第7章 11
◇
「――――」
「っ……!」
息を呑む。
背筋が凍りついた。
ゼーベンヌは、唐突に発せられたデザイアの怒りに、ただただ圧倒された。
出入口に向けられたデザイアの視線。
男の青い瞳は、見るもの全てを威圧するかのような苛烈さを纏っている。
そういう色の炎なのだと、そう言われても納得してしまいそうな。
それほどに、色濃く滲んだ感情が外へ外へと溢れ出していた。
ゼーベンヌは、それが何処に向けられているものなのか知らない。
だが、少なくとも今のデザイアは、知り合ってからのこの数日間で、一番恐ろしい目をしていると思った。
決して近寄ってはならない、獰猛な獣の目をしていると。
ゼーベンヌは確かにそう感じた。
「…………あ、……あの」
それでもゼーベンヌは、意を決して声を掛ける。
絞り出すような呼び掛けに、デザイアがゆっくりと視線を動かし――。
「――――」
ゼーベンヌは途端に後悔した。
デザイアの視線。
これを真正面から受けると、それ以上声が出なくなったのだ。
膝も笑い出しそうになる。
自分に向けられたものではないというのに、この恐ろしさ。
どうにもなりそうになかった。
先程まで談笑していたのが嘘のようだ、と思う。
何かのスイッチが入ったみたいに、デザイアの瞳に怒りが満ちたのだ。
理由などまるで分からなかった。
「…………」
「…………」
無言のまま見つめあう。
どちらも視線を外そうとしない。
このままではいけないと、何かを言おうとするゼーベンヌ。
だが、何を言えばいいのだろう。
分からない。
分からないが、何かを。
震える喉を、どうにか動かす。
考えも纏まらず、掠れる声を出そうとした。
まさにその時――。
「おおーい、誰ぞおるがかや!?」
「!?」
「っ……」
出入口の向こうから、野太い声が響いてきた。
ビクリ、とゼーベンヌの動きが止まり、ハッとしたように、デザイアが視線を外した。
「おるがやったら返事せえ!!」
「は、はい!」
もう一度、同じ声。
ゼーベンヌが慌てたように返事をすると、声の主が、修練場内に姿を現した。
「おおん? デザイアと、……ひょっとゼーベンヌか? なんな、懐かしいにゃあ、元気しよったかや」
浅黒い肌と顔面を走る刃物傷、強い訛りと太い声、これらの特徴を持ったこの男は、入ってくるなり二人の姿を見て破顔した。
「エナミ団長……」
ゼーベンヌが男の名前を呼ぶ。
彼は、第五騎士団の団長だ。
そしてゼーベンヌの前の上司でもある。
銃砲隊に異動してしまった自分の事を、覚えていてくれたらしい。
「……おん?」
そんなゼーベンヌを見てエナミは、彼女の困惑したような表情の奥に隠れている、確かな安堵に気付く。
怪訝そうな表情を浮かべながら、デザイアに問うた。
「デザイアおまん、こんなくでどうしよらあ。わざわざあからいておるき、誰んおるがと思うたやいか。しかもゼーベンヌと見つめおうちおるらあ、そらたまげるわ」
「……」
デザイアは、少々気まずそうに眉を寄せていたが、ふう、と溜め息を吐いた後、口を開く。
既に、先程までの怒りは欠片も見当たらなくなっていた。
「なんでもないぜ、エナミさん。ただ、少しばかりゼーベンヌと世間話をしていただけだ」
「なんなそら」
「そこに、バイクがあるだろ」
「バイク?」
エナミは、ゼーベンヌの隣でスタンドを立てられているバイクに目をやり、「それの事かえ?」と指を指す。
「乗ってみるとなかなか面白くてな、購入を検討しようと思って相談してたんだ」
「……そうながか?」
ジロリ、とゼーベンヌを見遣る。
ゼーベンヌがコクコクと頷いたのを見ると、エナミは不思議そうに首を傾げた。
「んーむ、そうかや?」
「ああ、そうさ。――さて、ゼーベンヌ」
「! ……はい」
デザイアは、エナミを置いてゼーベンヌに向き直る。
翳りを帯びた表情で、ポンと、ゼーベンヌの肩に手を置いた。
「悪かったな、時間を取らせて」
「い、いえ」
「それと、……みっともないところを見せた」
「……」
ゼーベンヌは、首を横に振ってみせた。
「あれくらい、エイジャ隊長と比べたら何ほどのことはありませんよ」
「……そうか」
「はい」
その言葉には、さしものデザイアも困ったように笑うほかない。
そして顔を寄せると、小さな声で。
「お前の実家の件、よろしく頼むぞ」
「えっ?」
「冗談でも何でもないからな」
と、告げた。
再び呆けるゼーベンヌの肩から手を離し、エナミに。
「エナミさん、明日の朝一番に会議をするのは聞いているか?」
「ん、もちろん聞いちょらあ。俺ぁ、それに出るがに早駆けでもんちきたがよえ」
「分かった、それなら良い」
それだけ言うとデザイアは、エナミの横を通り抜ける様にして歩き始めた。
ゼーベンヌとエナミを置いて、出入口に向かう。
その背中が門の奥に消えたところで、エナミが頬を掻いた。
「なんなアイツ。なんや、昔にもんたみたいな顔やったにゃあ」
「…………」
「おい、ゼーベンヌ」
「は、はい……?」
「なんぞされちゃあせんろうにゃ?」
「へ?」
質問の意味が理解できなかったゼーベンヌ。
エナミは出入口の方を顎でしゃくってみせた。
「デザイアによや」
「いえ、何も……」
「おまんも不用心なちや、あいたぁと二人きりでおりよったらイカンぞ、喰われるき」
「……」
――喰われる、って、……えっ!?
「そ、そんなこと!」
「おまんは知らんろうけんど、団長になる前のアイツは結構女遊びをしよったきにゃ」
「……そうなんですか?」
エナミの意外な言葉に、ゼーベンヌは思わず問い返した。
エナミは大きく頷いてみせる。
「そうよえ。当時の団長がエイジャらあと一緒によお夜の町に連れて行きよったちや。根が真面目なき、最初は嫌がりよったみたいなけんど、馴れたら楽しいわにゃあ。それに、あいたぁ顔んえいき、よおにしてもらいよったらしいわ」
「なっ……」
「馴染みになったがと二人でどこぞに行ったりもしよったらしいし、朝になるまで帰ってこんかった事もあったにゃあ。全部、デザイアが団長になる前の事やし、団長になってからは、そんなこたぁしやせんなったけんど」
「……」
ゼーベンヌは複雑そうな顔になる。
そりゃああの人は女性からの人気は高いのだから、そういう事をしていても不思議はない。
が、なにも今言わなくても良いではないか。
折角、ちょっとだけ良い気分になっていたのに。
――というか、エイジャ隊長も一緒になって遊んでたのね。貴方という人は、本当に昔からそういう風に遊んでばかりいて、まったく! ……そうだ。
「あの、エナミ団長」
「なんな?」
「当時の団長、というのは、第四騎士団の団長の事ですよね?」
「そうよえ」
「その方は今、どちらの所属になっているのですか?」
「……」
少々ムッとしたゼーベンヌは、名前も知らぬ当時の団長とやらに怒りの矛先が向いた。
要は、その人が連れて行っていなければデザイアもそんな事してなかったのではないか、と。
当時団長だったということは、その時点で階級は特一等騎士だということになる。
そんな人物が配置になるような役職は多くない。
他の騎士団の団長になるか、総会役員になるか、育成隊の特別顧問になるかのいずれかぐらいである。
だからゼーベンヌは、結構軽い気持ちで聞いた。
今度その元団長とやらの顔を見に行ってやろう、くらいの気持ちで。
「おらん」
そしてそれは、すぐに間違いだったと思い知らされる。
「あの人はもうおらん」
「いない? 退団されたという――」
「違わあや、――この馬鹿たれ」
エナミの怒ったような声。
それでゼーベンヌは、ようやく気付いた。
「死んじゅうがよや。当時の副団長と一緒に、任務中に殺されちょらあ」
「なっ……!」
目を見開くゼーベンヌに、エナミは吐き捨てるように告げた。
「おまん、それっぱあの事は察せや。
……ああ、ほんまに、たまらなあ。あの二人が死ぬらあて思いもしやせんかったき。ダリッジさんも、キャンディフォルトも、まだ死んだらイカンかったに」
「……」
「デザイアやち、そう思うちょらあ。あいたぁ人一倍責任感があるき、余計に思うちゅうかも知れん。なんせ――」
「……」
「アイツも、……その任務に参加しちょったがやきにゃあ」
◇
結局エナミは、それ以上語ろうとはしなかった。
ゼーベンヌに、「もう遅いき、早よいんでしゃんしゃん寝え」と言うと、そのまま修練場を後にしたのだ。
一人残されたゼーベンヌも、バイクを腕輪にしまって外に出る。
背後で、場内の照明を落とす音が聞こえ、ゼーベンヌはランタンに火を灯した。
レンガ造りの通路を歩くゼーベンヌは、行きよりも遥かに重い足取りで寮に戻る。
手に提げたランタンの仄かな明るさに、今の気持ちをより深く落とし込まれそうでならなかった。
「はぁ……。ちょっとバイクの点検をするだけのつもりだったのに」
呟く声は、痛みを堪える呻き声のようだ。
見知らぬ不幸を、嘆くようでもある。
デザイア、そしてエナミ。
彼らに会って話をした事は、ゼーベンヌにとって決して良い事とはいえなかった。
あの人たちの持つ、自分には触れようのない過去。
手の出し様のない物事というのは、ゼーベンヌの好むところではない。
自分にはどうすることもできない出来事など、知っても心を苛むだけだ。
「……」
だというのに、ゼーベンヌは、もっときちんと知らねばならないと考えてしまっている。
好奇心ではない。
もっもよく分からない、モヤモヤとしたものだ。
一番近い言葉を使えば、使命感になるのだろうか。
嫌なのに、でも、そうせざるを得ないという。
意思と感情が噛み合わず、それでいて、やるべき事が明確になったような。
そういう感覚を、ゼーベンヌは抱いている。
――エイジャ隊長は、何か知ってるのかしら。
どうだろうか、と考えてみる。
知っているのだろう、きっと。
むしろ知らないはずがない。
あれほどに、お互いを信頼し合っているのなら。
などと考えたゼーベンヌの足は、自然と本部本館に向かっていった。
銃砲隊隊長執務室、エイジャが使っている部屋を訪ねるためだ。
どうせなら聞きに行ってしまおう、という結論に達したのである。
今日のエイジャは、なにやら執務室に篭って作業をしていたようで訓練にも出てこなかったし、帰り際に一声掛けた際も作業に没頭していて生返事しか返ってこなかった。
流石にもう帰っているかもしれないが、もしかしたらまだ居るかもしれない。
「残ってくれてると良いんだけど。……寮にまで押し掛けるわけにもいかないし」
そこまでするのは、まだ躊躇われた。
本館に着いた。
ゼーベンヌは、玄関ロビーを抜けて階段に向かう。
目指す階は三階だ。
特務隊の隊長室は全て三階にある(エイジャは訓練場にも部屋があるためこっちは普段使ってないのだが)。
ちなみにゼーベンヌがロビーに入った時、夜間当直の者に「何事ですか」と訝しまれたが、「忘れ物を取りに来た」と言うとすぐに納得してくれた。
あの娘、今年入ったばかりなのかしら、と思う。
いくらなんでも、もう少し疑うという事を覚えた方が良い。
ついでに、エイジャ隊長はまだ残っているだろうか、と聞いてみたが、ごめんなさい分かりません、と返された。
彼は斥候術を使えるため、こっそり出入りされると一般の団員には分からないのだ。
階段を上がりながらゼーベンヌは、ふと、「それなら、そういった技術を持った不埒者が簡単に侵入出来てしまうのでは?」と今更ながらに考えたが、それは心配無用である。
実は、そういう輩に対しては斥候隊の面々が秘密裏に対処しているのだ。
斥候隊の中には、主に情報収集を行う部隊とは別に隠密警備に従事する部隊がいて、そちらの部隊から、一般団員と同じ様に夜間当直警備活動に人員が割り振られている。
斥候隊隊長曰く、蛇の道は蛇、だそうだ。
ゼーベンヌはいまだに顔を見た事もないし、どこに執務室があるのかも分からないが(三階にあるはずなのだが)、徹底した人物である。
「さて、と」
階段を上がり切った。
少し先には、直線廊下と交わる丁字路部分が見える。
そちらに向かって進んだところで――。
「っ……!」
誰かが角から飛び出してきた。
ゼーベンヌは咄嗟に身を捻り、相手を受け止めようとする。
ドン、と軽い衝撃とともに、ぶつかってきた相手が小さく悲鳴をあげた。
「きゃあっ!?」
「っ!」
そのまま反動で後ろに倒れそうになるのを支えてやる。
結果、相手は倒れずに済んだが、代わりにぶつけた鼻を押さえて痛そうにしていた。
ちょっぴり涙目だ。
「痛ったー……」
「大丈夫?」
「あ、うん、なんとか」
「そう、それは何より」
そう言いながらゼーベンヌは、目の前の少女を見て内心で首を傾げる。
――誰かしら、この娘?
こんな時間にこんなところに居るくせに、見るからに騎士団員ではない。
身に付けている服は平服だし、ぶつかった時の身のこなしも素人同然であった。
一体何故、ここに居るのか。
「ねえねえ」
「……何かしら?」
「お姉さんも騎士なわけ?」
「……そうだけど」
むしろ騎士じゃなきゃここにいないし、そもそも貴女は何者なのよ、とゼーベンヌは聞こうとしたが――、止めた。
「騎士、そう、騎士なんだ、――これがそうなのね、想像以上だわ……」
「…………」
俯いて、なにやらぶつぶつと呟く少女の様子に、不穏なものを感じたのだ。
心なしか、唇の端が楽しそうに歪んでいる。
これは、あれだ。
エイジャとかが悪ふざけをする時によく浮かべている表情だ。
関わると録な目に遭わない、危険な笑顔だ。
ゼーベンヌは迷った。
なんとなく、これ以上関わりたくない。
しかし、身許も分からないような者をここに置いておくのもどうなのか、と。
と、そこで。
――――カッ、ズズッ、カッ、ズズッ……。
足音に、気付いた。
知らない間に、少女の背後に近寄ってくる影があったのだ。
そちらは、ゼーベンヌにも見覚えがあった。
「……こんばんは、ゼーベンヌ副隊長」
影――若い男だ――は、少女の背後に寄ると、ゼーベンヌに向かって声を掛けてくる。
ゼーベンヌは静かに頭を下げた。
「お疲れ様です、こんな時間までお仕事ですか」
「グゲゲ、そちらこそ。それに、オイラの客が申し訳ない事をした」
男は、掠れるような笑い声をあげ、そう謝罪する。
顔の半分をぐるぐる巻きにした包帯の先端が、小さく揺れていた。
「そちらの女性は、貴方の客人でしたか」
ゼーベンヌが問うと、少女がパッと顔を上げた。
「そうそう。あたし、コイツにここまで連れてきて貰ったのよ!」
少女は、粗雑な言葉遣いで自信満々に胸を張った。
物凄くどうでもいいが、ゼーベンヌよりは有る。本当にどうでもいいが。
「そういう事だから、ゼーベンヌ副隊長が気にする必要はないよ、グゲゲ」
「分かりました」
まあ、いい。
保護者がいるなら、問題はないだろう。
そう考えたゼーベンヌは、階段を駆け下りていく少女と、その後に続く男の背中を見送ってから、廊下を進む。
そして目的地に辿り着くと、ゼーベンヌは、執務室のドアを叩いたのだった。