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無常  作者: 七瀬遥
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知性の礫

案の定というべきか、隼人君は近所の学習塾の講師として採用された。  彼は採用が決まった夜、「休日は由紀子さんと一緒にいたいから」と言って、わざわざ大学の講義と重なる平日に週三日のシフトを固めてくれた。その言葉は、砂漠に降る雨のように私の乾いた心を潤してくれたけれど、現実はそれほど甘いものではなかった。  彼は私が想像していた以上に、体力というものが欠落していた。  バイトのある日は、早くても十八時、遅いときには二十二時を回ってから、泥のように疲れ果てて帰宅する。扉を開けた瞬間に漂う、彼ではない「外の世界」の匂い。かつて私が逃げ出した、あの埃っぽくて殺伐とした社会の残り香が、彼を包み込んでいる。    平日の夜、彼は「疲れた」とだけ呟き、私の誘いを拒んで眠りにつくようになった。  体を重ねるという、数少ない、けれど私にとっては唯一の命綱であった彼との繋がりを絶たれ、私は暗い部屋で独り、しみじみとした孤独に苛まれる。彼は私の隣にいるのに、その心は仕事のストレスや大学の課題という、私には決して理解できない領域へと引き剥がされていく。  そしていつしか、彼は溢れ出すような不満を、独り言のように漏らすようになった。


 ある日の晩、月明かりだけが差し込む布団の上で、彼は天井を見つめたまま唐突に語り出した。 「……なぜ僕が働いているかって。それは僕が悪いんじゃない。社会が悪いんだ。世のサラリーマンを見てみたまえ。どいつもこいつも生存のため、いわば食うためだけに働いているだろう? 誰も好き好んで、自分の魂を切り売りしてなんかいないんだ」  彼の声は低く、どこか遠くを彷徨っているようだった。 「少なくともこの国では、生き延びるために働かなくちゃいけない。みんなそうして必死に社会の歯車になろうとするけれど、誰一人、何のためにその歯車を回しているのか、その目的すら理解していないんだ。……死ぬまで歯車であり続けようとするバカもいる。ある歯車が古くなって使えなくなったら、また新しい歯車を嵌める……それを何十年も繰り返す。これほど愚かなことはないと思わないか?」


 私は、彼の言葉の奔流に押し流されそうになり、必死に布団の端を掴んでいた。  彼が話しているのは、かつて私が挫折したあの「会社員」という生き方のことなのだろうか。それとも、もっと大きな、世界の仕組みのことなのだろうか。 「そういうものと話をしてみたまえ。たいていは馬鹿だから。自分のことと、ただ今の事以外、何も考えていない。……いや、考えられないほど疲労しているんだから、仕方がないのかもしれないけれど。精神の困憊と、身体の衰弱とは、不幸にして伴っている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ているんだ。日本国中、どこを見渡したって、輝いている断面なんて一寸四方も無いじゃないか。悉く、暗黒だ」


 急な独白に、私は驚き、思考が完全に停止してしまった。  頭が深い霧に覆われているようで、何も考えられない。耳から入った言葉が、脳に留まることなく、そのまま空洞を通り抜けていく。彼が何をこれほどまでに憤っているのか、その核心が全く見えてこない。  共感したい。彼と同じ熱量で怒りを共有したい。けれど、私には相槌を打つための言葉すら見当たらなかった。 「ごめんなさい、隼人君……。私、難しいことは、よくわからないわ……」  搾り出すように言った私の声は、ひどく頼りなく、情けなかった。


 すると、隼人君はフッと顔を緩め、少しだけ困ったような、慈しむような笑みを浮かべた。 「……ごめん。こんなセリフが、昔読んだ小説にあったんだ。由紀子さん、知らない?」 「ごめんなさい……。不勉強で、知らなくて……」  胸の奥が、熱い鉄を押し当てられたようにジリジリと焼ける。  彼は、文学や哲学といった、知性の積み木で築かれた高い塔の上にいる。私は、その塔の下で、ただ彼を見上げることしかできない無力な子供だった。 「そういえば……由紀子さんって、どこの大学に行ってたんだっけ?」  急に、彼が純粋な好奇心を取り戻した子供のように尋ねてきた。


 最悪の質問だった。  逃げ出したかった。けれど、彼の澄んだ瞳から目を逸らすことはできなかった。 「大阪……経済大学っていうの……」  自分でも驚くほど、声が震えていた。 「ふーん」


 その、短すぎる相槌。  関心がないからそう答えたのか。それとも、京大生の彼にとって、名前を聞いたこともないような私立大学の響きが、あまりに滑稽で、馬鹿にする価値すら感じなかったのか。  私には、その「ふーん」の裏側にある真意が、奈落の底のように深く、そして冷たく感じられた。  大阪経済大学。偏差値表の末端に位置する、ただ卒業の肩書きを得るためだけに通った場所。そこで学んだことなんて何一つ覚えていないし、そもそも学ぶという行為すらしていなかった。  彼が今口にしたような、格調高い小説の一節すら知らない私。  彼の「ふーん」という二文字が、私の存在を丸ごと否定する判決のように、静かな部屋にいつまでも残響を残していた。


 私は布団の中で、自分の身体を小さく丸めた。  豊かな胸も、彼を誘惑する熟れた体も、この「知性の絶望」を埋める役には立たない。  彼がバイト先で、同じように京大に通う、聡明で美しい女子大生と、今の独白のような知的な会話を楽しんでいる姿が、鮮明な幻覚となって私の脳裏を支配し始めた。

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