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短編(異世界など)

ある勇者の午後

作者: みき
掲載日:2026/08/12

 魔王を倒した日の午後、私は王都の公園で鳩にパンをやっていた。


 午前十一時に魔王を倒し、正午すぎに王都へ戻り、午後一時には王城の大広間で国王から勲章を受けた。そして午後二時、私は式典の途中で逃げ出した。


 世界を救った勇者としては、たぶんかなり失礼な行動だったと思う。


 でも、もう限界だった。


「……食べるか?」


 手のひらに残っていたパンを小さくちぎって投げると、鳩が何羽も集まってきた。


 誰も私を勇者とは呼ばない。


 誰も拍手をしない。


 誰も泣きながら手を握ってこない。


 そのことが、今はとてもありがたかった。


「勇者様?」


 後ろから声をかけられた。


 びくっと肩が動いた。


(見つかった)


 ゆっくり振り返る。


 そこに立っていたのは、兵士ではなかった。


「……エマ?」


「やっぱりカイルだ」


 パン屋の娘、エマだった。


 子供のころ、同じ通りに住んでいた幼なじみだ。


 最後に会ったのは五年前。


 私が勇者として旅立った日だった。


「何してるの?」


「鳩にパンをやってる」


「それは見ればわかるよ」


「じゃあ聞くなよ」


 エマは少し笑った。


 その笑い方が昔と変わっていなくて、私は少しだけ安心した。


「王城は?」


「逃げてきた」


「逃げてきた?」


「式典から」


「世界を救ったその日に?」


「世界を救ったその日に」


 エマはしばらく私を見つめたあと、隣のベンチに座った。


「大丈夫?」


「何が?」


「全部」


 私は返事に困った。


 魔王との最後の戦いで右腕を切られた。


 回復魔法でつながったが、まだ少し痛い。


 左の脇腹にも傷がある。


 仲間の一人は歩けないほどの怪我をした。


 もう一人は、王都へ帰る途中でようやく目を覚ました。


 それでも、王都に戻った瞬間から私は笑わなければならなかった。


「勇者様!」


「世界を救ってくださってありがとうございます!」


「あなたは人類の希望です!」


 何百人もの人がそう言った。


 ありがたかった。


 本当に。


 でも、その言葉を聞くたびに、少しずつ息が苦しくなった。


「たぶん、大丈夫」


 私はそう答えた。


「たぶん?」


「自分でもよくわからない」


「勇者なのに?」


「勇者でもわからないことくらいあるよ」


「そうなんだ」


「そうだよ」


 エマはそれ以上聞かなかった。


 私はまた鳩にパンを投げた。


 しばらく二人で黙って座っていた。



 午後二時四十分。


 遠くで鐘が鳴った。


「魔王って、本当に倒したの?」


 エマが聞いた。


「ああ」


「どんな感じだった?」


「どんな感じって?」


「すごい戦いだった?」


「たぶん」


「たぶん?」


「私は必死だったから、よく覚えてない」


 最後の戦いは、思い出そうとすると細かいところが抜け落ちている。


 魔王が何か叫んでいた。


 私は聖剣を振った。


 仲間が倒れた。


 床が割れた。


 炎が見えた。


 気づいた時には、魔王が倒れていた。


「勝った、って思った?」


「最初は思わなかった」


「じゃあ何を思ったの?」


「終わった、って」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し重くなった。


 五年間。


 ずっと魔王を倒すために生きてきた。


 朝起きれば剣を振り、昼は移動し、夜は次の戦いの相談をした。


 休む日もあったが、頭のどこかにはいつも魔王のことがあった。


 それが突然なくなった。


「終わったんだよな」


「うん」


「本当に」


「うん」


「じゃあ、明日から何すればいいんだろう」


 エマがこちらを見る。


「知らないの?」


「知らない」


「王様が決めてくれるんじゃない?」


「それが嫌で逃げてきた」


 今日だけで、すでにいろいろ言われた。


 騎士団長になってほしい。


 王女と結婚してほしい。


 魔王領を管理してほしい。


 各国の代表として会議に参加してほしい。


 私が何をしたいか聞いた人は、まだ誰もいなかった。


「カイルは何したいの?」


 エマが聞いた。


「……わからない」


「本当に?」


「うん」


「じゃあ今日決めなくてもいいんじゃない?」


 あまりにも簡単に言われたので、私は黙ってしまった。


「そんなのでいいのか?」


「だめなの?」


「いや……」


「五年も世界を救うために働いたんでしょ?」


「まあ」


「だったら一日くらい何もしなくてもいいんじゃない?」


「一日だけ?」


「じゃあ二日」


「少ないな」


「一週間」


「もう少し」


「一か月」


「それくらいほしい」


 エマは笑った。


「じゃあ一か月休めば?」


「そんな簡単に言うなよ」


「簡単に言わないと休まないでしょ、カイルは」


 昔からそうだった。


 子供のころ、祭りの準備を任された時も、私は一人で全部やろうとして三日寝込んだ。


 エマはその時も怒っていた。


「……覚えてる?」


「何を?」


「昔、祭りの準備で倒れたこと」


「覚えてるよ。馬鹿だなって思った」


「ひどい」


「今もあんまり変わってないね」


「世界を救ったんだけど」


「馬鹿でも世界は救えるんだね」


「おい」


 久しぶりに声を出して笑った。



 午後三時。


「お腹すいた」


 私が言うと、エマは目を丸くした。


「王城で食べてないの?」


「料理は並んでた」


「じゃあ食べればよかったじゃない」


「乾杯が十回くらいあったんだ」


「十回?」


「そのあと挨拶が二十人くらい」


「多いね」


「途中で逃げた」


「なるほど」


 エマが立ち上がる。


「店に来る?」


「パン屋?」


「うん。売れ残りならあるよ」


「世界を救った勇者に売れ残り?」


「無料で食べられると思った?」


「少しくらい」


「お金取るよ」


「厳しいな」


「商売だから」


 私は立ち上がった。


 久しぶりに鎧を着ていない体が軽く感じた。



 エマの家のパン屋は、昔と同じ場所にあった。


 看板は新しくなっていたが、入口の鈴の音は昔と同じだった。


「ただいま」


「おかえり……あら?」


 店の奥から女性が出てきた。


 エマの母親だった。


 少し年を取っていたが、すぐにわかった。


「カイル?」


「ご無沙汰してます」


「カイル!」


 次の瞬間、抱きしめられた。


「よく帰ってきたねえ!」


「ちょ、苦しいです」


「痩せたじゃない!」


「戦争中だったので」


「ちゃんと食べてたの?」


「一応」


「一応じゃだめ!」


 王都に帰ってから、何人にも抱きつかれた。


 でも、これは少し違った。


 勇者だからではない。


 昔から知っているカイルが帰ってきたから抱きしめられた。


 それだけで、胸が熱くなった。


「母さん、カイルお腹すいてるって」


「何!」


 エマの母親はすぐに店の奥へ消えた。


「座ってなさい!」


「はい」


 私は言われるまま椅子に座った。


 しばらくすると、パンとスープが出てきた。


「こんなに?」


「全部食べなさい」


「世界を救った分?」


「違うよ。五年帰ってこなかった分」


 私は少し笑った。


「いただきます」


 パンを一口食べる。


 懐かしい味だった。


「うまい」


「でしょ?」


 エマが得意そうに言う。


「今は私が焼いてるの」


「本当に?」


「何その反応」


「昔、黒いパン作ってたから」


「あれは失敗しただけ!」


「一回じゃなかっただろ」


「覚えてなくていいことだけ覚えてるね」


 パンを食べながら、昔の話をした。


 近所の人のこと。


 学校の先生のこと。


 川で遊んだこと。


 私が旅立った日のこと。


 魔王の話はほとんどしなかった。


 それが、とても楽だった。



 午後四時十五分。


 店の扉が勢いよく開いた。


「勇者様!」


 若い兵士が飛び込んできた。


 私はパンをくわえたまま固まった。


「見つけました!」


「見つかった」


「何をしておられるのです!」


「パン食べてる」


「それは見ればわかります!」


 今日二回目だ。


 兵士は肩で息をしながら、私の前まで来た。


「国王陛下がお待ちです。各国の使者もすでに集まっています」


「何の話?」


「魔王領についてです」


「魔王領?」


「誰が治めるのか、魔族の扱いをどうするのか、国境をどこにするのか。勇者様にもご意見をいただきたいと」


 私はパンを皿に置いた。


「私に?」


「当然です。魔王を倒したのは勇者様なのですから」


「でも、政治は知らないよ」


「しかし皆が勇者様の言葉を待っています」


 まただ。


 勇者だから。


 世界を救ったから。


 私ならわかるはず。


 私なら決められるはず。


 五年前の私なら、たぶんうなずいていた。


 期待されると断れなかった。


 でも今日は、なぜか違った。


「わからない」


 私は言った。


「……はい?」


「魔王領をどうするべきか、私はわからない」


「ですが――」


「魔王を倒す方法ならわかった。でも、国を治める方法は知らない」


 兵士は困った顔をした。


「詳しい人たちで話し合ってくれ。必要なら、私が魔王軍について知っていることは全部話す。でも、私に全部決めさせないでほしい」


「勇者様」


「それと、今日はもう休む」


「しかし陛下が」


「魔王を倒した日の午後くらい、休んでもいいだろ?」


 兵士は何も言えなかった。


 しばらくして、小さく頭を下げる。


「……陛下には、そのようにお伝えします」


「怒られるかな」


「かなり」


「だよな」


「ですが」


 兵士は少しだけ笑った。


「私も、今日は休まれた方がいいと思います」


「ありがとう」


 兵士が出ていく。


 店の中が静かになった。


「言ったね」


 エマが笑う。


「言った」


「怒られるね」


「たぶん」


「大丈夫?」


「魔王よりは怖くない」


「じゃあ平気だ」


 私たちは笑った。



 午後五時。


 私はエマと町を歩いていた。


 広場ではまだ祝いが続いている。


 酒を飲む人。


 歌う人。


 泣いている人。


 私の絵が描かれた旗まであった。


「似てないな」


「本物よりかっこいいね」


「ひどい」


「鼻が違う」


「そこ?」


 鎧を脱いで普通の服を着ていたので、気づかない人も多かった。


 それが少し面白かった。


 自分を祝う祭りの中を、誰にも気づかれず歩く。


「変な感じだ」


「何が?」


「昼まで、みんな私のこと見てた」


「今は?」


「誰も見てない」


「普通だからね」


「普通か」


「嫌?」


「いや」


 私は首を振った。


「こっちの方がいい」


 川沿いまで歩いた。


 夕日が水面に反射していた。


「これからどうするの?」


 エマが聞いた。


「まだわからない」


「王都にはいる?」


「しばらくは」


「騎士団長になる?」


「ならない」


「王女様と結婚する?」


「しない」


「パン屋で働く?」


「それは少し考える」


「え?」


 エマが立ち止まった。


「冗談?」


「半分くらい」


「パン作れる?」


「料理なら少し」


「パンは?」


「焼いたことない」


「だめじゃない」


「教えてくれよ」


 エマは少し考えるふりをした。


「給料は安いよ」


「世界を救ったのに?」


「関係ない」


「英雄手当は?」


「ない」


「厳しいな」


「うちはパン屋なので」


 また笑った。



 午後六時。


 王都の鐘が鳴った。


 朝、私は魔王と戦っていた。


 昼、世界を救った英雄になった。


 そして午後、鳩にパンをやり、昔なじみと話し、パン屋で食事をして、川沿いを歩いた。


 歴史の本には、たぶん今日の午後のことは書かれない。


 魔王を倒した時間は残る。


 国王から勲章を受けたことも残る。


 でも、公園で鳩を見ていたことも、パンを食べたことも、「今日は休む」と言ったことも、きっと誰も記録しない。


 それでいいと思った。


 英雄の人生にだって、歴史にならない時間は必要だ。



 次の日の朝。


 私は少し遅くまで寝た。


 王城からは呼び出しの手紙が三通届いていた。


 全部、昼からでいいと返事を書いた。


 そして朝食を食べに、エマの店へ向かった。


「いらっしゃい」


「パンある?」


「パン屋だからね」


「昨日と同じやつ」


「銅貨二枚」


「勇者割引は?」


「ありません」


「本当に厳しいな」


 私は笑いながら銅貨を出した。


 勇者であることをやめたわけではない。


 たぶん、これからも何度もそう呼ばれる。


 頼まれれば手伝うこともあるだろう。


 でも、その前に私はカイルだ。


 それを忘れないようにしたいと思った。


 ある勇者の午後。


 世界を救った男が、ようやく自分の明日を考え始めた、何でもない午後だった。

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