第7章 7
◇
ノーラの実家に到着した日の翌日、客室を借りて一泊させてもらった修一は、メイビーとレイを連れてスターツの大通りを歩いていた。
片手には一枚の地図。
簡素ながらも必要な事項を丁寧に書き記してあるそれは、今朝家を出る際にノーラに書いてもらったものだ。
目的物となる主要な建物とか、相互間の距離方角とかを実に分かりやすくまとめてくれていて、これを見ながら歩いているお陰で修一は、今日一度も道に迷わずにすんでいる。
こんな立派な地図を出掛け前の僅かな時間にさらさらっと書き上げて渡してくるノーラは、成程この町を隅から隅まで知り尽くしているのだろう。
生まれ故郷というアドバンテージは伊達ではなかった。
まあ、当のノーラは今日中に終わらせなければならない諸々とやらがあるらしく、泣く泣く家に残ったのだが。
それを知った修一がこっそり安堵していたのをメイビーは見逃さなかったし、何時か、何かの機会にまとめて糾弾してやろうと人知れず決意したりもしていた。
ともあれ、そうした事情によって今回は三人で町を歩く事になったわけだが、その主目的は観光などではなく、昨日話していた約束の遂行のためである。
すなわち、メイビーの母親を探す事と、レイの受け入れ先を探す事だ。
早速今日から行動を開始したのは、ダラダラ長々するのは好きではないからだ。修一は、さっさとやってスパンと終わらせようとしたのだ。
「うーむ」
「どしたのさ、シューイチ」
「いやあ、難しいかもなとは思ってたんだが、これほどとは思わなかった」
「えー?」
と、ここで、修一がぼやいた。
午前中一杯歩き回っていたのだが、予想以上に成果が出ていないからだ。
メイビーが呆れたように目を細め、修一を見つめた。
「なんだよ」
「まさかシューイチ、俺が出てきたからにはチョチョイのチョイだな、みたいな事考えてた? いくら何でもそれは自惚れ過ぎじゃない?」
「いや、流石にそこまでじゃないけどよ。もうちょっとこう、惜しかったな、って思えるような状況になってくれても良いのにと思ってさ」
「ははん、甘いね」
メイビーが軽く鼻で笑った。
修一は少しムッとなる。
メイビーに手を引かれているレイが、訳も分からず首を傾げた。
「そんか簡単に話が進むなら、僕だってこんなに苦労してないよ。レイちゃんの方もそうだけど、僕のお母さんなんて半年間必死になって探しても、噂一つ聞けなかったんだから。半日頑張ったくらいで見つかるわけないじゃん」
「メイビー、お前見つかってほしいのかそれともほしくないのか、どっちなんだよ」
「そりゃ見つかってほしいけどさー、修一が絡んだ途端に見つかったら、それはそれで癪に障るというか」
「……ケンカ売ってるだろ?」
「まさか!」
メイビーは、とんでもないとばかりに手を振る。
因みに顔は半笑いのままだった。
「今の僕じゃあシューイチには勝てないって、この間戦ってよく分かったからね。そんな状態でケンカ売ったりなんかしないよ」
「そうか」
「でも、その代わり、弱点もよく分かったからね」
「……あん?」
笑みを深め、途端に悪い笑顔になるメイビー。
どうでもいいけどレイが真似したら困るから止めろ、修一は思う。
というか、思ったそばからレイが真似してみようとしていた。
案の定か。
「止めとけ、その笑顔は覚えても役に立たんから」
「? …………うん」
修一の言葉に、レイが不思議そうに頷く。
それを見ながらメイビーがほざいた。
「だから、今度シューイチとヤるときはー、――こっそりお酒を飲ませて動けなくしてから挑む事にするよ」
「…………おい」
そんなのアリか、と修一は思うが、メイビー的には普通にアリだ。
「まさか卑怯だって言うの? なんならシューイチと同じだけ僕も飲んでおこうか? そうすれば公平でしょ?」
「くっ……」
挑発するようなメイビーの物言いに、修一は唇を噛む。
そう言われると言い返せない。
そもそもの話、どんな状況であっても戦わなければならない時は訪れるものなのだ。
酒に酔っているから戦えない、などと言っているようでは、話にならない。
「じゃあ俺は、金輪際酒を飲まない。絶対にだ」
「へえー? ま、頑張ればいいんじゃない?」
「おう」
真剣な顔で断酒宣言する修一にメイビーは、さてどうやって酒を口にさせようかな、と方策を検討する事にしたようであった。
◇
「ねえノーラ、ちょっと良いかしら?」
「なんですか、母さん」
修一がメイビーと阿呆みたいな事で言い合っていたころ、家に残って雑事を片付けていたノーラの部屋に、母親が顔を出した。
ペンを置いて顔を上げるノーラ。
振り返った先にいた母は中年の家政婦さんを連れていて、家政婦さんの手にはお盆が乗っている。
お盆の上にはポットとカップ、それから一口大の半円状のお菓子(多分マカロン)が盛られた皿が乗っていた。
ノーラはすぐに用件を察した。
「少しお茶でも飲んで休憩しない? お菓子も焼いてもらったの」
「……ええ、いいですよ」
もうすぐお昼ご飯のはずなのですが、とは思ったが、自分の母が一度言い出したら聞かない人だと知っているため素直に従った。
母の座ったテーブルの対面に座る。
家政婦さんがお茶の準備をしてくれているのを見ながら、フローラが懐かしそうに呟いた。
「ああ、ノーラとこうしてお茶を飲むのも久しぶりね」
「……」
ノーラがこの家を出たのはおよそ七年前だ。
そしてノーラは学院に在籍している間、一度も実家に帰っていない。
母の言葉にノーラが少しだけ申し訳なく思う。
「私のワガママのせいで、長い間家を空けてしまっていましたものね。父さんと母さんには、寂しい思いをさせました」
「あら、またそんな事を言って」
フローラは困ったように笑った。
「その話はとっくに片が付いてるでしょ? 貴女が出ていくときに、セドと私とノーラの三人で真剣に話し合ったんだから。貴女が、もっと多くの事を知りたいって、絶対に留学してもっとたくさん勉強したいって、そう言ったから貴女を送り出したの」
その時の事を思い出したのか、フローラの表情が柔らかく変化する。
輝かしいものを、微笑ましいものを、見ているような顔だ。
その瞳はきっと少女であった頃のノーラを、最後に別れたときのノーラを、脳裏に描いて写し出していた。
「そして貴女はちゃんと帰ってきたわ、自分のやるべき事をきちんとやって。手紙を読んでいれば分かるわよ、貴女がどれだけ頑張っていたのか。私はノーラほど賢くはないけど……、娘の事だもの、ちゃんと分かってるわ」
「……母さん」
「貴女のワガママくらい、なんて事はないの。やりたい事をやって、立派な姿になって帰ってきてくれたんだもの。それを喜ばない親なんて、いないわ」
「……はい」
家政婦さんが、お茶の準備を終えて一人退室していく。
残された二人の前には、芳しい香りとともに緩やかに湯気の立つカップが置かれている。
「さ、飲みましょう。温かい内に」
「はい、母さん」
「うふふ。お話も、聞かせてちょうだい? 貴女が、ここに帰ってくるまでのお話を。手紙には、簡単にしか書かれていなかったから、ずっと気になってたの」
「はい」
お茶で喉を潤し、ゆっくりと、旅の出来事を語っていくノーラ。
それは主に、修一と出会ってからの事だ。
山賊に襲われた事。
修一に助けられた事。
メイビーと出会った事。
ギャングたちと戦った事。
家族について話し合った事。
騎士団長と修一が決闘した事。
燃える建物から少女を助けた事。
徹夜して千羽鶴を折って飾った事。
カブたちと出会って仲良くなった事。
「なんか、思ってたよりも大事だわ」
「まあ、考えてみたらそうですよね」
「本当、よく無事に帰ってきたわね」
「……皆が、守ってくれましたから」
襲撃してきたオーガたちを退治した事。
修一がレイの父親代わりになった事。
クリスライトと修一が勝負した事。
修一が、師匠と戦って負けた事。
人攫いの集団を壊滅させた事。
巨大幽霊船を成仏させた事。
そして、酒宴があった事。
「大体こんなものですね、私の旅の思い出といえば」
「……そう」
フローラは、ふぅ、と一つ息を吐いた。
想像以上にとんでもない出来事に巻き込まれていたようだ。
オーガだの幽霊船だの、常人なら逃げることすら叶わずに容易く命を奪われるような相手と出会ったきたのだという。
本当に、よく無事に帰ってきたものだと思う。
まあ、それはそれとして。
「それにしても、ノーラ」
「はい」
「貴女の旅の話を聞いていたはずなのに、なんだかシューイチ君のお話の方が多かったように思うのだけど?」
「……それは」
ノーラが口篭もったのを見て、フローラは楽しそうに目を細める。
「ねえノーラ」
「……なんですか」
「貴女にとって、シューイチ君は、何?」
「……」
フローラの問い掛けは、かつてノーラが自問したものと同じだ。
その時のノーラは、修一の事を自らの護衛だと評した。
さらに昨日初めて両親に修一を紹介した時は、友人であると伝えた。
そして今は――。
「母さん」
「うん」
「私は、シューイチさんの事を愛しています」
「……うん」
ノーラは、迷いなくそう告げた。
もはや、誤魔化すつもりも、その必要もなかった。
母は優しく微笑みながら、愛する娘の、言葉の続きを待った。
「初めて会った時は、助けてもらった事への恩義を感じていました。
あの人は、偶然出会った見ず知らずの私を、何の躊躇いもなく助けてくれました。
その時はシューイチさんも、打算があったんだ、なんて言っていましたが、……何の事はありません、あの人は単純に、お人好しなのです」
「うん」
「それがはっきり分かったのは、メイビーを助けてきた時です。
彼は、その町を取り仕切るギャングに追われている様な人物を、平気で助けてくるのです。
それを知った私は咄嗟にシューイチさんを叱ろうとしましたが、……止めました」
「どうして?」
「シューイチさんも、困ったような表情をしていたからです。きっと咄嗟に行動して、それからしまったと思ったのでしょう。それに、私だってあの人に助けて貰っていたのですから、その行動を咎めるのは、何か違うような気がしたのです」
そこでノーラは、一口お茶を飲んだ。
だいぶ冷めてしまっているが、それでも美味しかった。
「それからもシューイチさんは、事ある事に何かの問題に首を突っ込み、困っている誰かを助けてきました。私は、その姿を隣で見守り、或いは少し離れたところで帰りを待ちながら無事を祈り、そんな事をこの旅の間に何度も繰り返しました」
「……うん」
「レイを助けた時、シューイチさんは言いました。俺の故郷は遠いからお前を連れてはいけない、と。私はその言葉を聞いたとき、レイの抱いたであろう不満を、私も抱いていました。その時には気付けませんでしたが、あの時私は、確かにシューイチさんに対して、言い様のない不満を抱いていたのです」
「……」
フローラは、じっと娘を見据えたまま、静かに独白に聞き入る。
手元のカップが空になっているが、注ぎ直そうとも思わなかった。
「その時点で私は、シューイチさんに対して好意を抱いていたのだと思います。
でなければ、シューイチさんの突き放すような言葉にあれほど心を苛まれる事はなかったでしょう、精一杯甘えようとするレイを見て、羨ましいなどと思う事もなかったでしょう」
「……」
「そして、一昨日の事です、私がそれを自覚したのは。ちょっとした出来事によって、気付かされました。
……ああ、私は、この人の事を愛しているのだと。
この人と一緒に、生きていきたいのだと。
故郷になんて帰らないで、此処に残って欲しいのだと。
私は、いえ、私を……!」
一呼吸溜める。
それから――。
「――私の事を、愛してもらいたいのだと……」
「……そう」
ノーラは、想いの全てを吐き出してしまったかのように、深く、息を吐いた。
あとに残ったのは静寂だけだ。
二人とも、手元のカップを見つめている。
やがてフローラが、ゆっくりと立ち上がった。
「貴女の気持ちはよく分かりました」
「母さん?」
微笑むフローラ。
その笑顔は、かつてノーラを送り出した時に浮かべていたものと同じ笑顔だ。
娘の決意を後押しし、ずっと支えとなろうとする様な、そういった笑顔だった。
「取り敢えず、お昼にしましょうか。随分と長いこと話していたから、セドを待たせてしまっているかもしれないわ」
「え、あっ……」
ノーラもハッと気付く。
そういえば、もうすぐお昼になるところだったのだ。
慌てて時計を見ると一時間近くも話し込んでいたのだと分かり、焦りよりも恥ずかしさが先に立つ。
こんなに長々話すつもりはなかったのに、つい、興が乗って話し込んでしまった。
「何はともあれご飯を食べて、それからやるべき事を終わらせましょう」
「は、はい」
それに、やるべき事もまだ終わっていないのだ。
もっと自制すべきだったと、ノーラは恥ずかしさで顔が赤くなる。
と、そこで。
「大丈夫よノーラ、私も手伝うわ」
「……えっ?」
母から飛び出た思わぬ言葉に、ノーラは呆けたように聞き返す。
母はニッコリ微笑んで。
「さっさと雑事を片付けて、シューイチ君を落としに掛かりましょう」
と、言ったのだった。