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無常  作者: 七瀬遥
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忌まわしき歴史

土曜日の夜。本来ならば、一週間の澱を洗い流すように互いの肢体を絡め、熱っぽい吐息の中で繋がりを確認し合っているはずの時間だった。  狭い六畳一間のアパート。私たちは畳の上に直接敷いた、少しばかり湿り気を帯びた布団に身を寄せ合って横たわっている。密着した肌から伝わる隼人君の体温は、冷え切った私の心根を侵食するように温かかったが、今の私にはそれに応えるだけの生命力が残っていなかった。ただ、彼の隣で動かぬ石のように横たわる。官能の海に溺れる元気すら、あのコンビニの面接会場に置いてきてしまったようだった。 「由紀子さん、まだ気にしてるの?」  暗闇の中で、隼人君の声が降ってきた。 「まだ、って……。不採用のメールが来てから、まだ二日しか経ってないんだけど……」 「そうだけどさ。別に、受かる必要なんて最初からなかったんだから」  彼は励ましているつもりなのだろうか。その無邪気な断定が、今の私には「お前は最初から社会に必要とされていない」という死刑宣告のように響いて、胸の奥がチリチリと焼ける。私は話題を逸らすように、先日彼が口にした言葉の尻尾を掴んだ。 「ねぇ。隼人君って、本当に友達、いないの?」 「うん、そうだね。サークルにも入ってないし、高校の時の友達は別の大学に行っちゃったからね。今は塾の生徒と、大学の教授と、あとは由紀子さんとしか喋ってないよ」  私は、その言葉に必死に縋り付いていた。私とは対照的に、若さと知性を持て余しているはずの彼が、私と同じ孤独の檻の中に自ら留まってくれている。その事実だけが、今の私の歪んだ精神を辛うじて支える柱となっていた。  今の彼は、珍しく暇を持て余しているのか、私との雑談を求めていた。 「由紀子さんって、昔はどんな仕事をしてたの?」  その問いに、私はかつて自分が身を置いていた、あの血生臭い戦場を思い出した。  大阪経済大学。偏差値の最底辺を彷徨うその場所を、名前を書くような気楽さで卒業した後に、奇跡的に私を拾ってくれたのは中堅の旅行代理店だった。  そこで私を待っていたのは、煌びやかなパンフレットに載っているような優雅な旅の案内などではなかった。そこは「数字」という名の暴力が飛び交い、上司からの容赦ない罵倒が日常茶飯事の、逃げ場のない監獄だった。  電話の受話器を握る手は常に震え、顔の見えない顧客からの不条理なクレームに、ただ「申し訳ございません」と平謝りする毎日。同期の女子たちが要領よく笑顔を振り撒き、上司の懐に入り込んでいく中で、私だけが「要領が悪い」「声が小さい」「覇気がない」と、日々人格を木端微塵に否定され続けた。  半年。たった半年で、私はすべてを投げ出して逃げ出したのだ。  朝、駅のホームで電車を待っているとき、線路の向こう側に吸い込まれそうな感覚に襲われ、「このまま飛び込めば、もう明日の電話に出なくて済むんだ」と、薄ら寒い多幸感すら覚えた、あの日の恐怖。 「……ただの、事務的なことよ。ホテルの予約を管理したり、航空券の手配をしたり。毎日、機械みたいにパソコンを叩いていただけ。ちっとも、楽しくなんてなかったわ」  私は真実の断片に嘘の粉を振りかけて、できるだけ平坦な声で答えた。営業職として挫折し、一件の契約も取れずに泣きながら辞表を出したなんて、日本最高峰の知性を持つ彼に言えるはずがない。そんな惨めな失敗談を聞かせれば、彼の瞳に宿る私への「憧憬」が、一瞬で「軽蔑」に書き換わってしまう。 「どうして辞めちゃったの?」 「……ブラックだったし、パワハラもあって。それで、ちょっと心が風邪を引いちゃったみたいになって……」 「そうなんだ。大変だったね、由紀子さんは繊細だから。……そういえば、由紀子さんは大阪経済大学ってところに通ってたんだよね」  彼が再び、私の古傷を抉る。 「そうだけど……」 「どうしてその大学に行こうと思ったの?」 「……家から近かったし、それだけよ」 「でも私立大学って、学費もかなり高いでしょう? 経済学部なら、四年で四百万以上はかかるはずだよね」 「親もいいって言ってくれたから……」 「大学は楽しかった? サークルとか、ゼミとか、何か熱中したことってあった?」 「私も、隼人君と一緒よ。サークルにも入ってなかったし、別に楽しくもなかったわ。ただ、時間を潰していただけ」 「そうなんだ。やっぱり、僕たちって似てるね」  隼人君が暗闇の中で微笑んだのが、気配でわかった。  その言葉に、私は一瞬だけ救われたような、深い安堵を覚えた。京大生という「勝ち組」の彼と、Fラン卒のニートである私が、その根底にある「虚無」で繋がっている。  けれど、彼は無邪気に、私の経済的な境界線をも踏み越えてくる。 「でも、由紀子さんの実家って、結構なお金持ちだよね。今でもこうして仕送りをくれるし、娘をわざわざ私立大学に入れて、一人暮らしまでさせてくれるんだから」 「そんなに、金持ちじゃないわよ……。隼人君って、本当にデリカシーがないわね」  私は思わず、冷たい声を低く響かせた。  彼にとっては単なる分析なのだろう。けれど、私にとってその指摘は、親の脛を齧り続けている「寄生虫」としての自分を、顕微鏡で拡大して見せられているような屈辱だった。 「あ……ごめん、嫌だったよね」 「今度から、気をつけてね。私だって、好きでこうしているわけじゃないんだから……」  「はーい、気をつけます」 「もう……本当、子供なんだから」  私は呆れたふりをして、布団の中で彼の幼い後頭部を優しく撫でた。  彼は私の胸に顔を埋め、安らかな寝息を立て始めようとしている。  彼が私の実家を「裕福」だと思い込み、私が「働かなくても余裕のある女」だと信じている。その誤解こそが、今の私たちの関係を辛うじて支えている砂上の楼閣だった。私は彼を胸に抱きしめたまま体を小さく丸め夢へと逃亡した。

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