終末の世界
遠くの空に、またひとつきのこ雲が生まれた。
雲は幾千幾万の焼け焦げた生命が昇る螺旋階段となり、地上では順番をまだかと集い待つ不運な人々が苦痛に呻き悶える。舞い上がった塵は水蒸気と絡み合い、いずれ黒く汚れた雨をこの世界へと降らせるだろう。
わたしは大地の淵に腰かけて、みるみるうちに伸びる柱を見つめていた。掌でまだ熱の残る、乾いてざらつく地べたの温かみを感じながら。
わたしが眺める合間にも、きのこ雲はあっという間に天頂にまでたどり着き、にごった灰色は赤く染まった空の一部を塗り潰す。空の紅さは血が振り撒かれたように鮮やか。毒虫を想起させる紅さだ。赤色の出所は倒壊したビル群の下に隠れていたが、それがきのこ雲の根元と場所を同じくしているのは見なくともわかった。
光と雲の出現した後に、地表を伝って重たい地響きがやってきた。それは太鼓の音に似た、ずしりとした重低音となって、わたしの身体を腹の底から震わせる。全身を揺さぶる快いうねりを、わたしは眼を閉じてしばし感じる。
地響きがやんで、わたしが眼を開けると、空の赤みはより一層強まり、禍々しいまでになっていた。大量の熱と爆風と放射線を、子供がおもちゃ箱をひっくり返すような無邪気さと野放図さでぶちまける紅の色。この世界のどこであろうとも、見受けることのできる色。
わたしはやおら立ち上がり、服に付着した土を払う。重金属混じりの土埃は、放射性物質から発せられるエネルギーで、ほんのりと人肌ほどに温んでいた。
すっくと直立したわたしの頬を、生ぬるい風がなで、ナイフで雑に切り揃えた髪を揺らす。たっぷりと生命の残滓を含んだ風は、焼けた死体から蒸発した脂肪で髪や肌をべたつかせる。ねっとりとした風を遮る建物や地形はなにもなく、覆いを剥ぎ取られ、露出した地肌から無数の砂塵を巻き上げる。
わたしが佇むのは、大きく穿たれたクレーターの端。地表で炸裂した弾頭により、椀の形に抉られた大地。高熱でアスファルトや水道管、地下に通された電線などは溶けて土と混合し、その土もまたガラス状に変質して、爆撃の痕跡はなめらかで超現実的なほどの曲線を見せていた。周りの建造物は爆圧によって吹き飛び、根元から倒され、一点を中心に扇状に崩れていた。建物もまた、熱線によってどろどろに溶解し、凝固したコンクリートは雨垂れを思わせる。地面のあちこちにしたたった鉄やコンクリートは冷えて固まり、水たまりそっくりな跡を残していた。
と、わたしの足元に、なにかが荒い息を吐きながら擦り寄ってきた。茶色の薄汚れてごわごわとした毛並みで、むっとする獣臭さを漂わせるその生き物は、おそらくは犬であった。生まれてからそう月日の経っていない、小さな子犬。しかし、わたしが見る限り明らかに犬とは姿が異なっていた。
その犬らしき生き物には、足がふたつばかり余分にくっついていた。元からあった四つ足の、ちょうどまんなかのあたりにふたつ並んで、始めから六つ足だったと言わんばかりに生えた足。どう考えても蛇足であろうその足も器用に使い、それはわたしの痩せこけ肉の削げた脚を軸に、ぐるぐると走り回った。自分以外の生物を見たのは久しぶりなのか、それは随分とはしゃいでいた。
更にそれをよく観察してみれば、それには尾が二本あり、両方を感情に任せて激しくばたばたと振り回していた。耳はみっつ頭頂部に付いていて、逆に眼球はひとつのみが眉間のあたりに据えられていた。顔の形状は奇妙にねじれ、ひん曲がった臭い口から不恰好に舌を突き出していた。舌はふたつに枝分かれしていた。まさしく犬とは姿形はかけ離れ、それとしか形容しようのない生物と化していた。だけど、それはもはや見かけてもなんの物珍しさもない、ありふれた奇形の仔だった。
どうにもそれを引き離せず、仕方なしにわたしはそれを引き連れクレーターを降りていく。深々と刻まれ、信じがたいほどにすべやかなクレーターは、人の手になるものとは思えない完璧さ。まるで神殿のよう。天にそびえ立つ白雲が、神殿を支える柱を思わせ、その空想を助長する。わたしはさながら神と相見える神官、あるいは――もしくは、ではなく――生け贄。それもまたわたしと同じで。
そして、神は地獄の釜の中心に、膝を抱えてうずくまる、虚ろな瞳の幼い少女。
わたしは時間をかけ、大穴を横切った。あまりに巨大なクレーターは、半径をたどるだけでも一苦労。一歩一歩、つるつるとした地べたを裸足の裏で踏みしめながら歩いていく。そうするたびに、わたしの皮膚は熱にほぐされ、放射線に焦がされた。神前に立つ代償だと言わんばかりに。
クレーターの底にまでやってくれば、少女はわたしに気づいていないようで、静かに歌を歌っていた。膝小僧に口元をうずめ、喉を震わせ小さく綺麗な声で口ずさんでいた。わたしが今まで耳にした記憶のない、歌詞に使われている言葉も知らない、しかし美しい歌だった。だれに向けた歌なのか、わたしにはわからなかった。ただ、だれかに対して少女は歌声を紡いでいた。
わたしが目の前に立つと、少女は歌をやめた。わたしを顔だけ動かして、億劫そうに仰ぎ見る。じっとわたしを見つめ身動ぎひとつしない彼女の細い脚のすねを、それが蛇の舌で舐めた。すると、少女はくすぐったそうに身をよじらせ、ぽきりと折れてしまいそうなくらいほっそりとした指と手で、人懐っこいそれの頭をなでさすった。
そして、少女はおもむろに立ち上がり、わたしと相対する。瞬間、風がクレーターの中央へと吹きこんで、少女の長い髪が煽られ広がる。風貌は暗い光に融け、輪郭はあいまいにぼやける。冷たい鈍色の存在感までも昏く呑まれて。
わたしは、少女へとゆっくりと微笑んだ。彼女がなにも言わずに、ただ静かに浮かべているであろう表情は、幼くも艶やかな、肌をぞわりと粟立たせる、歪な嘲笑。