第7章 9
◇
「あー…………」
深い、深い呻き声が漏れた。
昨日の夜に引き続き、修一は疲れていた。
日中、丸一日歩きっぱなしだったうえ精神的にもガリガリ削られていたのだから、その時点で疲れていたといえば疲れていたのだが、今の修一は更にもう一段上の状態だ。
頭がぼんやりして目の焦点が合っておらず、何も無いところで危うく躓きそうになる。
レイには「だいじょうぶ?」と心配され、メイビーからは「まあ、その、今日はゆっくり休みなよ」と同情される。
そのくらい、疲れていた。
「しかし、あんなの無しだろ……」
何が無しなのか。
憔悴し切った様子で呟いた修一は、頭の上に乗せていた手拭いを湯船の縁に置き、ズルズルと湯の中に沈んでいく。
ブクブクと泡を吐きながら底まで沈むと、やがて息を吐き切ったのか泡が止まった。
しーん、と静まり返る浴室。
ピクリとも動かず、しばらくの間そうしていた修一は、やがて訪れた限界に、ゆっくりと身体を起こす。
「…………」
無言のまま、先程置いた手拭いを手に取り顔を拭う。
それを再び頭に乗せてぐったりと湯船の壁にもたれ掛かると。
「全部、ノーラが作ってたなんて」
と、天を仰いだ。
夕食時、目の前に並べられていく料理を見ていた修一は、その後の展開について概ね予想が付いていた。
エプロンを着けていたフローラがおもてなしの為に料理を作っていたと言うのであれば、同じ様にエプロン姿のノーラが何をしていたのかなど、想像に難くない。
おそらく、フローラとともに料理をしていたはずだ。
なら問題は、どれがノーラの手によって作られた物かという点に尽きる。
何時もと同じ感覚で、食べた料理を考えなしに美味しい美味しい言っていると、地雷を踏んだり外堀を埋められる危険があるという訳だ。
ここは、慎重にならざるを得ない。
もしノーラの作った料理を不用意に褒めようものなら、セドリックやフローラからの圧力が更に強まる事になるだろう。
方向性は違えども、どちらも修一の精神力をガリガリ削ってくるため、それは何としても避けたかった。
「うーむ」
「どうしたのシューイチ、そんな難しそうな顔して?」
「いや、ロシアンルーレットみたいだと思ってな」
「はあ?」
しかも何発当たるか分からないやつだ。怖すぎる。
意味が分からなかったメイビーに怪訝そうな顔をされるが、修一はこれを無視。
料理が並び終わるまでの間ひたすらノーラとフローラの動向を注視し、自分なりに予測を立てる。
――まず第一に、ノーラの料理の腕前はどの程度だ? 前に聞いた時はそれほど得意じゃなさそうな反応だったが、コックとフローラさんが手伝っているとすれば油断は出来ない。少なくとも、切って焼いてだけの単純な料理という事はないんじゃないか? 次に、何時から料理をしている? ノーラの性格からして、やるべき事とやらを終わらせてから取り掛かっただろうから、それほど時間に余裕は無かったのではないか? それなら長時間煮込んだりしなければならない料理は手が入ってないのでは? それから――。
などなどと、必死で考えていたところで準備が整った。
ずらりと、テーブル一面に料理が並ぶ。
「はい、お待たせ」
エプロンを外しながらセドリックの隣の席に座るフローラ。
ノーラもいそいそと席に着く。
座ったのは当たり前の様に修一の隣だ。
それは別にいい。
今までも隣り合って座る事は多かったのだから。
今更ぐだぐだ言う事ではない。
メイビーだって反対側の隣の席なのだ。
「……っ」
問題があるとすれば、今までにないほどノーラが緊張している点か。顔が真っ赤になっている。
先程まで着ていたフリフリのエプロンがよほど堪えたのか、とも思えたが、それにしては着ているときの動きは意外としっかりしていた。
あれを踏まえて考えると、ノーラはエプロン姿自体は嫌がっていない。
ならば、何をそんなに緊張しているのか。
「ノーラ」
「……何ですか?」
チラチラとこちらを見てくるノーラ。
目に浮かんでいた感情は、羞恥と焦燥と、ほんの少しの期待だった。
「可愛いエプロン着てたな」
「! そ、そうでしょうか?」
「ああ、可愛かった」
エプロンは、ね。
とまでは言わない。
修一だってノーラによく似合っていたとは思うのだ。そこまで言うと言質を取られそうだから言わないが。
そんなどちらとも取れるような曖昧な感想を述べる修一にフローラが軽く眉を寄せるが、ノーラは「か、可愛い……!?」とか呟きながらあわあわしているため母の視線に気付かない。
フローラは、仕方ないわね、といった表情を浮かべると、コホンと咳払いをして耳目を集める。
「さあさあ、冷める前に食べちゃいましょう」
そして食事の開始を宣言すると、ピリッとした視線をノーラに向けた。
ノーラは、ハッとした様に一つ頷き、修一に向き直る。
「どうぞ、遠慮せずに食べて下さい」
「……ああ」
来たか、と修一は思った。
並んだ料理は全部で八品。
隣のメイビーが、一口食べただけで美味しそうに頬を弛ませているのを横目に、修一は真剣な面持ちで料理に手を伸ばす。
初っ端から当たりを引くわけにはいかない、と考えながら手にしたのは「肉と野菜を捏ね合わせた団子を油で素揚げし餡掛けを掛けたもの」だった。
「…………」
口に運ぶ手前で修一はチラリとノーラを見たが、表面上は変化がなかった。
感情がすぐ顔に出るノーラであるからして、当たりかどうかはすぐに分かると思っていたのだが。
仕方なく料理を口に入れる。
美味しい。
昨日食べた料理と比べても遜色ない美味しさだ。
――これなら大丈夫か……?
修一は密かに安心する。
いくら何でも出来が良すぎた。
これは流石にノーラが作ったものではないだろう、と。
コックのトニオか、さもなければフローラが作ったのだろう、と。
そう思ってしまった。
あとになって考えれば明らかな油断であった。
しかし修一は、そんな風に油断したまま素直な感想を述べてしまう。
「うん、美味い、…………!」
そしてその瞬間のフローラの笑みといったら、罠に掛かった獲物を見る狩人の如しであった。
一気に危機感を募らせる修一。
すぐさまフローラは、嬉しそうに口を開いた。
「あらあら、本当? 良かったわねノーラ。シューイチ君、貴女が頑張って作った料理を美味しいって言ってくれてるわよ」
「っ!?」
なんという事だ、と修一はショックを受けた。
あれだけ気を付けていたのに、あっさりと当たりを引いてしまったというのか。
信じられない。
急いで口の中の物を飲み下し、ノーラを見ると。
「良かったです、シューイチさんのお口に合ったようで」
先程までの緊張した様子はどこへやら、今は心底安堵した様な笑みを浮かべながら修一を見つめていた。
仄かに潤むその瞳。
ともすれば見惚れてしまいそうになる。
そんな目で見ないでくれ、と修一は叫びそうになった。
「うーん、これも美味しいや」
「!」
そんな時、反対側から聞こえてきた声。
振り向けばメイビーが、別の料理を食べながら嬉しそうに唸っていた。
食べているのは「薄切りにした魚介類と野菜を酢で和えたもの」であった。
修一は、「これだ!」と半ば縋るような気持ちでその料理に手を伸ばす。
ノーラの「あっ」という言葉を無視し、パクパクっと口に放ってゴクンと飲み込む。
慌てて食べたため味がいまいち分からなかったが、メイビーの反応を見るに多分美味しいはずだ。
「うん、これも美味い!」
「!」
一度口に出した言葉は取り消せないが、別の言葉で上書きすれば――!
「さっきのも良かったけど、俺はこっちの方が好きだな!」
「そうですか?」
「ああ、本当――」
「それも私が作ったんですよ」
「!?」
修一は思いっ切りむせながら、自らの読みの甘さを呪った。
で、今に戻り風呂である。
修一は湯船の縁にもたれ掛かったまま動こうとしない。
結局あの後、並んでいた料理どころか食後のデザートまでノーラのお手製であった事が判明し、修一の考えは根本からずれていたのだと思い知らされた。
ノーラは、母親からされるがままに、一切の妥協なく料理に挑んでいたのだ。
そして、そんなノーラの熱意を測り間違えていた修一は、あの後フローラから徹底的にやられた。
あらゆる言動をあげつらわれて、ぐいぐいぐいぐい押し込まれたのだ。
到底捌ききれるものではなかった。
メイビーなど、その姿を横目に見ながら「レイちゃんにご飯持って行こっと」と言って逃げるように席を外してしまっていて、修一は完全に孤立無援のまま一時間近くフローラの相手をしなければならなかった。
そりゃあ、精神も削られようというものである。
後半はノーラまでもがフローラの勢いに押され気味になっていて、セドリックが無理矢理打ち切ってくれなければ何時まで話が続いたか分かったものではない。
全くもって恐ろしい話だ。
「……どう言えば、良いのかな」
ぼんやりと湯船の縁にもたれ掛かったまま、誰ともなしに呟く修一。
どう言えば良いかなど、まるで思い浮かばない。
当然だ。こんな事を考える機会など、元の世界にいた頃は終ぞ無かったのだから。
「……俺には」
だから思う。
どうしようもない、と。
「もう誰かに――」
仕方が。
――愛される資格なんて。
ないんだ、と。
「…………」
修一がそうしていたところ、背後で扉の開く音が聞こえた。
「……ん?」
この浴室に誰か入ってきたようだ。
誰だろう、と修一は考える。
ここの浴室は一度に十人くらい余裕で入れそうなほど広いため、一人や二人入ってきたところですぐに上がる必要はないのだが、しかし。
チラリと背後に視線を向ける。
有り得ないとは思うが、もしこれで入ってきたのがノーラだった場合、修一は湯船のお湯を沸騰させて濛々と蒸気を発生させ、視界を消したうえで退避しようと考えた。
あのノーラがそんな事をしようものなら、修一の取れる選択肢は最早それしかない。
「……」
そして、そうしなくて良いと分かるとホッとした。
入ってきたのはセドリックだった。
それはそうだ。
今の時間帯は男が使うと決まり、使用人たちを除けば修一以外の男はセドリックしかいないのだから、当然、彼も今のうちに入浴する事になる。
「っ……」
セドリックは、湯船にもたれる男が肩越しに自分を見ている事に気付くと小さく息を詰めた。
折角時間をずらしたのに、まだ修一が風呂場にいるとは思わなかったのだ。
数秒、セドリックの動きが止まる。
このまま入るか、それとも出るまで待つか、そういう風に悩んでいるようだ。
「……どうも、セドリックさん。お先にいただいてます、良いお湯ですよ」
「あ、ああ、そうか」
そして、修一がそれだけ言って視線を外した事でセドリックは、自然と一歩踏み出した。
そのまま扉を閉め、浴室内に入ってくる。
修一は、その音だけを聞きながら、それ以降後ろを振り返ろうとはしない。
あんまりジロジロ見ては失礼だろうし、そもそも中年男性の裸体など興味はない。
痩身で、年齢の割に引き締まった身体ではあるようだが、戦闘が出来る体つきでもなかった。
昔から商売人だったというのなら、それも当たり前なのだろうが。
背後で聞こえる身体を洗う音を聞きながらぼんやりする修一。
やがて洗い終わったのか、足音がこちらに向かってくる。
「……」
「……ふう」
修一から少し離れたところに身を沈め、セドリックが気持ち良さそうに息を吐いた。
二人は、無言のまま湯に浸かる。
修一は内心で首を傾げた。
――俺、この人に睨まれてると思ってたんだがな。
特に何を言われるわけでもなく、こうして一緒に風呂に入っているのが少々不思議だったのだ。
嫌みの一つでも言われるかと思っていたのに。
「――シューイチ君」
「……なんでしょうか」
いや、やはり言われるのか、と修一は身構えようとするが、止めた。
どうにも、そんな雰囲気ではなかった。
「昨日は失礼したね、いきなり気を失って倒れてしまって。初対面の人間の前であんな事をするなんて、商売人として恥ずかしいよ」
「いえ、そんな」
「それに、お礼も言えてなかった。――ありがとう、娘を守ってくれて。私も妻と同じ気持ちだ、本当に感謝している」
「……はい」
セドリックはゆっくりと視線を動かし、修一を見つめる。
真剣な瞳だ。
夕食時のような不機嫌さは、もう全く感じられなかった。
「それでだ、シューイチ君。君にはどうしても聞いておかなければならない事がある」
「はい」
「君は、――ノーラの事をどう思っている?」
「……どう、ですか?」
それは、恩人であるとか、大切な友人であるとか、そういう答えを望んでの問いなのだろうか?
違うんだろうな、とすぐにその考えを否定する。
こんなタイミングで聞いてくるのだ。
そんな事が聞きたい訳ではないだろう。
「…………魅力的な女性だと思いますよ」
「……」
ならば、本心で答えなくては。
「深い知識と高い知性、これと決めたら突き進める行動力を持っています。俺みたいな人間の話も疑わずに聞いて優しくしてくれましたし、誰かのために骨身を削る事が出来ます」
「……」
「他人の無事や成功を喜び、怒るべき時はきちんと怒り、苦痛や悲しみに共感して心を痛める事も出来ます。何より」
「……何より?」
修一は、冗談めかして笑ってみせる。
「楽しそうに笑うノーラの笑顔は、本当に素敵です。笑顔の似合う美人なんて、それだけで魅力的じゃあないですかね」
「……なるほど」
セドリックは修一の言葉を受けて、静かに目を閉じた。
「私は昨日、七年ぶりにノーラの顔を見た」
「……」
そして、語り出した。
「私の記憶にあるのは、七年前、この家を出て学院に行く時に浮かべていた笑顔だ」
「……」
「当時、あの子はまだ十六歳になったばかりだった。私は反対した。一人でそんなところに行ってまで、勉強などしなくてもいいと。この町にだって学校はあるのに、どうしてそんな遠くに行ってしまうのかと。結局は妻に説得されてしまったが、私は、不安だった。娘を一人で他国に、知り合いもいざという時に頼れる人間もいないような土地に送り出してしまった事を、常に後悔していた。定期的に送られてくる手紙でしか、ノーラの安否を知る手段はない。せめてもと思い半年に一度送っていた仕送りも、どれほど役に立っているか分からない。そんな中で過ごしたこの七年間は、私にとって本当に長かった。若い頃、行商人として何もない平原をひたすら移動していた時でも、これほどの寂寥感を感じたことはなかったよ」
「……」
セドリックは、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
修一は何も言わず、ただ聞いていた。
「シューイチ君、君に分かって貰えるかは分からないが、私は昨日、ようやくその苦しみから解放されたんだ。職場の者から、娘が帰ってきたと伝えられた時に。この家に帰ってきたあの子の顔を見た時に。緊張の糸が切れて、全身から力が抜けそうになった」
「……」
「そんな時だ。君たちの姿が目に入った。君と、君にしがみつく女の子だ。レイちゃんと言ったか、あの子の姿を一目見て私は恐ろしい想像が頭を過った」
「……」
修一は、申し訳なさそうにしながら額の傷を掻いた。
「まさか、そんなバカな、と。年齢を考えればおかしくないとはいえ、そんな筈は、と。そう思った私は生まれて初めて本気で神に祈ってしまったよ。そしてその直後のレイちゃんの言葉だ。私は目の前が真っ暗になって立っていられなくなった」
「……その節は、申し訳ない」
「いや、いいんだ。あれは私も悪い。確認もせずに信じてしまうなど、商人にあってはならない事なんだから。……だが」
「……」
セドリックが、唇を噛む。
「それが、あながち私の勘違いでもなかったのだと、今日改めて理解したよ」
「……と、言いますと?」
「今日の昼に、ノーラとフローラに言われたよ。……ノーラは君の事が好きなのだそうだ」
「……」
修一は黙り込む。
セドリックは構わず続けた。
「驚かないという事は、君だってそれは分かっていたという事か」
「……」
「まあ、それはいいさ。あの子だってもう大人になった。誰を好きになろうとあの子の自由だ。私の跡を継いでくれれば言う事はないが、それもあの子が決める事だ」
「……」
「しかしだ、シューイチ君」
セドリックは、手元の湯を掬って顔を洗う。
「私は不安なんだ」
「……」
「折角帰ってきた娘が、またすぐに何処かに行ってしまうのではないかと。今度は、そんな不安ばかりが頭に浮かぶんだよ」
「……そうですか」
「ああ、考え過ぎだとは思うんだがね。私も歳かな」
「……」
「……そういえば、…………君は遠く離れた地からここまで来たそうだね」
「……はい」
何が言いたいのか、修一にはよく分かった。
だから、修一は――。
「――ははっ」
「……シューイチ君?」
疲れたように笑った。
そして湯船から立ち上がる。
訝しむセドリックを見下ろしながら。
「心配いりませんよ」
「……?」
「少なくとも、俺に関しては。俺は、……一人で帰れますから」
「……」
セドリックに何か言われる前に湯船を出る。
体表面の水滴を一瞬で蒸発させ、そのまま浴室を出ようとし、立ち止まる。
振り返り、こちらを見ているセドリックの名を呼ぶ。
「セドリックさん」
「……何かな」
「あと数日は、この家に居させてくれませんか? この町でやっておきたい事が終わるくらいまでは。……それが終われば、出ていきますから」
「それは構わないが、君は……」
「失礼します」
修一は、逃げる様に浴室を後にした。