鏡の中の敵
液晶画面の中で、かつての「敵」が眩いばかりの街頭演説を行っていた。
スマートフォンのネットニュースに流れてきたその動画を、私は吸い込まれるように、そして激しい嫌悪感を抱きながら凝視した。地元の選挙区から衆議院選挙に立候補しているというその女性は、高校時代の同級生だった。
彼女は当時から、私を見下すような鋭い視線を投げかけてくる存在で男子から人気だった。裕福な家庭、淀みない弁舌、そして何より、自分の正しさを一ミリも疑わないあの傲慢な美貌。画面の中の彼女は、私がこの数年間で失ったすべての輝きを、さらに磨き上げて結晶化したような姿で、大衆に向けて「希望」を説いている。
(落ちればいい……。惨めに、誰からも選ばれずに、どん底まで滑り落ちればいいのに)
指先が震えるほどの呪詛が、口から漏れそうになる。
彼女が社会の階段をさっそうと駆け上がっている一方で、私は京大生の少年に寄生し、狭いアパートの薄暗い隅っこで、賞味期限の切れかかったパンを齧っている。この決定的な差は何だろう。
学歴か、血筋か、それとも生きる意志の強さか。
彼女の「公約」なんて一文字も頭に入らない。ただ、その自信に満ちた笑顔が、私の劣等感にガソリンを注ぎ、真っ黒な炎を燃え上がらせた。
(私も、動かなきゃ……。このままじゃ、本当に消えてしまう)
衝動に突き動かされるように、私は数年ぶりにリクルート用の「自分」を繕い始めた。といっても、かつてのスーツは体型の変化と湿気で見る影もなく、とりあえず一番落ち着いて見える紺色のブラウスを羽織り、念入りに化粧でほうれい線を塗り潰した。
自動ドアが開く音が、まるで断頭台の鐘のように響いた。
レジカウンターの奥には、私より明らかに年下で、けれど何百倍も「社会」に馴染んでいる茶髪の青年が立っていた。
「……あの、お電話させていただいた、鈴木ですが。面接に、伺いました」
自分の声が、驚くほどかすれて、震えていた。
奥から出てきたのは、くたびれたポロシャツを着た五十代後半の店長だった。バックヤードの、段ボールが山積みになった窮屈な事務机に案内される。
「えーと、鈴木由紀子さん、ね。二十九歳。……職歴、ずいぶん空いてるね。最後が旅行会社……五年くらい前?」
店長は、私の履歴書をなぞるように読み上げる。その指先が、空白の期間に触れるたびに、私の心臓は不整脈を打った。
「はい。……その、少し、体調を崩しておりまして」
「ふーん。で、今は? 働けるの?」
「はい。大丈夫です。精一杯、努めます」
面接の練習なんて、一度もしていなかった。隼人君以外の人間と、こんなに真正面から対峙するのがどれほど恐ろしいことか、すっかり忘れていた。
「うち、昼間は主婦の方が多いんだけど。鈴木さんは、シフトどうしたい? 土日とか、深夜も入れる?」
「えっ、あ、土日は……その、できれば、お休みをいただきたくて」
「……休み? うちは土日に人手が欲しいんだけどね。まぁいいや。レジ打ちの経験は?」
「あ、ありません。でも、すぐ覚えます。頑張りますから」
「頑張るのは当たり前なんだけどさ」
店長が溜息をつき、私の履歴書の端を無造作に指で弾いた。
「正直さ、鈴木さん。声、小さすぎるよ。接客業なんだから、もっとハキハキ喋ってもらわないと困るんだよね。あと、この五年間のブランク。何してたか、もう少し具体的に説明できる?」
「それは……その……自宅で、家事の手伝いなどを……」
「家事ねぇ。要するに、何もしてなかったってことだよね」
直球の言葉が、脳を直接殴りつける。
「……すみません。でも、私……」
「いいよ、謝らなくて。まぁ、結果は一週間以内に電話するから。……あ、もういいよ。レジ忙しくなってきたから、勝手に帰って」
追い出されるように店を出た私の足元は、まるで泥沼を歩いているように重かった。
冷たい風がブラウスを通り抜け、私の全身を嘲笑う。
(やっぱり、無理なんだ。私はもう、まともな世界には戻れない……)
惨めな気持ちでマンションへ向かおうとした、その時だった。
「由紀子さん……?」
聞き慣れた、けれど今の状況で最も聞きたくなかった声がした。
振り返ると、そこには大学の帰りだろうか、リュックを背負った隼人君が立っていた。
「隼人君……どうして、ここに」
「ちょっとお菓子買おうと思って……それより、その格好。どうしたの?」
彼は私の紺色のブラウスと、必死に取り繕った化粧、そして隠しきれない絶望を帯びた瞳をじっと見つめた。
「……面接に、行ってきたの。コンビニの」
私は蚊の鳴くような声で告白した。
「えっ、コンビニ? ……由紀子さん、無理して働かなくてもいいのに。別に、お金のことなら僕がバイトしてるし、急ぐ必要なんてないよ」
彼の言葉は、どこまでも優しかった。けれど、その優しさは今の私にとって、猛毒でしかなかった。
「でも……私、このままじゃ、ただの『お荷物』じゃない……。あなたに養ってもらって、家で寝てるだけの、おばさんじゃない……」
堪えていた涙が、一気に溢れ出した。人通りのある道端で、私は二十九歳の女としてあるまじき醜態を晒していた。
「そんなことないよ。由紀子さんが部屋にいてくれるだけでいいんだ。……僕が帰ったとき、部屋に明かりがついていて、由紀子さんがいてくれる。それだけで、僕は幸せだよ」
「……本当に?」
私は立ち止まり、彼のコートの袖を縋るように掴んだ。
「本当だよ。……僕なんて大学にも塾にも友達も話し相手もいないから、由紀子さんがいなくなったら寂しいよ。」
その言葉が、私の凍てついた心に熱いお湯を注ぐように、じわじわと染み渡った。
嬉しかった。彼に必要とされている。
(ああ……隼人君。あなたにそう言われると、私はもう、どこへも行けなくなっちゃう…)
けれど、その安らぎに浸れば浸るほど、私はますます無能な『お荷物』として、彼の厚意に沈み込んでいく。30代、40代と年を重ねても、彼は今と同じ言葉を注いでくれるだろうか。そう想像するだけで、足元から魂が抜けていくような心地がする。
結局、コンビニからの採用通知が来ることはなかった。
数日後、ネットニュースではあの同級生が、圧倒的な得票数で当選を確実にしていた。
万歳三唱をする彼女の背後で、色とりどりの紙吹雪が舞う。
私は暗い部屋で、隼人君が買ってきた安物のお菓子を口に運びながら、静かに、けれど激しく、自分自身の無力さを呪い続けていた。




