第7章 16
◇
「えっ?」
ナビィは不思議そうにリズの顔を見つめることとなった。
許さない、と拒絶の言葉を掛けられたと思ったら、柔らかな笑顔を向けられていたのだ。
言葉と表情のギャップに、戸惑いの声が漏れる。
「ナビィ兄」
「う、うん」
名前を呼ばれる。
訳も分からぬまま返事をすると、リズに手を掴まれた。
「そんな、言葉だけでゆるしてもらおうだなんて、虫が良すぎるわ」
「どういうこと?」
「つまり……」
リズの表情が、真剣なものになる。
「これからの行動で示してよ、ってことよ」
「行動……?」
「そう」
握る手に力が篭り、ナビィは思わず「うっ」と呻いた。
「もう勝手にここから出ていったりしないとか、わたしたちのためにがんばるとか、さっきそう言ったでしょ?」
「うん、言ったよ」
「それを、きちんと守ってみせてよ。わたしたちみんなが分かるようにさ。
ナビィ兄の言葉がウソじゃないんだって。
ここのみんなが大人になって、ここを出ていかなくちゃいけなくなるまで、ナビィ兄はさっき言ったことを守ってみせてよ」
「……」
真っ直ぐに見つめてくるリズ。
「そうしたら、ゆるしてあげる」
「……」
その真剣さにナビィは、一瞬言葉に詰まる。
が。
「……うん、分かった。ゆるしてもらえるように、頑張るよ」
それでも、すぐに頷いてみせた。
リズが再び、嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「約束よ? 今度こそ、約束守ってね?」
「うん、守る」
「よし!」
そこでようやくリズが手を放した。
ナビィはホッと息を吐く。
一先ず、リズの機嫌が直ったからだ。
「……ナビィ兄」
と、そこに、後ろで見ていた子どもたちの一団から、声が掛かる。
声の主は、今にも泣き出しそうになっていた女の子だ。
「……ルシル?」
ナビィは驚く。
いつもは眠たそうな目をしている彼女が、今はなみなみと潤んだ瞳で自分を見つめているのだ。
自然と心配そうな声音になった。
「え、なに、どうしたの? な、なんで泣いてるの?」
「……本当に、もう、どっかに行ったりしない?」
「うん、しないよ」
「あ、あたしたちのこと、き、キライになったりも……?」
「……えっ?」
何を言われているか分からず、ナビィはポカンとした。
「ま、待って、本当にどういうこと?」
「だって、だってぇ……うあああん!!」
「ああ!?」
とうとう大声をあげて泣き出したルシル。
ナビィは大いに慌てるが、何かするよりも先にルシルに飛び付かれ、後ろに倒れた。
息が詰まり、変な声が漏れた。
「ぐえっ!」
「うわああぁぁん!」
他の子どもたちからも釣られるようにして泣き出す者が現れ始め、ナビィの混乱は極致に達する。
リズが、呆れたように呟いた。
「あらら、またみんな泣き出しちゃった」
「リ、リズ、これ……!?」
どういうことなの、とナビィが言い切るより先に。
「……ルシルばっかりズルいわ。私も」
「ちょ!? ぎゃっ!!」
リズもナビィに飛び付いた。
首に両腕を回して泣いているルシルの隣に、胸の上に乗るようにして。
それを契機に、他の子どもたちもナビィに群がっていく。
あっという間に、もみくちゃになる子どもたち。
それを見ていたメイビーが、小さく溜め息を吐いた。
――大人気じゃん、ナビィ君。
訳が分からないといった顔をしているナビィだが、要するに彼は、ここの子どもたちから本当に慕われているのである。
彼に出ていかれたことで、小さい子たちが「わたしたちのことをキライになったから出ていったんだ」と悲観してしまうくらいには。
その辺りのことに全く思い至らず、短絡的な思考によって家を飛び出してしまったナビィは、なるほど要領が悪いと言われても仕方がないたろう。
彼は、力も無いし頭の回転も早くない。色んな事に不器用で、言いたいこと、言うべきことをなかなか口に出せない臆病者なのだ。
「み、みんな、ちょっと、一回どいて、うわっぷ!?」
「やだあああああ!!」
「ムググッ!?」
ただ、それでも、彼は決してグレたりはしていない。両親から面と向かって「要らない子」だと言われ、知らない町に置き去りにされても、だ。
彼は自分より小さい子どもたちの前ではやれるだけの事はやろうとしていた(例え結果が伴わなくても)し、お世話になった人のために自分が辛い思いをすることも出来る人間なのだ。
それを、なんと呼ぶ性質なのかはさておくとしても、少なくとも一緒に過ごしている子どもたちは、ナビィの事を慕って、案じて、赦して、受け入れることが出来る。
そうして貰えるだけの情愛を、ナビィは皆から向けられているのである。
「これはもう、大丈夫かなー?」
メイビーが呟く。
ここまでくれば心配は要らないだろう。
あとは、子どもたち同士で気の済むまでやってくれればいい。
「……シューイチたちのところに行こっと」
戯れ合う子どもたちを置いて、部屋を出るメイビー。
話し合いをしている部屋を探そうと、廊下を歩き出すと――。
「――――!!」
「ん?」
どこかの部屋から、声。
それと同時に扉が開き、中から男が出てきた。
男は、奥から歩いてきていたメイビーに気付かず、玄関に向かって大股で歩いていく。
「……シューイチじゃん、何やってんのさ」
開きっぱなしになった扉を一瞥。
近寄って中を覗き込む。
「……」
それから二秒ほど悩み、メイビーはシューイチの後を追って、駆けた。
◇
応接室の中でブリジットと向かい合ったまま、修一は、必死に思い出す。
その時の事を。
その時の思いを。
「…………!!」
だが、起きた事実は思い出せるのに、その時に感じたはずの感情がどうやっても思い出せない。
いや、正しくは、思い出せるのだが、その実感が沸かないのだ。
まるで、テレビの画面越しに見るニュースや、新聞の文字越しに伝わってくる事件などのようだ。
それに対してどう思うのか、どう思ったのかは分かるのに、その感情をリアルなものとして認識できない。
他人の思い出を映したビデオ映像。
今、修一が感じるのは、それを見ているようだということなのだ。
あの感情は、果たしてどこに行ったのだ。
分からない。
あれほど強く思っていたのに、こんなにあっさりと無くなるものなのか。
分からない。
ひょっとして、死んでしまったから、何も感じなくなってしまったのか。
分からない。
分からなかった。
「――――」
あんなにも。
「――――お」
あんなにも強く。
「――――俺は」
激しく。
「――――何、で」
ドス黒い。
「――――それを」
憎悪を。
「感じねぇんだっ!?」
「!!」
感情のままに吼える。
何も解決などしやしないが、それでもそうしなければ耐えられない。
どうしてしまったというのだ。己は。
処理し切れない気持ちの悪さが、胸の奥からこみ上げてくる。
地面すらあやふやだ。
今、自分が真っ直ぐ立っているのか分からなくなっていく。
「本当に、大丈夫なの?」
「――――」
再度、ブリジットが問うてくる。
修一は答えられない。
言葉が思い浮かばないのだ。
「気分が悪くなったのなら、今日のところは帰った方が良いんじゃないかしら?」
ブリジットは尚の事心配そうにそう告げる。
それだけ、今の修一はおかしいのだ。
「……あ、いや」
「顔、青褪めて真っ白ですよ?」
「…………!」
そうなのだろうか、と思い。
そうなのだろう、とすぐに思い直す。
鏡でも見たら、よく分かるのだろう。
そんなもの、見に行けそうもないが。
「…………」
そんな風に訳も分からず混乱する男を、見上げる少女。
レイが、静かに修一の服を掴んだ。
「…………おとうさん」
引っ張り、呼び掛ける。
こっちを見てよと。
そんなに心配しないでよ、と。
「……なんだ、レイ」
ゆっくりと、視線を下げる。
自分を父と慕う少女が。
自分と同じ黒い瞳が、決意に満ちた表情でこちらを見上げていた。
「…………なかないで」
「あ……?」
「…………だいじょうぶ、だから」
「……」
修一の返事を待たず、レイはグッと前を向いた。
「…………ぶりじっと」
「……何かしら、レイちゃん」
「…………わたし、……ここにすむ」
「……!!」
ブリジットは、目を見開いた。
「…………よろしくね」
「れ、レイちゃん? 貴女、何を言っているの?」
「? …………わたしのおへやはどれ?」
「待って、ちょっと待ちなさい」
レイの言葉を遮り、押し止める。
いきなりこの子は何を言い出すのだ、とブリジットは思った。
「急にどうしたの? 貴女、さっきまであんなにシューイチ君と居たがっていたのに」
「…………ここに、いたくなったの」
「嘘おっしゃい。そう思っている顔には見えないわよ」
「…………」
レイは困ったように眉を寄せる。
それからギュッと両手を握り締め。
「…………うそじゃない」
と、首を横に振った。
「…………ここにすむの」
「じゃあ、シューイチ君と一緒に居られなくても良いの?」
「…………ううん」
またしても、首を横に振る。
「…………それも、よくない」
「それなら」
「…………でも」
「……でも?」
「…………」
レイは、僅かに逡巡し。
「また、おとうさんがしんじゃうから」
「!!」
結局言った。
修一は、驚きのあまり声も出ない。
「そっちのほうが、……もっとよくない」
「……死んじゃうって、どういう意味?」
「…………もう、あえなくなるの。あいたくても、だめになる。……とってもかなしいこと」
レイの言っているのは、「死」という言葉そのものの意味だろうか。
レイにとっては、そうなった人とは会えなくなるという認識なのだ。
「…………おとうさんと、もっとずっといっしょにいたいけど、わたしは、おとうさんがしんじゃうほうが、いや」
「……」
「…………おとうさんは、わたしのほんとうのおとうさんとおかあさんに、あわせてくれたから。……そのために、いっぱいがんばってくれたから」
「……」
「…………こんどはわたしが、……がんばるの」
頑張る、という言葉に篭められた思いは、果たして何なのか。
何を頑張らなければならないというのか。
「――レイ」
「…………おとうさん」
修一に向き直るレイ。
小さく頭を下げると、そっと手を離す。
修一の服から、手を。
それから。
「…………わたしは」
「…………」
「…………かなしくても、がまんするから」
「…………!」
「…………ばいばいしても、おとうさんのこと、ずっと、だいすきでいるから、……だから」
微かに震える声で、レイは。
「いきて」
思いを、語る。
「…………もう、おとうさんがしぬのは、いやなの……!」
「――――」
そう言われて、修一は――。
――(……死なないでっ! あたしを置いて、逝かないでよっ!!)
「――――!!」
愕然とした。
レイが、ダブって見えたのだ。
「っ、あああぁぁあああっ!!」
次の瞬間、修一は叫んでいた。
腹の底から、言葉にならない声を出して。
自分自身への憤慨を、そうしなければ耐えられなかった。
「!!」
そして修一は、何か言おうとするノーラたちを無視して部屋の出入口に向かい、乱暴に扉を開けて廊下に飛び出す。
大股でズンズンと歩いて玄関を潜り、門扉と玄関の真ん中辺りで立ち止まった。
「…………っ、……! っ!!」
ギリギリと歯を食いしばる。
叫び出したい衝動を無理矢理抑え込むために。
腕も脚も、目一杯力を込めて動きを封じ、血が滲みそうなほど握られた拳を振り上げてしまわないようにする。
暴れてしまいたい。
自分を気の済むまで罵倒して、壁といわず地面といわず殴り付けて身体を痛め付けたい。
どうしようもなく自分が許せなくて、やぶれかぶれになってしまいたい。
「…………くそっ」
だが、そんな事をしてどうするというのだ、と頭の中の冷静な部分が諌めるのだ。
理性が、抗いがたい衝動を少しずつ宥め、細かくバラしていく。
無益だ。そんな事をしても。
自己満足にすらならないだろうが。
まだ他にも、やるべき事があるだろう。
分かりきった事を何度も反芻し、ようやく心を落ち着かせる。
そこに、背後から掛けられる声。
「なにしてんのさ、シューイチ」
「……メイビーか」
「どうしたの、こんなところまで飛び出して。ブリジットさんとの話し合いは終わったの?」
「いや、……まだだ」
修一は、ゆっくりと振り返る。
メイビーが、その顔を見て眉を顰めた。
「……どんな話し合いしてたのか知らないけど、そんなに思いつめたような顔しないでよ。怖いからさ」
「……」
それは無理というものだった。
レイに、――両親を亡くしたばかりの幼い少女に、あんな事を言わせたのだ。
到底許されざる無様であった、と修一は自分自身に怒りを感じている。
メイビーは、修一の反応から何かを察したらしく質問を変えた。
「まだってことは、レイちゃんがどうなるか決まらなかったんだね」
「……ああ」
正確には、決まるかもしれなかったチャンスを自分から蹴ったわけだが。
あんな流れで決まってしまったら、いくらなんでも後味が悪すぎる。
「ねえ、シューイチ」
「…………」
「ナビィ君さ、ここの皆と仲直りしたよ」
「……そうか」
うん、と頷き、メイビーは頬を掻いた。
ほんのり、紅葉が付いたままだった。
「シューイチに感謝してたよ。ありがとうって」
「……俺に? 本当か、それ」
もちろん嘘である。
ナビィは、そんなこと一言も言っていない。
「ほんとほんと、これからはここで頑張るんだってさ。それで、きっかけを作ってくれたシューイチには感謝してもしきれないよー、って言ってた」
「……」
胡散臭そうにする修一。
だが、メイビーとて何の根拠もなしにそう言っているわけではない。
多分、本当に感謝はしていると思うのだ。ナビィが口にしていないだけで。
口ごもりやすいあの子のことだからそう簡単に言えるかどうか分からないし、だからこそ勝手に教えておいてあげよう、とメイビーはそう思ったのだ。
修一を、元気付けようとして。
「取り敢えずさ、いつまでもそんなところに突っ立ってないで」
「……」
「話し合いが終わってないっていうんなら、部屋に戻らないと」
「……ん」
渋る修一。
あんな風に飛び出しておいて、今更戻るのもどうかと思うのだ。
それが、ナビィも感じていたであろう「負い目」と、似たようなものだとは分かっていても。
下らないことに意地になってしまうのは、男の性なのだ。
「ほら、行くよ」
「お、おい」
その辺の事はよく理解しているメイビーである。
有無を言わさず右手を掴むと、グイグイ引っ張って建物内に連れて行くことにした。
慌てる修一だが、知ったことではない。
第一、本当に嫌だったら、修一なら簡単に手を振り解けるのだ。
素直に付いてきているのが、答えのようなものである。
――メンド臭いのばっかりだよ、まったくもう。
メイビーは内心でそう愚痴る。
それでも表情は、困ったような笑顔だったのだが。
彼女にとって、歳下の者に対してきちんと歳上として振舞える機会というのは、悪くはないものなのである。
体形的なコンプレックスがあるのもそうだし、母親の振る舞いがそうしたものだったから。
結局。
今日のところは、ここ、石蕗の家にレイを預けることにはならなかった。
やはりブリジットが難色を示したのと、修一も、今日の流れに納得がいかなかったからだ。
ただし、もしも他の孤児院等を訪ねて回りそこでも断られ、それでいて、どうしてもレイをどこかに預けなくてはならず他に選択肢がない場合には、
「そのときは、仕方がありません。こちらでレイちゃんを受け入れましょう」
と、約束してくれた。
修一は、なんともいえないような表情で、頭を下げてお礼を言ったのだった。