ある勇者の午後
魔王を倒した日の午後、私は王都の公園で鳩にパンをやっていた。
午前十一時に魔王を倒し、正午すぎに王都へ戻り、午後一時には王城の大広間で国王から勲章を受けた。そして午後二時、私は式典の途中で逃げ出した。
世界を救った勇者としては、たぶんかなり失礼な行動だったと思う。
でも、もう限界だった。
「……食べるか?」
手のひらに残っていたパンを小さくちぎって投げると、鳩が何羽も集まってきた。
誰も私を勇者とは呼ばない。
誰も拍手をしない。
誰も泣きながら手を握ってこない。
そのことが、今はとてもありがたかった。
「勇者様?」
後ろから声をかけられた。
びくっと肩が動いた。
(見つかった)
ゆっくり振り返る。
そこに立っていたのは、兵士ではなかった。
「……エマ?」
「やっぱりカイルだ」
パン屋の娘、エマだった。
子供のころ、同じ通りに住んでいた幼なじみだ。
最後に会ったのは五年前。
私が勇者として旅立った日だった。
「何してるの?」
「鳩にパンをやってる」
「それは見ればわかるよ」
「じゃあ聞くなよ」
エマは少し笑った。
その笑い方が昔と変わっていなくて、私は少しだけ安心した。
「王城は?」
「逃げてきた」
「逃げてきた?」
「式典から」
「世界を救ったその日に?」
「世界を救ったその日に」
エマはしばらく私を見つめたあと、隣のベンチに座った。
「大丈夫?」
「何が?」
「全部」
私は返事に困った。
魔王との最後の戦いで右腕を切られた。
回復魔法でつながったが、まだ少し痛い。
左の脇腹にも傷がある。
仲間の一人は歩けないほどの怪我をした。
もう一人は、王都へ帰る途中でようやく目を覚ました。
それでも、王都に戻った瞬間から私は笑わなければならなかった。
「勇者様!」
「世界を救ってくださってありがとうございます!」
「あなたは人類の希望です!」
何百人もの人がそう言った。
ありがたかった。
本当に。
でも、その言葉を聞くたびに、少しずつ息が苦しくなった。
「たぶん、大丈夫」
私はそう答えた。
「たぶん?」
「自分でもよくわからない」
「勇者なのに?」
「勇者でもわからないことくらいあるよ」
「そうなんだ」
「そうだよ」
エマはそれ以上聞かなかった。
私はまた鳩にパンを投げた。
しばらく二人で黙って座っていた。
午後二時四十分。
遠くで鐘が鳴った。
「魔王って、本当に倒したの?」
エマが聞いた。
「ああ」
「どんな感じだった?」
「どんな感じって?」
「すごい戦いだった?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私は必死だったから、よく覚えてない」
最後の戦いは、思い出そうとすると細かいところが抜け落ちている。
魔王が何か叫んでいた。
私は聖剣を振った。
仲間が倒れた。
床が割れた。
炎が見えた。
気づいた時には、魔王が倒れていた。
「勝った、って思った?」
「最初は思わなかった」
「じゃあ何を思ったの?」
「終わった、って」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し重くなった。
五年間。
ずっと魔王を倒すために生きてきた。
朝起きれば剣を振り、昼は移動し、夜は次の戦いの相談をした。
休む日もあったが、頭のどこかにはいつも魔王のことがあった。
それが突然なくなった。
「終わったんだよな」
「うん」
「本当に」
「うん」
「じゃあ、明日から何すればいいんだろう」
エマがこちらを見る。
「知らないの?」
「知らない」
「王様が決めてくれるんじゃない?」
「それが嫌で逃げてきた」
今日だけで、すでにいろいろ言われた。
騎士団長になってほしい。
王女と結婚してほしい。
魔王領を管理してほしい。
各国の代表として会議に参加してほしい。
私が何をしたいか聞いた人は、まだ誰もいなかった。
「カイルは何したいの?」
エマが聞いた。
「……わからない」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ今日決めなくてもいいんじゃない?」
あまりにも簡単に言われたので、私は黙ってしまった。
「そんなのでいいのか?」
「だめなの?」
「いや……」
「五年も世界を救うために働いたんでしょ?」
「まあ」
「だったら一日くらい何もしなくてもいいんじゃない?」
「一日だけ?」
「じゃあ二日」
「少ないな」
「一週間」
「もう少し」
「一か月」
「それくらいほしい」
エマは笑った。
「じゃあ一か月休めば?」
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単に言わないと休まないでしょ、カイルは」
昔からそうだった。
子供のころ、祭りの準備を任された時も、私は一人で全部やろうとして三日寝込んだ。
エマはその時も怒っていた。
「……覚えてる?」
「何を?」
「昔、祭りの準備で倒れたこと」
「覚えてるよ。馬鹿だなって思った」
「ひどい」
「今もあんまり変わってないね」
「世界を救ったんだけど」
「馬鹿でも世界は救えるんだね」
「おい」
久しぶりに声を出して笑った。
午後三時。
「お腹すいた」
私が言うと、エマは目を丸くした。
「王城で食べてないの?」
「料理は並んでた」
「じゃあ食べればよかったじゃない」
「乾杯が十回くらいあったんだ」
「十回?」
「そのあと挨拶が二十人くらい」
「多いね」
「途中で逃げた」
「なるほど」
エマが立ち上がる。
「店に来る?」
「パン屋?」
「うん。売れ残りならあるよ」
「世界を救った勇者に売れ残り?」
「無料で食べられると思った?」
「少しくらい」
「お金取るよ」
「厳しいな」
「商売だから」
私は立ち上がった。
久しぶりに鎧を着ていない体が軽く感じた。
エマの家のパン屋は、昔と同じ場所にあった。
看板は新しくなっていたが、入口の鈴の音は昔と同じだった。
「ただいま」
「おかえり……あら?」
店の奥から女性が出てきた。
エマの母親だった。
少し年を取っていたが、すぐにわかった。
「カイル?」
「ご無沙汰してます」
「カイル!」
次の瞬間、抱きしめられた。
「よく帰ってきたねえ!」
「ちょ、苦しいです」
「痩せたじゃない!」
「戦争中だったので」
「ちゃんと食べてたの?」
「一応」
「一応じゃだめ!」
王都に帰ってから、何人にも抱きつかれた。
でも、これは少し違った。
勇者だからではない。
昔から知っているカイルが帰ってきたから抱きしめられた。
それだけで、胸が熱くなった。
「母さん、カイルお腹すいてるって」
「何!」
エマの母親はすぐに店の奥へ消えた。
「座ってなさい!」
「はい」
私は言われるまま椅子に座った。
しばらくすると、パンとスープが出てきた。
「こんなに?」
「全部食べなさい」
「世界を救った分?」
「違うよ。五年帰ってこなかった分」
私は少し笑った。
「いただきます」
パンを一口食べる。
懐かしい味だった。
「うまい」
「でしょ?」
エマが得意そうに言う。
「今は私が焼いてるの」
「本当に?」
「何その反応」
「昔、黒いパン作ってたから」
「あれは失敗しただけ!」
「一回じゃなかっただろ」
「覚えてなくていいことだけ覚えてるね」
パンを食べながら、昔の話をした。
近所の人のこと。
学校の先生のこと。
川で遊んだこと。
私が旅立った日のこと。
魔王の話はほとんどしなかった。
それが、とても楽だった。
午後四時十五分。
店の扉が勢いよく開いた。
「勇者様!」
若い兵士が飛び込んできた。
私はパンをくわえたまま固まった。
「見つけました!」
「見つかった」
「何をしておられるのです!」
「パン食べてる」
「それは見ればわかります!」
今日二回目だ。
兵士は肩で息をしながら、私の前まで来た。
「国王陛下がお待ちです。各国の使者もすでに集まっています」
「何の話?」
「魔王領についてです」
「魔王領?」
「誰が治めるのか、魔族の扱いをどうするのか、国境をどこにするのか。勇者様にもご意見をいただきたいと」
私はパンを皿に置いた。
「私に?」
「当然です。魔王を倒したのは勇者様なのですから」
「でも、政治は知らないよ」
「しかし皆が勇者様の言葉を待っています」
まただ。
勇者だから。
世界を救ったから。
私ならわかるはず。
私なら決められるはず。
五年前の私なら、たぶんうなずいていた。
期待されると断れなかった。
でも今日は、なぜか違った。
「わからない」
私は言った。
「……はい?」
「魔王領をどうするべきか、私はわからない」
「ですが――」
「魔王を倒す方法ならわかった。でも、国を治める方法は知らない」
兵士は困った顔をした。
「詳しい人たちで話し合ってくれ。必要なら、私が魔王軍について知っていることは全部話す。でも、私に全部決めさせないでほしい」
「勇者様」
「それと、今日はもう休む」
「しかし陛下が」
「魔王を倒した日の午後くらい、休んでもいいだろ?」
兵士は何も言えなかった。
しばらくして、小さく頭を下げる。
「……陛下には、そのようにお伝えします」
「怒られるかな」
「かなり」
「だよな」
「ですが」
兵士は少しだけ笑った。
「私も、今日は休まれた方がいいと思います」
「ありがとう」
兵士が出ていく。
店の中が静かになった。
「言ったね」
エマが笑う。
「言った」
「怒られるね」
「たぶん」
「大丈夫?」
「魔王よりは怖くない」
「じゃあ平気だ」
私たちは笑った。
午後五時。
私はエマと町を歩いていた。
広場ではまだ祝いが続いている。
酒を飲む人。
歌う人。
泣いている人。
私の絵が描かれた旗まであった。
「似てないな」
「本物よりかっこいいね」
「ひどい」
「鼻が違う」
「そこ?」
鎧を脱いで普通の服を着ていたので、気づかない人も多かった。
それが少し面白かった。
自分を祝う祭りの中を、誰にも気づかれず歩く。
「変な感じだ」
「何が?」
「昼まで、みんな私のこと見てた」
「今は?」
「誰も見てない」
「普通だからね」
「普通か」
「嫌?」
「いや」
私は首を振った。
「こっちの方がいい」
川沿いまで歩いた。
夕日が水面に反射していた。
「これからどうするの?」
エマが聞いた。
「まだわからない」
「王都にはいる?」
「しばらくは」
「騎士団長になる?」
「ならない」
「王女様と結婚する?」
「しない」
「パン屋で働く?」
「それは少し考える」
「え?」
エマが立ち止まった。
「冗談?」
「半分くらい」
「パン作れる?」
「料理なら少し」
「パンは?」
「焼いたことない」
「だめじゃない」
「教えてくれよ」
エマは少し考えるふりをした。
「給料は安いよ」
「世界を救ったのに?」
「関係ない」
「英雄手当は?」
「ない」
「厳しいな」
「うちはパン屋なので」
また笑った。
午後六時。
王都の鐘が鳴った。
朝、私は魔王と戦っていた。
昼、世界を救った英雄になった。
そして午後、鳩にパンをやり、昔なじみと話し、パン屋で食事をして、川沿いを歩いた。
歴史の本には、たぶん今日の午後のことは書かれない。
魔王を倒した時間は残る。
国王から勲章を受けたことも残る。
でも、公園で鳩を見ていたことも、パンを食べたことも、「今日は休む」と言ったことも、きっと誰も記録しない。
それでいいと思った。
英雄の人生にだって、歴史にならない時間は必要だ。
次の日の朝。
私は少し遅くまで寝た。
王城からは呼び出しの手紙が三通届いていた。
全部、昼からでいいと返事を書いた。
そして朝食を食べに、エマの店へ向かった。
「いらっしゃい」
「パンある?」
「パン屋だからね」
「昨日と同じやつ」
「銅貨二枚」
「勇者割引は?」
「ありません」
「本当に厳しいな」
私は笑いながら銅貨を出した。
勇者であることをやめたわけではない。
たぶん、これからも何度もそう呼ばれる。
頼まれれば手伝うこともあるだろう。
でも、その前に私はカイルだ。
それを忘れないようにしたいと思った。
ある勇者の午後。
世界を救った男が、ようやく自分の明日を考え始めた、何でもない午後だった。




