィラとほぼ同時、外す要素など微塵もない。
何の不安も、ない。
ほら、あとほんの数十センチメートルで――。
「――――“***”」
――命中だ。
衝突とともに、玄関ホール内に衝撃音が響き渡る。
手に感じる、獲物を捉えた感触。
鼻につく血の香り。
舌を刺激する苦いもの。
そして、二人の目に映るのは――、
「…………」
「…………」
――……映って、いたのは――――、
「…………ふう、」
「…………マジ、か」
「なん、デ……!?」
――――無傷の、
「……まったく、」
――化け物の姿であった。
「――貴様ら、」
「……」
「……」
「――――調子に乗るな」
「っ!?」
「ッ!!」
二人は、反射的に全力で跳び下がった。
ヴァンパイアの声が、視線が、心臓を撫でたような気がしたのだ。
「……」
ヴァンパイアは、何の躊躇いもなく床から足を剥ぐと。
「――――“***”」
ヴィラに目掛けて、跳び寄った。
「――ッ!」
全力で後退したはずのヴィラとの距離を一足で潰した化け物は。
「……一匹」
無造作に、右手の小剣を薙いだ。
ヴィラが、遅れて左手で喉元を押さえる。
「…………ッア、」
漏れ出た声、溢れ出した赤。
少女が崩れ落ちるより早く、化け物は左手の鞘を突き出す。
「ふんっ!!」
黒い流星のような打突が、ヴィラの額を打ち据えた。
「――!!」
身体が、軽々と宙を舞う。
数メートルほど飛んで床に叩き付けられると、……そのまま動かなくなった。
喉元からどくどくと溢れ出るモノが、絨毯を濡らして染み込んでいく。
「…………」
修一は、退がった位置から動けずにいる。
頭の中では、最後の一撃について必死で考えを巡らせていた。
剣は当たった。なのに斬れなかった。何かに阻まれたような感触があった。何かとは何だ。赤黒い何かだ。当たる直前、化け物は何と言った。聞き取れなかった。……今の状況はどうだ――。
「……最悪、だ……!」
ヴィラが倒れた。
早く助けないと、あの出血は不味い。
だがどうやって。
もう、打てる手が……。
「ヴィラ!!」
返事もない。
昏倒しているのか?
どちらにせよ、放っておけば一分と経たずに失血死してしまう。
取り敢えずの処置で、傷口を凍らせて――。
「……二匹」
「!!」
呟くような声が、やけに大きく聞こえた。
ヴァンパイアが次の獲物を定めたようだ。
修一は、咄嗟に騎士剣を持ち上げて防御の構えをとる。
騎士剣を水平に寝かせ、剣先の腹に左手を添えて胸の高さに。
正面から突っ込まれても対応出来るように、全神経を集中させる。
「“***”」
すると化け物は、その場から動かず何かを唱えた。
次の瞬間。
「…………はっ?」
床から伸びてきた赤黒いナニカに。
肩口で。
右腕を。
――斬り飛ばされた。
「っ――――!?」
握っていた騎士剣とともに、後方に飛んでいく。
痛いとか、そんな事を考える余裕はなかった。
ヴァンパイアの赤い目が、こちらを見据えていた。
「…………死ね」
「!」
化け物が、小剣を構えた。
地面と水平に。
剣先を、修一に向けて。
「――――」
回避を、しなくては。
出来るかどうかは、分からなくても。
背後で、音が聞こえた。
右腕が、落ちた音だろうか。
もう一つ、聞こえた気もしたが。
確かめる時間は、修一にはない。
「“***”」
聞き取れない言葉。
ヴァンパイアの姿が、……消えた。
同時にドンと胸を押される。
「――――ははっ、」
気が付けば、目の前にいた。
右腕を伸ばして。
修一を見据えていた。
あれだけ気を張っていても、見えなかった。
右腕の先はどこへ行った?
考えるより早く、化け物が、手首を捻る。
身体の中を掻き回される感覚。
ぐちゃぐちゃに、どろどろに。
熱いモノが込み上げてきた。
右腕を引き抜き、下がるヴァンパイア。
修一は、前のめりになって倒れていく。
視界が一気に暗くなる。
手足から力が抜けていく。
口から胸から零れ落ちる。
血が、熱が。
――命が。
心臓を、やられたのだと。
修一は、薄れる思考の中で理解した。