第7章 2
◇
ブリジスタという国において港町ファステムが商売と流通の中心地であるとするならば、首都スターツは政治と文化の中心地である。
スターツの歴史は古い。それこそブリジスタ建国当初からこの町はこの場所にあった。
元々この国は、古来より大橋を利用していた人々が橋の近くに居を構え少しずつ規模を増した結果ついには国となった、という言い伝えがあり、その真偽はともかくとしても、橋を管理する町ブリジゲイトと首都スターツが同時期に出来上がったというのは現在まで残る数々の歴史書が示す通りである。
そして、大橋がブリジスタ建国の遥か以前からそこにあり、橋を渡る人間たちがまず最初に作った町が橋の袂のブリジゲイトであろう事を考えると、スターツの町がこの国の興りと関わっている事は想像に難くない。
そこからこの国の文化と支配は首都を中心に長い年月を掛けて広がりをみせ、二百年ほど前に現在とほぼ同じ位置まで国境が広がった時には、首都で発生した文化的な事象は逐次国内の各町村に伝達されるという流れが出来上がっていたのだそうだ。
また、この国の文学家や作曲家など、芸術家の大半はこの町に住んでいる。
これらは、先程の情報伝達流を期待してのものでもあるし、単純に国内で一番人口が多く発展している町だからというのもある。
たくさん集まるほどに競争相手が増え各人の成長が促進される事にも繋がるため、政府そのものがその状況を奨励しているのも大きいのだろう。
そうして、文化的創作物のほとんどがこの町から生まれている事になるし、そこから派生する演劇や演奏会などは町の中心近くにある大広間や大講堂で執り行われる事が多いのだ。
修一に言わせれば、東京かよ、てなもんである。
「政治も、皇族と華族、それから中央委員会の方々が合同で行っていて、それらの施設は全てここにあります。
他の町には町を統轄する役場はあっても国家運営のための施設はありませんので、外形的にも機能的にも、この町がこの国の中心であるといえるわけですよ」
「さいで」
隣を歩くノーラの説明を、適当に相槌を打って聞き流す。
修一は、政治とかの小難しい話はあまり好きではない。
自分の国ならまだしも、訪れてまだ二週間ほどの国の政治形態を説明されてもピンとこないのだ。
後ろを歩くメイビーなど、早々に理解を諦めてレイと遊んでいる。
手を繋がれているレイは、前の二人が仲良さげに歩いている事に満足げな表情を見せつつ、ちょっとだけ幼い嫉妬心を燃やしていた。
おかあさんばっかりずるい、と。
そしてその嫉妬心を出す前にメイビーに髪の毛をワシャワシャされたりして、そのたびに「やー!」と嬌声をあげたりしているのだ。
見ていて実に微笑ましかった。
修一たち四人は三十分ほど前にスターツに到着し、今はノーラの実家に向かうべく町中を歩いているところである。
ノーラが修一の隣を歩き(ここでも半歩分くらい距離が近い)、メイビーがレイのお守りをしながらその後ろ。
ファステムと比べても尚勝るほどの人波を掻き分けるには、修一でなければ荷が勝ち過ぎるのである。
その移動途中で修一が、何時もの如く町の説明を求めたところ前述のような回答が返ってきたというわけだ。
が。
「シューイチさん、ちゃんと聞いてますか?」
話の途中でノーラが、拗ねたように修一に詰め寄る。
修一の返事が適当だったからだ。
歩きながらも彼女は、器用に男の顔を覗き込む。
修一はすまし顔で答えた。
「聞いてる聞いてる、大丈夫だよ」
勿論嘘である。
この男、聞くには聞くがノーラの説明が長くなってくると次第に飽きて気が逸れるのだ。
人の話を最後まで聞かないなど、本来なら言語道断である。
しかしながらこの場合においては、一概に修一だけが悪いとも言い切れなかったりするのだ。
なんでも、ノーラの説明を聞いていると辞書を朗読されているような気分になる時があるらしく、これは修一とメイビーの共通認識だったりする。
ノーラの感覚的には要点だけ纏めて話しているつもりなのだが、そもそもの知識量が多過ぎるため纏めた後の要点ですら長い。元が元ならどうしても限度はあるのだ。
その為、最後まで聞こうとしてもいつの間にか気が逸れるのである。
幸い、ノーラの文章構成能力は常人よりも優れている(でなければ大陸最難関の学院を卒業したり出来ない)ため修一も聞いているうちは理解出来ている。
そして聞き逃している事も後で改めて聞き直せば、なんだかんだと言いながらもノーラは再び教えてくれる訳だ。
真面目に最後まで聞く気が沸かずとも仕方ない、と修一が思うのも已む無しであった。
「そんな事を言って!」
「うおっ!?」
しかし今日のノーラは一味違った。
普段なら、呆れたり咎めてきたりしながらも最終的には許してくれていたのに、今日は。
「シューイチさんがそういう風に言うときは、まず間違いなく聞いていません! 私だって、何度も同じ事を繰り返されれば覚えるんですから!」
「お、おう」
「と、いうわけで、きちんと聞いてくださいね」
「……」
と、怒られてしまった。
グッと顔を寄せられて、修一は思わず逃げるように仰け反ってしまったし、顔を寄せられた拍子になにやら柔らかい感触が腕に当たる。
ムニュっとしていた。
予想以上に大きいらしい。
服の上からでも、形が変わったのが分かるほどである。
非常に破壊力の高い代物だろう。
下を見て、その正体を確かめる必要もない。
だからこそ、修一は逃げた。
確認してしまったら、負ける。
何に、とかではなく、負ける。
修一には、それが理解出来た。
「…………うー」
後ろからレイの不満そうな声が聞こえてくるが修一にはどうしようもない。
メイビーも、どちらにも手助けせずに見守る事にしたみたいだし、この状況は宜しくないぞ、と思う。
「~~~~」
「…………」
再び町の概略を話し始めたノーラに対し、それなりに気の入った返事を返しつつ、頭の中では現状を打破するための策を練る修一。
次第に話の内容が、自分の生まれ育った町を誇るお国自慢めいてきたところで、修一の持っている相槌パターンが尽きてくる。
これは、適当に聞き流している事を悟られないようにするための効果的な相槌のパターンを友人がまとめてくれたものだったのだが、出し惜しみせず使っていったせいでもう後がない。
このままでは、またもやノーラに怒られてしまう。
それだけは、と修一が考えていたかまでは知らないが。
果たして、天は修一に味方した。
いや、味方したなどと表現して良いものかも微妙なところなのだが、兎に角だ。
人波の向こうから、女性の悲鳴が聞こえてきたのである。
「っ!!」
「おや?」
「あっち!」
修一がどちらにも駆け出せるように重心を落とすのと、メイビーが声の方向を指し示すのは同時だった。
そちらに向けて耳をすませば、「お財布! 誰か捕まえて!」という言葉を拾えた。
泥棒か?
結構近いらしい。
好都合だ。
修一は全力で熱源を探査し、声の元から離れるように動く熱源、すなわち逃げる犯人を探す。
該当する者は――。
――良し、見つけた!
一瞬だけニヤリと笑い、それから修一は至って真面目な顔でノーラに捲し立てたる。
「大変だ泥棒らしいちょっと捕まえてくるから皆とここにいてくれよろしく!!」
「あ、ちょっ――」
言葉の内容云々よりも明らかに棒読みくさい修一の口調に眉を顰めたノーラは咄嗟に呼び止めようとしたが、修一はそのまま駆け出していってしまった。
「陽炎!!」
そしてわざわざ奥義まで使用して人混みをすり抜けていった修一の姿を追うのはノーラには不可能であり、彼女は、一瞬で見えなくなった男に対して盛大に溜め息を吐いたあと、一先ずメイビーとレイを連れて財布を奪われた女性のもとに行ったのだった。
◇
「待ちやがれえっ!」
「っ!?」
財布を片手に持ち人混みの間を必死で抜けようとしていた人物は、背後からの怒声にビクリと身を竦め、それから後ろを振り返ったあと大慌てで逃走を再開した。
背後から人間離れした早さで自分を追い掛けてくる男と、目が合ったのだ。
というか、何だアレ。
一瞬姿がブレたかと思えば次の瞬間には数メートル先にいるなど、何の冗談だというのだ。
「ひっ……!」
盗人は、追ってくる男の尋常ならざる迫力に怯えながらも、必死な様子で人混みを抜けていく。
人と人との間に身体を滑り込ませて前へ進む。
屋台前に出来た人だかりを躱す。
大荷物を抱えた男とぶつからないように方向修正。
周囲の人間よりも小柄なためか、ほとんど苦もなく隙間を抜ける事が出来ていた。
――逃がすかっての!
追う修一、当初こそくだらない理由で追跡を始めたわけだが、今は普通に本気で走っている。
盗人を逃がすつもりは更々ないし、ここで犯人を取り逃がすなどとドン臭い姿を晒すのは御免被る。
仮にも父親としてレイの前では良い格好をしていたいし、マヌケを晒してメイビーに馬鹿にされるのも嫌だからだ。
何よりノーラだ。
ノーラに対して「捕まえてくる」と言ったのだ。
ならば、何が何でも捕まえなければならない。
そこに長々とした理由は不要なのである。
「このっ……!」
地力が違うのか、ぐいぐいと距離が詰まる。
そして、あと数歩分といったところまで近付くと、唐突に追いかけっこは終わりを告げた。
「!? うわっ!!」
逃げていた盗人が、何かにつまずいて転んだのだ。
盛大な音を立てて前のめりに地面に突っ伏す盗人。
握っていた財布だけは手放さなかったが、全身を痛打して息が詰まる。
「っ……!」
それでも何とか身体を起こし、逃げようとはしたものの。
「うりゃっ」
「ぎゃっ!?」
追い付いた修一に首根っこを押さえ付けられる。
そのまま修一が、流れるような動きで盗人の細い腕を捻り上げると、盗人は痛みに呻きながら財布を取り落とした。
「よし、と、……しかし」
修一は、腕の下でもがく盗人の姿を確認し、知らず知らずの内に重い息を吐く。
捻った勢いで関節くらい外してやろうかと思っていたのだが、盗人の姿を見て止めにした。
そこまでやるのはいくらなんでも可哀想だ。
なんせ――。
「おっと、そうだ」
と、そこで修一は、辺りをキョロキョロと見回し始める。
一言お礼を言っておかなければならない相手がいるからだ。
「お、いた」
それは、逃げていた盗人の足を引っかけた人物だ。
盗人が修一に追い付かれる前に転んだのは、盗人の足元にソッと足を伸ばして足を掛けてくれた人物が居たからに他ならない。
「おーい、アンタ! 助かったよ! ありがとな!」
修一がその人物に向けて声を掛けると、相手もこちらに向けて手を振ってくる。
薄い紫色、という珍しい髪色の女性だ。
体つきはスレンダーだが身長は比較的高めで、腰には細身の剣を吊っている。
年の頃は十代後半くらいで、真っ白な肌とほんのり桜色に色付いた唇との対比が印象的な、目鼻立ちが整った人物であった。
彼女は、髪と同じ色の瞳を細めてニッコリ笑いながら、修一に近寄ってきた。
「いえいえ、お役に立てたようで何よりだワ」
訛り、というやつなのだろうか。
女性の言葉はイントネーションの位置が少しずれている。
それでも聞き取れない程ではなかったため、修一は特に気にしない事にした。
「ああ、こいつが財布パクって逃げてたから追いかけてたんだよ」
「そう、……それは、アナタの財布なノ?」
「いや、知らん人のだが、目の前で盗まれたから追ってきた」
「まぁ、偉いわネ」
女性は嬉しそうに手を合わせて指を絡ませると、微笑みながら修一を褒めた。
見た感じ、修一とそこまで変わらないような年齢に見えるのだが、女性の言い方はまるで、小さな子どもが一人でトイレに行けたのを褒めるときのような響きが含まれていた。
修一もこれには少々眉を顰めた。
「なんか、馬鹿にしてないか?」
「ええ? そんな事ないわヨ?」
「……そうか?」
「もちろんヨ、ワタシは真剣に褒めているワ」
「んん?」
修一は首を捻る。しかしその様子を見た女性が尚の事笑みを深めてきたため、それ以上悩むのは止めた。
不思議とその笑顔が、亡くなった祖母がよく浮かべていた笑みと重なって見えたのだ。
「まあいいや、とにかくありがとな」
「ウフフ、どういたしましテ」
「俺、こいつを連れて戻るけどよ、なんだったら一緒に来るか? 手伝ってくれたお礼くらいするぞ」
「あら本当? でも、遠慮しておくワ。ワタシこの後用事があるノ」
「そうか、なら仕方ないな」
女性は「もしまた会えたラ、その時にお礼をしてもらうワ」と言い残し、バイバイという感じに手を振りながら人混みに紛れていった。
修一は女性の姿が見えなくなったところで「そういえば名前も聞いてねえや」と思い出したように呟くが、すぐに「ま、いいか」と言って下を向く。
修一に押さえ付けられたままの盗人は、暴れる元気がなくなったのか、観念した様にじっとしている。
「おいお前、絶対に逃げないっていうなら手を離してやるぞ」
「……もう、逃げないよぉ」
「よし」
修一が捻り上げていた手を解放してやると、盗人は痛さのせいか半べそをかいていた。
グスグスと目元を拭っているが、地面に寝そべったまま立ち上がろうとしない。
修一は若干呆れたようになる。
「しかしお前、なんでこんな事したんだ? イタズラにしては度が過ぎてるぞ」
「……ぐすっ」
「おいったら」
「…………」
「……はぁ、取り敢えず戻るか」
そう言うと修一は、財布を回収して盗人の身体を持ち上げる。
ヒョイ、と持ち上げ横抱きにするが、想像以上に軽い。
まあ仕方ないだろう、なんせこの盗人――。
「おいクソガキ、お前、名前は?」
「…………」
「おら、答えないならもう一回泣かすぞ」
「っ、……ナビィ」
「そうか、俺は修一だ。歳は?」
「十一、……だよ」
といった具合なのだ。
流石に修一も、小学生くらいの子ども相手に乱暴な事をするつもりはないのだ。
「分かった。……詳しい話はまた後で聞くから、一先ず戻って、この財布の持ち主に謝るんだ」
「……」
ナビィは黙り込む。
修一は苛立ちを覚えつつも妥協案を口にした。
「……謝りにくいなら、俺も一緒に謝ってやるよ」
「……えっ?」
「持ち主も財布さえ返ってくれば許してくれるだろ、多分だがな」
「……」
「だから、きちんと謝るんだ。ごめんなさい、ってな」
「…………」
しばらくの間決めかねるようにもごもごしていたナビィだったが、やがて小さな声で「うん」と頷いた。
「よし、じゃあ戻るぞ」
修一はナビィを抱えたまま踵を返す。
さてさてどうやってケリを付けようかな、と考えつつ、抱えた子どもに目を向ければ――。
「…………」
大人しくされるがままになっているナビィの、不安と困惑が綯い交ぜになったような顔が目に入る。
相手に聞こえぬようそっと溜め息を吐き、それから修一は、元の場所で待っていたノーラたちと合流したのだった。